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【あなたの夫を買います。離婚してください】
夫の水城啓介(みずき けいすけ)が送ったメールに、そう書かれていた。
すぐ下には、【妻には、この通り伝えてください】とあった。
仕立てのいい黒いジャケットを着た女性が、印刷したメールを私に向けた。慣れた手つきで紙の端をそろえ、私を見た。
向かいに座るのは、高井加奈(たかい かな)。高井生活デザインの社長で、42歳だという。彼女の会社は、夫が創業したミナモリンクの買収を検討していた。
私は夫の取引先に会うつもりで、このホテルへ来た。
買収の審査で、私が昔作った画面や文章について聞きたいのだという。ラウンジで名刺を受け取り、まだコーヒーに口もつけていなかった。
「私たちが離婚するって、夫が言ったんですか」
「ご主人は、奥様とは話し合い済みだと説明しています。ただ、私にこんな言葉を言わせるよう求められて、そのまま引き受けるわけにはいきません。水城さんは、離婚のお話を聞いていらっしゃいますか」
「聞いていません。ひと言も」
「買収資料の説明をご主人だけに任せ、直接の確認が遅くなりました。申し訳ありません。まず、私が伺っていた話と違うことを記録します」
啓介は、私との結婚を取引先への頼み事で終わらせようとしていた。妻に金額を示せば、夫を手放すはずだとでも思っているのだろうか。
朝は同じ食卓についていた。私が娘の水筒を用意する横で、夫はいつもどおりコーヒーを飲んでいた。
私だけが何も知らずに、取引先に失礼のない服を選んで来た。
「こちらも、ご主人から届いた条件案です」
加奈がメールに添えられていた書類を出した。上段には、大きな数字があった。
【離婚解決金 5億円】
その下には、私と娘が今の家に住み続けること、娘を転校させないこと、連絡は代理人を通すことが並んでいた。
在宅で会社案内を作る仕事を何年続けても、届きそうにない金額だった。けれど、何より怖かったのは、夫と離婚したあとの暮らしが、こんなに細かく決められていることだった。
「夫は娘のことまで、私に聞かずに決めたつもりなんですね」
「あくまでご主人が示した案です。水城さんが同意したことにはなりません」
学校は変わらなくても、一緒に暮らす家族は変わる。8歳の娘に誰がそれを伝えるのか。
父親が帰ってこない夜、何と言って寝かせるのか。
書類には、何も書いていなかった。
「買収に、私たちの離婚が必要なんですか」
「いいえ。弊社が離婚を条件にしたことはありません」
「だったら、夫が自分で私に話すべきでしょう」
「おっしゃるとおりです。この案に、今お返事をいただく必要はありません。持ち帰って、弁護士に確認してください」
私は書類に触れないまま尋ねた。
「夫は、いつからこの話をしていたんですか」
加奈が裏面を開いた。
【上記条件を前提として、離婚協議の開始に同意します】
その下に啓介の署名があった。右上がりの、見慣れた字だった。
婚姻届にも、娘の水城ひより(みずき ひより)の出生届にも、啓介はこの字を書いた。
日付は2週間前だった。その3日後は、私の誕生日だった。
啓介は白い花束を買って帰ってきた。
「来年は3人で旅行しよう。ひよりの行きたいところに連れていこう」
その夜、私は旅行先を検索した。啓介も隣で画面を見ていたし、ひよりは私たちの間に割り込んできた。
「朝ごはんも3人で食べるんだよね」
「そうだよ」
啓介が笑って答えると、ひよりは宿の写真を次々に指さした。私も、娘と一緒になって画面を見ていた。
遠くへ行けなくてもよかった。朝から夜まで、仕事の電話で席を立つことなく、3人で過ごしたかった。
数日後に花がしおれ始めても、私は捨てられなかった。茎を切り、水を替え、まだ開きそうなつぼみを残した。久しぶりに啓介からもらった花だったから。
花を買った時も、旅行を約束した時も、啓介はもう署名していた。
あんなに喜んでいた私とひよりを、どんなつもりで見ていたのだろう。
「持ち帰ります。夫に直接聞きます」
書類を封筒へしまった。最後の角が引っかかり、何度か押して、ようやく入った。
会計は済んでいると言われたが、私はコーヒー代に1000円札を置いた。
加奈に何かをしてもらうたび、まだ知らないことまで承諾した気になりそうだった。
エレベーターの鏡に、薄いベージュのブラウスを着た私が映った。
汚れても家で洗える服。低く束ねただけの髪。身だしなみは整えてきたけれど、華やかさはなかった。
水城真帆(みずき まほ)、35歳。結婚して11年。
娘が生まれてからは、仕事の名刺より学校の保護者証を出すことのほうが多くなった。
その私の鞄に、5億円の離婚条件が入っていた。
スマートフォンに、啓介から連絡が届いた。
【今夜は遅くなる。ひよりの宿題、よろしく】
すぐあとに、ひよりからも来た。
【ママ、牛乳ないよ】
5億円で離婚を持ちかけられた帰りにも、牛乳は要った。
家へ向かう途中、スーパーに寄った。牛乳と卵、ひよりが朝に食べる小さなヨーグルト。昨日と同じものをかごに入れ、レジで1000円札を2枚出した。
これでは5億円の端にもならない。そんな比べ方をした自分が嫌だった。
運河沿いのマンションに帰ると、ひよりが玄関へ走ってきた。
「遅い。ココア作れなかった」
「ごめんね。今作る」
「パパは?」
「仕事だって」
ひよりは牛乳を両腕で抱えて冷蔵庫まで運んだ。ダイニングには、授業参観で発表する家族カードが広げてあった。
大きな赤い屋根の下に、紺色のネクタイをした啓介と、茶色い髪の私がいた。ひよりは真ん中に自分を描き、両側の手をつないだ。
「パパの好きなところは、会社を作ったところ。ママは……ココアがおいしいところにしようかな」
ミナモリンクの「わが家帳」は、家事や予定を家族で共有するアプリだ。その最初の画面も、使い方の文章や案内も、私が作った。
今請け負っている会社案内の仕事とは違う。ひよりを抱きながら、台所で始めた仕事だった。
ゴミ袋を替える。予防接種を予約する。麦茶を作る。気づいたひとりが全部抱え込まないように、ノートに書き、画面の形にしていった。
でも、ひよりは知らない。啓介が会社を作った話をするたび、私は娘の前で言い争うのを避けてきた。
私の作ったものを会社がどう使うかも、いつか正式に契約しようと言われ、そのままになっていた。
「ココアでいいよ」
鍋に牛乳を注いで火にかけると、玄関の鍵が開いた。遅くなるはずの啓介だった。
「パパ、発表に来る?」
「もちろん。うちの会社も家族を大事にしてるからな」
啓介はひよりの頭をなで、取引先でもらったという焼き菓子の缶を渡した。娘に家族カードを見せられると、自分の似顔絵に笑った。
「ネクタイまで同じだ。よく見てるな」
「ママの好きなところ、ココアでいいかな」
「いいんじゃないか。真帆は家のことをしてるのが一番向いてるよ」
優しい声だった。ひよりは安心したように、ココア、と書き始めた。
私は夫を呼んだ。
「啓介」
顔を上げた夫に封筒を見せかけて、やめた。ひよりのカードが目に入った。せめて、この子がいないところで聞きたかった。
鞄を椅子の下へ移そうとすると、啓介が先に持ち上げた。
「ここに置くと邪魔だろ」
鞄の口から、封筒が落ちた。白い書類が半分滑り出した。
啓介の笑顔が消えた。
私が拾うより先に、ひよりが家族カードを読み上げた。
「りこん、かいけつきん?」
ひよりは私と啓介を見比べた。
「ママ、パパを売るの?」
月曜の朝、ひよりは玄関で上履き袋を落とした。拾おうとしゃがんだまま、動かなかった。「これ、クラスの子が送ってきた。その子のお母さんのスマホに来たって」差し出された画面に、私の顔があった。【5億円で夫を売った妻――家族アプリ創業者、買収の裏で離婚】前夜、ミナモリンクが出した説明文には、元配偶者から過大な要求があり、買収手続に影響している、とあった。記事はそこに、5億円とホテルでの面談を結びつけていた。啓介の顔が浮かんだ。けれど、誰が記者へ話したのかを示す証拠はなかった。保護者の連絡にも記事が添えられ、【子どもの前では触れないように】と書かれていた。その言葉と一緒に、ひよりのところまで来てしまった。仕事先からも、翌月に作る生活冊子を保留したいとメールが届いた。自治体向けの仕事なので、状況が落ち着いてから改めて相談したいという。私は承知しましたと返し、準備していた案を閉じた。私が書いた物を夫の物にされたうえに、自分で請けた仕事まで止まるのか。悔しかった。「ひより、今日は休もうか」「休んだら、ほんとだと思われる」「記事のようなことはしてないよ」「5億円は本当でしょ」「支払う約束は本当。でも、ママが会社にお金を出させようとしたんじゃない。離婚の条件を先に持ってきたのは、パパなの」ひよりは上履き袋を拾った。エレベーターへ向かい、振り返らずに言った。「迎え、来なくていい。見られるから」私は律子へ連絡し、記事と会社の説明文を送った。啓介のタブ
離婚の翌日、マンションの集会室に灰色の箱が届いた。運んできたのは、加奈と高井生活デザインの法務担当だった。加奈は私がふたを開けるのを待った。青、緑、黄色。見覚えのある大学ノートが、7冊重なっていた。1冊目には、ミルクをこぼした丸い染みがあった。開くと、夜中の授乳時刻の横に、眠気で曲がった私の字が残っていた。【やったことではなく、まだ誰も気づいていないことを共有する】冷蔵庫の牛乳、保育園の着替え、予防接種の予約。その次のページには、用事を家族ごとの色で分けた画面が描かれていた。「わが家帳」に今も使われている並びだった。端に、小さな黄色い手形があった。かぼちゃの離乳食をつけたひよりの手を、拭く前に押した跡だ。「これを、啓介は自分が作った資料として出したんですか」「はい。会社の資産として申告していました」私は表紙を開いてみせた。裏には、水城真帆と書いてあった。「私の名前、ここにあるのに」「原本は、水城さんにお返しします」「真帆と呼んでもらえますか」加奈が顔を上げた。ひよりと同じ姓でいるために、私は離婚後も水城を名乗ることにした。けれど、この箱の前では、啓介の妻としてではなく、ノートを書いた本人として話したかった。「真帆さん。全部そろっていますか」私は順に表紙を開き、7冊を確かめた。育児日誌の間に、画面の案があった。娘の食べた物の記録の隣に、利用者へ渡す説明文があった。仕事だけ抜き取ろうとしたら、ひよりの手形のあるページまで外さなけれ
駅で広告を見た夜、私は律子にもう一度、掲載を止めてほしいと頼んだ。同意していないと会社へ知らせてあったのに、ひよりの顔は大勢の前に出された。その夜のうちに、啓介にも写真の使用には同意していないことと娘が学校で傷ついたことを伝え、改めて広告の停止を求めた。数日後、駅の広告は消えた。けれど、ネットへ転載された写真も、娘が学校で言われたことも、消えなかった。私は啓介に、改めて電話をかけた。「まず、あの子に謝って。もう写真を使わないって、あなたから約束して」「広告は下げただろ。買収前に騒ぎを大きくするなよ」「下がったから、ひよりも平気になると思ってるの?」「お前が会社を悪者にしなければ、娘も気にしない。離婚の話を先に片づけてくれ」娘の様子を聞こうともしなかった。この人と夫婦でいれば、ひよりを守れる。まだどこかに残っていたその期待が、なくなった。「離婚する。でも、あなたの都合で娘を使うことは、もう認めない」返事を待たずに電話を切り、律子へ連絡した。……9月24日の朝、法律事務所で啓介は離婚届を机へ置いた。夫の欄は埋まり、妻の欄だけが空いていた。「ここに書けば済むんだろ」律子が書類を脇へよけた。「先に、おふたりが守る約束を確認します」私は用意した7ページを啓介の前へ置いた。ひよりの親権は私が持ち、娘と今の家に住む。学校も変えない。養育費は月30万円、教育や医療の臨時の支出は別に相談する。啓介と会う日は月1回を目安に、娘の気持ちと学校生活を優先する。
9月18日、私は城戸法律事務所の相談室にいた。ホテルでもらった書類、啓介のタブレットを撮った画像、私の署名が使われた同意書。日付順に並べると、律子はひとつずつ確かめた。相談を申し込んでから、面談までの間に資料を送ってきた。律子はすでにミナモリンクへ、私は写真利用に同意しておらず、掲載しないよう求める通知を出していた。「ご主人の書類には、私が確認するまで署名しないでください。仕事の原本も渡さないで。離婚のお金で、作った画面や文章、写真の問題まで終わらせることには同意しないでくださいね」「離婚するかどうかは、まだ決めていません」「それでいいんです。今日は条件を確かめましょう」律子は高井側に照会した資料を広げた。「5億円を送るのは高井側ですが、負担するのはご主人です」私はペンを止めた。「高井さんが、自分のお金で私に払うんじゃないんですか」「会社全体の買収額が50億円。そのうち、ご主人が受け取る予定の代金が10億円です。買収が成立する日に、その代金から5億円を、こちらの管理口座へ直接送る案です」「夫の取り分から出るんですね」「はい。最初の提案は1億円でした。高井側が、婚姻中の貢献と娘さんの生活を踏まえて5億円の案を出すよう求め、ご主人が署名しています」啓介は自分の受取額を知っていた。そのうえで私には、5億も受け取るのにまだ足りないのかと言った。私から要求したお金でもないのに。「私は株を持っていません。初期の画面や文章を作りましたが、それが5億円だと決まるわけではないですよね」「ええ、法律で決まった額ではありません。今ある
土曜の教室で、私は後ろの壁に貼られた家族カードを見つけた。ひよりの絵には、私の顔が戻っていた。消しゴムで毛羽立ったところに描き直したせいで、髪の色がむらになっていた。細くなった腕は、それでも真ん中のひよりとつながっていた。好きなところの欄には、【話を最後まで聞く】とあった。保健室から帰って以来、ひよりは私と一緒に眠らなくなった。話しかければ返事はした。でも、靴を履く時に私の手をつかむことも、帰宅するとランドセルを預けることもなくなった。その娘が、私をもう一度、赤い屋根の下に描いてくれた。授業が始まっても、啓介は来なかった。私は隣を空けて立っていた。「次は、水城さん」ひよりが教壇に出た。「私の家族は、3人です」廊下から足音がした。紺色のスーツを着た啓介が入り、ほかの保護者に頭を下げた。ひよりの顔が、ぱっと明るくなった。「パパは、家族が便利になる会社を作りました。忙しいけど、今日は来てくれました」啓介はスマートフォンを構えた。先生に撮影を注意されると、すぐに下ろした。「ママは、話を最後まで聞いてくれます」ひよりは私を見なかった。私は拍手をしながら、あの絵を大切に持ち帰りたいと思った。パパのところに行くと言われたことも、消された顔を見た時の悲しさも忘れてはいなかった。それでも、描き直してくれたのがうれしかった。休み時間、啓介は先生に名刺を渡していた。「家族の会話を増やすのが、うちの理念なんです」ひよりは父親の隣で、話し終わるのを待っていた。私もそのそばに立った。こうして並んで
「離婚の話を、今からパパとするところだよ。ママはまだ、何も決めていない」ひよりの顔を見て答えた。啓介は床の書類を拾い、自分の署名を伏せるように封筒へ戻した。「会社の相談だ。ひよりには関係ない」「関係なくないでしょう。私たちの話なんだから」「じゃあ、パパはここにいる?」ひよりが尋ねると、啓介は封筒を自分の側へ寄せた。「パパの会社が、大きな会社と一緒になるかもしれないんだ。そのために、ママと話し合うことがある」「会社が一緒になったら、パパは家からいなくなるの?」「それはママと話してからだ」「いつまで?」啓介は答えなかった。ひよりが私を見た。私は一度言葉に詰まってから、娘のそばにしゃがんだ。「今は、いつまでとは言えない。分からないまま約束はできないけど、決まったことは、ちゃんとひよりに話すよ」ひよりはうなずかなかった。胸に抱えたカードには、折り目がついていた。牛乳を温めていた鍋の火を止めた。夕飯の間も、ひよりはカードを脇に置いたままだった。啓介は娘と目が合うたび、早く食べなさい、と言った。ひよりが自分の部屋に入ると、啓介は封筒をテーブルへ投げた。「なんで家へ持ち帰った。ひよりに見られたじゃないか」「私に何も言わずに署名して、知らない人に離婚を言わせようとしたのはあなたでしょう。あのメールも見せてもらったわ」「高井さんから説明を受けたんだろ。話は分かったはずだ」「説明を聞けば、私が離婚するとでも思った?」「断ってどうする。5億だぞ。学費も家も心配しなくていい。お前もひよりも、それで十分だろ」「ひよりが聞いたのは、あなたが家にいるかどうかよ」啓介はネクタイを緩め、冷蔵庫から炭酸水を出した。「そこはお前から説明してくれ。俺は会社のことで手いっぱいなんだ」「自分が出ていく話なのに、娘への説明まで私にさせるの?」「家は残すと言ってるだろ」「家が欲しいんじゃない。あなたにいてほしいの。さっきの話、聞いてなかった?」啓介は立ったまま炭酸水を飲んだ。娘にはあれだけ質問されても答えなかったくせに、会社のことはすぐに口にした。「ここで売らなければ資金がもたないんだ。今さら揉めないでくれ」「資金がないなんて初めて聞いた。会社のことは、私には話さなくなったでしょう」「話したって分からないだろ」創業した頃は、ひよりを寝かせてから毎晩話し







