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あなたの夫を買います。離婚してください
あなたの夫を買います。離婚してください
作者: Amy

1話

作者: Amy
last update 公開日: 2026-09-05 21:32:37

【あなたの夫を買います。離婚してください】

夫の水城啓介(みずき けいすけ)が送ったメールに、そう書かれていた。

すぐ下には、【妻には、この通り伝えてください】とあった。

仕立てのいい黒いジャケットを着た女性が、印刷したメールを私に向けた。慣れた手つきで紙の端をそろえ、私を見た。

向かいに座るのは、高井加奈(たかい かな)。高井生活デザインの社長で、42歳だという。彼女の会社は、夫が創業したミナモリンクの買収を検討していた。

私は夫の取引先に会うつもりで、このホテルへ来た。

買収の審査で、私が昔作った画面や文章について聞きたいのだという。ラウンジで名刺を受け取り、まだコーヒーに口もつけていなかった。

「私たちが離婚するって、夫が言ったんですか」

「ご主人は、奥様とは話し合い済みだと説明しています。ただ、私にこんな言葉を言わせるよう求められて、そのまま引き受けるわけにはいきません。水城さんは、離婚のお話を聞いていらっしゃいますか」

「聞いていません。ひと言も」

「買収資料の説明をご主人だけに任せ、直接の確認が遅くなりました。申し訳ありません。まず、私が伺っていた話と違うことを記録します」

啓介は、私との結婚を取引先への頼み事で終わらせようとしていた。妻に金額を示せば、夫を手放すはずだとでも思っているのだろうか。

朝は同じ食卓についていた。私が娘の水筒を用意する横で、夫はいつもどおりコーヒーを飲んでいた。

私だけが何も知らずに、取引先に失礼のない服を選んで来た。

「こちらも、ご主人から届いた条件案です」

加奈がメールに添えられていた書類を出した。上段には、大きな数字があった。

【離婚解決金 5億円】

その下には、私と娘が今の家に住み続けること、娘を転校させないこと、連絡は代理人を通すことが並んでいた。

在宅で会社案内を作る仕事を何年続けても、届きそうにない金額だった。けれど、何より怖かったのは、夫と離婚したあとの暮らしが、こんなに細かく決められていることだった。

「夫は娘のことまで、私に聞かずに決めたつもりなんですね」

「あくまでご主人が示した案です。水城さんが同意したことにはなりません」

学校は変わらなくても、一緒に暮らす家族は変わる。8歳の娘に誰がそれを伝えるのか。

父親が帰ってこない夜、何と言って寝かせるのか。

書類には、何も書いていなかった。

「買収に、私たちの離婚が必要なんですか」

「いいえ。弊社が離婚を条件にしたことはありません」

「だったら、夫が自分で私に話すべきでしょう」

「おっしゃるとおりです。この案に、今お返事をいただく必要はありません。持ち帰って、弁護士に確認してください」

私は書類に触れないまま尋ねた。

「夫は、いつからこの話をしていたんですか」

加奈が裏面を開いた。

【上記条件を前提として、離婚協議の開始に同意します】

その下に啓介の署名があった。右上がりの、見慣れた字だった。

婚姻届にも、娘の水城ひより(みずき ひより)の出生届にも、啓介はこの字を書いた。

日付は2週間前だった。その3日後は、私の誕生日だった。

啓介は白い花束を買って帰ってきた。

「来年は3人で旅行しよう。ひよりの行きたいところに連れていこう」

その夜、私は旅行先を検索した。啓介も隣で画面を見ていたし、ひよりは私たちの間に割り込んできた。

「朝ごはんも3人で食べるんだよね」

「そうだよ」

啓介が笑って答えると、ひよりは宿の写真を次々に指さした。私も、娘と一緒になって画面を見ていた。

遠くへ行けなくてもよかった。朝から夜まで、仕事の電話で席を立つことなく、3人で過ごしたかった。

数日後に花がしおれ始めても、私は捨てられなかった。茎を切り、水を替え、まだ開きそうなつぼみを残した。久しぶりに啓介からもらった花だったから。

花を買った時も、旅行を約束した時も、啓介はもう署名していた。

あんなに喜んでいた私とひよりを、どんなつもりで見ていたのだろう。

「持ち帰ります。夫に直接聞きます」

書類を封筒へしまった。最後の角が引っかかり、何度か押して、ようやく入った。

会計は済んでいると言われたが、私はコーヒー代に1000円札を置いた。

加奈に何かをしてもらうたび、まだ知らないことまで承諾した気になりそうだった。

エレベーターの鏡に、薄いベージュのブラウスを着た私が映った。

汚れても家で洗える服。低く束ねただけの髪。身だしなみは整えてきたけれど、華やかさはなかった。

水城真帆(みずき まほ)、35歳。結婚して11年。

娘が生まれてからは、仕事の名刺より学校の保護者証を出すことのほうが多くなった。

その私の鞄に、5億円の離婚条件が入っていた。

スマートフォンに、啓介から連絡が届いた。

【今夜は遅くなる。ひよりの宿題、よろしく】

すぐあとに、ひよりからも来た。

【ママ、牛乳ないよ】

5億円で離婚を持ちかけられた帰りにも、牛乳は要った。

家へ向かう途中、スーパーに寄った。牛乳と卵、ひよりが朝に食べる小さなヨーグルト。昨日と同じものをかごに入れ、レジで1000円札を2枚出した。

これでは5億円の端にもならない。そんな比べ方をした自分が嫌だった。

運河沿いのマンションに帰ると、ひよりが玄関へ走ってきた。

「遅い。ココア作れなかった」

「ごめんね。今作る」

「パパは?」

「仕事だって」

ひよりは牛乳を両腕で抱えて冷蔵庫まで運んだ。ダイニングには、授業参観で発表する家族カードが広げてあった。

大きな赤い屋根の下に、紺色のネクタイをした啓介と、茶色い髪の私がいた。ひよりは真ん中に自分を描き、両側の手をつないだ。

「パパの好きなところは、会社を作ったところ。ママは……ココアがおいしいところにしようかな」

ミナモリンクの「わが家帳」は、家事や予定を家族で共有するアプリだ。その最初の画面も、使い方の文章や案内も、私が作った。

今請け負っている会社案内の仕事とは違う。ひよりを抱きながら、台所で始めた仕事だった。

ゴミ袋を替える。予防接種を予約する。麦茶を作る。気づいたひとりが全部抱え込まないように、ノートに書き、画面の形にしていった。

でも、ひよりは知らない。啓介が会社を作った話をするたび、私は娘の前で言い争うのを避けてきた。

私の作ったものを会社がどう使うかも、いつか正式に契約しようと言われ、そのままになっていた。

「ココアでいいよ」

鍋に牛乳を注いで火にかけると、玄関の鍵が開いた。遅くなるはずの啓介だった。

「パパ、発表に来る?」

「もちろん。うちの会社も家族を大事にしてるからな」

啓介はひよりの頭をなで、取引先でもらったという焼き菓子の缶を渡した。娘に家族カードを見せられると、自分の似顔絵に笑った。

「ネクタイまで同じだ。よく見てるな」

「ママの好きなところ、ココアでいいかな」

「いいんじゃないか。真帆は家のことをしてるのが一番向いてるよ」

優しい声だった。ひよりは安心したように、ココア、と書き始めた。

私は夫を呼んだ。

「啓介」

顔を上げた夫に封筒を見せかけて、やめた。ひよりのカードが目に入った。せめて、この子がいないところで聞きたかった。

鞄を椅子の下へ移そうとすると、啓介が先に持ち上げた。

「ここに置くと邪魔だろ」

鞄の口から、封筒が落ちた。白い書類が半分滑り出した。

啓介の笑顔が消えた。

私が拾うより先に、ひよりが家族カードを読み上げた。

「りこん、かいけつきん?」

ひよりは私と啓介を見比べた。

「ママ、パパを売るの?」

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