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第2話

Author: 年々
健太に手を握られたまま、彩花は一文字ずつ自分の名前を書いていった。

健太は身を乗り出すと、彩花を抱きしめようとした。「そうだ!彩花」

彼女はぷいっと顔をそむけた。「疲れたわ。休ませて」

健太は自分の喜びが顔に出すぎていることに気づいた。そして、気まずそうに手を引っ込めた。

「じゃあ、俺は小林先生のところへ移植手術の段取りを……いや、今後の治療について相談しに行く」

彼は慌ててそう言い直し、同意書を手に病室を足早に出ていった。

彩花は、虚ろな目で白い天井を見つめていた。彼女は病衣のポケットからスマホを取り出し、国際電話をかけた。

プルルル――

受話器の向こうから、聞き慣れた女性の声がした。「彩花?」

彩花の声は、ひどく震えていた。「私のがんは嘘だったの。健太と、両親がグルになって私を騙してた。美羽に角膜を移植させるために。

あの人たちの計画を逆手にとって、死んだことにして逃げる……彼らの前からは、完全に消えてやるんだから!」

電話の向こうで、親友の村上玲奈(むらかみ れな)が息をのむ音が聞こえた。「あの人たち、人でなしだわ!よくもそんなことができるわね!

仮死状態になる薬と、新しい身分を用意してあげる。5日だけ時間をちょうだい、必ずなんとかするから。それまで自分の身は自分で守って。連絡を待ってて!」

ぎゅっと閉じていた目から、熱い涙が堪えきれずに溢れ出した。「うん、わかった。5日間ね」

彩花はベッドの上で、まるで本物の死体のように、静かに身じろぎもせず横たわっていた。

彼女は、自らが計画した「死」を待っていた。「愛」という名の、地獄よりも冷たい檻から完全に逃げ出す、その時を。

翌日、彩花は直樹の診察室へ向かった。「退院します」

直樹は視線を泳がせながら、彼女を止めようとした。「吉田さん、それは無理ですよ。ごの病状では……」

彩花は、サイン済みの退院に関する同意書をデスクに叩きつけ、振り返ることなく病院を後にした。

慣れ親しんだ家のドアを開けると、朝食の香りと安っぽい香水の匂いが混じった空気が、ぷんとしてきた。

彼女は玄関で足を止めた。視線の先は、リビングの中央にある大きなソファに向けられた。

健太は部屋着姿でゆったりとソファにもたれかかっていた。その腕の中には、美羽が猫のように甘えて寄り添っている。

美羽の手には一枚の紙が握られていた。それは、彩花がサインした角膜提供の同意書のコピーだった。

「健太さん、なんてお礼を言ったらいいか。おじさんやおばさんにも……

この恩は、一生忘れない……」

健太は低く優しい声で言った。「バカだな、お礼なんていいんだ。俺たちがやるべきことをしただけだから。

安心して手術を待ってればいい。全部、段取りはつけてあるから」

彼の口調は、自信に満ち溢れていて、まるで当たり前のことのように聞こえた。

この瞬間、健太は「末期がん」の妻である彩花が、まだ「生きている」ことを完全に忘れていた。

昨夜の、胸が張り裂けそうな悲劇のヒーローを演じたことも、彼女だけを愛すると誓ったことも、すっかり忘れていた。

彩花の出現が、リビングの甘い雰囲気を打ち破った。美羽は慌てて同意書を背中に隠した。

健太はさっと前に出て、自分の体で彼女が同意書を隠すのをかばった。

彼の顔から、優しさと得意げな表情は消え失せた。代わりに浮かんだのは、驚きと後ろめたさだった。

「彩花?なんで退院したんだ?お前の体は……」

健太の顔に浮かぶ偽りの「心配」に、彩花は吐き気をもよおした。

「病院は、寒々しくて嫌だったの」

彼女は健太の肩越しに、美羽を見つめた。「美羽もいたのね。何をそんなに楽しそうにしてるの?」

美羽の体は明らかにこわばった。そして、慌てて健太に助けを求めるような視線を送った。

健太が、ごく自然に話を継いだ。「たいしたことじゃないんだ。美羽が大学に受かったのはおめでたいことだって、ご両親が言っててな。それで、入学祝いのパーティーを開いてやろうって話になったんだよ」

入学祝いのパーティー?

彩花の瞳が、きゅっと目を細めた。なんて馬鹿げてる。皮肉にもほどがある。

先週は、自分の誕生日だったのに。花も、ケーキも、お祝いの言葉ひとつもなかった。

それなのに、美羽の入学祝いは、一流ホテルで盛大に開くっていうの?

美羽は媚びるような笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には得意げな色が隠されていた。「彩花さん、絶対に来てね。おじさんとおばさんが、あなたは私にとって一番大切な家族だって……」

その言葉は、一言一言が、まるで蜜を塗った毒針のようだった。

美羽からの、まるで施しのような「招待」に、彩花は冷たい拒絶の言葉を口にしかけた。

しかしそれを遮って、健太が先に口を開いた。「もちろん、行くさ」

彼は美羽に優しい眼差しを向けた。「彩花は体が弱いからこそ、おめでたい席で元気をもらわないと。そうだろ?」

そして、彩花の方へ顔を向けた。その瞳の奥には、隠すことのない警告と威圧が宿っていた。

元気をもらう?

ええ、もちろん行く。

自分の健康と、この目を引き換えに開かれる「お祝いの席」とやらを、この目に焼き付けてやる。彼らの喜びに満ちた顔を、決して忘れないために。

「ええ」
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