月曜日。
新居からの初出勤は快晴に恵まれ、爽やかな漕ぎ出しだ。
転職先は、自社で開発したアプリケーションが成功し、とある業界のスタンダードにまでなった実績あるソフトウェア開発会社だった。過去形なのは、開発部門を早々に子会社化し、今の母体は企画や営業中心のコンサルタント会社だからだ。
子会社と言っても名目上だけでビルも同じ。別フロアに開発部隊が居る、という感覚だ。 名刺の上ではおれの役職はコンサルタントだが、実際は自社アプリのプロジェクトマネージャーだ。顧客のニーズに合わせたカスタマイズをしたり、内部と外部の開発会社との調整をしたり。前職場では開発部門のリーダーで、一応は次の異動でプロジェクトマネージャーになる予定ではあった。しかし、配属される予定だったチームの責任者とメインの開発者のどちらも休職中、という地獄のような状況で。
顧客からの頻繁な仕様変更と、毎月の契約更新のたびに費用面で難癖をつけてくることが原因なのは明らかだったが、課長にかけあってみても「まあ修行だと思って」以外の返答はなく——元々なんとなく転職活動を始めていたおれにとって、退職の良い理由にはなったが。『会社よりも「人」で選べ』新人の時に担当チューターだった先輩の言葉だ。
先輩はすでに転職していたが、在職中からたまに飲みに行く関係で、今でも仲良くしてもらっている。 おれが転職を考えていると打ち明けた時、先輩は真っ先にそう言った。それがとても印象的で、帰り道何度も頭の中で呟いたのを覚えている。その言葉通り、転職活動では人を尊重するという当たり前のことが浸透しているかどうかを重視した。
結果、引っ越す価値があるほどの良い職場に出会えたと思っている。 いきなりのマネージャー枠での中途入社だが、チームメンバーからの純粋な力添えのお陰で円滑にやれているし、なんと言っても職場の雰囲気が明るい。 メンバー同士がリラックスして働いていて、コミュニケーションも活発だ。 ある日、正午を過ぎてそろそろ空腹を感じ始めたころ、職場付近の美味い店の話になった。各自それぞれお気に入りがあるらしく、名前が出た店舗を記憶しておく。「高屋さんはもう美味しい店、見つけた?」
開発の速水君が話をふってくれた。
「そうだなあ……」なんてさり気なさを装ってみたが、おれはとっくに決めていて、「ちょっと離れてるけど、大きい公園の……」
「かっこいいガイジンさんがいるところでしょ!」
おれが言い終わるより先に、チームメンバーでUIデザイン担当の阿部ちゃんという女性が身を乗り出してきた。
「そうそう。行ったことある?」
「もちろん!どこかのブランドのモデルみたいなの!」
今年新卒で入った近森君は「へえ、そんなにイケメンなんですか」と、こっちは行ったことがなさそうだ。
「明日のお昼、みんなでどう?」
かなり期待をこめて言ってみるが、阿部ちゃんはつまらなさそうな顔をして、「いいけど、お昼はいないんですよ、その彼」とのことだ。
「え?そうなの?」
「お昼はアルバイトがやってるみたいで、遭遇率低いんですよ。でも夜は必ずいるはず。うちは子供が小さいから、まだ数回しか行けてないけど」
「そうか、残念だな。こないだの週末さ、遅めのランチに行ったんだけど、すごく美味しかったから」
「どうせならみんなで夜行きませんか?今のプロジェクトが落ち着いたら」
近森君からの提案だ。
なるほど。
「そうだね。打ち上げってことで。あ、いいのかな?最近飲み会に誘うとダメとかあるでしょ」
「部下から誘う場合はアリなんじゃないすか?」近森君が軽やかに言う。
「私も日時決まってる飲み会なら行きやすいし、そうしましょうよ」
家庭がある阿部ちゃんも乗り気だ。
「じゃあ、そうしよう。納期が…あと3週間か」
「がぜんヤル気が出てきました」
そう言ってデザイナー女子と近森君は笑い合う。いいチームだな。
おれは打ち上げをモチベーションにして、差し迫る納期に向けて黙々と仕事を進めた。残業は少ないが、外注先の海外ベンダーが土曜は出勤日のため休日返上だ。 それでも、朝は川沿いにあるサイクリングロードに寄ってからから出勤したりと、少しの気分転換はできていた。ただ、週末の時間の無さのせいで、あれからヒューゴの店を再訪できていないことだけが残念だった。
3週間後——プロジェクトは検収も無事終わり、打ち上げの日程を決めたくチーム内にメールを回すと、嬉しいことに全員が参加することになった。
メンバーの希望は翌週の金曜日で、週末を希望するとはみんな飲む気満々なんだな。 おれは部長に許可を取って、チームのプロジェクト費から打ち上げの費用も確保した。転職して最初のプロジェクトにしては納期も品質もOK、幸先の良いスタートだ。その日は定時で会社を飛び出し、ヒューゴの店へ向かった。
とにかくこの3週間の疲れを癒やすべく、店で落ち着いて酒が飲みたかった。あと肝心な打ち上げの予約と。 最後の週末以来、すでに1ヶ月ほど経ってしまっているから、ふいに来た客のことなんてもう覚えてないかも……な。と少し不安になりながらも自転車を向かわせる。重い扉を引くと同時に、コロン、と低く鐘が鳴ってヒューゴが見えた。
「いらっしゃ……」
「こんばんわ」
一応笑いかけてみた。覚えてるかな。
「トオル!」
目が合うとヒューゴが名前を呼んでくれる。
よかった、覚えててくれたんだ。 店内のお客さんがみんなこっちを向いてしまって恥ずかしかったけど。ヒューゴも自分の声が大きかったことに気がついたのか、少しバツの悪そうな顔をして肩をすくめていた。カウンターに一つだけ空いていた席につき、モスコミュールを頼んだ。平日なのに結構な繁盛だ。
飲みながらヒューゴに、来週の金曜日に5名で来てもいいか確認すると、二つ返事でOKだった。予算をベースに簡単に内容を相談していると、その夜は混んでいたせいか、会話は少なかった。
うーん、やっぱり覚えてないのかな。まあそもそも今日が3回目なわけで、そりゃ事務的な接客で当然だろうけれど。名前を覚えていてくれたのはさすがに客商売のプロなんだろう。「食事、お願いしてもいいかな?」
「もちろん」
軽く微笑んでヒューゴはキッチンに消えた。
テーブル席は2つ埋まっていて、カウンターにも女性客しかいない。ヒューゴが見えなくなってから、途端に女性客の士気が下がったのが目に見えてわかるのが面白い。退屈そうにタバコを吸い始めたり、お代わり持ってきてもらお、と言い合って一気に飲み干す女性たち。みんな可愛らしいなあと思う。ヒューゴはカリカリに焼けたチキンが乗ったサラダを出してくれた。トマトも、キュウリも新鮮そうに輝いている。
「美味しそう……」思わず呟いてしまった。
ヒューゴは飲み物を運ぶ以外はずっとカウンターの中にいて、グラスを拭いたり、手元を片付けたりしていた。忙しそうではあるが、その動きは優雅で、見ていると面白い。
手の動きを止めずにカウンターにいる他の客と数言交わしたり、時折テーブル席へ呼ばれたりするが、ヒューゴはほとんどずっとおれの向かいに立ってくれていた。 しかし、いろいろと話しかけてみても、「そうなんですね」「なるほど」などとよくできたアンドロイドのような性格な相槌しか返ってこず。 その対応は、1ヶ月前に二人で飲んだのが幻だったかのように事務的で、砕けた感じは一切無かった。 表情は柔らかく終始微笑んではいるけれど。それが余計に壁を感じさせる。 なんなんだ、先日とのこのギャップ。それでも食事は大変美味しく、特にチキンソテーに掛かっていた柚子風味のドレッシングが爽やかでたまらなかった。おれはレタスの一欠片も残さず平らげ、食後にコーヒーを頼んで一息ついた。
店内はテーブル席に女性2人連れと、あとはカウンターにも2名の女性が残る。 圧倒的に女性率の高い店だ。ま、このバーテンダーの美貌じゃ、仕方ないか。コーヒーを飲み終え、席を立つと「もうお帰りですか?」と声をかけてくれる。
おれは、急いでカウンターから出てこようとしてくれるヒューゴを制止して、「うん。また金曜日に」と笑顔で去った。 後ろから、ボソリと、「待ってる」と言うのが聞こえたような気がしたが振り向かなかった。先日のもてなしで特別感を感じられて、ちょっと調子に乗っていた自分が恥ずかしい。すっかり常連気分だった。
そうだよな、客商売なんて最初が肝心だもの。 今週はチームの打ち上げでまた来るし、少しずつ本当の常連になっていけばいい。 仲良くなりたいなんて、思っちゃいけないのかもしれないな。 心なしか、金曜日はオフィス全体がリラックスしている。 弊社は3連休が取得しやすいよう、必須でない会議を金曜日に入れないことが奨励されている。そのため常時数名が有給を取得しているか在宅勤務を選んでいる。働き方改革バンザイだ。 それに、一部の海外ベンダーの担当者や、海外在住の契約エンジニアは、金曜の午後に連絡がつかなくなることが多い。聞けば、天気が良い金曜日は早めに出社し、午後は早々に退勤してハイキングやBBQをやるのが風習らしい。 そんな事情もあり、夏になるにつれ、のんびりした金曜が増えている。資料作成やナレッジ整理など、自分の仕事がこなせるのがありがたい。朝のチーム会議で、念の為、今夜の打ち上げについて店の場所と集合時間をリマインドしておく。デザイナーの阿部ちゃんは外食自体が久しぶりらしく、相当楽しみにしている様子だった。
もちろんおれもだ。 ここ最近はコンビニかプロテインだけで済ます生活が続いていたから、打ち上げとはいえ美味しい料理が食べられると思うと待ちきれない。一人5000円の予算だが、ヒューゴは飲み放題に料理を数品付けてくれるそうだ。 幹事でもあることだし、開始時間に遅れないよう、さっさと仕事にとりかからなければ。次の案件に相応しい開発会社の策定やドキュメント化をして、そこまでちょうど定時寸前。開発の速水君と新人の近森君に声をかけ、区切りが良さそうなところで終わるよう促す。
残りのメンバーは出先から直接店に来る営業の遠堂君と、在宅勤務の阿部ちゃんだ。自転車は会社に置いたまま、出社組とおれは店まで徒歩で向かった。ぶらぶら歩いて15分ほどだろう。
「楽しみっすよ、噂のイケメンがいるって」
「ショールームの女性たちが頑張っているらしい」
興味津々の近森君に、開発の速水君がメガネの位置を直しながら言う。
「あー……きれいどころが揃ってますよね」
弊社ビルの1階には国内住宅メーカーのショールームがテナントとして入っていて、常時3,4名の制服に身を包んだ女性がいるのは知っているが、おれはまだ接点がない。見かけるだけだが、みな小柄で綺麗な女性たちだ。
「まあ外国人ってことを抜きにしてもヒューゴほどの美形は珍しいよね」
そう言うおれを、速水君がチラッとこっちを見る。
「あ、それあの外人の名前?」
「うん」
「意外だな。だって高屋さん最近でしょ、店見つけたの」
「まだ数回しか行ったことないんだけどね、自己紹介するタイミングがあって」
「さすがっすね。PMってやっぱ人とつながるのが上手いって能力がないとダメなんすね」
近森君が目をきらきらさせておだててくれる。
いやいや、たまたまだよ。ヒューゴの名前を知ったのも、PMになったのも。「速水さんの方も意外ですよ」新人の近森君は続ける。「ショールームの人とどこで交流があるんですか?」
「ウチの奥さん、元ショールームだもん」
「ええー!」近森君は素っ頓狂な声を上げた。
確かに速水君は理知的な魅力があるけれど、ショールームにいるキラキラ系の女性と仲良くなるガッツがあるようには見えないもんな。営業の遠堂君なら納得だけれど。
しかし、「ちょ、ど、どうやってゲットしたんすか!?」本当に信じられない様子で詰め寄る近森君に、「後で教えてやんよ」とメガネをわざとずらして見せる姿はなかなか粗野で。 あ、こういう一面もあるんだな。そう思いながらおれは店の階段を駆け上がりドアを開ける。いつもの鐘が鳴り、「いらっしゃいませ。こちらへ」と微笑を纏うヒューゴに案内される。
奥の窓際のテーブルはゆったり5人座れるように拡張されていて、既にデザイナーの阿部ちゃんがシャンパンを飲んでいた。「おまたせ」
「いえいえ、もっと遅くても」と阿部ちゃんがニヤける。美男鑑賞中でしたか。
全員が席につくと、ヒューゴがドリンクメニューを持ってきて、今夜の料理について簡単に説明してくれる。
なめらかな低音でよどみない声は、まるで音楽を聞いているような心地になってくるし、向かいに座っている阿部ちゃんはすでに目を瞑ってすっかり聞き入っている。 一番ヒューゴの評判に興味を持っていた新人の近森君はと言うと、ぽかんと口も目も見開いてヒューゴを見ている。「特に時間制限はありませんから。ごゆっくり」
にっこり微笑んでヒューゴはカウンターに戻る。
確か0時頃が閉店だから、今からだとたっぷり5時間くらいあるぞ。そんな店聞いたことがない。後で確認しにいかなきゃな。最初はシャンパンで乾杯することにして、おれが打ち上げの挨拶を賜った。今回の成功はチームのみんなが支えてくれたからこその成功で、感謝しかないことを素直に伝えた。
入社時期が一番遅いおれがマネージャーなんてやりにくいことこの上なかっただろう。開発の速水君に至ってはおれよりもやや年上のベテランエンジニアなのに、献身的とも言える態度でプロジェクトの土台をがっちり築いてくれた。「次の案件も、その次も、このメンバーで楽しくやっていこう。みんなありがとう」
薄いグラス同士が、キンと小気味よく重なった。
金曜日の店内はそこそこ賑わっていて、ヒューゴは涼しい顔でおれたち以外のもう一つのテーブル席も、カウンター客もこなしているようだった。
まさにアンドロイドモードだなと思う。「あのバーテンダーヤバくないですか?聞きしに勝る美形なんですけど」
近森君がヒューゴに目線を向けつつ阿部ちゃんに同意を求める。
「でしょでしょ。あたしも久しぶりに見たんだけどさ、記憶より更に磨きがかかってる気がする」
「ショールームの人たちから人気があるのも納得っす」
「あー、はいはい。あの子達は基本残業ないからしょっちゅう来てるみたい。でも、落とせたって話は聞いてないのよね。まあ2年くらいで入れ替わるから、誰が彼を落とせたかなんて正確なことはわかんないけど」
「いないよ」
スモークサーモンをつまみながら速水君が言い切った。
「あ、速水さんとこ奥さんそうだもんね。知ってそう」
「そうっすよ!どうやってショールームの女子と結婚できたんですか!?」とそこから話は速水君の意外な武勇伝に流れていった。
前菜が無くなりかけた頃ヒューゴがドリンクのお代わりや料理の進み具合を確認しにやってきた。
料理はメインに進んでもらい、それぞれが飲み放題メニューから頼んでいく。おれはヒューゴに手間をかけないよう他の人と同じものにしようかな、と最後まで待っていると、「透は?」とヒューゴがかがみこんでおれに優しく微笑んだ。
阿部ちゃんから「はうぅ」と変な声がした。「速水君なに頼んだっけ」
不意に話しかけられてど忘れしてしまった。
「白ワイン」
「あ、じゃあおれもそれで」
ヒューゴはかしこまりました、と前菜の皿を手早くまとめはじめた。そういえば営業の遠堂君がそろそろ。
「ヒューゴ」
呼びかけるとちょっと手を止めておれを見る。
「もう一人、もうすぐ来ると思うんだ。遅れててごめんね」
「大丈夫。いらっしゃったら、案内しますね」
ヒューゴはゆったりと全員に微笑みかけた。
「ちょっと高屋さん。さっきのなんですか?」
「え、なに?」
「な、ん、で、な、ま、え、」
阿部ちゃんが眼光鋭く聞いてくる。
「俺もさっき聞いてさ、っていうか名前で呼び合う仲なの?意外だよね」
速水君が乗っかる。
「それは高屋さんのPMとしてのー」
また近森君がおだてるが「そういうのいいから」と阿部ちゃんが切る。
「言っとくけど、僕の奥さんすら名前知らないからね、結構通ったらしけどさ」
「 いや、引っ越してきたときに——」おれは経緯をかいつまんで話した。
「確かにこのお店って、外観も内装も男性向けなんだけど、極端に男性客が少ないのよね」
阿部ちゃんはメイン料理である骨付きのラム肉を一口齧り、おいしい!と言ってから、「だから高屋さんが一人で入って行って厚遇されたのも分かる気はする」と続けた。「でも女性が来る店って、男も自然に集まるって言いませんか?」
もっともな意見を言う近森君に、「いやぁ」と速水君と阿部ちゃんが声を揃えた。
「無理っしょ。見てよあの淡麗な顔。それに高身長で身のこなしも優雅。自ら引き立て役になりに来るようなもんよ」
そう言って速水君はフッとタバコの煙を吐き出した。「容姿もそうだけどさ、ヒューゴの声、すごく良いと思わない?超低音でよく通る。歌手みたいだなって……なに?」
そう阿部ちゃんに同意を求めるように言っていると、みんなの視線がおれの頭上に向けられていることに気が付いた。
「それはどうも」
ぽん、と頭に手が置かれた。振り返ると追加のドリンクを持ってきたヒューゴがおれの後ろにいて。
ヒューゴが去ってから、おれは軽く顔を覆った。
「聞かれちゃったじゃないか」安倍ちゃんがそんなあたふたしている様子のおれに向かって「これはこれでアリ」と呟いた。
「何が?」
「高屋さん、仲良いんですか、ヒューゴさんと」
質問返しされてちょっと考える。
「うーん、普通の客かな。最初に見つけたときは2日連続で来たからたくさん話したけど、この間は全然。ずっと敬語だったし。最初だけは営業トークなんじゃない?」そうこうしていると営業の遠堂君がやってきて、酒席は途端に賑やかになった。
彼は大手コンサルティング会社出身で横の繋がりも太く、いい案件を引っ張ってくることから社内で相当に重宝されている。 おれのような新人PMに割り当てられるなんて不憫だと思っていたが、そんな様子はおくびにも出さずにクライアントとおれの潤滑油を徹底してやってくれている。 新人の近森君のメンターも受け持ち、気のいい兄貴っぷりで後輩からの評判もよさそうだ。遅れてきた遠堂君のために、ヒューゴは今日のコース料理全てが美しく盛られた大皿を出してくれた。残り物を食べさせるのではなく、ちゃんと冷たいものと温かいものを用意してくれる完璧なプロ精神に感心した。
ヒューゴは同時にバケットのおかわりと、長い木製のボードにいくつものチーズを乗せて持ってきた。
「サービスのチーズです。苦手なものもあるかも」
チーズは5種類、ブリーからロクフォールの強いのまで出してくれて、おまけにイチジクのジャムも付いている。宴会の支払いは予約時に済ませてあるが、5人でこんなにたくさん食べて飲めた上にチーズのサービスとはいささか安すぎやしないかと心配だ。
酒も食事も進んで、腕時計を見るともう3時間近く経っていた。ヒューゴは閉店までと言ってくれたけれど、常識的にはデザートを頼んで一旦お開きにしたほうがいいだろう。
みんなそれぞれいい具合に酔っていて、希望があればどこかへ二次会に行ってもいい。今日は金曜日だ。カウンターの端に立って、機敏に動くヒューゴを観察していると、『なんだい?』と問いかけるように眉を上げて目を向けてくれた。
今夜はカウンターも満席だ。 ヒューゴは疲労を微塵も感じさせない微笑を顔に浮かべたまま、汗一つかいていないように見えた。この人数を独りで切り盛りできていることに感心する。「そろそろ3時間になるから」
「ああ、大丈夫ですよ。閉店まで居ていただいても。他に予約は入っていませんし」
また、他人行儀モードになっている。さっき一瞬だけ、また仲良く話せるように戻ったかと思ったが。
「ありがとう。でも、だいぶ賑やかになってきたし、このへんでお開きにします。二次会に流れることになるだろうけれど」
「そうですか。お気遣いいただいて申し訳ありません」濡れた手を拭きながら「デザートお持ちしますね」と続けると、ヒューゴはキッチンへ消えた。
テーブルに戻り、デザートが終わったら一旦解散する旨を伝える。
阿部ちゃんはずっとヒューゴを見ていたいと後ろ髪を引かれていたが、どのみち時間的に帰らなければならないらしい。 気持ち的にはおれも同じで、ここでダラダラと飲んでいたい。でも自分以外は全員電車なわけで、早めに帰りたい人だっているだろう。「二次会はきまりましたか?」と言いながらヒューゴはわざわざ中から出て来てくれ、店の隅の方へおれを誘導する。
「たぶん駅前の方で軽く行くと思う。一応幹事だから最後まで付き合わないと」
「そう」ヒューゴは短く呟いてふいにおれの耳に口元を寄せてきた。「お腹いっぱいになった?」
「え、あ、うん」
「ね、透。あとで戻ってきて。何時になってもいいから」
ほとんど息だけの低音で囁かれ、首筋から腰にくすぐったいような刺激が走り一瞬くらりとしてしまう。態勢を整えるためヒューゴの腕に少しすがってしまったのが気まずく、挨拶もそこそこに急いでみんなのところへ戻る。
おれ、耳弱かったっけ。一見客みたいな接客しておいて、最後の最後にこんなのずりーよ。 二次会は遠堂君の提案で会社にほど近いスペインバルになった。「安くて旨いんで。それに」
ここはショールームの女子が結構来るらしく、社屋ではなかなか話しかけにくい彼女たちとの出会いをつなぐ場だそうだ。
もちろん速水君は知っていて、今の奥さんともここでの会話がきっかけらしい。「高屋さんって、結婚してるんすか?」
近森君が気さくに聞いてくる。職場だとそういう質問も微妙だけれど、男同士酔ってもいることだし、おれも気にしない。
「いや、独身だよ。だから引越したり転職できたんだと思う」
「そもそも高屋さんてどうしてウチに来たんです?東京からでしょ?」
「いろいろあるけど、強いて言えば、もう少し人間らしい暮らしがしたいと思って」
「バリバリやってたんすよね」
「そんなことないけど……。仕事以外のことでも、いろいろ窮屈だなって」
「いつでも紹介しますよ、女のコ」
遠堂君が自信満々に言う。
「僕には?ねえ遠堂さん」近森君がしがみつくが「お前にはまだ早い」と腕を引き剥がされていた。
近森君の弟のようなキャラクターはみんなに可愛がられて得だな。遠堂君もやりやすいだろう。おれは2人のやりとりを見つつ話を続ける。
「なんか億劫でさ。おれももう30だし、そろそろ見つけないと、なんだけど……」酒のせいか、本心が漏れる。
「それ仕事忙しいからでしょ」
遠堂君がフォローしてくれるが、速水君には「それに高屋さん植物系でしょ」と言われてしまった。
おれ、そんなに分かりやすいかな。「僕まだ23ですし全然いけます!」再び近森君が速水君の腕に縋る。
「おめー今アラサーに囲まれてるんだからちょっとは気を遣え」
今度は腕を外さず放っておいたまま遠堂君が続ける。「俺は遅かれ早かれなら早い方がいいと思って30で籍入れたけど、もしこの年で出会いそして結婚となると……想像するだけでドッと疲れる」おれは深く頷いて同意を示した。
「でもまあ、夢中になれる相手がいれば別じゃない?面倒とかしんどいとか関係なさそう」と遠堂君。えらく前向きな意見だ。
「そういうもの?」
「え、高屋さん。まさかその外見で、ずっとフリーなんてことないっすよね?」
「少し前には居たけど、なんていうか……よく分からないな、と」
「IT系の人ってそういうイメージある」と近森君がいきなりぶっ込んでくる。この世代ならではの素直さで。
エンジニアの速水君とおれは口元に手をやり、『た、たしかに』と顔を見合わせた。植物系なのか面倒くさがりなのか、もしかしたらそれらを併合しているのかも。
遠堂君は続けて、「かわいい子紹介しますよ」わざとらしくニッカリ笑い顔を作る。キミも振るねえ。
おれと速水君が近森君を見ると、口いっぱい唐揚げを頬張っていて、もうアラサーの恋愛話には興味がなさそうだった。
「おまえ、そういう所だぞ。遠堂を見ろよ、かわいそうに」
「えっ、残ってたから食べていいかと……」
「ちげぇよ!」
そんな速水君と近森君のやりとりが一通り終わると、遠堂君は作り笑顔を貼り付けたまま、「近森はおれと3次会決定」と言い放つ。
「ええー!また朝までコースっすかぁ」
近森君は口を尖らせるが、嫌がってはなさそうだ。仲良くてなによりだ。
そんなこんなでくだらない話をしながら楽しく飲んでいながらも、おれはさっきヒューゴに言われた言葉が気になって仕方がなかった。
言い方や雰囲気が、秘密を共有したような感じで。それでも遠堂君と近森君の漫才のようなやりとりで笑わせてもらい、気付けば2時間近く経っていた。
こんなに楽しい職場の飲み会は初めてだな。ギリギリ終電で帰れると駅へ走っていく速水君と、この後はカラオケに行くという遠堂君と近森君を見送って、おれは会社へ自転車を取りに向かった。
ヒューゴの囁やきを思い出して心臓がトクリと動く。
閉店後にまたあの時間が過ごせるのかもしれない期待に、胸が高鳴っているだけなのかもしれないけれど、少しそわそわした感じもあり、あまり覚えがない感覚だ。嬉しさに一番近いかな。店の前まで来ると、窓から微かに明かりが漏れているのが分かった。
Closedの札が掛かったドアをそっと開けると、カウンターで飲んでいるのか、ヒューゴの背中が見える。「来たよ」
ヒューゴは振り返り、「おかえり」と手に持っていたショットグラスをやや掲げた。
店内はすでに綺麗に片付けられていて、キャンドルの明かりだけがほの暗く揺れている。
「飲み直す気、ない?」とヒューゴが窓際のテーブルを顎で示す。
「よろこんで」
心が弾む。また2人で飲めるんだ。
「透は何飲む?」
「手間じゃなければ、モスコミュール」
「なんでも作るから言って」
ヒューゴはとても優しい口調でそう言ってくれた。
さっきの接客モードとは違い、もっと自然な笑顔で。モスコミュールに口をつけながらヒューゴを見ると、ライムをかじってグラスを煽る。やっぱりかっこいいなと思う。こんな姿、阿部ちゃんが見たら失神するんじゃないかな、と思うくらい色気がある。
男に対してこの表現が合っているか分からないけれど、一番当てはまると思う。「どうした?」
少し心配げに顔を覗き込まれて、しばし見つめていたことに気付いた。
「いや、仕草がかっこいいなと思ってさ」
「はは、ありがとう」
ヒューゴがはにかんだ。
「あのさ」
ヒューゴがなんだい?と目を少し見開いて応える。
「この間も思ったんだけど、時々、おれにも接客が他人行儀というか」
少し勇気が要ったが、おれは気になっていたことを聞いた。
「ああ、他のお客さんの手前ね」
「どうして?」
「僕はお客さんと親しくしないように気をつけている。普通に接していても、誤解がイロイロあって」
まあねぇ。向こうの男性は基本的に女性に優しいからな。それに。
「ヒューゴだからなぁ」
「僕?」
「そんな容姿で、料理も酒も旨いし。こんなのに優しく話しかけられたりしたら、そりゃな」
はは、とヒューゴは楽しげに笑いグラスを煽る。酒強いんだな。
「そんなに褒めてくれるの透だけだよ」
「でも、自覚あるでしょ?」
「そんなことはない。僕みたいなの、ヨーロッパでは普通だ」
そこで思い出した。世界の美女率ナンバーワンはストックホルムだと何かで見た気がする。ということは男も相当だろう。
「しかも、声も良いじゃん」
「たぶん発声が日本人と違うだけで、そんなに特別じゃないと思うよ。さっきも言ってくれてたね」
レジで震えた首筋がまたゾクリとする。
「いや、特別。今まで声が良いとか悪いとか気にしたことがなかったけど……最初に聞いた瞬間から、特別だなって思ったよ」
なんだか褒めすぎて、まるでおれがヒューゴを口説いているみたいじゃないか。
おれは少しだけ気まずくなって、それをごまかそうと残りのグラスを煽り取り繕うように言った。「そう?」
ヒューゴは口角を上げて挑発するような目をしたかと思うと、おれの口元に手を伸ばし、親指でおれの下唇をなぞった。
「ついてる」
モスコミュールが唇に少し残っていたのか、拭った指が濡れている。
ヒューゴは何か言いたそうな目をしておれを見ながら、濡れた指を舐めた。 一瞬カッと身体が熱くなる。何にも分からなくて、でも視線や肌は不思議な緊張感を感知していて……。「あ、ありがと……?」
ヒューゴは視線はそのままで少しの間無言でいたが、つと立ち上がり、「いいカクテルがある」とカウンターへ行ってしまった。
なんなんだよこれ……胸がざわつく。
戻ってくるなりショートグラスに入った琥珀色の酒を差し出す。
「どうぞ」
ウイスキーの味とスパイシーで花のような香り。
「なんていうカクテル?」
「ロブ・ロイ」
ヒューゴは端的に答え、スッとウォッカを煽ったかと思うと残り少なくなったボトルをかざして、
「残りはスクリュードライバーに。飲むでしょ」とおれに笑いかけた。切り替えの早いやつ。
おれは自分の身体に溜まった熱を出すように長く息をついて、「飲むよ」と答えた。 顔がほてるのはアルコールのせいだけだろうか。それから二人でめちゃくちゃ飲んだ。
映画の話と、おれは趣味の自転車についてよく話したように思う。 さっきの束の間の気まずさには一切触れないようにしているのは、たぶんお互い様で。「ごめん、もう朝方だ。明日もお店あるよね」
だんだん窓の外が白じんできている。甘えて好きなだけ飲んでしまった。
おれは休みだけど、ヒューゴは土曜も営業日のはずだ。そろそろ帰ると伝えると、
「夜中、飲みたくなったらいつでも連絡して」 と、ヒューゴはレジ横においてある店のカードに自分の携帯電話の番号を書いて差し出してきた。「登録名はカタカナでいい?」
「いいよ。でも一応、知ってて」ヒューゴはおかしげに笑いながらカードにHugoと書き足してくれた。
おれは登録したての番号を鳴らして、Hugoの下に名前の漢字を書いた。
「漢字でもひらがなでもいいからおれの番号も登録しといて」
できたら掛けてきてほしいなと思う。お店が忙しいだろうし、おれからはなかなか掛けられなさそう。
「送っていくよ」とヒューゴが席を立った。
「近いからいい、大丈夫」さすがにそこまで甘えられない。
「少し歩きたいんだ。それとも、家を知られるのが怖い?」
怖いってなんだ。
「そういうのじゃないけど」
送ってもらったりしたら、余計に離れ難く感じそうなんだ。
ちょっと寝て、ブランチ食べて、どこかでかけて。 学生の頃はそんな友達いたよな。四六時中一緒にいるような。 おれがヒューゴに感じている離れ難さって、きっとそういうのなんだろう。結局、申し出に甘えて送ってもらうことになった。
大人になってからも友達ができるなんて、幸運なことだと思う。すっかり定位置になった自転車置場へ二人で降り、おれは自転車のロックを解除する。
ずいぶん軽いね、とヒューゴがおれの自転車を持ち上げる。 このロードバイクは社会人になって初めてのボーナスで買って以来ずっとメンテしながら乗っている愛車だ。ヒューゴに自転車を任せ、だいぶ重くなってきた瞼を無理矢理こらえながら歩く。眠くてさっきからあくびがとめられない。
「酒、強いね」
「なかなか酔えなくてね。酔いたいけど」
ヒューゴは全くのシラフなのか、まるで早起きした人のように清々しい朝に馴染んでいる。
またあくびが出る。もう目が潰れそう。
「どれくらいで酔う?」
「酔ったことがあったかどうかも覚えてないな」
だめだ。眠くて倒れそう。家まであと少しなのに。
「ヒューゴちょっと腕」
おれはヒューゴの左腕を掴んで、「ここ真っすぐ、の……」とかろうじてマンション名を告げて目を閉じた。 もう無理。引きずって行くか捨てて行ってくれ。「うそ、だろ……」
ヒューゴのつぶやきが遠くで聞こえた。
家主が帰ってくるまで特にすることもなく、おれはソファにだらりと寛ぎ、ストリーミングサービスのタイトル一覧を眺めたり、スマホを触ったりして過ごした。初めて来た他人の家だというのに、自室のようにリラックスできてしまう。店の延長線上にあるような慣れからくる感覚なのかと思ったが、もしかすれば『場所』という入れ物より、ヒューゴの傍にいることに慣れているからか。さて、今日は土曜日だ。このまま家でのんびりするのもいいし、遅くまでどこかに遊びに出るのもいい。今日も泊まっていけと言うのが本音ならば。誰かと週末まるごとを過ごすなんて久しぶりだ。そういえば、と独りつぶやき、あらためてスマホを取り出してMAPアプリを確認する。店からタクシーで10分も掛かっていないようだったから、家からそう遠くないはずだ。マンションから現在地までを経路検索してみると、予想通りで自転車で20分少々と表示された。次は自転車で来よう。ジョギングに付きあって、あの美麗な完全体がヘトヘトになった姿を観てみたい。どちらかと言えば一人でも楽しめるタイプであまり孤独を感じたことはないけれど、今ではもう、ヒューゴに会う前の自分が金曜の夜に何をして過ごしていたか思い出せないほどだ。カチャリ、と鍵を開ける音がし、もう走り終えたのかと若干驚きつつも急いでドア前まで行く。開くと同時に「おかえり」と出迎える。「えっ?」しかしドア越しに聞こえてきたのは女性の戸惑った声だった。一瞬、嫌な考えが頭をよぎる。勘弁してくれ。早速かよ……「あっ!」ドアを開けたのは、驚愕した顔の諒子さんだった。「透くん!?」諒子さんは玄関に突っ立ったまま呆然として、「うそ……すごい」とつぶやく。すごいって何だ。「あ……お邪魔してマス……」おれは見知らぬ人でなかったことに心底安堵する。ヒューゴとの週末がなくなるんじゃ
タクシーの中でヒューゴの名字を聞いた。何度聞いてもうまく発音できないおれを「僕もね、実は英語の方が楽なんだ」と慰めてくれたが、おれは英語もいまいちだ。「諒子さんとはスウェーデン語だよね?」ヒューゴは簡潔に事情を説明してくれた。日本で育ったヒューゴを突然スウェーデンの小学校へ転入させるのは辛いだろうと、ご両親は英語で学べるインターナショナルスクールを選んだという。以来、現地の学校へは一度も行かないままイギリスの大学に進学したそうだ。諒子さんは移住当時まだ小さかったため、そのまま母国語がスウェーデン語となったということだった。「だから僕らは見た目と中身が逆でね。家では、諒子が僕のスウェーデン語の先生だったな」ヒューゴは少し茶化し気味に言う。「日本語は、二人でたくさん練習したんだ。僕は絶対に日本に『帰る』つもりだったし。諒子はもちろんルーツが日本にあるからね」タクシーの窓ガラスに、すこしだけ悲しげなヒューゴの顔が反射していた。いつもの笑顔に混ざった悲しみは一瞬だけで、ヒューゴはおれがそれを見ていたことに気づいていないだろう。見た目から期待される中身が、それぞれ異なる兄妹。ふたりとも容姿には恵まれているけれど、スウェーデンでも日本でも、楽しいことばかりじゃないんだろうな。なにか力になれることがあるだろうか。さっきのような、悲しい顔を一瞬でもさせないように。ほどなくして、タクシーは白いマンションの前に停車した。部屋は最上階にあたる5階の角部屋だった。ヒューゴは「ミカサ スカサ」と言っておれをソファへ座るよう促してくれる。ぐるりと見回すと、広めのL字型の1LDKのようだ。家具は、ソファとテレビの間にカフェテーブルがあるだけで、まるで生活感のカケラもない。リビングと、その向こうを分けている間仕切りが木の枝そのままをいくつも並べてできていて、白い壁と調和してあたたかみがある。「スッキリした部屋だね」オブラートに包んだ感想を述べると、「ほとんど店にいるから」と。たしか店の上階に部屋があると言っていた覚えがあ
それ以来、おれは宣言通り、ヒューゴの店の常連となった。さすがに毎日とはいかないが、仕事が早く終わった日は夕飯を兼ねて軽く飲んで帰宅。早く切り上げればうまい飯にありつける、となると日々の高効率化にもつながる。金曜は、カウンターの奥の端の席に「Reserved」の札が置かれ、おれが店の扉を開けるとそれが取り除かれる。これは間違いなく常連と自覚して良いはずだ。時折、社内の誰か——-大抵は速水君だが、と誘い合って店に行くこともある。おれのバイトのことはなんとなく言えていないままだけれど、弊社は副業推奨だし、いつか機会があれば話そうと思っている。バイトは自分から積極的に入るようにしていて、急なグループ客が来た場合など、ヒューゴに頼まれるより先に自らバイトウェイターへ変身する。飲んでる最中に働かせるなんて申し訳ない、とヒューゴは言ってくれるが、実は飲むより働いている方が楽しいんだ。接客モードのヒューゴとは硬い会話しかできないという寂しさも取り除かれるし、なにより、ヒューゴとの作業は快適で無駄がなく、例えば運転の上手いドライバーの助手席に乗っている感じ。ブレーキを踏むタイミングが合うような。必然的に諒子さんと顔を合わす機会が減ってしまうのは残念だが、時間が許す限り働いていたいと思わせる。おれもチームメンバーに、働きやすさを感じてもらえるようにと思いヒューゴの所作を盗み見ているが、なにがどうというテクニックは無いらしい。強いて言えば丁寧さであったり、雰囲気であったりといった目に見えないもののコンビネーションが『快適さ』を醸し出して、それをうまくヒューゴが纏っているのかも。すぐに真似できるものではなさそうだな。そんな調子で、金曜はほぼ毎週飲みに行き、バイトをしない日であっても閉店後にクローズを手伝って、そのまま朝方までだらだら飲む。都合が悪い日もあるだろうとヒューゴには毎回確認しているものの、今のところ金曜の深夜は空いているらしい。それにしても、毎週毎週、飽きずによく話すことがあるなとは、我ながら思う。映画の話題が多いのは自覚できているが、他
焼け付くような喉の不快感で目を覚ましたおれは、水、水……と、まともに開けられない瞼のまま自分の周りを手探りでペットボトルを探す。いつも寝る前にはベッドサイドに置いておくのだが……「起きたか」ふいに部屋に低い声が響く。がばりと上体を起こすと、ソファに大きい白人の男がいて、「おはよう」なんて挨拶してくる。「え!?ここどこ!?」おれは一瞬、学生時代に留学したカナダの寮にいるのかと前後不覚になってしまう。「透の家じゃないの?」よく見ると、引越して来たばかりの自分の部屋なのは間違いなく。そうだ!おれすごく眠くて……「ヒューゴ!」「うん」「連れてきてくれたの?」「そ。何度か叩き起こしてね、自転車も一緒に」「ごめんー」「いいよ、飲ませちゃったのは僕なんだから」ヒューゴは微笑み、「では、僕はそろそろ帰るけど」とソファから立ち上がり玄関に向かった。おれは急ぎベッドから這い出し、キッチンにあったペットボトルのミネラルウォーターを流し込みながら後ろを追う。「ほんとごめん。また飲も?」引き止めたい自分を押し殺し、靴を履いているヒューゴに声をかけた。土曜はお店も忙しいはずだ。「じゃあ……今夜もおいで。食事、用意しておくから」振り返ったヒューゴの目に、窓から差し込む日光が反射してキラリと瞬く。そういえば、明るいところでヒューゴを見るのは初めてだ。「いいの?」「必ず来て。待ってる」そう言い残して背の高い男はかがむようにドアを潜って帰った。家の玄関にいたヒューゴは余計に大きく見えた。閉じられたドアを見ながら、おれはついガッツポーズをしてしまった。今夜も美味い飯が喰える。時計を見るとまだ辛うじて午前中だった。店を出たときは夜明け間際くらいだったと思うから、ある程度は眠れている。
月曜日。新居からの初出勤は快晴に恵まれ、爽やかな漕ぎ出しだ。転職先は、自社で開発したアプリケーションが成功し、とある業界のスタンダードにまでなった実績あるソフトウェア開発会社だった。過去形なのは、開発部門を早々に子会社化し、今の母体は企画や営業中心のコンサルタント会社だからだ。 子会社と言っても名目上だけでビルも同じ。別フロアに開発部隊が居る、という感覚だ。 名刺の上ではおれの役職はコンサルタントだが、実際は自社アプリのプロジェクトマネージャーだ。顧客のニーズに合わせたカスタマイズをしたり、内部と外部の開発会社との調整をしたり。前職場では開発部門のリーダーで、一応は次の異動でプロジェクトマネージャーになる予定ではあった。しかし、配属される予定だったチームの責任者とメインの開発者のどちらも休職中、という地獄のような状況で。 顧客からの頻繁な仕様変更と、毎月の契約更新のたびに費用面で難癖をつけてくることが原因なのは明らかだったが、課長にかけあってみても「まあ修行だと思って」以外の返答はなく——元々なんとなく転職活動を始めていたおれにとって、退職の良い理由にはなったが。『会社よりも「人」で選べ』新人の時に担当チューターだった先輩の言葉だ。 先輩はすでに転職していたが、在職中からたまに飲みに行く関係で、今でも仲良くしてもらっている。 おれが転職を考えていると打ち明けた時、先輩は真っ先にそう言った。それがとても印象的で、帰り道何度も頭の中で呟いたのを覚えている。その言葉通り、転職活動では人を尊重するという当たり前のことが浸透しているかどうかを重視した。 結果、引っ越す価値があるほどの良い職場に出会えたと思っている。 いきなりのマネージャー枠での中途入社だが、チームメンバーからの純粋な力添えのお陰で円滑にやれているし、なんと言っても職場の雰囲気が明るい。 メンバー同士がリラックスして働いていて、コミュニケーションも活発だ。 ある日、正午を過ぎてそろそろ空腹を感じ始めたころ、職場付近の美味い店の話になった。各自それぞれお気に入りがあるらしく、名前が出た店舗を記憶しておく。「高
翌朝。いつもの土曜日なら二度寝をするところだが、引っ越し直後となればそうはいかない。目覚めたままに起きてすぐにシャワーを浴び、軽く体をほぐすと、さっそく片付けをはじめた。とりあえず片っ端から段ボール箱を開け、リビングの壁面収納にどんどんしまい込んでいった。細かい配置はそのうちでいい。暮らすうちに、自然と使い勝手で配置は変わってくるだろうから。昼前には全ての箱を空にし、引越し業者に回収の依頼をすることができた。もともと、おれは持ち物が少ない。ミニマリストを気取るわけではないが、ほぼ外食のため調理器具等が不要なのと、服装にあまりこだわらないためだ。通勤着に同じような服を5着、外出着が2着、あとは自転車用ウェアが2着。これに少しの上着類。これは中高6年間の寮生活による影響だと思う。収納スペースが限られていることと、学外へ出ることがほとんどなかったから毎日トレーニングウェアでどうにかなった。大学時代も、転学するまでは陸上漬けで……。とは言え、引っ越しで部屋のサイズも変化し、自転車通勤は時間的な余裕を与えてくれるだろうから、物が増えていく予感はある。夏の通勤には着替えをもっていくことになるかもしれないしな。ほこりっぽくなった身体を熱いシャワーで洗い流し、部屋を見渡す。うん、困らない程度には片付いたな。朝から集中して作業をしたおかげで、まだ外は十分明るい。梅雨の時期にも関わらず、引っ越しが雨に降られなかったのは本当によかった。さっそく自転車を持ち出し、街道へ出ると東へと向かう。昨日とは逆で、つまり会社がある駅方面から遠ざかる。暑くもなく寒くもない今の時期の晴れは、自転車乗りにとって最高の気候だ。ほんの少しの時間でも乗っておかないと勿体ない気さえしてしまう。ペダルを進めていると、少しずつだが工場のような建物が混ざってくる。おそらく準工業用地になるんだろう。さらに漕ぎ進むと、ホームセンターとショッピングモールが見えてきた。MAPアプリで目星は付けていたが、さすがの郊外店舗だけあり予想よりだいぶ敷地が広い。その背後には、40階はありそうなタワーマンションが数棟ぴったりと建っていて、低層の工場や空き地に囲まれて一種異様な景色だ。おれはこういった ”さあどうぞどうぞ、ここに住んでここで買い物してください!” といかにも準備万端に提供されている感じがど