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6話

作者: Amy
last update 公開日: 2026-09-10 20:08:06

離婚の翌日、マンションの集会室に灰色の箱が届いた。

運んできたのは、加奈と高井生活デザインの法務担当だった。加奈は私がふたを開けるのを待った。

青、緑、黄色。見覚えのある大学ノートが、7冊重なっていた。

1冊目には、ミルクをこぼした丸い染みがあった。開くと、夜中の授乳時刻の横に、眠気で曲がった私の字が残っていた。

【やったことではなく、まだ誰も気づいていないことを共有する】

冷蔵庫の牛乳、保育園の着替え、予防接種の予約。その次のページには、用事を家族ごとの色で分けた画面が描かれていた。「わが家帳」に今も使われている並びだった。

端に、小さな黄色い手形があった。かぼちゃの離乳食をつけたひよりの手を、拭く前に押した跡だ。

「これを、啓介は自分が作った資料として出したんですか」

「はい。会社の資産として申告していました」

私は表紙を開いてみせた。裏には、水城真帆と書いてあった。

「私の名前、ここにあるのに」

「原本は、水城さんにお返しします」

「真帆と呼んでもらえますか」

加奈が顔を上げた。

ひよりと同じ姓でいるために、私は離婚後も水城を名乗ることにした。けれど、この箱の前では、啓介の妻としてではなく、ノートを書いた本人として話したかった。

「真帆さん。全部そろっていますか」

私は順に表紙を開き、7冊を確かめた。育児日誌の間に、画面の案があった。娘の食べた物の記録の隣に、利用者へ渡す説明文があった。

仕事だけ抜き取ろうとしたら、ひよりの手形のあるページまで外さなければならない。

「はい。全部、私のノートです」

法務担当から、会社に残っていた初期ファイルの複製と、その一覧を受け取った。

2冊目には、啓介の赤い字があった。

私が書いたのは、【家族の誰かに、気づく係を固定しない】。

その上へ、啓介は【家族を動かす司令塔を、あなたに】と書き直していた。

「私、家事を管理する母親を増やしたかったんじゃないんです」

加奈はノートをのぞき込まず、私が続けるのを待った。

「何を買うか気づくのも、頼むのも、終わったか確かめるのも、いつも私でした。それを家族で分けたかった。私が上手に頼めるようになればいい、という話にはしたくなかった」

「初期の聞き取りにも、同じ内容が残っています。真帆さんが5世帯の話を聞いて、画面を直した記録です」

「それも残ってたんですか」

「はい。ただ、作成者欄の名前は、3年後に削除されています」

渡された一覧では、私が文章を書いた日も、直した日も分かった。その仕事をした人の名前だけが、なくなっていた。

加奈がもう1枚、こちらへ向けた。啓介が文案に加えるよう求めた一文だった。

【5億円を受け取ったあとは、過去の仕事について名義や使用料を求めない】

高井側は、その一文の削除を求めていた。

「私は、こんな話を聞いていません」

娘を寝かせてから書いた文章も、食卓で直した画面も、これが通れば私の名前を載せてほしいとさえ言えなくなるところだった。

「このやり取りも、律子先生へ渡してください」

加奈は了承した。

私は授乳のページに戻り、手形に触れないよう端を押さえた。

「ひよりの記録は出しません。原本は私が持ちます。仕事に使う部分は、律子先生と確認します」

社員が困ると言われたら、また断れなくなりそうだった。けれど、加奈はうなずいた。

「分かりました」

私はノートを閉じた。誰かに預け直さず、自分の側へ箱を寄せた。

帰る準備をしていると、啓介から電話がかかってきた。

「高井さんがノートを返しただろ。監査から連絡が来た。あれは会社の資料だぞ」

私は机から少し離れ、スマートフォンを耳へ当てた。

「私が書いたノートよ。私の名前も、ひよりの育児記録もある」

「夫婦だった時に作った物だろ。今さら持ち主を分けるなよ」

「自分が作った物として会社へ出したのは、あなたでしょう。分けなくていいなら、どうして私の名前も出さなかったの?」

「だから、お前が騒ぐから高井さんも誤解するんだ。俺への見方まで変わる」

「私が作ったと言われて困るのは、あなたが違うことを話したからでしょう」

啓介の声が大きくなった。

「買収が終われば先へ進めるんだぞ。ノートまで取り返して、邪魔をする気か。5億円もやるのに、会社も高井さんも全部壊すのかよ」

「返されたの。私の物だから。会社へ渡すつもりはない」

私は通話を切った。鳴り直した電話には出なかった。

集会室の入口に、ひよりが立っていた。学童から帰ってきた娘を、管理人が案内してくれたのだった。

「その箱、何?」

「昔のノート。ひよりが赤ちゃんだった頃のもあるよ」

私が開くと、ひよりは黄色い手形へ自分の手を重ねた。今の指は、紙の上の指よりずっと長かった。

「これ、私?」

「かぼちゃをつけた手で押したの。拭く前にね」

ひよりは手を離し、もう一度、指をそろえて置いた。

「パパも見た?」

「うん。この頃は、家に置いてあったから」

娘が少し笑った。

「パパ、覚えてるかな」

私は覚えているとも、忘れたとも言えなかった。今の啓介に腹が立っていても、あの頃ひよりと暮らした父親まで、いなかったことにはできなかった。

帰ろうとすると、ひよりは手形のある薄い1冊を取った。

「これだけなら持てる」

残りの6冊は、私が箱に戻した。エレベーターの中でも、娘はノートを開いていた。隣に立つ私に笑いかけることはなかったけれど、ページは大事そうに押さえていた。

日曜の夜、啓介からメッセージが届いた。

【ノートを返さないなら、こちらも事情を説明する】

私は画面を保存して、律子へ送った。7冊のノートは、私の部屋に置いたままにした。

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