ログイン駅で広告を見た夜、私は律子にもう一度、掲載を止めてほしいと頼んだ。同意していないと会社へ知らせてあったのに、ひよりの顔は大勢の前に出された。その夜のうちに、啓介にも写真の使用には同意していないことと娘が学校で傷ついたことを伝え、改めて広告の停止を求めた。
数日後、駅の広告は消えた。けれど、ネットへ転載された写真も、娘が学校で言われたことも、消えなかった。
私は啓介に、改めて電話をかけた。
「まず、あの子に謝って。もう写真を使わないって、あなたから約束して」
「広告は下げただろ。買収前に騒ぎを大きくするなよ」
「下がったから、ひよりも平気になると思ってるの?」
「お前が会社を悪者にしなければ、娘も気にしない。離婚の話を先に片づけてくれ」
娘の様子を聞こうともしなかった。
この人と夫婦でいれば、ひよりを守れる。まだどこかに残っていたその期待が、なくなった。
「離婚する。でも、あなたの都合で娘を使うことは、もう認めない」
返事を待たずに電話を切り、律子へ連絡した。
……
9月24日の朝、法律事務所で啓介は離婚届を机へ置いた。夫の欄は埋まり、妻の欄だけが空いていた。
「ここに書けば済むんだろ」
律子が書類を脇へよけた。
「先に、おふたりが守る約束を確認します」
私は用意した7ページを啓介の前へ置いた。ひよりの親権は私が持ち、娘と今の家に住む。学校も変えない。養育費は月30万円、教育や医療の臨時の支出は別に相談する。啓介と会う日は月1回を目安に、娘の気持ちと学校生活を優先する。
啓介が指を止めたのは、その先だった。
「会うたびに写真を撮っていいか、お前に聞けって?」
「仕事用には撮らせない。ひよりを撮影のために呼ぶのはやめて」
「駅の件は広報のミスだ。俺に全部かぶせるな」
私は、共有フォルダにあった同意書を並べた。身に覚えのない私の署名が、そこにあった。
「なら、誰がこの署名を使ったのか調べて。私たちが嫌だと言ったら、止めて」
啓介は同意書を押し返し、次のページをめくった。
「文章や画面は会社の物だろ。こっちまで持っていく気か」
「この項目は消さないで。私が作った物の扱いは、別に決める」
「家でノートを書いたくらいで。会社の価値は俺が作ったんだぞ」
ひよりを寝かせたあと、食卓で何度も画面や案内文を直した。啓介は、あの時間まで「ノートを書いたくらい」で済ませるのか。
「ここを削るなら、私は署名しない」
「5億円も受け取るんだろ。それで終わりにしろよ」
「お金を払えば、何にでもうなずくと思わないで」
私は書類を引っ込めなかった。啓介は黙って、さらに先を読んだ。
「事実を話す権利?離婚したら、俺を週刊誌に売るつもりか」
「金目当てだったなんて嘘をつかれたら、私は反論する」
「誰がそんなことを言った」
律子が、夫側から確認用に届いていた会社の発表文案を差し出した。十分な金銭を支払い、円満に別々の道を歩む。まだ離婚していない私の名前を使って、もう話を終わらせていた。
「まだ出してないだろ」
「このまま出さないで。あなたと同じ気持ちだったことにしないで」
啓介は紺色の万年筆を取り、また置いた。
「高井さんが、こんな条件を認めると思うか」
「私たちの離婚を、高井さんに決めてもらわない」
昼を過ぎ、ようやく啓介が署名した。買収が成立しなくても、5億円を支払う約束は残る。家の名義を変えるまでの間も、私とひよりは住み続けられる。
「これで満足か」
私は離婚届を手元へ引いた。
「娘が傷ついた時に、会社の心配より先に娘の話を聞いてほしかった。それだけだったの」
啓介は答えなかった。
私は氏名と住所を書いた。11年前、婚姻届に向かった時より、手は震えなかった。
啓介は会社へ戻り、区役所には来なかった。律子と届を確認して提出し、受け取った書類を鞄にしまった。
11年の結婚が終わった。ひよりにどう伝えるかは、まだ終わっていなかった。
……
マンションへ帰ると、玄関に段ボール箱が3つ積まれていた。啓介が学童へ迎えに行ったらしく、ひよりはもう帰っていた。ランドセルを背負ったまま、リビングの床に座っていた。
「パパ、ホテルに住むって。ママが追い出したの?」
「離れて暮らすことを、パパとママで決めたの」
「パパは、ママが決めたって言った」
寝室から啓介が出てきた。家族写真の銀色のフレームを、箱へ伏せて入れた。
「ひよりに、何て話したの?」
「ママは新しい生活を選んだって。事実だろ」
「あなたも同意したでしょう。自分は何も決めてないように言わないで」
啓介はスマートフォンを取り出した。
「俺は会社を守るんだ。高井さんにも、離婚が済んだと連絡しないと」
「その前に、ひよりに答えて」
「向こうへの報告が先だ」
ひよりが立ち上がり、父親のそばへ行った。
「パパ、今日のごはんは?」
「外で食べる。ひよりはママと食べて」
「今日も?」
啓介はスマートフォンをしまい、箱のふたを閉めた。
「家も残すし、5億でいいだろ。困らないようにするんだから」
「ひよりの前で、そんな言い方をしないで」
「隠すほうがよくない。いずれ分かる」
ひよりが私を見た。
「ほんとにもらうの?」
「まだ受け取ってないけど、パパが支払うと約束したの」
「5億円いらないって言ったら、パパ帰ってくる?」
すぐには声が出なかった。いらないと答えて、ひよりを安心させたかった。でも、それで父親が夕飯に帰ってくると、嘘はつけなかった。
私は娘の前にしゃがんだ。
「お金はいらないと言っても、パパが戻る約束はできない。ママも、ずっと3人でいたかったよ」
「だったら、別れないでよ」
「一緒に暮らし続けることは、もうできないと思ったの。それはパパとママのことで、ひよりのせいじゃない。ひよりが欲しい物を我慢しても、変えられることじゃないんだよ」
ひよりは私から目をそらし、箱を持ち上げた啓介を追った。
「パパ、行かないで」
啓介は箱を下ろして娘を抱いた。ひよりの指が、スーツの背中をつかんだ。
「また会えるから。ママがいいと言えば」
「ひよりが会いたいかどうかで決めるって、今日話したでしょう。私のせいにしないで」
「じゃあ、ちゃんと聞いてやれよ」
啓介は娘の腕をほどいた。
「あとは頼む」
「私、普通の家がいいの!パパも帰ってくる家がいい!」
ひよりが泣いても、啓介は箱を持って出ていった。
扉が閉まると、娘は自分の部屋へ走り、鍵をかけた。呼んでも、「いらない」としか返ってこなかった。
「ご飯は作っておくね。食べたくなったら出てきて」
キッチンへ戻り、ひよりの分も米を量った。
離婚を選んだことを、取り消すつもりはなかった。
それでも娘の泣き声を聞きながら、こんな別れ方をするために、11年一緒にいたわけではないと思った。
4月の朝、ひよりは椀に残ったわかめを箸で集めていた。小学4年生になって、1週間がたっていた。「そろそろ出ないと、遅れるよ」「あとひと口」「わかめは逃げないから」「学校は逃げる」そんなことを言いながら、ひよりは最後まで味噌汁を飲んだ。椀を流しへ運び、ランドセルを背負った。「今日、家族カード返ってくる」3年生の授業で作ったものではなかった。新しい担任が、【わたしが帰りたい場所】という題で書かせたカードだった。「見せてくれる?」「考えとく」私はうなずき、玄関まで一緒に行った。「いってらっしゃい」「いってきます」エレベーターの扉が閉まるまで見送り、それから食卓を片づけた。書斎の窓際には、私の作業机があった。灰色の保存箱は、鍵のかかる棚に収めていた。7冊のノートはスキャンしても、原本を会社に預けてはいなかった。机の上には、介護する家族へ聞き取りをしたシートが広がっていた。誰が何を担当するか。それだけでなく、すぐには返事ができない日も書き込める冊子を作っていた。私は答えを読み返しながら、図解の横に入れる文章を整えた。まだ書き終わっていない箇所に印をつけ、続いて見積書を開いた。原稿と図解、修正の回数、使える範囲。依頼されている仕事と食い違いがないか、順に確かめた。最後に、自分の名前を入れた。高井生活デザインとの打合せへ出かける前に、紙をまとめた。机の外に
10月15日、律子から入金の連絡が来た。買収が成立し、高井側から、律子の事務所が管理する私のための口座へ5億円が直接送られていた。啓介へ渡す代金から、離婚の合意どおりに支払われたのだった。私は送られてきた明細を開いた。「これで、5億円の支払いは完了です」「ありがとうございます」電話を切ってからも、しばらく画面を見ていた。数字の桁を数え直した。これだけのお金が入ったことを、すぐには自分の暮らしと結びつけられなかった。夕飯の時間になると、ひよりはいつもの椅子に座った。「ママ、食べないの?」「食べるよ」私はスマートフォンを伏せ、向かいに座った。ひよりは手を合わせ、椀を持ち上げた。啓介がいた頃と同じ木のテーブルだった。娘はいつもどおり夕飯を食べていた。今日、入金があったと教えても、科学館のあの日が別の日になるわけではなかった。桁の多い数字を気にしていたのは、私だけだった。自宅の名義の手続きも済ませた。空いた書斎には、私の作業机を置いた。ひよりが学校から帰ってくると、どこまで終わったの、と入口からのぞくようになった。科学館でのことがあって、親子交流はいったん2か月休むことにした。冬になっても、ひよりの気持ちは揺れていた。学校から持ち帰ったプリントを見ながら、パパにも見せたかったと言う日があった。「また、会いたい?」私が聞くと、ひよりは紙を見たまま、うなずいた。「でも、またお仕事って言うかもしれない」
10月8日、律子の事務所で、私は条件変更案を読んだ。啓介への支払いから、条件付きだった2億円が外されていた。買収後の役員候補にも、啓介の名前は残らなかった。「監査に正しい情報を出さなかったことが、理由です」律子は、次のページを私に向けた。「成立すれば、啓介さんが受け取るのは8億円。そこから真帆さんへの5億円と、写真の削除や訂正などにかかる費用が引かれます」「私への支払いを減らすという話には、なっていませんね」「なっていません。合意した支払いは残っています」私はその欄をもう一度読んだ。その日の午後、啓介が変更条件を受け入れ、署名したと律子へ連絡が入った。ミナモリンクは、会社の名前で訂正を出した。私とひよりの写真や名前を同意なく使ったことを認め、削除して謝罪する。初期の制作物から私の名前を外し、使う範囲をきちんと決めなかったことも正すとあった。私は画面を下へ送った。元妻が会社へ過大な要求をしたという以前の発表は、事実ではなかった。先に離婚条件を提示したのは啓介で、その後、夫婦の間で離婚に合意した。その部分まで確かめてから、律子へ返事をした。ひよりが父親を求めて泣いたことも、私に話した言葉も、そこには載せなかった。学校の先生が訂正のリンクを共有し、記事を回していた保護者から、私に謝罪が届いた。家でそのことを伝えると、ひよりは黙って聞いていた。「5億円の子って言った人、明日忘れるかな」「すぐ
「娘に、もう会社の宣伝をさせないでください」10月5日、月曜日。高井生活デザインの審査室で、私は向かいに座る啓介へ言った。土曜の科学館で、啓介は嫌がるひよりに台詞カードを持たせ、会社向けの撮影をしていた。父親と遊びに行った日にまで、会社の都合を押しつけられた。その繰り返しを止めるために、私はここへ来た。隣には律子がいた。加奈と法務責任者、外部会計士、ミナモリンクの株主代表も席に着き、沙耶は手元の端末を開いていた。啓介は私を見ずに、加奈へ話しかけた。「元妻が、金額を増やすために騒いでいるんです。娘のことまで持ち出して」「ひよりを撮影に連れていったのは、あなたでしょう。私が断ったあとも、娘の顔を使っていた。なぜ止めなかったの?」「だから、それは広報の確認ミスだ」私は写真の同意書を机に置いた。隣に、ひよりの学童申込書の写しを並べた。「この署名は、学童の申込みに書いたものよ。広告に使っていいと署名したことはない」法務責任者が、会社で保全した保存履歴を画面に出した。同意書は広報担当のアカウントで作られ、学校へ出す書類から署名を転用したと記録されていた。啓介はようやく画面を見た。「俺は、署名を写せとは言ってない。急げと言っただけです」科学館に来ていた広報担当が、席を立った。「使える署名があるか社長に確認しました。家庭内の同意だから、以前のものでいいというお返事でした。やり取りも提出しています」「言い方の問題だろう。家族なんだから、いちいち書類を作り直さなくても――」「私が嫌だと言っ
10月3日、土曜日。湾岸科学館の入口で、ひよりは啓介を見つけると走り出した。「パパ!」啓介はベンチから立ち上がり、娘を抱き止めた。「新しい靴、似合ってるな。今日は宇宙の映像を見よう。昼はオムライスにするか」「ケチャップかけるやつ?」「そう。好きだったろ」ひよりが笑った。家ではなかなか見せなくなっていた顔だった。入口の売店で、啓介は星座のしおりを選んだ。娘の誕生月を探す手元を、ひよりがのぞき込んだ。見つけてもらうと、私に高く振ってみせた。「ママ、これ!」「よかったね。楽しんでおいで」以前の日曜と、同じように答えた。啓介に私からも撮影はしないよう念を押し、展示室へ入るふたりを見送った。私は館内のカフェへ移り、律子に到着したと連絡した。帰ってきたひよりが何を話してくれるか、楽しみにしている自分がいた。昼が近くなった頃、娘からメッセージが来た。【ママ、きて】続けて、もう1通。【2かいの休けい室。カメラある】私は席を立ち、案内板を見ながら2階へ上がった。ガラス扉の向こうで、小型カメラのレンズがひよりに向けられていた。娘は白いカードを持ち、その横に啓介が立っていた。「もう1回。今度は最後まで笑って」「やだ。ママに聞いて」「社員の家族へ見せるだけだよ。パパといる時間だろ。何でもママに決めてもらうのか」
月曜の朝、ひよりは玄関で上履き袋を落とした。拾おうとしゃがんだまま、動かなかった。「これ、クラスの子が送ってきた。その子のお母さんのスマホに来たって」差し出された画面に、私の顔があった。【5億円で夫を売った妻――家族アプリ創業者、買収の裏で離婚】前夜、ミナモリンクが出した説明文には、元配偶者から過大な要求があり、買収手続に影響している、とあった。記事はそこに、5億円とホテルでの面談を結びつけていた。啓介の顔が浮かんだ。けれど、誰が記者へ話したのかを示す証拠はなかった。保護者の連絡にも記事が添えられ、【子どもの前では触れないように】と書かれていた。その言葉と一緒に、ひよりのところまで来てしまった。仕事先からも、翌月に作る生活冊子を保留したいとメールが届いた。自治体向けの仕事なので、状況が落ち着いてから改めて相談したいという。私は承知しましたと返し、準備していた案を閉じた。私が書いた物を夫の物にされたうえに、自分で請けた仕事まで止まるのか。悔しかった。「ひより、今日は休もうか」「休んだら、ほんとだと思われる」「記事のようなことはしてないよ」「5億円は本当でしょ」「支払う約束は本当。でも、ママが会社にお金を出させようとしたんじゃない。離婚の条件を先に持ってきたのは、パパなの」ひよりは上履き袋を拾った。エレベーターへ向かい、振り返らずに言った。「迎え、来なくていい。見られるから」私は律子へ連絡し、記事と会社の説明文を送った。啓介のタブ