梅雨の足音が聞こえてきそうな6月の金曜日、おれは東京を離れ、中学・高校の6年間を過ごした地方都市に引越した。
通っていた学校は、各種のスポーツにおいて強豪として名高い私立の中高一貫校で、おれは棒高跳びを主種目とした陸上選手として遠方からの推薦入学だった。
自分を含むスポーツ特待生は大半が県外出身者。完全寮生活と多忙なトレーニングで自由時間など皆無で、学校外のことはほとんど知らないまま、東京にある付属の大学にエスカレーターで進学した。 それ以来、この土地を訪れる機会は無かった。それゆえ、”戻ってきた” という感覚にはイマイチなれないものの、転職活動中に見かけた古知の地名に、親近感のような、なにか惹かれるものがあったのは確かだった。
独身男の荷物量なんてたかが知れたもので、引越し業者は昼前には引き上げていった。
あとは細々とした小物が入った段ボールが数個と書籍類が残っているだけだ。ざっと掃除機をかけてから財布と携帯だけをポケットに入れて、愛車のロードバイクを部屋から出す。
寝床と仕事道具さえ出しておけば月曜の出社には困らないから、残りは暇を見つけて、ぼちぼち片付ければいい。 なにしろまだ金曜日だし、せっかくの有給を部屋の片付けだけで潰すのは惜しい。学生時代に友人に進められてロードバイクを始めてからそろそろ10年。ポタリングからキャンプまで、今では欠かせない相棒だ。
今までは都内の狭い賃貸で、自転車はベランダが定位置だったが、新居にはガレージのように使える自転車専用の部屋を用意した。これから天候や夜間を問わず、好きな時に自転車いじりができる。タイヤの種類を交換したり、微妙な位置調整なんかも。 2LDKのマンションに一人暮らしなんてやや贅沢だろうけど、おれも今年で30歳で、そろそろ 寝に帰るだけの部屋を卒業し、プライベートな時間も大切にしたい。ロードバイクを片手で担ぎ、自室のある3階から1階まで階段を使う。さほど広くないエレベーターに自転車を乗せるのは気が引けるから、部屋選びの際に階段が使える階数を選んでおいた。建物自体は12階建てで、最上階にも空き部屋が出る予定とのことだったがさすがに12階を階段で上り下りするのはつらい。見晴らしの良さに、かなり後ろ髪を惹かれたが。
外階段からマンションのエントランス前に出て愛車に跨り、スマートフォンをホルダーに固定する。MAPアプリには会社の住所を目的地として設定してある。
週明けからは、念願の自転車通勤。 息の詰まるような——実際に詰まって倒れる人もいる——満員電車とは、もうこの引っ越しで縁を切った。アプリが表示する最短ルートによると会社までは自転車で約15分。とりあえず指示に沿って漕ぎ出す。
自宅マンションがある住宅街を抜け、東西に伸びる大きな街道に出る。それを西に向かって直進すると、10分足らずで駅周辺まで到着した。
街道には自転車専用レーンがあり、上手くスピードに乗ることができたが、出勤時は渋滞に備えたルートも探しておいたほうがいい。経験上、ラッシュ時の自転車専用レーンはバスや停車中の車でふさがっていることが多い。この街は駅を中心としたドーナツ上に計画されているらしく、駅を取り囲むように高層の商業施設群があり、その外周に中層のビルが立ち並ぶ。
さらに外側になるにつれマンションが混ざり始め、円の一番外側は一軒家の多い住宅街となっている。 夜に上空から街を見下ろしたなら、雨が降る前の晩の月みたいな、ぼんやりした輪になっていることだろう。そういうわけで、今回の新居を決める時には、会社から円の外側となる住宅街側に直線を伸ばした辺りに目星をつけた。
自転車通勤は居宅と駅までの距離に縛られないから、家賃面でも住環境でもメリットがある。そのまま社屋周辺をぐるりと回って自転車置場を確認する。屋根付きで、かつ車輪止めがあるためアースロックが掛けられて安心だ。
帰りは、来た時に通った街道ではなく、MAPアプリを徒歩設定に変えて出てきた経路を試してみようと、そのまま社屋裏手の小道でペダルを家方向へ進めた。渋滞対策でもある。それに、自転車の場合、徒歩経路のほうが交通量が少なくて走り易く、結果的に早く到着することがよくある。
ただ、徒歩設定だと階段や歩道橋が出てきてしまうから下調べは必要だ。どうやら、こちらの経路の方が正解だったようだ。道は細いが、車通りが少なくて大変に漕ぎやすい。
特に急ぐわけでもないからポタリングを兼ねてのんびりと漕いでいると、突然、目先の空が開けた。たどり着いてみると、道路側に生い茂る植え込みの傍に遊具と藤棚が見えた。少し遠くには大木が何本もそびえている。それらを左に見ながら沿道を進むと、池やベンチが見えてきた。思ったよりも規模の大きい公園だ。
そして右手側には、どれも邸宅と呼ぶ方が相応しい豪邸ばかりが建っている。いい場所には、良い家が建っているもんだな、とつくづく思う。公園散策に有給の午後をあてるのも悪くない。
一旦どこかで昼食を取って、コーヒーでも買って戻ってこようか。 と、会社があるオフィスエリアの方へ引き返そうとしたその時、やや前方の角に、石造りの洒落た建物があるのが目に入った。 周囲の豪邸と比べるとこじんまりとしているがずいぶん本格的に欧風で、どしんと重そうな年季の入った石壁が古城のようだ。 公園の木々とその建物だけを切り取ってみれば、誰もここが日本だとは分からないかもしれない。 なのに、周囲の住宅と不思議とうまく混ざり合って違和感は無い。近づいてみると年季が入っているように見えたのは石壁にびっしりと蔦が伸びているためで、建物自体はさほど古くなさそうだった。石壁からは公園の小径に向かうように、おなじ石の階段が数段伸びている。
まるでヨーロッパの童話本にある挿絵のような風景で、ちょっとした異空間だ。
写真を撮りたいが民家だとマズイよな、と躊躇しながらも近づいてみると、階段元に ”OPEN” と書かれたスタンド黒板があった。「店か!」とつい喜びの独り言が出てしまう。
店舗ならおそらく写真を撮らせてくれるだろうし、それにこんな素敵な外観だもの、もちろん中も気になる。
しかしこんな閑静な住宅街で、一体何の店なんだろう。駅から徒歩で来るのも厳しそうだが。 黒い格子のはまった窓ガラスが見えるが、公園の木々が鏡のように映り込んでいるせいで中の様子は伺えない。ドアへと続く階段脇にはちょっとした駐車スペースがあり、おれは自転車を邪魔にならないようできるだけ隅において、改めて階段に向かう。
上がりきると、黒茶色の重厚なドアと、その横には背の高いランタンが2つ置いてある。正直、何の店かも分からず入るのは勇気がいる。美術ギャラリーのような専門店だったら場違いすぎるし。
もしそうなれば外観の写真だけ撮らせてもらってお暇しよう。 ま、なるようになれ、だ。重厚なドアには真鍮の取手があり、握るとカチャリと小さい音がしてアンロックされたことがわかる。
そのまま引くと、見た目通りどっしり重い。 ちょうど身体が入るくらい扉を開けたところで、コロン、と小さく鐘が鳴った。「いらっしゃいませ」
低く、よく通った声が身体にズンと響く。声の矢に身体を貫かれたような衝撃だった。
反射的に顔を上げて更に驚いてしまう。スラリと背の高い白人男性がにっこりと微笑んでいる。白いシャツに黒いロングの腰エプロン、オールバックにした金色の髪。
この建物にあまりにマッチした容姿で、ジェットコースターのように急激に現実感が薄れて行く。 ……ここ、日本だよな……?「空いているお席にどうぞ」
男が全く訛りのない日本語で促してくれ、ハッと我に返る。
言われるがままに周りを見渡すと、カウンター席と、窓際にはテーブル席がある。 最初に目に入ったカウンターの一番奥に向かうと、「どうぞ」とスツールを回して着席を促してくれた。 カウンターの背後には整然とボトルが並べられており、おそらくバーのようだが、コーヒーの香りが微かに鼻孔をくすぐる。この時間に営業しているからにはカフェバーなんだろう。 分厚いカウンターテーブルに、弾力のあるスツールが座り易い。朝から何も食べていないおれには渡に舟ではあるものの。雰囲気や立地を鑑みると、少々高い店かもしれない。
いつのまにカウンターの内側にいたのか、金髪碧眼の男は水やおしぼりを手早くおれの前に置き、メニューを手渡してきた。「ようこそ」
囁くような声なのにビリビリと鼓膜が震え、少しだけ戸惑いながら顔を上げると、正面からまともに目が合った。ずいぶん端正な顔立ちだが、微笑みが優しくて温かみが感じられる。
髪は長髪を後ろで結んでいるようで、オールバックが完璧なシンメトリーの顔を際立たせている。 ギャラリーかと予想したのはあながち間違いじゃなかったな。芸術品みたいな容姿の人間がいるなんて。バーテンダーが少し小首を傾げているのに気付き、おれは凝視してしまっている不躾さを恥じた。あわてて視線を外してメニューを開く。
全く心構えなく飲食店に入ったこともあり、目が滑って内容が全く頭に入ってこない。 言葉が分からない旅行先のレストランに来ているのかと錯覚しそう。 いっそ、尋ねてみるか。「あの、食事って、できますか?」
「はい、ランチがまだあります。今日はイェーガーシュニッツェルですが、いかがですか?」
「それって、」
恥ずかしながら初めて聞く料理だ
バーテンダーは料理内容を丁寧に教えてくれた。まったく訛りのない日本語から予想するに、おそらく日本育ちだろう。低く、落ち着いたトーンで、話の内容がスッと頭に入ってくる。
イェーガーシュニッツェルは仔牛肉をよく叩いて薄くしたカツに、キノコ数種類をグレービーと生クリームで煮込んだソースが掛かっているようなもので、ドイツの定番料理とのことだった。 ただしこの店では仔牛ではなく、より入手しやすい豚肉を使用しているとの断りが添えられた。確かに、仔牛だと気軽にランチとはいかない値段になるだろうな。 とにかく、美味そうじゃないか。料理が来るまでの間、カウンターから振り向いてゆっくり店内を見渡す。
窓際には4人がけのテーブル席が3つ。窓のない方の壁は天井までびっしり本が詰まった棚が造りつけられていて、その横には奥に続く廊下が見える。しかし赤いロープが張られ立ち入りはできないようだ。
あとはおれがいるカウンター。 全体的にシックな深いトーンで、映画で見るような海外の古い図書館を彷彿とさせる。店内の観察が終わって、再びメニューを手に取った。
ようやく気持ちが落ち着いたのか、今度はまともに内容が把握できる。 19時からはバータイムで、つまみ類がいくつかとスイーツも記載がある。夜もカフェ利用ができるんだな。 酒はウイスキー、ブランデー、テキーラなどが数種類。カクテルやワインは知っているものも、知らないものも。住宅街のカフェバーか。まさに、隠れ家的な店だな。
これまで独りで呑みに行く習慣はなかったが、こういう静かな場所をお気に入りのお店として持っておくのは大人の男のようでとても憧れる。——なんて思う時点でまだ大人になりきれていないか。「お待たせしました」
滑らかな声に、反射的に顔をあげる。
皿からはみ出す大きいカツに、キノコがたっぷり入ったベージュ色のソースが浸るほどかかり、その横には薄切りのじゃがいもを炒めたものが山盛りになっている。サラダの小鉢も一緒に。「ボナペティ」
皿を並べ終えたバーテンダーはそう言って微笑むと、少しの間おれの目を真っ直ぐ見てから、ゆっくりと瞬きした。
それが驚くほど優しい表情で、また見入りそうになってしまう。
「え、あ……ありがとうございます」
つい呆けた返事をして、おれはとにかく目の前の料理に取り掛かった。そうか、パンやライスじゃなくこのじゃがいもが主食になるのか。普段はカツといえば米だが、この料理には断然じゃがいもが合う。カリカリに炒められたベーコンと玉ねぎが主張しない程度に入っていて、とてもコクがある。じゃがいもの端の少し焦げたところと、シュニッツェルのクリスピーな衣がキノコのソースと混ざりあうと、途端にクリーミーになるのがいい。
おれは初めて出会う美味さに夢中になってしまった。
こんな美味い店を発見できたなんて、自転車通勤に大感謝だ。多少高くったって構うもんか、とおれはすでに再来を決意していた。ある程度食べてひと呼吸しようと水を飲んでいると、カウンター越しにバーテンダーと目があった。
もしかしてがっついてるの見られていたか。「当店は初めて、ですよね」
グラスを拭きながらバーテンダーが聞いてきた。
「あ、はい。今日引っ越してきて」
「そうでしたか」バーテンダーはグラスを置いて「片付けは終わりましたか?」と続けた。
「今日の寝床だけはなんとか。でもせっかくの有給なので、今日はもうやめて明日に持ち越すことにしました」
「いい決断ですね」
水色の瞳が柔らかく細まる。残りの食事を平らげ、美味しさの余韻に浸っていると、カチャリ、とコーヒーカップとデザートが載った皿が前に並べられた。
「サービスです。疲労回復にどうぞ。コーヒーはおかわりできますから。時間が許す限り寛いでいって」
一口すすると、香ばしさが身体に染みる。深煎りで美味い。
デザートは表面に焦げ目がついたプリンのような見た目で、こちらもカラメルがほどほどに苦くて調和がとてもいい。 疲れが溶け出していくようだ。1度コーヒーをおかわりして、気がつくと結局3時間近く経っていた。
おれの話し掛けに、落ち着いた声で返ってくるカウンター越しの言葉が心地よく、去りがたさを感じてついついダラダラと寛いでしまった。会計を済ませ、自転車のロックを外していると、コロンと小さく鐘の音が鳴ってドアが開いた。
バーテンダーはわざわざ傍らまで降りてきてくれ、 「よかったら、明日も息抜きに来て」と店の名刺を差し出し、ふんわりと微笑む。 これが営業スマイルだとすれば相当なもんだ。「来ます!あ、あと、食事すごく美味しかったです」とおれの方はお世辞抜きで応え、ロードバイクにまたがった。
漕ぎ出した瞬間に「あの、」と小さく聞こえたような気がして振り向くと、階段下に立っていてこちらを見ているバーテンダーと目が合った。おれは手をあげて、「また明日!」と声を掛けて、そのまま帰路についた。
忘れ物でもあれば、明日受け取ればいい。むしろ、連続して訪問するためのいい口実じゃないか。最初に心配していたランチの価格は懸念で終わり、毎日とは言わないが平日にも通える価格だった。ただし、1時間の昼休みじゃもの足りないよなぁ。居心地良すぎて。
なにより、あのバーテンダーの醸し出す優しげな雰囲気にすっかり癒やされてしまった。秋も深まった11月。その夜は、ヒューゴの誕生日を2人きりで祝い、シャンパンが無くなるのを待ちかねたように、ベッドになだれ込んだ。いつもにも増して、長くとろけるような愛撫を与えられ、この後に起こることを期待しておれの身体はじくじくと熱くなる。毎週末の逢瀬のごとに乳首を蹂躙され、その射精を伴わない長い絶頂の最中にヒューゴは1本2本と指を増やしておれの内側に強烈な快楽を教えていった。覚悟していたよりも早くに慣れていく自分の身体が怖かったが、それにも増して喜びが大きかった。乳首から脳がどろどろに溶けるほどの快感を与えながら、ヒューゴはおれのものをぬるりと咥え、後ろにも指をそっと挿入する。2本目の指が入ってきた瞬間、少しだけ射精してしまう。「なんて身体してんの」「おまえの、せい、だろッ」もっと、とねだったのはおれだが。「才能だと思うけどね」ぜえぜえと全身で呼吸を整えるおれを尻目に、ヒューゴはからかうような笑顔で横臥し、余裕綽々だ。「苦しい?少し休憩する?」口ではそう言いながら、覆いかぶさってくる。「続けて……」「うん。透の身体も、僕を待ってるみたいだ」再びつるりと指が入れられ、またぞくぞくと電流が腰に走る。気持ちいい場所すべてを同時に責め立てられ、何がなんだか分からない状態に、目を閉じてただ身を任せる。「透。こっちを見て」目を開けると、荒い呼吸で上体を微かに上下させながら見下ろしている鋭い瞳とぶつかった。おれの足は大きく広げられ、尻にはヒューゴの脛が差し込まれている。絶対に足を閉じることも伸ばすこともできないようにしておいて、ヒューゴはぐいと自分のそそり立ったものを掴み、先端をおれの方へ向ける。雄々しく輝く瞳に見据えられ、ぞくりとする。「おれの中、ヒューで満たして」そう言った瞬間に内部を広げていたヒューゴの指がずるりと引き抜かれ、衝撃に悲鳴を上げてしまう。「うあ、あ、」間髪入れ
目覚めて最初に視界に入ったのはヒューゴの首元だ。エアコンが効きすぎた部屋で温かいものに包まれての目覚め、やっぱり最高。身じろぎすると、「起きた……?」とヒューゴの声がじんわり染み、その甘さに思わず目をギュッと閉じてしまった。金色の獣はふっと笑っておれの耳を唇でくすぐる。ああ、もうそれだけで……「まだ残ってる……?」「ちょっと怖い、自分が」「でも、すごく気持ちよさそうだったよ」「うん」おれが即答すると、「good boy」とヒューゴはおれのこめかみに軽く口付ける。「じゃあ……まだ夕方までたっぷり時間はあるし」ヒューゴはおれの胸に顔を埋め、初めて、手を下半身へ伸ばした。乳首をゆっくり舌で弾かれながら、掴んだ手で上下に扱かれると、すぐにおれはよく知る感覚に襲われる。ヒューゴは動きを止めて、ジッとおれを見ると、「どうする?」と低く囁く。その声があまりに色っぽくて、おれは我慢できずに、はやく、とねだるしかなかった。ヒューゴはおれの瞼にキスをして「きれいだよ、透」と言ってくれる。身体がまた仰け反って、ビクビク跳ねる。あ、出る……その瞬間、ヒューゴはおれのをギュッと掴んで射精を止めてしまう。でも、絶頂間はそのままで……さらに乳首に歯を立てられ、また強烈な快感がやってくる。それでも手を離してくれず。何度も追い詰めれて、その度にいかせてくれと懇願した。なのに、このもどかしくて気が狂いそうな感じもすごく良くて。終わりたくない。もっとおれを壊して欲しい。ヒューゴはそんな状態をまるで百も承知かのように、懇願を聞き入れてくれず、吸って、擦って、止めて、口付けて……おれのアタマとカラダを強引にコントロールする。おれは絶頂手前の永遠に続く快楽の中でヒューゴのそれに手を伸ばした。「透、僕はいいから&h
ヒューゴは後ろ手に部屋のドアを閉めると、おれを玄関の壁に押さえつけて、貪るようなキスをしてきた。「ようやく2人きりになれた」耳元で熱く囁かれたせいでその場で座り込んでしまいそうなり、「嬉しい反応してくれるね」と笑われた。「昨日……おれになんかしただろ」ただでさえ8月半ばの熱帯夜なのに、キスで余計に体温が上がり額に汗が流れる。それさえもヒューゴは舐め取ってしまったが。「とにかくシャワー浴びよう。暑い」腕を掴んでおれを引き起こすと、すぐにヒューゴはおれのシャツを脱がせ始めた。全く同意だ。湿度が高いせいで、バーで付いたタバコの煙や酒の甘ったるい匂いが汗と共に纏わりついたまま取れていない。このまま寝るのなんて論外で、部屋に入るのも気が引ける。温度の低いシャワーで落ち着き、寝支度を済ませたおれたちは、並んでベッドヘッドに背をもたせかける。ヒューゴはタブレットを持ち、なにか検索している。まだ寝るつもりはないようだ。おれの方も、昼間に精力を使い果たした上に、いつもより強いアルコールが入っているにも関わらず、気が高ぶっているのかまだ眠気は遠くに居る。生来の夜型らしく、油断するとすぐに昼夜逆転してしまう。今回然り、いつも長期休暇の最初には、早寝早起きを誓うんだけど、守れた試しがない。一人でリビングに移動し映画を観るなり飲みなおす手もあったが、せっかくだからこのままヒューゴの傍に居ることにした。夏季休暇が終われば、一緒に眠れる夜は週末だけになってしまうから。「なに?」ヒューゴが含み笑いをしながら、こっちを向いた。「ん?」「ずっとこっち見てるから」あ、そうだったか。「見ておかないと、あと5日で夏季休暇が終わるから」「かわいいこと言うよね、たまに」ヒューゴはこめかみに軽くキスをして、またタブレットに向き直った。おれは、ナイトテーブルの上に置いてあった携帯に充電ケーブルを挿しながら、「そう言えば」と切り出す。
夢のような3連休だった。透は明日から出社で、しかも長引いた出張のせいで業務が溜まっているらしい。食事を用意しておくからと、どんなに遅くなっても店に寄るよう約束させ、僕はしぶしぶ透を家に送り届けた。マンション前に車を停めて、少しだけキスを交わす。今までで、一番帰したくない夜だった。エントランスに消える透を見届け、その足でクリスの店へ向かった。透と連絡がとれなくなってからの僕を親身になって心配してくれていたから、突然平日に店を訪れた僕を見るなり、クリスは不安気な顔を作った。「ダイジョウブ?」「ああ。心配かけた。透が、戻ってきたよ」音信不通事件の理由を説明し終わると、クリスの顔に安堵が広がる。「怪我がなくて本当によかった」僕も深く頷いた。「それとは別に……とりあえず一番良いシャンパンを」注文と僕の顔を見て、この古い友人はすぐに思い当たったようだ。今夜ばかりはポーカーフェイスではいられない。「まさか!全部話せよ!」と僕につられたのか満面の笑みだ。クリスは上機嫌になり、踊るような滑らかさでシャンパンをグラスに注ぎカウンターから出てくると隣に腰掛けた。今夜は友人として共に飲んでくれるのだろう。僕はスツールの上で軽く居住まいを正した。クリスはだれよりも早く、僕と透のことを知る権利がある。「合鍵を交換して……キスをした。信じられないだろ?透から告白してくれたんだ」「おめでとう。心から」クリスの祝辞に合わせて僕らはそれぞれのシャンパングラスを掲げた。一口飲んで、それがありえないほど良いものだとわかった。尋ねても頑なにボトルを見せてくれないが。「まさかヴィンテージか?」「できたての恋人のために半分残しておきなよ」「あまり驚かないんだな」「トールがあんたに好意を寄せているのなんて、一目瞭然だったでしょ」「そこまで自惚れちゃいねえよ」「おでこにキスされただけで耳ま
遠くで雷鳴が聞こえる。小雨になったものの、不安定な大気は続いているようだ。台風でも来ているのかもしれない。ベッドでごろごろと寛いでいたが一度起き上がり、寝室の窓のブラインドを全開にした。山の斜面に建っているマンションは周辺では一番高さがあり、窓からは、空も市街地も見渡すことができる。それに気付いたヒューゴが、リビングで灯していた小さなキャンドルだけを残して照明を落とし、「雷鑑賞か」と言いながら寝室にやってくると、おれの隣で肘を立てて頭を支えながら横臥する。「あ、光った」細い閃光が空から地上に突き刺さる。ヒューゴは、仰向けのまま窓の外を見ているおれの頭を撫でてくれる。髪をすくうように往復する指先が心地良い。しばらく無言のまま、雷光でフラッシュのように白む空を眺める。頭からじんわりと伝わる温もりに癒されながら。「疲れてる?」「いや、とてつもなくリラックスしてるよ。まだ休みはあるし、おまえが傍にいるし」髪をすくうヒューゴの手に自分の手を重ね、長く筋張った指を撫でた。「透」とヒューゴは小さくおれの名前を呼んだ。「少しだけ、触れてもいい……?」そう耳元で囁かれ、一瞬でカッと身体が熱くなってしまい思わず目を瞑ると、ヒューゴはゆっくりおれに覆いかぶさってきた。腰が触れ、背中に戦慄が走る。「言っただろ、なにをしてもいいって」「少しずつ、ね」ヒューゴは腕をついておれを見下ろしたままで微動だにしない。窓から雷光が差し込み、青い瞳の奥がシルバーに輝く。吸い込まれそう。「透はとてもきれいだ」「全部おまえのだよ」おれがそうささやくと、ヒューゴは照れたように優しく微笑みキスをしてくれる。でもすぐに離れてしまい、おれは広い背中に腕を回して引き寄せた。遠慮と情熱のそれぞれを持て余して悩むヒューゴは魅力的だ。どうにでも好きなようにできると知っているのに。軽く口を開くと熱い舌がおれの舌を絡め取る。今夜のキスは、いつもより柔らかく、
ヒューゴは夜明け頃に焚き火を起こしたようで、おれは半覚醒の中まどろみながら、時折目覚めては、チェアで寛いでいるその姿を見ていた。渓谷に細く降り注ぐ朝日の中にいるヒューゴは、怖いくらいに美しかった。朝日に光る川の小波と、光の届かない暗い岩間の両方をそのまま身に纏うように鋭く暗く輝いている。水の精霊の化身だと言われても納得しそうなほど、人知を超えた魅力がある。まったく、どこにいても絵になる男だな。いつまでも鑑賞していたいが、今は教会で宗教画を眺めているのではなく、河原でキャンプ中だ。日差しが強くなる前に起床せねば。朝食は、昨夜のBBQで残しておいたステーキ肉を使ったホットサンドウィッチだった。コーヒーはヒューゴがアルミのボトルに入れて、川の水で冷やしてくれていた。天然のアイスコーヒーだ。「今日は何する?」サンドウィッチを頬張るおれにヒューゴが尋ねてくる。肉とチーズの他に缶詰のベイクドビーンズが入っていて、それがなんとも言えないアウトドア風味を出している。最高に美味い。「ゴーグル買ってきたから、水の中で魚を見たい。予定はそれだけ」「魚を獲ってみるのは?」「釣具買ってきたの?」「いや、手掴み。僕のやり方が日本の魚に通用するか試したい」「面白そうだな」「捕れたらお昼は魚を食べよう」朝食を食べ終えたおれたちは河に入り、膝より低い水位でゴツゴツと岩が突き出た浅瀬へ、そーっと移動する。料理のできないおれにとっては、生の魚を触ることからもう初めてだ。「あっ」少し大きな声を出してしまい、ヒューゴにシーっと注意される。ビャッと足元で素早く動くものが岩の下へ潜り込んだんだ。「岩の下に手を入れて、魚に触れたら、腹側をそっと何度か撫でる。魚が動かなくなるから、そこを両手で掴む。やってみて」魚の影が入り込んだ岩の下にゆっくり両手を入れて探る。手に、ぬるりとして張りがあるものが触る。ヒューゴに教わった通りに腹をくすぐるように撫でると、たしかに魚の動きが止まった。いまだ!と両手で