Home / BL / おいしいじかん / 酔えない男と酔いつぶれた男

Share

酔えない男と酔いつぶれた男

last update Last Updated: 2025-06-30 19:00:32

月曜日。

新居からの初出勤は快晴に恵まれ、爽やかな漕ぎ出しだ。

転職先は、自社で開発したアプリケーションが成功し、とある業界のスタンダードにまでなった実績あるソフトウェア開発会社だった。過去形なのは、開発部門を早々に子会社化し、今の母体は企画や営業中心のコンサルタント会社だからだ。

子会社と言っても名目上だけでビルも同じ。別フロアに開発部隊が居る、という感覚だ。

名刺の上ではおれの役職はコンサルタントだが、実際は自社アプリのプロジェクトマネージャーだ。顧客のニーズに合わせたカスタマイズをしたり、内部と外部の開発会社との調整をしたり。

前職場では開発部門のリーダーで、一応は次の異動でプロジェクトマネージャーになる予定ではあった。しかし、配属される予定だったチームの責任者とメインの開発者のどちらも休職中、という地獄のような状況で。

顧客からの頻繁な仕様変更と、毎月の契約更新のたびに費用面で難癖をつけてくることが原因なのは明らかだったが、課長にかけあってみても「まあ修行だと思って」以外の返答はなく——元々なんとなく転職活動を始めていたおれにとって、退職の良い理由にはなったが。

『会社よりも「人」で選べ』新人の時に担当チューターだった先輩の言葉だ。

先輩はすでに転職していたが、在職中からたまに飲みに行く関係で、今でも仲良くしてもらっている。

おれが転職を考えていると打ち明けた時、先輩は真っ先にそう言った。それがとても印象的で、帰り道何度も頭の中で呟いたのを覚えている。

その言葉通り、転職活動では人を尊重するという当たり前のことが浸透しているかどうかを重視した。

結果、引っ越す価値があるほどの良い職場に出会えたと思っている。

いきなりのマネージャー枠での中途入社だが、チームメンバーからの純粋な力添えのお陰で円滑にやれているし、なんと言っても職場の雰囲気が明るい。

メンバー同士がリラックスして働いていて、コミュニケーションも活発だ。

ある日、正午を過ぎてそろそろ空腹を感じ始めたころ、職場付近の美味い店の話になった。各自それぞれお気に入りがあるらしく、名前が出た店舗を記憶しておく。

「高屋さんはもう美味しい店、見つけた?」

開発の速水君が話をふってくれた。

「そうだなあ……」なんてさり気なさを装ってみたが、おれはとっくに決めていて、「ちょっと離れてるけど、大きい公園の……」

「かっこいいガイジンさんがいるところでしょ!」

おれが言い終わるより先に、チームメンバーでUIデザイン担当の阿部ちゃんという女性が身を乗り出してきた。

「そうそう。行ったことある?」

「もちろん!どこかのブランドのモデルみたいなの!」

今年新卒で入った近森君は「へえ、そんなにイケメンなんですか」と、こっちは行ったことがなさそうだ。

「明日のお昼、みんなでどう?」

かなり期待をこめて言ってみるが、阿部ちゃんはつまらなさそうな顔をして、「いいけど、お昼はいないんですよ、その彼」とのことだ。

「え?そうなの?」

「お昼はアルバイトがやってるみたいで、遭遇率低いんですよ。でも夜は必ずいるはず。うちは子供が小さいから、まだ数回しか行けてないけど」

「そうか、残念だな。こないだの週末さ、遅めのランチに行ったんだけど、すごく美味しかったから」

「どうせならみんなで夜行きませんか?今のプロジェクトが落ち着いたら」

近森君からの提案だ。

なるほど。

「そうだね。打ち上げってことで。あ、いいのかな?最近飲み会に誘うとダメとかあるでしょ」

「部下から誘う場合はアリなんじゃないすか?」近森君が軽やかに言う。

「私も日時決まってる飲み会なら行きやすいし、そうしましょうよ」

家庭がある阿部ちゃんも乗り気だ。

「じゃあ、そうしよう。納期が…あと3週間か」

「がぜんヤル気が出てきました」

そう言ってデザイナー女子と近森君は笑い合う。いいチームだな。

おれは打ち上げをモチベーションにして、差し迫る納期に向けて黙々と仕事を進めた。残業は少ないが、外注先の海外ベンダーが土曜は出勤日のため休日返上だ。

それでも、朝は川沿いにあるサイクリングロードに寄ってからから出勤したりと、少しの気分転換はできていた。

ただ、週末の時間の無さのせいで、あれからヒューゴの店を再訪できていないことだけが残念だった。

3週間後——プロジェクトは検収も無事終わり、打ち上げの日程を決めたくチーム内にメールを回すと、嬉しいことに全員が参加することになった。

メンバーの希望は翌週の金曜日で、週末を希望するとはみんな飲む気満々なんだな。

おれは部長に許可を取って、チームのプロジェクト費から打ち上げの費用も確保した。転職して最初のプロジェクトにしては納期も品質もOK、幸先の良いスタートだ。

その日は定時で会社を飛び出し、ヒューゴの店へ向かった。

とにかくこの3週間の疲れを癒やすべく、店で落ち着いて酒が飲みたかった。あと肝心な打ち上げの予約と。

最後の週末以来、すでに1ヶ月ほど経ってしまっているから、ふいに来た客のことなんてもう覚えてないかも……な。と少し不安になりながらも自転車を向かわせる。

重い扉を引くと同時に、コロン、と低く鐘が鳴ってヒューゴが見えた。

「いらっしゃ……」

「こんばんわ」

一応笑いかけてみた。覚えてるかな。

「トオル!」

目が合うとヒューゴが名前を呼んでくれる。

よかった、覚えててくれたんだ。

店内のお客さんがみんなこっちを向いてしまって恥ずかしかったけど。ヒューゴも自分の声が大きかったことに気がついたのか、少しバツの悪そうな顔をして肩をすくめていた。

カウンターに一つだけ空いていた席につき、モスコミュールを頼んだ。平日なのに結構な繁盛だ。

飲みながらヒューゴに、来週の金曜日に5名で来てもいいか確認すると、二つ返事でOKだった。予算をベースに簡単に内容を相談していると、

その夜は混んでいたせいか、会話は少なかった。

うーん、やっぱり覚えてないのかな。まあそもそも今日が3回目なわけで、そりゃ事務的な接客で当然だろうけれど。名前を覚えていてくれたのはさすがに客商売のプロなんだろう。

「食事、お願いしてもいいかな?」

「もちろん」

軽く微笑んでヒューゴはキッチンに消えた。

テーブル席は2つ埋まっていて、カウンターにも女性客しかいない。ヒューゴが見えなくなってから、途端に女性客の士気が下がったのが目に見えてわかるのが面白い。退屈そうにタバコを吸い始めたり、お代わり持ってきてもらお、と言い合って一気に飲み干す女性たち。みんな可愛らしいなあと思う。

ヒューゴはカリカリに焼けたチキンが乗ったサラダを出してくれた。トマトも、キュウリも新鮮そうに輝いている。

「美味しそう……」思わず呟いてしまった。

ヒューゴは飲み物を運ぶ以外はずっとカウンターの中にいて、グラスを拭いたり、手元を片付けたりしていた。忙しそうではあるが、その動きは優雅で、見ていると面白い。

手の動きを止めずにカウンターにいる他の客と数言交わしたり、時折テーブル席へ呼ばれたりするが、ヒューゴはほとんどずっとおれの向かいに立ってくれていた。

しかし、いろいろと話しかけてみても、「そうなんですね」「なるほど」などとよくできたアンドロイドのような性格な相槌しか返ってこず。

その対応は、1ヶ月前に二人で飲んだのが幻だったかのように事務的で、砕けた感じは一切無かった。

表情は柔らかく終始微笑んではいるけれど。それが余計に壁を感じさせる。

なんなんだ、先日とのこのギャップ。

それでも食事は大変美味しく、特にチキンソテーに掛かっていた柚子風味のドレッシングが爽やかでたまらなかった。おれはレタスの一欠片も残さず平らげ、食後にコーヒーを頼んで一息ついた。

店内はテーブル席に女性2人連れと、あとはカウンターにも2名の女性が残る。

圧倒的に女性率の高い店だ。ま、このバーテンダーの美貌じゃ、仕方ないか。

コーヒーを飲み終え、席を立つと「もうお帰りですか?」と声をかけてくれる。

おれは、急いでカウンターから出てこようとしてくれるヒューゴを制止して、「うん。また金曜日に」と笑顔で去った。

後ろから、ボソリと、「待ってる」と言うのが聞こえたような気がしたが振り向かなかった。

先日のもてなしで特別感を感じられて、ちょっと調子に乗っていた自分が恥ずかしい。すっかり常連気分だった。

そうだよな、客商売なんて最初が肝心だもの。

今週はチームの打ち上げでまた来るし、少しずつ本当の常連になっていけばいい。

仲良くなりたいなんて、思っちゃいけないのかもしれないな。

心なしか、金曜日はオフィス全体がリラックスしている。

弊社は3連休が取得しやすいよう、必須でない会議を金曜日に入れないことが奨励されている。そのため常時数名が有給を取得しているか在宅勤務を選んでいる。働き方改革バンザイだ。

それに、一部の海外ベンダーの担当者や、海外在住の契約エンジニアは、金曜の午後に連絡がつかなくなることが多い。聞けば、天気が良い金曜日は早めに出社し、午後は早々に退勤してハイキングやBBQをやるのが風習らしい。

そんな事情もあり、夏になるにつれ、のんびりした金曜が増えている。資料作成やナレッジ整理など、自分の仕事がこなせるのがありがたい。

朝のチーム会議で、念の為、今夜の打ち上げについて店の場所と集合時間をリマインドしておく。デザイナーの阿部ちゃんは外食自体が久しぶりらしく、相当楽しみにしている様子だった。

もちろんおれもだ。

ここ最近はコンビニかプロテインだけで済ます生活が続いていたから、打ち上げとはいえ美味しい料理が食べられると思うと待ちきれない。一人5000円の予算だが、ヒューゴは飲み放題に料理を数品付けてくれるそうだ。

幹事でもあることだし、開始時間に遅れないよう、さっさと仕事にとりかからなければ。

次の案件に相応しい開発会社の策定やドキュメント化をして、そこまでちょうど定時寸前。開発の速水君と新人の近森君に声をかけ、区切りが良さそうなところで終わるよう促す。

残りのメンバーは出先から直接店に来る営業の遠堂君と、在宅勤務の阿部ちゃんだ。

自転車は会社に置いたまま、出社組とおれは店まで徒歩で向かった。ぶらぶら歩いて15分ほどだろう。

「楽しみっすよ、噂のイケメンがいるって」

「ショールームの女性たちが頑張っているらしい」

興味津々の近森君に、開発の速水君がメガネの位置を直しながら言う。

「あー……きれいどころが揃ってますよね」

弊社ビルの1階には国内住宅メーカーのショールームがテナントとして入っていて、常時3,4名の制服に身を包んだ女性がいるのは知っているが、おれはまだ接点がない。見かけるだけだが、みな小柄で綺麗な女性たちだ。

「まあ外国人ってことを抜きにしてもヒューゴほどの美形は珍しいよね」

そう言うおれを、速水君がチラッとこっちを見る。

「あ、それあの外人の名前?」

「うん」

「意外だな。だって高屋さん最近でしょ、店見つけたの」

「まだ数回しか行ったことないんだけどね、自己紹介するタイミングがあって」

「さすがっすね。PMってやっぱ人とつながるのが上手いって能力がないとダメなんすね」

近森君が目をきらきらさせておだててくれる。

いやいや、たまたまだよ。ヒューゴの名前を知ったのも、PMになったのも。

「速水さんの方も意外ですよ」新人の近森君は続ける。「ショールームの人とどこで交流があるんですか?」

「ウチの奥さん、元ショールームだもん」

「ええー!」近森君は素っ頓狂な声を上げた。

確かに速水君は理知的な魅力があるけれど、ショールームにいるキラキラ系の女性と仲良くなるガッツがあるようには見えないもんな。営業の遠堂君なら納得だけれど。

しかし、「ちょ、ど、どうやってゲットしたんすか!?」本当に信じられない様子で詰め寄る近森君に、「後で教えてやんよ」とメガネをわざとずらして見せる姿はなかなか粗野で。

あ、こういう一面もあるんだな。そう思いながらおれは店の階段を駆け上がりドアを開ける。

いつもの鐘が鳴り、「いらっしゃいませ。こちらへ」と微笑を纏うヒューゴに案内される。

奥の窓際のテーブルはゆったり5人座れるように拡張されていて、既にデザイナーの阿部ちゃんがシャンパンを飲んでいた。

「おまたせ」

「いえいえ、もっと遅くても」と阿部ちゃんがニヤける。美男鑑賞中でしたか。

全員が席につくと、ヒューゴがドリンクメニューを持ってきて、今夜の料理について簡単に説明してくれる。

なめらかな低音でよどみない声は、まるで音楽を聞いているような心地になってくるし、向かいに座っている阿部ちゃんはすでに目を瞑ってすっかり聞き入っている。

一番ヒューゴの評判に興味を持っていた新人の近森君はと言うと、ぽかんと口も目も見開いてヒューゴを見ている。

「特に時間制限はありませんから。ごゆっくり」

にっこり微笑んでヒューゴはカウンターに戻る。

確か0時頃が閉店だから、今からだとたっぷり5時間くらいあるぞ。そんな店聞いたことがない。後で確認しにいかなきゃな。

最初はシャンパンで乾杯することにして、おれが打ち上げの挨拶を賜った。今回の成功はチームのみんなが支えてくれたからこその成功で、感謝しかないことを素直に伝えた。

入社時期が一番遅いおれがマネージャーなんてやりにくいことこの上なかっただろう。開発の速水君に至ってはおれよりもやや年上のベテランエンジニアなのに、献身的とも言える態度でプロジェクトの土台をがっちり築いてくれた。

「次の案件も、その次も、このメンバーで楽しくやっていこう。みんなありがとう」

薄いグラス同士が、キンと小気味よく重なった。

金曜日の店内はそこそこ賑わっていて、ヒューゴは涼しい顔でおれたち以外のもう一つのテーブル席も、カウンター客もこなしているようだった。

まさにアンドロイドモードだなと思う。

「あのバーテンダーヤバくないですか?聞きしに勝る美形なんですけど」

近森君がヒューゴに目線を向けつつ阿部ちゃんに同意を求める。

「でしょでしょ。あたしも久しぶりに見たんだけどさ、記憶より更に磨きがかかってる気がする」

「ショールームの人たちから人気があるのも納得っす」

「あー、はいはい。あの子達は基本残業ないからしょっちゅう来てるみたい。でも、落とせたって話は聞いてないのよね。まあ2年くらいで入れ替わるから、誰が彼を落とせたかなんて正確なことはわかんないけど」

「いないよ」

スモークサーモンをつまみながら速水君が言い切った。

「あ、速水さんとこ奥さんそうだもんね。知ってそう」

「そうっすよ!どうやってショールームの女子と結婚できたんですか!?」とそこから話は速水君の意外な武勇伝に流れていった。

前菜が無くなりかけた頃ヒューゴがドリンクのお代わりや料理の進み具合を確認しにやってきた。

料理はメインに進んでもらい、それぞれが飲み放題メニューから頼んでいく。

おれはヒューゴに手間をかけないよう他の人と同じものにしようかな、と最後まで待っていると、「透は?」とヒューゴがかがみこんでおれに優しく微笑んだ。

阿部ちゃんから「はうぅ」と変な声がした。

「速水君なに頼んだっけ」

不意に話しかけられてど忘れしてしまった。

「白ワイン」

「あ、じゃあおれもそれで」

ヒューゴはかしこまりました、と前菜の皿を手早くまとめはじめた。そういえば営業の遠堂君がそろそろ。

「ヒューゴ」

呼びかけるとちょっと手を止めておれを見る。

「もう一人、もうすぐ来ると思うんだ。遅れててごめんね」

「大丈夫。いらっしゃったら、案内しますね」

ヒューゴはゆったりと全員に微笑みかけた。

「ちょっと高屋さん。さっきのなんですか?」

「え、なに?」

「な、ん、で、な、ま、え、」

阿部ちゃんが眼光鋭く聞いてくる。

「俺もさっき聞いてさ、っていうか名前で呼び合う仲なの?意外だよね」

速水君が乗っかる。

「それは高屋さんのPMとしてのー」

また近森君がおだてるが「そういうのいいから」と阿部ちゃんが切る。

「言っとくけど、僕の奥さんすら名前知らないからね、結構通ったらしけどさ」

「 いや、引っ越してきたときに——」おれは経緯をかいつまんで話した。

「確かにこのお店って、外観も内装も男性向けなんだけど、極端に男性客が少ないのよね」

阿部ちゃんはメイン料理である骨付きのラム肉を一口齧り、おいしい!と言ってから、「だから高屋さんが一人で入って行って厚遇されたのも分かる気はする」と続けた。

「でも女性が来る店って、男も自然に集まるって言いませんか?」

もっともな意見を言う近森君に、「いやぁ」と速水君と阿部ちゃんが声を揃えた。

「無理っしょ。見てよあの淡麗な顔。それに高身長で身のこなしも優雅。自ら引き立て役になりに来るようなもんよ」

そう言って速水君はフッとタバコの煙を吐き出した。

「容姿もそうだけどさ、ヒューゴの声、すごく良いと思わない?超低音でよく通る。歌手みたいだなって……なに?」

そう阿部ちゃんに同意を求めるように言っていると、みんなの視線がおれの頭上に向けられていることに気が付いた。

「それはどうも」

ぽん、と頭に手が置かれた。振り返ると追加のドリンクを持ってきたヒューゴがおれの後ろにいて。

ヒューゴが去ってから、おれは軽く顔を覆った。

「聞かれちゃったじゃないか」

安倍ちゃんがそんなあたふたしている様子のおれに向かって「これはこれでアリ」と呟いた。

「何が?」

「高屋さん、仲良いんですか、ヒューゴさんと」

質問返しされてちょっと考える。

「うーん、普通の客かな。最初に見つけたときは2日連続で来たからたくさん話したけど、この間は全然。ずっと敬語だったし。最初だけは営業トークなんじゃない?」

そうこうしていると営業の遠堂君がやってきて、酒席は途端に賑やかになった。

彼は大手コンサルティング会社出身で横の繋がりも太く、いい案件を引っ張ってくることから社内で相当に重宝されている。

おれのような新人PMに割り当てられるなんて不憫だと思っていたが、そんな様子はおくびにも出さずにクライアントとおれの潤滑油を徹底してやってくれている。

新人の近森君のメンターも受け持ち、気のいい兄貴っぷりで後輩からの評判もよさそうだ。

遅れてきた遠堂君のために、ヒューゴは今日のコース料理全てが美しく盛られた大皿を出してくれた。残り物を食べさせるのではなく、ちゃんと冷たいものと温かいものを用意してくれる完璧なプロ精神に感心した。

ヒューゴは同時にバケットのおかわりと、長い木製のボードにいくつものチーズを乗せて持ってきた。

「サービスのチーズです。苦手なものもあるかも」

チーズは5種類、ブリーからロクフォールの強いのまで出してくれて、おまけにイチジクのジャムも付いている。宴会の支払いは予約時に済ませてあるが、5人でこんなにたくさん食べて飲めた上にチーズのサービスとはいささか安すぎやしないかと心配だ。

酒も食事も進んで、腕時計を見るともう3時間近く経っていた。ヒューゴは閉店までと言ってくれたけれど、常識的にはデザートを頼んで一旦お開きにしたほうがいいだろう。

みんなそれぞれいい具合に酔っていて、希望があればどこかへ二次会に行ってもいい。今日は金曜日だ。

カウンターの端に立って、機敏に動くヒューゴを観察していると、『なんだい?』と問いかけるように眉を上げて目を向けてくれた。

今夜はカウンターも満席だ。

ヒューゴは疲労を微塵も感じさせない微笑を顔に浮かべたまま、汗一つかいていないように見えた。この人数を独りで切り盛りできていることに感心する。

「そろそろ3時間になるから」

「ああ、大丈夫ですよ。閉店まで居ていただいても。他に予約は入っていませんし」

また、他人行儀モードになっている。さっき一瞬だけ、また仲良く話せるように戻ったかと思ったが。

「ありがとう。でも、だいぶ賑やかになってきたし、このへんでお開きにします。二次会に流れることになるだろうけれど」

「そうですか。お気遣いいただいて申し訳ありません」濡れた手を拭きながら「デザートお持ちしますね」と続けると、ヒューゴはキッチンへ消えた。

テーブルに戻り、デザートが終わったら一旦解散する旨を伝える。

阿部ちゃんはずっとヒューゴを見ていたいと後ろ髪を引かれていたが、どのみち時間的に帰らなければならないらしい。

気持ち的にはおれも同じで、ここでダラダラと飲んでいたい。でも自分以外は全員電車なわけで、早めに帰りたい人だっているだろう。

「二次会はきまりましたか?」と言いながらヒューゴはわざわざ中から出て来てくれ、店の隅の方へおれを誘導する。

「たぶん駅前の方で軽く行くと思う。一応幹事だから最後まで付き合わないと」

「そう」ヒューゴは短く呟いてふいにおれの耳に口元を寄せてきた。「お腹いっぱいになった?」

「え、あ、うん」

「ね、透。あとで戻ってきて。何時になってもいいから」

ほとんど息だけの低音で囁かれ、首筋から腰にくすぐったいような刺激が走り一瞬くらりとしてしまう。態勢を整えるためヒューゴの腕に少しすがってしまったのが気まずく、挨拶もそこそこに急いでみんなのところへ戻る。

おれ、耳弱かったっけ。一見客みたいな接客しておいて、最後の最後にこんなのずりーよ。

二次会は遠堂君の提案で会社にほど近いスペインバルになった。

「安くて旨いんで。それに」

ここはショールームの女子が結構来るらしく、社屋ではなかなか話しかけにくい彼女たちとの出会いをつなぐ場だそうだ。

もちろん速水君は知っていて、今の奥さんともここでの会話がきっかけらしい。

「高屋さんって、結婚してるんすか?」

近森君が気さくに聞いてくる。職場だとそういう質問も微妙だけれど、男同士酔ってもいることだし、おれも気にしない。

「いや、独身だよ。だから引越したり転職できたんだと思う」

「そもそも高屋さんてどうしてウチに来たんです?東京からでしょ?」

「いろいろあるけど、強いて言えば、もう少し人間らしい暮らしがしたいと思って」

「バリバリやってたんすよね」

「そんなことないけど……。仕事以外のことでも、いろいろ窮屈だなって」

「いつでも紹介しますよ、女のコ」

遠堂君が自信満々に言う。

「僕には?ねえ遠堂さん」近森君がしがみつくが「お前にはまだ早い」と腕を引き剥がされていた。

近森君の弟のようなキャラクターはみんなに可愛がられて得だな。遠堂君もやりやすいだろう。

おれは2人のやりとりを見つつ話を続ける。

「なんか億劫でさ。おれももう30だし、そろそろ見つけないと、なんだけど……」酒のせいか、本心が漏れる。

「それ仕事忙しいからでしょ」

遠堂君がフォローしてくれるが、速水君には「それに高屋さん植物系でしょ」と言われてしまった。

おれ、そんなに分かりやすいかな。

「僕まだ23ですし全然いけます!」再び近森君が速水君の腕に縋る。

「おめー今アラサーに囲まれてるんだからちょっとは気を遣え」

今度は腕を外さず放っておいたまま遠堂君が続ける。「俺は遅かれ早かれなら早い方がいいと思って30で籍入れたけど、もしこの年で出会いそして結婚となると……想像するだけでドッと疲れる」

おれは深く頷いて同意を示した。

「でもまあ、夢中になれる相手がいれば別じゃない?面倒とかしんどいとか関係なさそう」と遠堂君。えらく前向きな意見だ。

「そういうもの?」

「え、高屋さん。まさかその外見で、ずっとフリーなんてことないっすよね?」

「少し前には居たけど、なんていうか……よく分からないな、と」

「IT系の人ってそういうイメージある」と近森君がいきなりぶっ込んでくる。この世代ならではの素直さで。

エンジニアの速水君とおれは口元に手をやり、『た、たしかに』と顔を見合わせた。植物系なのか面倒くさがりなのか、もしかしたらそれらを併合しているのかも。

遠堂君は続けて、「かわいい子紹介しますよ」わざとらしくニッカリ笑い顔を作る。キミも振るねえ。

おれと速水君が近森君を見ると、口いっぱい唐揚げを頬張っていて、もうアラサーの恋愛話には興味がなさそうだった。

「おまえ、そういう所だぞ。遠堂を見ろよ、かわいそうに」

「えっ、残ってたから食べていいかと……」

「ちげぇよ!」

そんな速水君と近森君のやりとりが一通り終わると、遠堂君は作り笑顔を貼り付けたまま、「近森はおれと3次会決定」と言い放つ。

「ええー!また朝までコースっすかぁ」

近森君は口を尖らせるが、嫌がってはなさそうだ。仲良くてなによりだ。

そんなこんなでくだらない話をしながら楽しく飲んでいながらも、おれはさっきヒューゴに言われた言葉が気になって仕方がなかった。

言い方や雰囲気が、秘密を共有したような感じで。

それでも遠堂君と近森君の漫才のようなやりとりで笑わせてもらい、気付けば2時間近く経っていた。

こんなに楽しい職場の飲み会は初めてだな。

ギリギリ終電で帰れると駅へ走っていく速水君と、この後はカラオケに行くという遠堂君と近森君を見送って、おれは会社へ自転車を取りに向かった。

ヒューゴの囁やきを思い出して心臓がトクリと動く。

閉店後にまたあの時間が過ごせるのかもしれない期待に、胸が高鳴っているだけなのかもしれないけれど、少しそわそわした感じもあり、あまり覚えがない感覚だ。嬉しさに一番近いかな。

店の前まで来ると、窓から微かに明かりが漏れているのが分かった。

Closedの札が掛かったドアをそっと開けると、カウンターで飲んでいるのか、ヒューゴの背中が見える。

「来たよ」

ヒューゴは振り返り、「おかえり」と手に持っていたショットグラスをやや掲げた。

店内はすでに綺麗に片付けられていて、キャンドルの明かりだけがほの暗く揺れている。

「飲み直す気、ない?」とヒューゴが窓際のテーブルを顎で示す。

「よろこんで」

心が弾む。また2人で飲めるんだ。

「透は何飲む?」

「手間じゃなければ、モスコミュール」

「なんでも作るから言って」

ヒューゴはとても優しい口調でそう言ってくれた。

さっきの接客モードとは違い、もっと自然な笑顔で。

モスコミュールに口をつけながらヒューゴを見ると、ライムをかじってグラスを煽る。やっぱりかっこいいなと思う。こんな姿、阿部ちゃんが見たら失神するんじゃないかな、と思うくらい色気がある。

男に対してこの表現が合っているか分からないけれど、一番当てはまると思う。

「どうした?」

少し心配げに顔を覗き込まれて、しばし見つめていたことに気付いた。

「いや、仕草がかっこいいなと思ってさ」

「はは、ありがとう」

ヒューゴがはにかんだ。

「あのさ」

ヒューゴがなんだい?と目を少し見開いて応える。

「この間も思ったんだけど、時々、おれにも接客が他人行儀というか」

少し勇気が要ったが、おれは気になっていたことを聞いた。

「ああ、他のお客さんの手前ね」

「どうして?」

「僕はお客さんと親しくしないように気をつけている。普通に接していても、誤解がイロイロあって」

まあねぇ。向こうの男性は基本的に女性に優しいからな。それに。

「ヒューゴだからなぁ」

「僕?」

「そんな容姿で、料理も酒も旨いし。こんなのに優しく話しかけられたりしたら、そりゃな」

はは、とヒューゴは楽しげに笑いグラスを煽る。酒強いんだな。

「そんなに褒めてくれるの透だけだよ」

「でも、自覚あるでしょ?」

「そんなことはない。僕みたいなの、ヨーロッパでは普通だ」

そこで思い出した。世界の美女率ナンバーワンはストックホルムだと何かで見た気がする。ということは男も相当だろう。

「しかも、声も良いじゃん」

「たぶん発声が日本人と違うだけで、そんなに特別じゃないと思うよ。さっきも言ってくれてたね」 

レジで震えた首筋がまたゾクリとする。

「いや、特別。今まで声が良いとか悪いとか気にしたことがなかったけど……最初に聞いた瞬間から、特別だなって思ったよ」

なんだか褒めすぎて、まるでおれがヒューゴを口説いているみたいじゃないか。

おれは少しだけ気まずくなって、それをごまかそうと残りのグラスを煽り取り繕うように言った。

「そう?」

ヒューゴは口角を上げて挑発するような目をしたかと思うと、おれの口元に手を伸ばし、親指でおれの下唇をなぞった。

「ついてる」

モスコミュールが唇に少し残っていたのか、拭った指が濡れている。

ヒューゴは何か言いたそうな目をしておれを見ながら、濡れた指を舐めた。

一瞬カッと身体が熱くなる。何にも分からなくて、でも視線や肌は不思議な緊張感を感知していて……。

「あ、ありがと……?」

ヒューゴは視線はそのままで少しの間無言でいたが、つと立ち上がり、「いいカクテルがある」とカウンターへ行ってしまった。

なんなんだよこれ……胸がざわつく。

戻ってくるなりショートグラスに入った琥珀色の酒を差し出す。

「どうぞ」

ウイスキーの味とスパイシーで花のような香り。

「なんていうカクテル?」

「ロブ・ロイ」

ヒューゴは端的に答え、スッとウォッカを煽ったかと思うと残り少なくなったボトルをかざして、

「残りはスクリュードライバーに。飲むでしょ」とおれに笑いかけた。

切り替えの早いやつ。

おれは自分の身体に溜まった熱を出すように長く息をついて、「飲むよ」と答えた。

顔がほてるのはアルコールのせいだけだろうか。

それから二人でめちゃくちゃ飲んだ。

映画の話と、おれは趣味の自転車についてよく話したように思う。

さっきの束の間の気まずさには一切触れないようにしているのは、たぶんお互い様で。

「ごめん、もう朝方だ。明日もお店あるよね」

だんだん窓の外が白じんできている。甘えて好きなだけ飲んでしまった。

おれは休みだけど、ヒューゴは土曜も営業日のはずだ。

そろそろ帰ると伝えると、

「夜中、飲みたくなったらいつでも連絡して」

と、ヒューゴはレジ横においてある店のカードに自分の携帯電話の番号を書いて差し出してきた。

「登録名はカタカナでいい?」

「いいよ。でも一応、知ってて」ヒューゴはおかしげに笑いながらカードにHugoと書き足してくれた。

おれは登録したての番号を鳴らして、Hugoの下に名前の漢字を書いた。

「漢字でもひらがなでもいいからおれの番号も登録しといて」

できたら掛けてきてほしいなと思う。お店が忙しいだろうし、おれからはなかなか掛けられなさそう。

「送っていくよ」とヒューゴが席を立った。

「近いからいい、大丈夫」さすがにそこまで甘えられない。

「少し歩きたいんだ。それとも、家を知られるのが怖い?」

怖いってなんだ。

「そういうのじゃないけど」

送ってもらったりしたら、余計に離れ難く感じそうなんだ。

ちょっと寝て、ブランチ食べて、どこかでかけて。

学生の頃はそんな友達いたよな。四六時中一緒にいるような。

おれがヒューゴに感じている離れ難さって、きっとそういうのなんだろう。

結局、申し出に甘えて送ってもらうことになった。

大人になってからも友達ができるなんて、幸運なことだと思う。

すっかり定位置になった自転車置場へ二人で降り、おれは自転車のロックを解除する。

ずいぶん軽いね、とヒューゴがおれの自転車を持ち上げる。

このロードバイクは社会人になって初めてのボーナスで買って以来ずっとメンテしながら乗っている愛車だ。

ヒューゴに自転車を任せ、だいぶ重くなってきた瞼を無理矢理こらえながら歩く。眠くてさっきからあくびがとめられない。

「酒、強いね」

「なかなか酔えなくてね。酔いたいけど」

ヒューゴは全くのシラフなのか、まるで早起きした人のように清々しい朝に馴染んでいる。

またあくびが出る。もう目が潰れそう。

「どれくらいで酔う?」

「酔ったことがあったかどうかも覚えてないな」

だめだ。眠くて倒れそう。家まであと少しなのに。

「ヒューゴちょっと腕」

おれはヒューゴの左腕を掴んで、「ここ真っすぐ、の……」とかろうじてマンション名を告げて目を閉じた。

もう無理。引きずって行くか捨てて行ってくれ。

「うそ、だろ……」

ヒューゴのつぶやきが遠くで聞こえた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • おいしいじかん   よい夢を

    秋も深まった11月。その夜は、ヒューゴの誕生日を2人きりで祝い、シャンパンが無くなるのを待ちかねたように、ベッドになだれ込んだ。いつもにも増して、長くとろけるような愛撫を与えられ、この後に起こることを期待しておれの身体はじくじくと熱くなる。毎週末の逢瀬のごとに乳首を蹂躙され、その射精を伴わない長い絶頂の最中にヒューゴは1本2本と指を増やしておれの内側に強烈な快楽を教えていった。覚悟していたよりも早くに慣れていく自分の身体が怖かったが、それにも増して喜びが大きかった。乳首から脳がどろどろに溶けるほどの快感を与えながら、ヒューゴはおれのものをぬるりと咥え、後ろにも指をそっと挿入する。2本目の指が入ってきた瞬間、少しだけ射精してしまう。「なんて身体してんの」「おまえの、せい、だろッ」もっと、とねだったのはおれだが。「才能だと思うけどね」ぜえぜえと全身で呼吸を整えるおれを尻目に、ヒューゴはからかうような笑顔で横臥し、余裕綽々だ。「苦しい?少し休憩する?」口ではそう言いながら、覆いかぶさってくる。「続けて……」「うん。透の身体も、僕を待ってるみたいだ」再びつるりと指が入れられ、またぞくぞくと電流が腰に走る。気持ちいい場所すべてを同時に責め立てられ、何がなんだか分からない状態に、目を閉じてただ身を任せる。「透。こっちを見て」目を開けると、荒い呼吸で上体を微かに上下させながら見下ろしている鋭い瞳とぶつかった。おれの足は大きく広げられ、尻にはヒューゴの脛が差し込まれている。絶対に足を閉じることも伸ばすこともできないようにしておいて、ヒューゴはぐいと自分のそそり立ったものを掴み、先端をおれの方へ向ける。雄々しく輝く瞳に見据えられ、ぞくりとする。「おれの中、ヒューで満たして」そう言った瞬間に内部を広げていたヒューゴの指がずるりと引き抜かれ、衝撃に悲鳴を上げてしまう。「うあ、あ、」間髪入れ

  • おいしいじかん   いっしょにいこうよ

    目覚めて最初に視界に入ったのはヒューゴの首元だ。エアコンが効きすぎた部屋で温かいものに包まれての目覚め、やっぱり最高。身じろぎすると、「起きた……?」とヒューゴの声がじんわり染み、その甘さに思わず目をギュッと閉じてしまった。金色の獣はふっと笑っておれの耳を唇でくすぐる。ああ、もうそれだけで……「まだ残ってる……?」「ちょっと怖い、自分が」「でも、すごく気持ちよさそうだったよ」「うん」おれが即答すると、「good boy」とヒューゴはおれのこめかみに軽く口付ける。「じゃあ……まだ夕方までたっぷり時間はあるし」ヒューゴはおれの胸に顔を埋め、初めて、手を下半身へ伸ばした。乳首をゆっくり舌で弾かれながら、掴んだ手で上下に扱かれると、すぐにおれはよく知る感覚に襲われる。ヒューゴは動きを止めて、ジッとおれを見ると、「どうする?」と低く囁く。その声があまりに色っぽくて、おれは我慢できずに、はやく、とねだるしかなかった。ヒューゴはおれの瞼にキスをして「きれいだよ、透」と言ってくれる。身体がまた仰け反って、ビクビク跳ねる。あ、出る……その瞬間、ヒューゴはおれのをギュッと掴んで射精を止めてしまう。でも、絶頂間はそのままで……さらに乳首に歯を立てられ、また強烈な快感がやってくる。それでも手を離してくれず。何度も追い詰めれて、その度にいかせてくれと懇願した。なのに、このもどかしくて気が狂いそうな感じもすごく良くて。終わりたくない。もっとおれを壊して欲しい。ヒューゴはそんな状態をまるで百も承知かのように、懇願を聞き入れてくれず、吸って、擦って、止めて、口付けて……おれのアタマとカラダを強引にコントロールする。おれは絶頂手前の永遠に続く快楽の中でヒューゴのそれに手を伸ばした。「透、僕はいいから&h

  • おいしいじかん   I’m Yours

    ヒューゴは後ろ手に部屋のドアを閉めると、おれを玄関の壁に押さえつけて、貪るようなキスをしてきた。「ようやく2人きりになれた」耳元で熱く囁かれたせいでその場で座り込んでしまいそうなり、「嬉しい反応してくれるね」と笑われた。「昨日……おれになんかしただろ」ただでさえ8月半ばの熱帯夜なのに、キスで余計に体温が上がり額に汗が流れる。それさえもヒューゴは舐め取ってしまったが。「とにかくシャワー浴びよう。暑い」腕を掴んでおれを引き起こすと、すぐにヒューゴはおれのシャツを脱がせ始めた。全く同意だ。湿度が高いせいで、バーで付いたタバコの煙や酒の甘ったるい匂いが汗と共に纏わりついたまま取れていない。このまま寝るのなんて論外で、部屋に入るのも気が引ける。温度の低いシャワーで落ち着き、寝支度を済ませたおれたちは、並んでベッドヘッドに背をもたせかける。ヒューゴはタブレットを持ち、なにか検索している。まだ寝るつもりはないようだ。おれの方も、昼間に精力を使い果たした上に、いつもより強いアルコールが入っているにも関わらず、気が高ぶっているのかまだ眠気は遠くに居る。生来の夜型らしく、油断するとすぐに昼夜逆転してしまう。今回然り、いつも長期休暇の最初には、早寝早起きを誓うんだけど、守れた試しがない。一人でリビングに移動し映画を観るなり飲みなおす手もあったが、せっかくだからこのままヒューゴの傍に居ることにした。夏季休暇が終われば、一緒に眠れる夜は週末だけになってしまうから。「なに?」ヒューゴが含み笑いをしながら、こっちを向いた。「ん?」「ずっとこっち見てるから」あ、そうだったか。「見ておかないと、あと5日で夏季休暇が終わるから」「かわいいこと言うよね、たまに」ヒューゴはこめかみに軽くキスをして、またタブレットに向き直った。おれは、ナイトテーブルの上に置いてあった携帯に充電ケーブルを挿しながら、「そう言えば」と切り出す。

  • おいしいじかん   Honey, Did You Go?

    夢のような3連休だった。透は明日から出社で、しかも長引いた出張のせいで業務が溜まっているらしい。食事を用意しておくからと、どんなに遅くなっても店に寄るよう約束させ、僕はしぶしぶ透を家に送り届けた。マンション前に車を停めて、少しだけキスを交わす。今までで、一番帰したくない夜だった。エントランスに消える透を見届け、その足でクリスの店へ向かった。透と連絡がとれなくなってからの僕を親身になって心配してくれていたから、突然平日に店を訪れた僕を見るなり、クリスは不安気な顔を作った。「ダイジョウブ?」「ああ。心配かけた。透が、戻ってきたよ」音信不通事件の理由を説明し終わると、クリスの顔に安堵が広がる。「怪我がなくて本当によかった」僕も深く頷いた。「それとは別に……とりあえず一番良いシャンパンを」注文と僕の顔を見て、この古い友人はすぐに思い当たったようだ。今夜ばかりはポーカーフェイスではいられない。「まさか!全部話せよ!」と僕につられたのか満面の笑みだ。クリスは上機嫌になり、踊るような滑らかさでシャンパンをグラスに注ぎカウンターから出てくると隣に腰掛けた。今夜は友人として共に飲んでくれるのだろう。僕はスツールの上で軽く居住まいを正した。クリスはだれよりも早く、僕と透のことを知る権利がある。「合鍵を交換して……キスをした。信じられないだろ?透から告白してくれたんだ」「おめでとう。心から」クリスの祝辞に合わせて僕らはそれぞれのシャンパングラスを掲げた。一口飲んで、それがありえないほど良いものだとわかった。尋ねても頑なにボトルを見せてくれないが。「まさかヴィンテージか?」「できたての恋人のために半分残しておきなよ」「あまり驚かないんだな」「トールがあんたに好意を寄せているのなんて、一目瞭然だったでしょ」「そこまで自惚れちゃいねえよ」「おでこにキスされただけで耳ま

  • おいしいじかん   嵐に溶け合う

    遠くで雷鳴が聞こえる。小雨になったものの、不安定な大気は続いているようだ。台風でも来ているのかもしれない。ベッドでごろごろと寛いでいたが一度起き上がり、寝室の窓のブラインドを全開にした。山の斜面に建っているマンションは周辺では一番高さがあり、窓からは、空も市街地も見渡すことができる。それに気付いたヒューゴが、リビングで灯していた小さなキャンドルだけを残して照明を落とし、「雷鑑賞か」と言いながら寝室にやってくると、おれの隣で肘を立てて頭を支えながら横臥する。「あ、光った」細い閃光が空から地上に突き刺さる。ヒューゴは、仰向けのまま窓の外を見ているおれの頭を撫でてくれる。髪をすくうように往復する指先が心地良い。しばらく無言のまま、雷光でフラッシュのように白む空を眺める。頭からじんわりと伝わる温もりに癒されながら。「疲れてる?」「いや、とてつもなくリラックスしてるよ。まだ休みはあるし、おまえが傍にいるし」髪をすくうヒューゴの手に自分の手を重ね、長く筋張った指を撫でた。「透」とヒューゴは小さくおれの名前を呼んだ。「少しだけ、触れてもいい……?」そう耳元で囁かれ、一瞬でカッと身体が熱くなってしまい思わず目を瞑ると、ヒューゴはゆっくりおれに覆いかぶさってきた。腰が触れ、背中に戦慄が走る。「言っただろ、なにをしてもいいって」「少しずつ、ね」ヒューゴは腕をついておれを見下ろしたままで微動だにしない。窓から雷光が差し込み、青い瞳の奥がシルバーに輝く。吸い込まれそう。「透はとてもきれいだ」「全部おまえのだよ」おれがそうささやくと、ヒューゴは照れたように優しく微笑みキスをしてくれる。でもすぐに離れてしまい、おれは広い背中に腕を回して引き寄せた。遠慮と情熱のそれぞれを持て余して悩むヒューゴは魅力的だ。どうにでも好きなようにできると知っているのに。軽く口を開くと熱い舌がおれの舌を絡め取る。今夜のキスは、いつもより柔らかく、

  • おいしいじかん   純粋な欲望

    ヒューゴは夜明け頃に焚き火を起こしたようで、おれは半覚醒の中まどろみながら、時折目覚めては、チェアで寛いでいるその姿を見ていた。渓谷に細く降り注ぐ朝日の中にいるヒューゴは、怖いくらいに美しかった。朝日に光る川の小波と、光の届かない暗い岩間の両方をそのまま身に纏うように鋭く暗く輝いている。水の精霊の化身だと言われても納得しそうなほど、人知を超えた魅力がある。まったく、どこにいても絵になる男だな。いつまでも鑑賞していたいが、今は教会で宗教画を眺めているのではなく、河原でキャンプ中だ。日差しが強くなる前に起床せねば。朝食は、昨夜のBBQで残しておいたステーキ肉を使ったホットサンドウィッチだった。コーヒーはヒューゴがアルミのボトルに入れて、川の水で冷やしてくれていた。天然のアイスコーヒーだ。「今日は何する?」サンドウィッチを頬張るおれにヒューゴが尋ねてくる。肉とチーズの他に缶詰のベイクドビーンズが入っていて、それがなんとも言えないアウトドア風味を出している。最高に美味い。「ゴーグル買ってきたから、水の中で魚を見たい。予定はそれだけ」「魚を獲ってみるのは?」「釣具買ってきたの?」「いや、手掴み。僕のやり方が日本の魚に通用するか試したい」「面白そうだな」「捕れたらお昼は魚を食べよう」朝食を食べ終えたおれたちは河に入り、膝より低い水位でゴツゴツと岩が突き出た浅瀬へ、そーっと移動する。料理のできないおれにとっては、生の魚を触ることからもう初めてだ。「あっ」少し大きな声を出してしまい、ヒューゴにシーっと注意される。ビャッと足元で素早く動くものが岩の下へ潜り込んだんだ。「岩の下に手を入れて、魚に触れたら、腹側をそっと何度か撫でる。魚が動かなくなるから、そこを両手で掴む。やってみて」魚の影が入り込んだ岩の下にゆっくり両手を入れて探る。手に、ぬるりとして張りがあるものが触る。ヒューゴに教わった通りに腹をくすぐるように撫でると、たしかに魚の動きが止まった。いまだ!と両手で

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status