翌朝。
いつもの土曜日なら二度寝をするところだが、引っ越し直後となればそうはいかない。
目覚めたままに起きてすぐにシャワーを浴び、軽く体をほぐすと、さっそく片付けをはじめた。とりあえず片っ端から段ボール箱を開け、リビングの壁面収納にどんどんしまい込んでいった。細かい配置はそのうちでいい。暮らすうちに、自然と使い勝手で配置は変わってくるだろうから。
昼前には全ての箱を空にし、引越し業者に回収の依頼をすることができた。
もともと、おれは持ち物が少ない。ミニマリストを気取るわけではないが、ほぼ外食のため調理器具等が不要なのと、服装にあまりこだわらないためだ。 通勤着に同じような服を5着、外出着が2着、あとは自転車用ウェアが2着。これに少しの上着類。これは中高6年間の寮生活による影響だと思う。収納スペースが限られていることと、学外へ出ることがほとんどなかったから毎日トレーニングウェアでどうにかなった。
大学時代も、転学するまでは陸上漬けで……。とは言え、引っ越しで部屋のサイズも変化し、自転車通勤は時間的な余裕を与えてくれるだろうから、物が増えていく予感はある。夏の通勤には着替えをもっていくことになるかもしれないしな。
ほこりっぽくなった身体を熱いシャワーで洗い流し、部屋を見渡す。
うん、困らない程度には片付いたな。 朝から集中して作業をしたおかげで、まだ外は十分明るい。梅雨の時期にも関わらず、引っ越しが雨に降られなかったのは本当によかった。さっそく自転車を持ち出し、街道へ出ると東へと向かう。昨日とは逆で、つまり会社がある駅方面から遠ざかる。
暑くもなく寒くもない今の時期の晴れは、自転車乗りにとって最高の気候だ。ほんの少しの時間でも乗っておかないと勿体ない気さえしてしまう。ペダルを進めていると、少しずつだが工場のような建物が混ざってくる。おそらく準工業用地になるんだろう。
さらに漕ぎ進むと、ホームセンターとショッピングモールが見えてきた。MAPアプリで目星は付けていたが、さすがの郊外店舗だけあり予想よりだいぶ敷地が広い。 その背後には、40階はありそうなタワーマンションが数棟ぴったりと建っていて、低層の工場や空き地に囲まれて一種異様な景色だ。おれはこういった ”さあどうぞどうぞ、ここに住んでここで買い物してください!” といかにも準備万端に提供されている感じがどうも苦手だ。利便性が良いのは理解できるが、あまりに人工的すぎて。
しかし、家からの近距離に、大規模なショッピングモールにホームセンターまで併設されているのは大変ありがたい。
まずモールのテナントを確認して、次にホームセンターへ。めざすは自転車売場だ。
店舗の隅の方にさしかかると、タイヤ独特の匂いが漂ってくる。これが苦手な人もいるんだよな。ガソリンスタンドの匂いに好感を持つのは若い女性に多いという記事を読んだことがあるが、タイヤの匂いを好む層についてはまだ聞いたことがない。嬉しいことに、売り場はかなり本格的な品揃えだった。トライアスロン向けの輸入自転車まで取り扱っているとは大したもんだ。
もし何か必要になったらまずここへ来て相談だな。ネットで何でも揃うとは言え、個人輸入は稀にトラブルがある。この品揃えだったら、自転車に詳しいスタッフが居そうだ。十分に満足し、ホームセンターを後にする。
次に目指すは、引越し前に見つけておいた川沿いのサイクリングロード。 たしか高校の授業中に先生の雑談として聞いた話では、街の中央を流れるその河川は大雨の度に氾濫していたため、江戸時代から大規模な治水工事が繰り返し行われたそうだ。もう氾濫することはないが、極稀に河川敷に作られたテニスコートや野球場が水没することがあるらしい。 サイクリングロードは下流に向かって河川敷の左側に設置されていて、道案内によれば河口の港まで行くことができるようだ。歩行者を巻き込むストレスがないのはありがたい。ロードバイクはスピードに乗るまでに結構な力が必要だから、いちいち歩行者を避けていると、ただしんどいだけのライドになってしまう。軽く下見のつもりが、平面の滑りがよく、どんどん漕げて楽しくなってしまった。
気がつくとすでに日はとっぷり暮れている。「さて」
おれは一人つぶやき、昨日見つけた公園横のカフェバーまでの道のりをシミュレートする。MAPを見ずとも辿り着くだろう。バーテンダーの営業トークを真に受けてしまう形になるが、3連休の中日を独り、インターネットがまだ開通していない部屋で過ごすのはキツい。
そりゃ駅前まで行けば今でも映画のレンタルショップくらいはあるだろうけど。などと、いろいろ頭の中で言い訳を考えてしまうが……要は、また行きたいんだ。
それに、あのバーテンダーが『明日も来て』とおれに言ってくれた声には、心が込もっていたような気がして。おれは、自分の返事を嘘にしたくないと思った。自宅付近をそのまま通り過ぎて、オフィス街に差し掛かる前に左折する。
昨日と同じ様に急に視界がひらけ、公園の木々が見えてくる。傍で、群青の空に浮かぶ石造りの建物は、切り取ってすぐにでも絵画にできそうなほどしっとりと美しかった。近づくと、ランタンの明かりがOPENの立て看板をぼぅっと浮き立たせている。
昨日と同じ場所に自転車を停めようと駐車スペースの隅へ行くと、小さなガーデンライトが刺さっていることに気付いた。淡い明かりでロックがやりやすく、とても助かる。やや遠慮がちにドアを開けると小さく鐘が鳴る。
「いらっしゃいませ」
軽く会釈して、カウンター席へ向かう。店内はほどよく混んでいるがカウンターはおれ一人だ。
バーテンダーがおしぼりと水を出しながら、「来てくれたんですね」と、極上の笑顔を向けてくれた。昨日と同じく、低く響く声に身体を射抜かれる。
夜の店内は、全てのテーブルにキャンドルが置かれ、カウンターにも1席ずつに小さいキャンドルが。
店内の明かりはほんのり間接照明で、バーテンダーの手元を照らすライトだけがやや明るいくらい。 キャンドルでメニューを照らしながら、今日は思いがけず体力を使ったことだし、ちょっと甘めがいいかなと思いながらページを捲っていくと、珍しい産地のビールが目についた。「すみません。この、スウェーデンのビールと、オリーブの盛り合わせを」
バーテンダーは見たこともない黒いラベルのボトルから、これまた見たことないほど黒いビールを冷えたグラスに注いで出す。
口をつけてみると見た目通り濃厚で、ほんのりバニラの風味がある。苦味と甘味のバランスが絶妙だ。「うまい」
思わず声に出してしまう。「スウェーデンで一番人気があるビールです」
バーテンダーがラベルをこちらに向けながら応えてくれた。
頼んでいたオリーブの盛り合わせは、グリーンオリーブとブラックオリーブの中にアンチョビやパプリカの入ったもの、オリーブのサイズとおなじくらいの丸いモッツァレラチーズ、プチトマト。それが丸いガラスの器に彩りよく盛られていて、まるでビー玉のようにつやつやと光を反射している。
「引越しの方はどうですか?」
「うん。もうほとんど片付いて、午後は自転車で近所をウロウロしてました。大きなショッピングモールとホームセンターがあった」
「ああ、僕もたまに行きます。映画館もあるから。……食事は?」
「モールで適当に。今日はここで飲むつもりで」
「おまかせでよければ、夜も食事のご用意できます。覚えてて」
「あ……いいんですか。嬉しい。今度から食べずに来ようかな」
テーブル席の1つは女子会のようで賑やかだ。時々、ワッと笑い声が上がる。
酒もフードも旨い、雰囲気もしっとり落ち着いていて良い。しかも半端ないバーテンダーの美青年ぶり。そりゃ女性が来るのも納得だ。おれも2日連続で来てるし。バーテンダーは忙しそうに手元を動かしながら、カウンターに一人でいるおれに何かと話しかけてくれる。
さすが客商売の聞き上手で。静かな相槌や問いかけが心地よく、まるで昔からの常連になったような錯覚に陥りそうになる。何杯目かのモスコミュールを飲んでいると、女子会グループが会計をして、バーテンダーが出口まで送っていった。見渡すと客はおれだけになっていた。
腕時計の針は22時を回っている。楽しい時間はあっという間だな。カウンターに戻ってきたバーテンダーに閉店時間を尋ねると、特に決めてはいないが、だいたい0時前にはCLOSEすることが多いとのことだった。
「日曜と月曜が休業日ですが、貸切パーティーはいつでも。ちょうど明日の日曜も予約が入っていますね」
「結婚式の二次会とか?」
この店の雰囲気ならまずハズさないだろう。
「そう。20人で立食とのことなので、今夜はこれからその準備があります。だから、ゆっくりしていって」
バーテンダーがにっこり笑う。
容姿と仕草とセリフとが完全に一致していて、この営業能力はずるい。そりゃ、おれももう少し話していたいが、最後の客というのはどうも居座りが悪い。明日の準備もあるそうだし。
「でも、そろそろ……」
残っていたグラスを空け、帰る決意をする。そのとき、コロンとドアの鐘が鳴った。
こんな住宅街の店で遅い時間に客が入るとは意外だが、少しだけホッとする。他にも客がいればもう1杯くらい飲んでもいいだろう。すると「ヘイ」とバーテンダーがドアの方に声を掛けたのでつい振り向いて見てしまった。
女性が独り、店に入ってくるところだった。こちらを見ると「いらっしゃいませ」と微笑んで、店の奥の廊下へと消えて行った。
従業員さんか……いや、こんな時間だし、奥さん?いずれにしろ関係者なのは間違いないから、やっぱり帰ろう。立ち上がりかけたところで、目の前にコトリとモスコミュールが置かれた。
「僕も飲むから、よかったら付き合って」
バーテンダーはカウンターから出てくると腰に巻いていたエプロンを外し、椅子にドサッと投げかけた。そんなちょっと荒っぽい動作すらいちいち絵になる。
そしてショットグラスを持って窓際の席へ行くと、「こっちに」と頭を傾げるようにして窓際のテーブル席におれを促した。「あ、はい」
つい言いなりにグラスを持って移動する。なんだか操られてしまうな。
窓際のテーブル席は2人用で、真ん中にキャンドルが置いてある。「僕、ヒューゴ。改めて、よろしく」
ショットグラスを傾けてくるから、それに合わせておれもグラスを近づける。
さっきまでとは全く異なる、砕けた口調が心地いいな。「あ、トオルです。高屋透」おれのほうがなぜか丁寧語になってしまった。
「タカヤ トオル。トオル タカヤ……いい名前だね」とヒューゴは言い、グラスを一気に煽ってホッと息を吐いた。
「あの、もう仕事終わり?」
「うん。さっきのグループが帰ったときに、CLOSEにしてきたから」
「お疲れ様です」
「ありがとう。強引に引き留めたかもしれないけれど、大丈夫?」
「いや、おれももう少し飲みたかったから」
「よかった」
ヒューゴは囁くように言うと席を立ち、カウンターからボトルやライムを手掴みで持って戻ってきた。
なんだろう、さっきまでとは別人のような印象だ。バーテンダーの時は、悪い意味じゃなくアンドロイドのように完璧な……やや無機質な印象だった。 エプロンを外したヒューゴは生身の人間感がする。「いつも……」
「ん?」
くし切りにしたライムをかじってショットグラスを飲み干しながら、ヒューゴは横目でこっちを見る。
顎から長い喉に続くラインがシャープだ。食道を酒が流れたのか、喉仏がゆっくり動くのも見える。 おれも、こういうかっこいい飲み方できないもんかな。「いつも、閉店後は飲むの?」
「ここで?」
「うん」
「いや、ほとんど無い、かな」
「そうなんだ」
単純にこの特別感が嬉しい。まだ来店2回目の客だというのに。
「週末だからね。僕も飲みたい」
ヒューゴの前にあるのは見慣れないボトルだった。
「それ……テキーラじゃないよね?」
シンプルなデザインの小振りな瓶の中身は透明だ。
「これはウォッカ。スウェーデンの」
「へぇ。こういう飲み方するんだ?」
「ウォッカは、なんでもアリだよ」
「飲む?」
ヒューゴがショットグラスを差し出してくれたが、さすがにきつそうだ。
「今日は遠慮しとくよ」
「じゃあ飲みたいものがあったらなんでも言って。作るから」
なんだかすごくラッキーな日だな。しかし、もうクローズしているということは、
「あのさっき来た女性はスタッフさん?」と、おれは廊下の方へ視線をやりながら尋ねた。「妹だよ。親同士が再婚してね。ずっと小さい時だけど。人種が違うから兄妹には見えないでしょ」
「そうなんだ。もしかしたら奥さんかと思った」
「そういうことにしておく場合もある」
ヒューゴはおれの知らない言葉で店の奥に向かって何か言うと、ほどなくして妹さんが出てきて、「諒子です。よろしく」と手を差し出してくれた。
「透です。はじめまして」と握手を返す。
「逢えて嬉しい。さっそくだけど、明日の料理の味見してくれる?」
諒子さんはおれとヒューゴを交互に見て聞いた。
「もちろん!喜んで」
おれは真っ先に弾んで答えてしまった。
妹さんが厨房に戻ると、すぐにバターの良い香りがし始めた。「引っ越して来る前はどこに?いや、詮索するつもりじゃないけど」
ヒューゴがショットグラスを手で転がしながら聞いてきた。
「東京。でも中高の6年間はこの街に住んでたんだ。たまたま転職先がここになって」
「そうか、戻ってきたのか……」
「戻ってきたという感覚は全くないんだけどね。全寮制でほとんど学内から出てなくて、土地勘ゼロだから」
キッチンから諒子さんが何か言っているのが聞こえ、二人でそちらに顔を向ける。
「嫌いな食べ物はないかって聞いてる」
「おれは全くないよ」
ヒューゴは少し大きな声でキッチンに向かって返事をした。ものすごく低音なのに、空気がパンと張るような、よく通る声だ。
「それって、英語じゃないよね。何語?」
「ああ、ごめん。スウェーデン語」
おれは即座に納得した。道理で北欧全開な見た目なはずだ。
「でも、日本語に訛りが全くないよね」
「子供の頃はこっちで過ごしたから。親がスウェーデンに帰ることになるまで」
ヒューゴはテーブルに肘をついて手に顎を乗せ窓の方を向くと、何かつぶやいた。
聞き取れないけれど、スウェーデン語っていい耳障りの言葉なんだな。「ヒューゴの良い声とよく合ってる」
つい口をついて出てしまった。おれは急いで「歌手みたい」と冗談めかした。
ヒューゴは横を向いたまま、目だけをおれに向けてじっと見たかと思うと、ゆっくり瞬きをした。
昨日も思ったんだ。
その仕草をされると、とても優しい気持ちになる。諒子さんが試食にと出してくれたフードはどれもおいしく、見た目も華やかで。明日のパーティのゲストは必ずこの店に通うようになるだろう。
ヒューゴは「引越し祝いだから」とおれの支払いを固辞し、言葉に甘えるがままに奢られてしまった。
「よかったら……。いや、またすぐに来て」
「ん?もちろん、必ず来るよ!」
改めてここに引っ越して来てよかったとしみじみと思う。
「誕生日、おめでとう」ヒューゴが用意してくれた真っ黒なラベルのシャンパンで乾杯し、早速ケーキをつつきはじめる。「小林さんには、透のバースデーケーキを、とだけ伝えておいたんだ」溶け出しそうで溶け出さないギリギリのラインでとどまっているガトーショコラの隣には、クリスタルのようにきらきらと透明な光を反射しているフルーツのジュレ。「さっき、店まで持って来てもらっていてね、小林さんが『おまえらみたいなケーキにしといたから』って笑ってた」「このキラキラしたのはヒューゴの瞳みたいだから、ガトーショコラがおれ?」「んー?どうかな」デザートフォークにのせたケーキの上に、スプーンでジュレを掛けるとヒューゴはおれの口元に持ってきた。ほろ苦い濃厚なチョコレートは一瞬で溶けて、少し弾けるようなジュレと果物と混ざり合う。「んっっっっっま」「ジュレのシャンパンも、チョコレートもすごくいいものを使ってくれている。彼が僕らをどう解釈したかがよく分かるね?」「うん。見た目は違うけれど、一緒に食べると最高ってことだよな」少し減ったグラスにヒューゴはシャンパンを注ぎ足しながら、「それと、ありがとう透」と言う。「なにが?」「僕を好きになってくれて」「うん。これからも、よろしく」おれは照れてしまい、掲げたグラスで顔を少し隠した。好きにならないわけないと思うけどな。来年も再来年も、ずっと一緒に誕生日を祝ってほしいと強く願ってるよ。「……いいかな?僕たち、恋人同士ってことで」こそばゆい問いかけに軽く驚き、口に入れたシャンパンでむせそうになる。「ヒューゴってそういうこと言うんだ」「日本では付き合おうって最初に宣言するらしいとクリスから聞いた」「スウェーデンは違うの?」「ある程度経ってから確認するように思う。いつの間にか付き合ってる場合もある」「それ難しくない?どこからが付き合ってることになるの?」
ヒューゴのPC画面に、競技トラックの全景が映し出される。周囲はざわついていて、なにかの競技大会なのは明らかだ。カメラは徐々にズームし、何かを探すようにグラウンドをゆっくり移動し始める。見て取れるのは、走高跳、走幅跳、砲丸投、棒高跳……陸上のフィールド競技の大会らしい。そこで、「Hugo!」と突然大声が入っておれは思わず肩をすくめた。撮影者がマイクに近い位置で大声を出したせいだ。発音から、日本人でないことは明確だった。カメラが素早く右に向くと、グレーのパーカーを着た長身の男の子が着席しようとしているところだった。フードを深く被っているが、見事な金髪と、澄んだ青い瞳は隠しきれていない。「Don't」と短く制止する別の声。おれは絵に書いたような美少年っぷりをからかいたくなる衝動を抑えて、動画を静観することにした。「Don't shoot me」カメラのレンズを手で覆ったのか一瞬真っ暗になり、映像は再びトラックへと戻った。今よりも少しだけ高いトーンで端々がかすれているが、間違いなくヒューゴの声だ。画面に映し出される映像は、見る側への配慮はお構いなしにどんどん競技トラック上の各種目を映し出していく。「...there he is」撮影者がそう言ったところでカメラは止まり、徐々にピントが合わされていく。そこでは、棒高跳の競技が行われていて……ちょっと待て、この大会は……おれは突然、会場の熱気を感じるくらいありありと思い出した。たしか2回目は足がポールに微かに接触してギリギリのところで失敗したんだ。3回目は成功。映し出されている時はその3回目のはずだ。スタートラインへと向かう自分の顔から、緊張が見て取れる。カメラが再び右にパンされると、ヒューゴは顔の前で両手を組んで祈るように、トラックを見つめている。その横顔は、おれよりもずっと緊張した面持ちだ。映像はそのままヒューゴの横顔を映し出していたが、ワッと観客の歓声が上がる。
美味しいものをたっぷり食べさせてもらい、映画を見ながらうとうとしたり、近くで本を読んでいるヒューゴの雰囲気を感じたり。ゆっくりした時間が、体力面だけでなく、疲弊した気力をも徐々に回復させてくれる。心からリラックスできる週末が、やっと戻ってきた。なんて贅沢な3連休なんだ。猛烈な日差しが弱まった夕方頃、「ちょっと外で飲もうか」とバルコニーのガーデンチェアに誘われた。出されたのは赤ワインで、大きめのワイングラスに夕陽が反射してより赤々としている。「夕陽と赤ワインなんて、ヒューゴっぽい」「そう?」隣で、長い体躯をゆったりとガーデンチェアに投げ出し、全身を夕陽色に染めている男は軽くグラスを掲げた。「うん。似合う」いつもより薄いブルーの瞳が、とてもいいコントラストになっている。「さっき、ソースを作るのに赤ワインを開けたからね。残り物……あ、言うんじゃなかった」「ほんとだよ。せっかく良い方向に受け取ったのに。で、なんのソース?」おれが問うと、「シュニッツェルのイェーガーソースで」とヒューゴは居住まいを正した。詳しく説明してくれるようだ。イェーガーというのはドイツ語で狩人を指し、森で採れる野生のキノコで作るソースが元となったらしい。その他には特に決まったことはなく、生クリームを使用した白っぽいものから、デミグラスや赤ワインで作るブラウンソースまで多種類あるそうだ。ただし家庭やレストランではイェーガーアート、つまり『イェーガー風』と名付けられた料理はこのソース、と決まっていることが多いらしい。「僕は例外で、シュヴァインシュニッツェルはクリーム、リンダーなら赤ワインと、使い分けるけど」「シュヴー……ル?」よく聞き取れなかった。ははは、とヒューゴは大きく笑い、「ちがうちがう。シュヴァインのシュニッツェル、豚肉だ。リンダーは牛肉」「前に、ザッハトルテの時にも思ったんだけどドイツ語話せるの?」質問を続けるおれに、待った、と手で制止しながら目尻に涙を
リビングから差し込む明るい光は木の間仕切りで遮られ、アイボリー色のフローリングに本物の樹木のような影を作っている。せっかくの快晴だけど、さすがに今日は自転車は控えよう。暑さにやられた身体をこの連休で本調子に戻さなくては。おれは眠りについた時のままの態勢でふんわりとヒューゴに包まれて、SF映画でよく見る培養液に浸かっているクローン胎児みたいだな、なんてぬくぬくと思っていた。快適なのはおれだけで、ヒューゴの腕が痺れているかもしれないし、一回起きなきゃなあとは頭ではわかっているけど、ああ、動きたくない。眼の前で、逞しい腕が微かに金色に輝いている。その皮膚の感覚を実感したくて、腕にぐりぐりと頭をこすりつけると、「起きたのか」と耳元で囁かれる。「まだ」おれの即答に、後ろからくっくっと喉だけで笑う声。「いまなんじ?」なんだか顔を合わせにくい。いくら疲労がピークだったとは言え、さすがに甘えすぎてしまった。「んー、10時頃」そう言ってヒューゴはおれから離れて起き上がった。途端にエアコンの冷気を感じて身震いする。でもその寒さよりも、体温が消えた寂しさのほうがちょっと強い。まだ、行かないで欲しかったな。すぐにヒューゴは寝室に戻ってきてミネラルウォーターのボトルの蓋を開け、おれに手渡すと、自分はベッド脇に立ったまま水を煽った。その姿に、思わず目を剥いてしまう。「ヒューゴ、どうしたのその身体」元から筋肉があるのは知っていたが、なんだそのバキバキに締まった上体は。「なんかヘン?」本人は気付いてなさそうな素振りで、ボトルを持ったまま停止している。あ……痩せた、のか。「特に何もしてないけど」なんてとぼけているが……まさか、おれのことを心配して、食べてなかったなんてこと……「ま、おれの方が焼けていい感じだけど」薄っすらしか筋肉が見えない、た
成田空港に到着し機体から外へ出た瞬間、ねっとりとした夏の湿度が纏わりつく。気温はインドに比べると低いとはいえ、湿度の高い日本の夏は不快で、この1ヶ月で疲労がピークに達した身体に強烈すぎる。速水君は奥さんへのお土産として現地で買った純金のネックレスをしっかりと握り、空港から自宅へ直帰した。おれの方は、先に面倒な報告なんかを全て終わらせておきたく、そのまま出社することにした。どうも性格的に何か気がかりがあるときちんと休めないんだよな。携帯電話のことと、部長への報告と。「おれ、インドなめてたよ」昼すぎにオフィスに着くやいなや、おれは第一声でそう告げた。「ひゃー高屋さん日焼けしてる!あ、痩せた?」デザイナーの阿部ちゃんに指摘される。「飯は美味かったんだけど、暑いのなんの」体重の増減は分からないが頬が痩けたような自覚はあった。食ってはいたが、慣れない環境で心労もあり、身体が通常よりもエネルギーを消費したのだろう。まずは部長に帰国の報告をすると、納期が2週間延期されるのは確定で、先方からは特に苦言もなく協力してもらえたとのことだ。「高屋君、本当にごくろうさま。本番稼働したら盛大にお疲れ様会だね」とのねぎらいに安堵する。詳細についてはレポートに整理し、改めて報告すると告げて部屋を出た。その足で給湯室にお土産の紅茶を置いてから、携帯電話の手続きをするため一旦会社を出た。……今日は這ってでも店へ顔を出さなければ。話したいことがたくさんあるよ、ヒューゴ。駅前で携帯電話の手続きを終え、開通するまでの数時間は社に戻ってぼちぼちと旅費精算でもしよう。まず腹ごしらえにコンビニに立ち寄り、おにぎりを幾つか購入する。インドではホテルのルームサービスに満足できていたが、それとこれとは別だ。久しぶりの日本の米に浮かれ足ながら社屋へ戻り、エレベーターのボタンを押す。「あの……あの、すみません」ずいぶん控えめなトーンで声を掛けられた。振り向くと、なんとなく見覚えがあるような女性が少し困ったような顔をし
毎週金曜日は、透が夕飯を食べに来る日だ。喜んでくれそうなメニューを考えるのが楽しくて、コストパフォーマンスは度外視。そのせいで、金曜日はランチの材料も豪華で凝ったものになる。ちゃっかり気付いているお客さんもいて、金曜は固定のランチ客が多い。普段のランチ営業はアルバイトに任せているが、金曜だけは、夕飯の下ごしらえのついでに調理は僕が担当する。今週はシュヴァインブラーテン&クロース。ドイツ人の祖母から教わった、僕の得意料理の一つだ。——ドイツ料理は、最初に透が店に来てくれた日を思い起こさせてくれる。あの日は涼しい風が良く通って、まるでヨーロッパの夏の森のような爽やかな日だった。苔の青い香りと野鳥の声を思い出していると、どうしてもドイツ料理が食べたくなって、昼下がりのカフェ営業のさなか、こっそり調理していたんだ。いつもはサンドウィッチなんかで簡単に済ますから、自分用に温かい料理を作ることは滅多にあることじゃない。コロン、とベルの小気味よい音と共にドアが開いた瞬間。まるで凛と澄んだ湖に飛び込んだような、眩しいくらい白い光を感じて。何事かと驚いて振り向いたら、そこに遠慮がちに、でもしっかりと「あの時のキミ」が立っていて。何度でも、思い出す度に言葉にできないほどの幸運に胸が一杯になる。クロース用に乾燥させていたパンをちぎり、オニオンを刻む。ソテーしたポークは昨夜からスープに漬けてあるから、ナイフがいらないほどジューシーに仕上がっているはずだ。食べてくれる相手のことを想像しながらの料理の時間ほど、楽しいものはない。透は僕が作った食事をなんでも美味しいと言ってくれるが、特にヨーロッパの料理が口に合うようで、なかなか良い食べっぷりを見せてくれる。元が陸上選手だけあって代謝がいいのか、太る心配も無さそうで、食べさせ甲斐がある。それに、お腹を空かして店に来る透は、とてもかわいい。金曜の夜はたくさん飲むから、悪酔いしないようにしっかり食べさせないと。ランチタイムが捌けて、バータイムまでのんびりと店で過ごす。