LOGIN夜風が肩を撫でると、私は思わずぶるっと震えた。次の瞬間、まだ温かいスーツの上着が、そっと私の肩にかけられた。「やっぱり寒がりですね!」翼はいつもの調子で、からかうように笑った。私は上着をぎゅっと引き寄せると、彼のぬくもりと香りに包まれた。遠くに見える街の灯りがキラキラとしている中、私はそれが心のときめきのように感じたのだった。「あの……」私たちが同時に口を開くと、二人して思わず笑ってしまった。それから、翼は優しく私を見つめて、「お先にどうぞ」と言った。私は照れくささを隠すように微笑んで、言った。「どうしてずっと電話をくれなかったんですか?」翼は一瞬きょとんとしてから、ポケットからスマホを取り出した。「山の中は電波が悪くて……ちゃんと街に出てから連絡したほうが、誠意があると思ったんです。よかったら、食事でもいかがですか?」するとその時突然、夜空がライトアップされ、私たちの横顔を照らしたのだった。光と影が交差するなか、彼の瞳いっぱいの優しさが見えた。……それから週末の午後。レストランの大きな窓から差し込む光が、床一面にきらきらと広がっていた。私は窓際の席に座り、ふくらんだお腹をそっと撫でた。妊娠5ヶ月の私は、自分でもわかるくらい、穏やかな雰囲気をまとっていた。そして翼が席を外している間に、隣のテーブルのおしゃれな女性が、しきりにトイレのほうを気にしているのが目についた。翼が戻ってくると、女性は思い切って彼の行く手を遮った。彼女は長い髪をかき上げ、明るい笑顔を向けた。「あの、よかったら連絡先を交換しませんか?」すると、翼は丁寧に一歩下がり、左手を見せて結婚指輪をアピールした。「すみません、妻がやきもちを焼くので」そう言って、私のいるほうを指差した。女性は彼の視線を追ってこちらを見ると、私が妊娠していることに気づいたようで、気まずそうな顔をちらりと見せてから、そそくさと立ち去っていった。一方で、私は微笑みながら、翼が差し出してくれた水を受け取った。「またナンパされたの?」「そうだ、君の旦那が、かっこよすぎるからな」そう言って、翼は身をかがめて私の額にキスをすると、甘やかすような眼差しを向けた。ちょうどその時、レストランの入り口から見覚えのある姿が入ってきた。ビシッとしたス
その日の早朝、私たちは車で山奥に向かっていた。だんだんと道が悪くなっていくのを窓から眺めていると、胸が少しざわついた。案の定、村の入り口に着いたとたんに雨が降り出した。雨粒がぱらぱらと窓を叩いて、山道はあっというまにぬかるんでしまった。なんとか現場の前に車を停めて、私は急いで開発のセレモニーを終わらせた。しかし、セレモニーが終わると、雨足はさらに強くなった。村役場の職員から、雨がやむまで村にいたほうがいいと言われた。でも、雨はなかなかやむ気配がなかった。午後になって、突然ゴーッという大きな音がして、村人たちの悲鳴が聞こえた。外に駆けつけると、遠くの山でがけ崩れが起きていた。土砂が唯一の道をめちゃくちゃにしていた。こうして私たちは、この人里離れた山村に閉じ込められてしまったのだ。みんながパニックになっていると、雨の中からすっと背の高い人影が現れた。彼は濃い色のレインコートを着ていて、くっきりとした顔立ちで、その目は落ち着いていて、強い意志を感じさせていた。そして彼は村役場の職員のところまで歩いていくと、小声で何かを話した後、私たちの方を向いて宥めるようにして言った。「みなさん、落ち着いてください。俺は長谷川翼(はせがわ つばさ)です。山道はしばらく通れません。でも、村には十分な物資がありますから、まずは落ち着きましょう。雨がやんでから、どうするか考えますので」一方、人だかりの中に立っていた私も、いつのまにか翼に目を奪われていた。彼の眉間には、どっしりとした強さがにじみ出ていた。雨水が頬を伝って流れても、その落ち着いた様子は少しも変わらなかった。村には泊まれるような場所がなかったので、私たちは村人たちの家に分かれてお世話になることになった。そんな中私は他の同僚二人と一緒に、ある老人の家の屋根裏部屋に泊めてもらうことになった。屋根裏部屋は簡素だったけど、きれいに掃除されていた。しかし、夜になっても、雨はやまなかった。そして、隙間から吹き込んでくる冷たい風はじめじめしていて、肌寒かった。私はベッドの隅で、薄い毛布にくるまったけど、それでもまだ寒かった。そのとき、ドアを軽くノックする音が聞こえた。「安藤さん、もう寝ましたか?」と翼の声がしたのだ。私が起き上がってドアを開けると、彼は手に小さな火
「この状況だと、私が右手で叩いたってことになるよね」すると紬はすぐに言い訳した。「勘違いでしたわ。あなたが右手で叩いたんですよ」それを聞いて私は右手を振り上げ、彼女の左頬に平手打ちをした。すると、彼女の頬にくっきりと五本の指の跡が浮かび上がったのだった。「ほら、右手で叩いたらこうなるはずでしょ。左頬には当たるけど、右頬には届かない」この瞬間、翔にもやっと事態が飲み込めたようだ。一方で私に平手打ちされた紬が、仕返ししようと飛びかかってきたが、翔に力ずくで脇へ追いやられた。「もう気が済んだだろ?」すると紬は非難めいた目で、恨めしそうに翔を見た。でも、翔は彼女を完全に無視した。彼は急に、申し訳なさそうに私を見て言った。「美優……さっきは俺の勘違いだった。謝るよ。許してくれないか?」しかし、私の中では失望が積み重なって、気持ちはもうすっかり冷めてしまった。許すとか許さないとか、もうどうでもいいことだ。「ちゃんとお別れを言おうと思ってたけど、その必要もなくなったみたいね」私はスーツケースを手に取ると、荷物をまとめ始めた。私が荷造りを始めたのを見て、翔はついに慌てだした。彼は早足で近づいてきて、私の手首を掴んだ。その力は思わず眉をひそめてしまうほど、強かったのだ。「美優、どこへ行くんだ?行かないでくれ、ちゃんと話し合おう!」だが、私は冷たくその手を振りほどき、静かな目で翔を見つめた。「婚約は取り消したわ。もう私たちは終わりよ」すると、彼は私の言葉に撃たれたように体がこわばり、その場に呆然と立ち尽くした。「美優、そんなこと言うなよ……俺が悪かった、説明もするし、改めるから!行かないでくれ、まだやり直せるはずだ……」でも、私は翔の言葉を遮った。「翔、もう私たちにやり直すチャンスはないわ」そう言われ、彼は呆然として、どうしていいか分からないようだった。一歩踏み出そうとしたけど、私の冷たい視線に気づいて、また手を引っ込めた。そしてドアが静かに閉まり、翔を隔てた。結局、彼は私の人生の、ただの通りすがりの人に過ぎないのだから。翔と別れた後、私は電話番号を変えて、過去のすべてを心の隅に追いやった。それから実家に戻った私は、会社の中間管理職から再スタートすることにした。安藤家の七光りには頼らず、
すると翔の表情が、一瞬にして凍りついた。怒りと驚きが入り混じったその目は、どうしていいか分からずに揺れていた。彼は拳を固く握りしめ、その関節は白くなっていた。心の動揺を必死に抑えようとしているようだった。「どうして婚約を破棄したいなんて言うんだ?」紬といい感じになってたくせに、よくもまあ私にそんなことが聞けるわね。理由は分かりきってるじゃない。「福田さんに島を買い与えたこと、まさか忘れたわけじゃないでしょ?海外で、彼女のために一晩中花火を打ち上げたことも?それとも、オフィスで彼女とキスしてたことも、もう忘れちゃったのかしら?もしかして、もうそんなに物忘れが激しくなる年頃なのかしら?」そう言う私の言葉一つ一つが、ずっしりとした錘のように翔を打ちつけていたのだった。彼の顔色はみるみるうちに青ざめていった。そして、力なくかすれた声で言った。「あれは、お前が思っているようなことじゃ……」「私が思ってるようなことじゃないって、どういうこと?」私は翔の言葉を遮った。「じゃあ、教えてくれる?本当はどうだったのかを。あなたたちの純粋な友情?それとも、彼女への哀れみからくる、ただの施しだったとでも言うのかしら?」そう言われ、翔は目を泳がせながら、何か良い言い訳を探しているようだった。「美優、俺は……これには訳があるんだ……」「訳?」私は冷めた目で彼を見つめた。その声には何の感情もこもっていなかった。「翔、今さら説明なんて必要だと思う?それに、あなたと彼女のことは全部見てきたわ。どんなに言い繕ったって、なかったことにすることはできないでしょ?」すると、翔の唇がかすかに動いた。でも、何を言えばいいのか、言葉が見つからないようだった。私は顔を背け、隣に立っている紬に視線を移した。そして彼女は隠そうともせず、嬉しそうな笑みを浮かべて、その目を喜びで輝かせているのが見えた。「見て。福田さんはすごく嬉しそう」私の声には皮肉が混じっていた。「翔、あなたも彼女が好きなら、仲良くやればいいわよ。だから、あなたから結婚式をキャンセルしなくてもいいの。私の方から身を引くから」それを聞いて紬は、頬の痛みも忘れたように翔に駆け寄った。「翔、私たち……これで一緒になれるのよね?」だが翔の顔に、予想された喜
多分愛されてる側はいつもそれだけ好き勝手できるんだろう。きっと翔のなかでも、どんなに私を傷つけても、私が全部受け入れるのが当たり前なんだ。その直後、キッチンからガシャンと大きな物音がした。二人がこんなに騒いでるせいで、私はすっかり目が覚めてしまった。それからリビングでは、しばらく笑い声が混じった声が続いた。やっと静かになったと思ったら、今度はラインにボイスメッセージが届いた。紬からだった。それは翔が小さな声で子守唄を歌って、彼女を寝かしつけているものだった。私は鼻で笑ってスマホを放り投げた。そして、何もなかったことにした。30分後、部屋のドアが開いて、翔がそっと入ってきた。「紬は寝たよ。美優、最近ずっと忙しかったからな。結婚式が終わったら、ハネムーンに行ってゆっくりしよう」それを聞いて私は適当に返事をした。「またその時になったら考えればいいよ」翔も私のそっけなさに気づいたんだろう。埋め合わせでもするみたいに、彼の手がゆっくりと私の肩に伸びてきた。そして、翔の顔がだんだん近づいてくるのにつれ、紬がつけていた香水の匂いが、ふわりと香った。さらに息がかかるほどの距離で、彼の首筋にくっきりと残されたキスマークのような赤い痕が目に入ったのだった。それに私は吐き気がするほど、気持ち悪かった。翔が次の行動に出ようとした瞬間、私は思いっきり彼を突き飛ばした。呆然としている翔を無視して、私は毛布にくるまって部屋を飛び出した。……次の日、私が目を覚ましたときには、もう家には誰もいなかった。今日、ここを出ていこう。でも、その前に、翔とはちゃんと話をつけなきゃいけないと思った。5年も付き合ったんだから、終わりぐらいはちゃんとしなくちゃ。それからいつものレストランを予約して、荷物をまとめるためのスーツケースを二つ買ったあと、家に着くと、翔がリビングに立っていた。彼の目は、氷のように冷たかった。夕食の話を切り出そうとした瞬間、頬に乾いた音が響いた。翔に平手打ちされたのだ。「美優、お前はなんて卑劣なんだ!」突然のことで、私は呆然として何が起きたのか理解できなかった。すると、寝室から紬が出てきた。彼女の右の頬には、くっきりと平手打ちの跡がついていた。「安藤さん、私は一晩泊めていただいているだけな
一方で、翔も愛おしそうに、紬の頭を撫でていた。そして紬は、外にいる私に気づくと挑発的に笑い、そのまま翔の唇にキスをした。翔は一瞬驚いたようだった。でもすぐに紬の首に腕を回し、そのキスを深めていった。それを目の当たりにした私は、安っぽいドラマみたいな恋愛シーンを見せつけられたようで、胸の中は、なんとも言えない気持ちでいっぱいになった。悔しいかって?うん、少しはね。ホッとしたかって?それも、少しは。悲しかった?かもね……私は背を向けてその場を離れ、仕事の引き継ぎ作業に戻った。退勤間際に、秘書がお菓子の箱を持って入ってきてなにか言いたげな顔をしていたのだ。「社長からの差し入れです。先週わざわざ海外で福田さんのために買ってきたそうですよ。私たちはついでみたいですけど。二人は、もしかして結婚が近いんじゃないですかね」それはまさに翔が紬に島を購入した時のことでは?「本当に、結婚が近いのかもしれないわね」そう言いながら、私はあの時のことを思い出した。あの時、私はそれで辛くて眠れなかったし、そのせいで入院までする羽目にもなった。翔に電話をかけると、彼は不機嫌そうな声だった。「今、出張中なんだ。すぐには戻れない。病気なら病院へ行けよ。俺に電話したって仕方ないだろ、医者でもあるまいし」秘書は止めどなくしゃべり続けていたけれど、私はもうそれ以上聞く気にはなれなかった。すると、私は癖でスマホを手に取り、メッセージをチェックし始めた。すると、インスタに紬が新しい投稿をしていた。【音楽の趣味が合う彼とクラシックコンサートへ。これはまさに魂の共鳴よね!】添付された写真では、真剣に演奏へ耳を傾けている翔の隣で紬が彼の腕に絡みつき、自撮りに夢中だった様子が映し出されていたのだった。かつて、私もクラシック音楽が大好きで、毎週末コンサートホールに足を運んでいたのに。でも翔はいつもそれを鼻で笑っていた。「時代遅れの趣味だ」と言って、全く興味を示さなかった。私がコンサートの話を持ち出すたびに、彼はいつも不機嫌な顔をして言った。「あんな古臭い曲の、どこがいいんだ?いつまでも、昔のものに囚われるなよ」しまいには、私が大切にしていたレコードを「うっかり」失くしてしまう始末だった。そして、そのレコードも二