それ以来、おれは宣言通り、ヒューゴの店の常連となった。
さすがに毎日とはいかないが、仕事が早く終わった日は夕飯を兼ねて軽く飲んで帰宅。
早く切り上げればうまい飯にありつける、となると日々の高効率化にもつながる。 金曜は、カウンターの奥の端の席に「Reserved」の札が置かれ、おれが店の扉を開けるとそれが取り除かれる。これは間違いなく常連と自覚して良いはずだ。時折、社内の誰か——-大抵は速水君だが、と誘い合って店に行くこともある。
おれのバイトのことはなんとなく言えていないままだけれど、弊社は副業推奨だし、いつか機会があれば話そうと思っている。バイトは自分から積極的に入るようにしていて、急なグループ客が来た場合など、ヒューゴに頼まれるより先に自らバイトウェイターへ変身する。
飲んでる最中に働かせるなんて申し訳ない、とヒューゴは言ってくれるが、実は飲むより働いている方が楽しいんだ。 接客モードのヒューゴとは硬い会話しかできないという寂しさも取り除かれるし、なにより、ヒューゴとの作業は快適で無駄がなく、例えば運転の上手いドライバーの助手席に乗っている感じ。ブレーキを踏むタイミングが合うような。 必然的に諒子さんと顔を合わす機会が減ってしまうのは残念だが、時間が許す限り働いていたいと思わせる。おれもチームメンバーに、働きやすさを感じてもらえるようにと思いヒューゴの所作を盗み見ているが、なにがどうというテクニックは無いらしい。
強いて言えば丁寧さであったり、雰囲気であったりといった目に見えないもののコンビネーションが『快適さ』を醸し出して、それをうまくヒューゴが纏っているのかも。 すぐに真似できるものではなさそうだな。そんな調子で、金曜はほぼ毎週飲みに行き、バイトをしない日であっても閉店後にクローズを手伝って、そのまま朝方までだらだら飲む。
都合が悪い日もあるだろうとヒューゴには毎回確認しているものの、今のところ金曜の深夜は空いているらしい。それにしても、毎週毎週、飽きずによく話すことがあるなとは、我ながら思う。
映画の話題が多いのは自覚できているが、他は何か決まった話題があるわけでもないのに、何時間も会話が尽きない。 そりゃお互い無言でぼーっと飲んでる時間もままあるけれど。 あ、でも、バイトとしての立場から印象に残った客の話や、ランチメニューの相談に乗ることができるようになったのは客兼バイトの特権かな。おれはあの酔いつぶれた日以来『きちんと一人で家に帰れる程度』を限度として飲むことにし、ヒューゴも様子を見ながら酒を作ってくれている。
二人で飲んでいると寛いでしまい、家にいる感覚で酒量が増えてしまうから。ヒューゴはいつも穏やかで、おおらかで。
おれの他愛もない話に時折挟まれる低く優しい相槌の声を聞いていると、仕事で疲労している神経がじんわり緩んで、回復してくる。 いまではこの『ヒューゴとの時間』もおれの大切なリフレッシュ手段となった。 ある金曜の夜、例によって閉店後に二人で飲んでいると、ふいに、 「今日でちょうど10ヶ月だ」と、ヒューゴが言いだした。「何かの記念日?」
「透がこの店に来た日から、ちょうど」
携帯を出してカレンダーを確認すると、まったくその通りで。
「よく覚えてたな」
「15日、覚えやすい日だから」
「もう転職して1年か。あっという間過ぎて怖いな」
「仕事のこと、聞いていいかい?PMだとは前に聞いたけれど、具体的にどんなプロジェクト持ってるの?」
めずらしくヒューゴから具体的な質問をされた。元来、自分語りはあまり好きではないがヒューゴには自分のことを話したい。知ってもらいたいと心が弾む。
「答えたくなかったらいいんだよ」
「いや、聞いてくれ」
おれは一通り会社や業務について説明すると、ヒューゴは同じような職種の人間を知っているのか、1言えば10知る感じの理解力ですぐに把握したようだ。
今任せているシステム開発会社が海外なことから、国内ではありえないような齟齬や気苦労がある。でもこのあたりのグチめいたことは、なかなか国内の同業者から共感を得難いから、外で話す機会はほとんどない。だから事情を知っている社内の速水君と飲みながらストレスを発散させるしかないわけだ。
「スッキリした顔してる」
話し終えてグラスを煽るおれにヒューゴは微笑みかけてくれた。
顔に出るほど鬱憤を出し切ってしまったか。「ごめん、グチだったかも」
「いや、面白かったよ」
「でも外国人の悪口みたいな、嫌な発言になってなかったかな」
おれはどうも、この目の前の金髪碧眼の男が外国人なことを忘れがちだ。
「そっか。僕、日本人じゃないのか」
驚いたようにヒューゴが言うから笑ってしまった。
「外見は違うねぇ。でも中身が日本人すぎて、おれも忘れてた」
「透も?」
「うん、稀に思い出すけど。それより、アンドロイドかなって思うよ」
「どういうこと」
「テキパキ働くじゃん。オーダーも正確だし、ずーっと笑顔で、整った外見で……ある意味人間離れしてるから」
「僕が?」
「そ」
おれはキャンドルの炎で緑色に見える瞳を見据えて、簡潔に肯定した。
「アンドロイドみたいだって?透は僕のことを全然分かっていないな、もう知り合って10ヶ月も経つというのに」
そう言うとヒューゴはスッと席を立って、厨房に行った。
その立ち姿や軸がしっかりした動きがよりアンドロイド感を増大させるんだよな。本人は全く気づいていないだろうけど。「これは今夜、お祝いに食べようと思って取り寄せていたザッハトルテです」
テーブルに戻ってくると、アンドロイドはそう言って細長い体躯を折り曲げテーブルにチョコレートでコーティングされたケーキを置いた。
「今の今まで、このことをすっかり忘れていた。10ヶ月のお祝い。アンドロイドなら忘れないだろ」
「10進数で覚えているくらいだしな」おれは賛同してやる。
「まあ、実のところ、これを取り寄せる理由が欲しかったんだ。久しぶりに食べたくなって」とヒューゴはケーキを指差してにやりと笑う。
ザッハトルテという名前は知っていたものの、初めて食べるケーキは見た目ほど甘ったるくはなく、中に挟まっていてるジャムがしっとりと濃厚で美味い。酒によく合った。
「どこから取り寄せたの?」
何気に聞くと、「オーストリア」と予想外の答えが返ってきた。
「え!?わざわざ?」
「それを忘れたんだから、人間らしいでしょ」
「ごめんって。もうアンドロイドなんて言わないから」
それにしても海外から取り寄せるとは、スイーツにもこだわるんだな。
ヒューゴは自分用に切り分けたケーキを早々に食べ終わり、2切れ目に手を伸ばした。2人で1ホール食べきるつもりか?「よく聞く名前だけど、日本でも売ってるんじゃないの?」
「たしかにザッハトルテ風のものはよくある。でもこのケーキは、ホテルザッハのザッハトルテ」
そしてヒューゴは、ホテル『ザッハ』のトルテ(ケーキ)だからザッハトルテだということすら知らなかったおれに、いろいろと諸説交えて話してくれた。レシピを巡っての裁判があったりと、ケーキひとつに面白い歴史がある。それほどウィーンという土地に菓子文化が根付いているのか。
「ヨーロッパはね、南の方がスイーツは豊富だしおいしい。地続きなのに地域差が大きいんだ。フランスとか。きっと王宮があり貴族がうようよ居て、菓子職人も必要だったんだろう」
「スウェーデンにはねえの?」
「そういえば、透は、ヨーロッパに行ったことがある?」
ヒューゴは少しだけおれを見て、別の質問をしてきた。答えになってはいないが、無いってことだろう。
こんな風に、答えが継続する会話に影響しない場合、ヒューゴは返答をスキップする癖がある。おれにはこのリズムが合うんだ。まどろっこしくなくて心地良い。「一応ある。弾丸出張でドイツ5日間。でも空港と会社とホテルの3箇所しか行ってないから、あれはヨーロッパでもどこでもない気がする」
「でもドイツなら、ホテルの朝食が良かったでしょ?」
「よく知ってるなぁ。それだけは今でも忘れられないよ」
おれは多種多様なハム、チーズ、パンがずらりと並んだ朝食ビュッフェを思い出す。フルーツに、ミューズリーに、ヨーグルトに……熱々のゆで卵、際限なく勧められる濃いコーヒー。
「朝食を思い出したらドイツに行きたくなってきた」
「どうせならヨーロッパ周りたい、アフリカにも行きたい」
ヒューゴが規模が大きいことを言う。まあ我々日本人サラリーマンには取得できる休暇に限りがあるから、そんなこと夢のまた夢だよな。
「いつか……」と、ヒューゴがショットグラスに視線を落とす。
そうだな。
おれは、いつかおまえと一緒に旅行に行けたら楽しいだろうなって思うよ。 しかしおれはそれを口に出さず、代わりにモスコミュールを飲み干す。 言えばきっとヒューゴは同意してくれる。でも口約束なんて軽くしたくないんだ。実現したいことが、口約束の安心感で叶わなくなりそうで。せっかくの本物のザッハトルテを堪能すべく、コーヒーを入れて2切れ目にとりかかる。
来店10ヶ月目か。覚えていてくれたのは単純に嬉しい。 久しぶりに食べたくなったと言っていたが、前回はいつなんだろう。取り寄せたのか、現地で食べたのか。 あと、本人は無自覚のようだったがザッハトルテの発音がときどきドイツ語風になっていたし、ホテルの朝食も知っているようだった。ドイツに住んだことがあるんだろうか。おれはヒューゴのことを殆ど知らないな。「あのさ、ヒューゴってあまりおれに、というか他人に興味ないタイプ?」
「ん?」
ヒューゴは飲み干そうとしていたショットグラスを途中で置いて、驚いたようにおれを見る。
「どうしてそう思うんだ?」
「お客さんと個人的な話をしているところを見たことないし」
おれとも同様だけど。
ああ、そういうことか、とヒューゴはグラスを置いた。「それはたぶん誤解。僕はお客さんに個人的な質問をしない」
「そうなの?」
日本人はまず相手のステイタスを確認しないと、落ち着いて話せないような文化だもんな。
「年齢、職業、学歴、年収、宗教、これらはまず聞かない」
「じゃあヒューゴは、おれともあまりパーソナルな話はしたくない?」
ヒューゴの言う通り、もう10ヶ月もこうして二人で飲んでいるというのに。
「いや?こちらから聞かなくても、大抵のお客さんはたくさん質問してくるし、酔うと結構個人的な話をしてくるよ。透でしょ?自分のこと話さないし僕に何も聞いてこない」
そう捉えられていたのは意外だった。
「じゃあ今夜はたっぷり質問しようかな」
おれは少しおどけて聞こえるように言ったが、ヒューゴの目から視線を外さなかった。本当に興味があるから。
「透には、僕のことを知ってほしい。なんでも聞いて」
ヒューゴは置いたグラスを再び持ち上げて一気に飲み干し、深く呼吸すると、低く囁くように言った。
空気が震え、少し胸の奥がくすぐったい。「ずっと、お前のこと知りたいと思ってた」
ヒューゴは微笑み、「たとえば?」と促してくれる。
「まずは名字。あとは、店に居ないとき……休日の過ごし方とか」
しかしそういうことを知らないまま、10ヶ月も飽きずに話題があったってことだよな。それはそれで面白いのかもしれないけれど、少しさみしい。
「そうだな」とヒューゴは少し考えるように間をおいて続けた。
「明日、休みだろ?僕の家に来るかい?」「それ、今からでもいい?」
ほとんど反射的に言ってしまった。
ヒューゴは一瞬目を丸くしたが、すぐにふっと笑って、
「もちろん。じゃあ、タクシー呼ぶよ。続きは家で飲もう」と快諾してくれた。ちょっと困らせてしまったかと不安になるが、でも、善は急げだ。
「急にごめん。あのさ、おれ、ヒューゴのことをもっと知りたいのは本音だけど、それと同時に、別に知らなくても良いとは思ってるんだ」
「どういうこと?」
「知って何か変わるってわけでもないし……それに、これから2年、3年と経つうちにわかることもあるだろうし」
「僕も同じだよ。でもね、いい機会だし、少し進もう」
そう言うとヒューゴは携帯電話を取り出して、タクシーを呼んだ。
秋も深まった11月。その夜は、ヒューゴの誕生日を2人きりで祝い、シャンパンが無くなるのを待ちかねたように、ベッドになだれ込んだ。いつもにも増して、長くとろけるような愛撫を与えられ、この後に起こることを期待しておれの身体はじくじくと熱くなる。毎週末の逢瀬のごとに乳首を蹂躙され、その射精を伴わない長い絶頂の最中にヒューゴは1本2本と指を増やしておれの内側に強烈な快楽を教えていった。覚悟していたよりも早くに慣れていく自分の身体が怖かったが、それにも増して喜びが大きかった。乳首から脳がどろどろに溶けるほどの快感を与えながら、ヒューゴはおれのものをぬるりと咥え、後ろにも指をそっと挿入する。2本目の指が入ってきた瞬間、少しだけ射精してしまう。「なんて身体してんの」「おまえの、せい、だろッ」もっと、とねだったのはおれだが。「才能だと思うけどね」ぜえぜえと全身で呼吸を整えるおれを尻目に、ヒューゴはからかうような笑顔で横臥し、余裕綽々だ。「苦しい?少し休憩する?」口ではそう言いながら、覆いかぶさってくる。「続けて……」「うん。透の身体も、僕を待ってるみたいだ」再びつるりと指が入れられ、またぞくぞくと電流が腰に走る。気持ちいい場所すべてを同時に責め立てられ、何がなんだか分からない状態に、目を閉じてただ身を任せる。「透。こっちを見て」目を開けると、荒い呼吸で上体を微かに上下させながら見下ろしている鋭い瞳とぶつかった。おれの足は大きく広げられ、尻にはヒューゴの脛が差し込まれている。絶対に足を閉じることも伸ばすこともできないようにしておいて、ヒューゴはぐいと自分のそそり立ったものを掴み、先端をおれの方へ向ける。雄々しく輝く瞳に見据えられ、ぞくりとする。「おれの中、ヒューで満たして」そう言った瞬間に内部を広げていたヒューゴの指がずるりと引き抜かれ、衝撃に悲鳴を上げてしまう。「うあ、あ、」間髪入れ
目覚めて最初に視界に入ったのはヒューゴの首元だ。エアコンが効きすぎた部屋で温かいものに包まれての目覚め、やっぱり最高。身じろぎすると、「起きた……?」とヒューゴの声がじんわり染み、その甘さに思わず目をギュッと閉じてしまった。金色の獣はふっと笑っておれの耳を唇でくすぐる。ああ、もうそれだけで……「まだ残ってる……?」「ちょっと怖い、自分が」「でも、すごく気持ちよさそうだったよ」「うん」おれが即答すると、「good boy」とヒューゴはおれのこめかみに軽く口付ける。「じゃあ……まだ夕方までたっぷり時間はあるし」ヒューゴはおれの胸に顔を埋め、初めて、手を下半身へ伸ばした。乳首をゆっくり舌で弾かれながら、掴んだ手で上下に扱かれると、すぐにおれはよく知る感覚に襲われる。ヒューゴは動きを止めて、ジッとおれを見ると、「どうする?」と低く囁く。その声があまりに色っぽくて、おれは我慢できずに、はやく、とねだるしかなかった。ヒューゴはおれの瞼にキスをして「きれいだよ、透」と言ってくれる。身体がまた仰け反って、ビクビク跳ねる。あ、出る……その瞬間、ヒューゴはおれのをギュッと掴んで射精を止めてしまう。でも、絶頂間はそのままで……さらに乳首に歯を立てられ、また強烈な快感がやってくる。それでも手を離してくれず。何度も追い詰めれて、その度にいかせてくれと懇願した。なのに、このもどかしくて気が狂いそうな感じもすごく良くて。終わりたくない。もっとおれを壊して欲しい。ヒューゴはそんな状態をまるで百も承知かのように、懇願を聞き入れてくれず、吸って、擦って、止めて、口付けて……おれのアタマとカラダを強引にコントロールする。おれは絶頂手前の永遠に続く快楽の中でヒューゴのそれに手を伸ばした。「透、僕はいいから&h
ヒューゴは後ろ手に部屋のドアを閉めると、おれを玄関の壁に押さえつけて、貪るようなキスをしてきた。「ようやく2人きりになれた」耳元で熱く囁かれたせいでその場で座り込んでしまいそうなり、「嬉しい反応してくれるね」と笑われた。「昨日……おれになんかしただろ」ただでさえ8月半ばの熱帯夜なのに、キスで余計に体温が上がり額に汗が流れる。それさえもヒューゴは舐め取ってしまったが。「とにかくシャワー浴びよう。暑い」腕を掴んでおれを引き起こすと、すぐにヒューゴはおれのシャツを脱がせ始めた。全く同意だ。湿度が高いせいで、バーで付いたタバコの煙や酒の甘ったるい匂いが汗と共に纏わりついたまま取れていない。このまま寝るのなんて論外で、部屋に入るのも気が引ける。温度の低いシャワーで落ち着き、寝支度を済ませたおれたちは、並んでベッドヘッドに背をもたせかける。ヒューゴはタブレットを持ち、なにか検索している。まだ寝るつもりはないようだ。おれの方も、昼間に精力を使い果たした上に、いつもより強いアルコールが入っているにも関わらず、気が高ぶっているのかまだ眠気は遠くに居る。生来の夜型らしく、油断するとすぐに昼夜逆転してしまう。今回然り、いつも長期休暇の最初には、早寝早起きを誓うんだけど、守れた試しがない。一人でリビングに移動し映画を観るなり飲みなおす手もあったが、せっかくだからこのままヒューゴの傍に居ることにした。夏季休暇が終われば、一緒に眠れる夜は週末だけになってしまうから。「なに?」ヒューゴが含み笑いをしながら、こっちを向いた。「ん?」「ずっとこっち見てるから」あ、そうだったか。「見ておかないと、あと5日で夏季休暇が終わるから」「かわいいこと言うよね、たまに」ヒューゴはこめかみに軽くキスをして、またタブレットに向き直った。おれは、ナイトテーブルの上に置いてあった携帯に充電ケーブルを挿しながら、「そう言えば」と切り出す。
夢のような3連休だった。透は明日から出社で、しかも長引いた出張のせいで業務が溜まっているらしい。食事を用意しておくからと、どんなに遅くなっても店に寄るよう約束させ、僕はしぶしぶ透を家に送り届けた。マンション前に車を停めて、少しだけキスを交わす。今までで、一番帰したくない夜だった。エントランスに消える透を見届け、その足でクリスの店へ向かった。透と連絡がとれなくなってからの僕を親身になって心配してくれていたから、突然平日に店を訪れた僕を見るなり、クリスは不安気な顔を作った。「ダイジョウブ?」「ああ。心配かけた。透が、戻ってきたよ」音信不通事件の理由を説明し終わると、クリスの顔に安堵が広がる。「怪我がなくて本当によかった」僕も深く頷いた。「それとは別に……とりあえず一番良いシャンパンを」注文と僕の顔を見て、この古い友人はすぐに思い当たったようだ。今夜ばかりはポーカーフェイスではいられない。「まさか!全部話せよ!」と僕につられたのか満面の笑みだ。クリスは上機嫌になり、踊るような滑らかさでシャンパンをグラスに注ぎカウンターから出てくると隣に腰掛けた。今夜は友人として共に飲んでくれるのだろう。僕はスツールの上で軽く居住まいを正した。クリスはだれよりも早く、僕と透のことを知る権利がある。「合鍵を交換して……キスをした。信じられないだろ?透から告白してくれたんだ」「おめでとう。心から」クリスの祝辞に合わせて僕らはそれぞれのシャンパングラスを掲げた。一口飲んで、それがありえないほど良いものだとわかった。尋ねても頑なにボトルを見せてくれないが。「まさかヴィンテージか?」「できたての恋人のために半分残しておきなよ」「あまり驚かないんだな」「トールがあんたに好意を寄せているのなんて、一目瞭然だったでしょ」「そこまで自惚れちゃいねえよ」「おでこにキスされただけで耳ま
遠くで雷鳴が聞こえる。小雨になったものの、不安定な大気は続いているようだ。台風でも来ているのかもしれない。ベッドでごろごろと寛いでいたが一度起き上がり、寝室の窓のブラインドを全開にした。山の斜面に建っているマンションは周辺では一番高さがあり、窓からは、空も市街地も見渡すことができる。それに気付いたヒューゴが、リビングで灯していた小さなキャンドルだけを残して照明を落とし、「雷鑑賞か」と言いながら寝室にやってくると、おれの隣で肘を立てて頭を支えながら横臥する。「あ、光った」細い閃光が空から地上に突き刺さる。ヒューゴは、仰向けのまま窓の外を見ているおれの頭を撫でてくれる。髪をすくうように往復する指先が心地良い。しばらく無言のまま、雷光でフラッシュのように白む空を眺める。頭からじんわりと伝わる温もりに癒されながら。「疲れてる?」「いや、とてつもなくリラックスしてるよ。まだ休みはあるし、おまえが傍にいるし」髪をすくうヒューゴの手に自分の手を重ね、長く筋張った指を撫でた。「透」とヒューゴは小さくおれの名前を呼んだ。「少しだけ、触れてもいい……?」そう耳元で囁かれ、一瞬でカッと身体が熱くなってしまい思わず目を瞑ると、ヒューゴはゆっくりおれに覆いかぶさってきた。腰が触れ、背中に戦慄が走る。「言っただろ、なにをしてもいいって」「少しずつ、ね」ヒューゴは腕をついておれを見下ろしたままで微動だにしない。窓から雷光が差し込み、青い瞳の奥がシルバーに輝く。吸い込まれそう。「透はとてもきれいだ」「全部おまえのだよ」おれがそうささやくと、ヒューゴは照れたように優しく微笑みキスをしてくれる。でもすぐに離れてしまい、おれは広い背中に腕を回して引き寄せた。遠慮と情熱のそれぞれを持て余して悩むヒューゴは魅力的だ。どうにでも好きなようにできると知っているのに。軽く口を開くと熱い舌がおれの舌を絡め取る。今夜のキスは、いつもより柔らかく、
ヒューゴは夜明け頃に焚き火を起こしたようで、おれは半覚醒の中まどろみながら、時折目覚めては、チェアで寛いでいるその姿を見ていた。渓谷に細く降り注ぐ朝日の中にいるヒューゴは、怖いくらいに美しかった。朝日に光る川の小波と、光の届かない暗い岩間の両方をそのまま身に纏うように鋭く暗く輝いている。水の精霊の化身だと言われても納得しそうなほど、人知を超えた魅力がある。まったく、どこにいても絵になる男だな。いつまでも鑑賞していたいが、今は教会で宗教画を眺めているのではなく、河原でキャンプ中だ。日差しが強くなる前に起床せねば。朝食は、昨夜のBBQで残しておいたステーキ肉を使ったホットサンドウィッチだった。コーヒーはヒューゴがアルミのボトルに入れて、川の水で冷やしてくれていた。天然のアイスコーヒーだ。「今日は何する?」サンドウィッチを頬張るおれにヒューゴが尋ねてくる。肉とチーズの他に缶詰のベイクドビーンズが入っていて、それがなんとも言えないアウトドア風味を出している。最高に美味い。「ゴーグル買ってきたから、水の中で魚を見たい。予定はそれだけ」「魚を獲ってみるのは?」「釣具買ってきたの?」「いや、手掴み。僕のやり方が日本の魚に通用するか試したい」「面白そうだな」「捕れたらお昼は魚を食べよう」朝食を食べ終えたおれたちは河に入り、膝より低い水位でゴツゴツと岩が突き出た浅瀬へ、そーっと移動する。料理のできないおれにとっては、生の魚を触ることからもう初めてだ。「あっ」少し大きな声を出してしまい、ヒューゴにシーっと注意される。ビャッと足元で素早く動くものが岩の下へ潜り込んだんだ。「岩の下に手を入れて、魚に触れたら、腹側をそっと何度か撫でる。魚が動かなくなるから、そこを両手で掴む。やってみて」魚の影が入り込んだ岩の下にゆっくり両手を入れて探る。手に、ぬるりとして張りがあるものが触る。ヒューゴに教わった通りに腹をくすぐるように撫でると、たしかに魚の動きが止まった。いまだ!と両手で