LOGIN記憶を失った首都圏の御曹司・神宮寺玲央(じんぐうじれお)は、まるで恋に落ちた少年のように、私を追いかけてきた。 優しくて、まっすぐで、どこまでも誠実に見えた彼に、私は少しずつ心を許していった。 三年。 ただの「演技」のはずだった。けれど、嘘の恋人ごっこを続けるうちに、私は本気になっていた。 妊娠がわかった日、ようやく彼に伝えようと決めた—— だがそのとき、耳に飛び込んできたのは、あまりに残酷な言葉だった。 「玲央、ありがとう。記憶喪失のフリをして、あの子を弄んで、私の気が済むまで遊んでくれてありがとう。 あと一回で、百よ。それが終わったら、付き合ってあげる」 そう微笑んだのは、かつて私を蔑み、弄んだ女——白石志乃(しらいししの)。 玲央の心の中に宿る「女神」。決して手の届かない、叶わぬ初恋。 その瞬間、私の世界は音を立てて崩れ落ちた。 私は、ただ彼女を笑わせるための、哀れで滑稽な道化にすぎなかったのだ。 そして私は、飛行機事故に巻き込まれ、表向きには——命を落とした。 狂ったように残骸をかき分けた玲央が見つけたのは、たったひとつの指輪だけ。 その内側には、小さな文字でこう刻まれていた。 「第100回の弄び。あなたの愛にすべてを賭けた」 玲央はその場に崩れ落ち、嗚咽し、意識を失って病院へ運ばれたという。 目を覚ました彼は、私を弄んでいたすべての人間と袂を分かった。 そのころ私は、フランスの雪の中にいた。 凍てつく風の中で、静かに笑いながら、診断書に火をつけた。 ——彼が偽りの記憶喪失で私の心を欺いたのなら、私は偽りの死で彼にすべてを返したのだ。
View Moreオークション当日。玲央は車椅子に乗って現れた。誰かに押されながら、静かに入場してくる姿は、まるでかつての私がフランスに来たばかりの頃のようだった。同僚が冗談めかして言った。「まさか神宮寺さん、月島社長の『山海の残焔』を落札する気なんじゃ……?」会場には多くのバイヤーが集まり、入札価格は次々と跳ね上がっていく。だが金額が大きくなるにつれ、参加者は徐々に減っていき、最後には玲央とロシアのバイヤーの一騎打ちとなった。「1010万ドル」「1100万ドル」ヤリスが頬をこすりながら嘆息した。「しかもこのゲーム、買い切り型じゃないんだよね?今後の収益なんて、数えきれないくらい入ってくる……夢みたいだ」そして、ぽつりと付け加えた。「元婚約者にしては、すごい執念だな。愛を取り戻したいのかもね?」私はただ黙って見ていた。感情もなく、ただ遠くの出来事のように。最終的に、『山海の残焔』は1200万ドルで玲央が落札した。その価格は、前の10作品の総額に匹敵するほどだった。取引が成立すると、玲央は私のもとへとゆっくり近づいてきた。足の傷が癒えぬまま、さらに数日無理を重ねたのだろう。顔色は蒼白く、どこか陰のある面差しをしていた。「このゲームを贈り物として君に贈りたい。君の才能を、僕は最初から認めていた。……フランスに拠点を移すつもりなんだ。もし君が望むなら——」彼は唇を結び、一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。私はにこやかに、しかし淡々と答えた。「ご厚意ありがとうございます、神宮寺さん。でもお仕事以外は、すべてお断りします。ただの大きな利益だったと思ってますので。さようなら」その瞬間、彼のまつげがピクリと震えた。色のない唇から咳が漏れ、抱いていた希望はすべて粉々に砕け散った。私は一切振り返ることなく、背を向けた。そして記者会見の場で、私はマイクの前に立った。ある記者が、好奇心を隠さずにこう尋ねた。「月島さん、神宮寺氏が1200万ドルで『山海の残焔』を落札しました。また、盗作疑惑の際には、あなたの手稿を提出して証明まで行いました。お二人には特別なご関係があるのでしょうか?友人?恋人?」私は一瞬だけ言葉を探し、それから、淡く笑った。「以前、友人と呼べる関係でした。『山海の残焔』の制作について一緒に話したことはあります」ただ——その物語にはも
翌日、私は『山海の残焔』のオークション準備に追われていた。そのとき、一本の電話がパリの病院からかかってきた。——玲央が、自らの脛を刃物で切りつけたという。駆けつけた救急隊が見たのは、血の海に倒れながら、満足げに笑う彼の姿だった。「これで……澪が、僕を許してくれる……」彼はそう呟いていたらしい。医療スタッフによれば、彼は「月島澪にしか連絡するな」と言い張り、私が来ない限り治療を拒んでいるという。いまだに出血は止まらず、意識も朦朧としている。だが——私はもう、簡単には「許す」なんてできない。あの100回にも及ぶ「弄びゲーム」の数々、そして嘘で塗り固められた日々。私は丁寧に、しかし冷淡に言い放った。「神宮寺さんとは面識がありません。彼が本当に治療を拒否するなら、葬儀社を手配してさしあげてください」その直後、電話の向こうから、彼の震えた声が聞こえた。「お月ちゃん……脚が……すごく痛いんだ。僕、もうダメかもしれない……お願いだ、少しでいい、顔を見せてくれ……前は、あんなに僕のこと気にしてくれてたのに……」私は何の迷いもなく、通話を切った。かつての私なら、神宮寺玲央の名を聞いただけで、すべてを投げ捨てて彼の元へ駆けつけた。でも、駆けつけた先には、彼の姿はなく、待っていたのは白石志乃たちの嘲笑だった。「月島澪ってさ、あいつの犬か何か?玲央が指一本動かしただけで、ホイホイ来るとか、マジウケるんだけど」「ほんと哀れだよね〜。好きすぎて自分からすり寄る女って、見てて痛々しいし、逆に怖いわ」……私は気持ちを整え、過去の闇を振り切るように立ち上がった。そして再び、『山海の残焔』のオークション準備に取りかかる。——今回は、絶対に勝ち取る。だがその夜明け前、白石志乃が自身のSNSで手書きの資料とプログラムコードを公開した。中には二年前の日付が刻まれたゲーム構成案が含まれており、彼女はそれを証拠として私が彼女のゲームを盗作したと主張しはじめた。かつて99回の弄びゲームを仕掛け、最終的には神宮寺に捨てられ、この二年間、家業も彼に徹底的に潰されてきた彼女。今、生き返ったかのように表舞台に戻った「戦犯」の私に、怒りの矛先を向けたのだろう。だが——その資料はすぐに私が見覚えのあるものだと分
二年後、私はフランスでゲームスタジオを立ち上げ、かつて一人で描いていた和風ファンタジーゲーム『山海の残焔』を、ついにこの世に送り出した。「月島凛」の名で国際ゲームデザインコンテストに応募した。この作品は、日本神話をモチーフにしたファンタジーという特異な構造が欧米市場にぴたりと合い、見事、国際ゲームデザイン大賞で金賞を受賞。国内でも熱狂的な注目を浴びた。日本人ゲームデザイナーとして初めて、このゲームデザインコンテストで金賞を受賞したのだ。作品の競売価格は瞬く間にトップに躍り出て、数億円単位で高騰。スタジオには連日、提携希望の連絡が鳴り止まなかった。オークション開催は三日後に控えていた。そんな折、父がぽつりと私に聞いた。「こんな派手にやって……神宮寺玲央に見つかったりしないか?」噂では、彼は今や首都圏で「亡き妻に囚われた男」と呼ばれているらしい。「月島澪」の名は、彼の前では決して口にしてはならない——それが、暗黙の掟となっていた。私は気にせず、淡く笑って答えた。「もう二年も経ったのよ。過去に囚われているのは彼であって、私じゃない。今の私は——誰も怖くないわ」父は、歩けるようになった私の脚を見つめ、ゆっくりとうなずいた。「あいつみたいなクズが、またお前を傷つけようとしたら……その時は私が、殺す」『山海の残焔』は、かつて彼の目の前で、私が何度も線を引き、色を塗っていた。設計図の一枚一枚が、彼の記憶に焼きついているはずだった。今回の受賞に、彼が何も感じていないはずがない。ただ、あの「墜落」が偽装だったとは、夢にも思っていないだろう。けれど、勘づけば——真実までの道筋は、そう遠くない。その予感は、的中した。金賞受賞が発表された翌日、玲央はスタジオの前に現れた。あまりにも痩せ細り、スーツは骨ばった肩にだらしなく垂れていた。鎖骨の上には、あのフェニックスのタトゥー。首には、私が事故機内に残した——100回の弄びの指輪。その眼差しは、長い沈黙の年月をくぐり抜けた男のものだった。沈んだまなざしの奥に、凍った執着と壊れかけの希望が同居していた。私を見た瞬間、彼の目がふっと揺れた。そして、あの懐かしい呼び名を口にした。「……お月ちゃん」枯れた声だった。「……国際大会の金賞、おめでとう
私は最後に一度だけ、スマホの画面を見つめた。気になっていたのは——白石志乃の裏アカウントに浮上した投稿。【玲央は、私たちの結婚式で『ピエロの弄び集』を流すつもりらしい。泣き崩れるあの人の顔が、オープニングにぴったりなんだって】添えられた写真には、山頂マンションの金庫。そこには、整然と99本の録音ペンが並んでいた。玲央からの着信は鳴り止まず、私は小さく笑って、そっとSIMカードを抜き取った。彼はまだ、飛行機事故のことを知らない。ただ、私が「弄びゲーム」の真相を知ったと気づいた頃だろう。疑い、怒り、焦燥?あるいは、不安と混乱?——もう、何一つ重要じゃなかった。父は言った。プライベートジェットをレーダーから消すのは、結婚写真から指紋を拭き取るようなものだと。何も心配はいらないと。私は、玲央の人生から静かに姿を消す。事故の報せが届くや否や、彼は理性を失ったように事故現場へ駆けつけた。焦げ跡を残す残骸に素手を突っ込み、鋼鉄に裂かれた高級スーツなど意にも介さず、彼は瓦礫を掘り返し続けた。消防隊員が制止しようとするが、彼の血走った目に、一歩退いた。「婚約者が、あそこにいるんだ!今日、僕が贈った月のネックレスをつけてるんだ!」そこへ、一人の大柄な男が近づいた。玲央が顔を認識する間もなく、無言のまま拳を振り下ろした。彼は倒れ伏すが、殴り返しもせず、ただ、ひたすらに——心の中の人の姿を求めて残骸を掘り続けた。「月島さんの遺骨は、母親とともにパリで眠ります。あなたが背負った罪は、どんな悔恨でも洗い流せません」そう告げたのは、私の父の秘書だった。玲央はその場に膝をつき、荒れ果てた廃墟に崩れ落ちた。その時、彼の視線が、何かを捉えた。埃まみれの破片の中に埋もれていた、ひとつの指輪。彼がかつて、私と選んだものだった。震える手で拾い上げると、その内側には、こう刻まれていた。【第100回の弄び。あなたの愛にすべてを賭けた】その文字は、私が最後に刻んだものだった。玲央の体は、雷に貫かれたかのように震えた。ようやく彼は悟った——私はすでにすべてを知っていたのだと。それでも彼は、私を何度も傷つけ、そして白石志乃とその仲間たちが私を踏みにじる姿を、ただ黙って見過ごしていたのだった。弄びゲームという仮面をかぶっ