로그인午後の仕事は、主人たちの生活スペースで行われる雑務が多い。
これは主人の目につく場所での仕事になるし、来客と対面することも頻繁にある。
そのため、午後は身だしなみも整えるため、午前の服とは別に主人が用意した制服を着用することが義務付けられている。
黒い長袖ドレスに、フリル付きの白いキャップとエプロン。
これが、バルダート家の使用人に用意された基本的な制服である。
前日は主に階下の仕事が中心だったため、アデーレはここで初めて制服に袖を通すこととなった。
「なるほど……」
いわゆるメイド服というものに初めて袖を通したアデーレ。
その完成度の高さに、思わず感嘆の声を上げた。
デザインだけ見れば、煌びやかさは微塵も存在しない地味な衣装だ。
しかし自前で用意した仕事着よりも、生地の材質や縫製の精度が優れたドレス。
ロングスカートながらも動きやすく、なおかつ形が崩れない工夫が随所に施されている。
何より、控えめだからこそ醸し出される気品を受け、アデーレの背筋は自然と伸びる。
国の執政にも関わる貴族の家ならば、使用人の制服にも相応の金と手間が掛けられているということだろう。
今さらながら、アデーレは自分が高位の家に務めているということを実感していた。
「それでは、本日はこちらで調度品の手入れをして頂きます」
先導するアメリアによって、数名のメイドと共に案内されてきたのは二階にある広い食堂だ。
中央には二脚の白い長テーブルが向かい合うようにして置かれ、窓際には食事の際に使うのだろう同色の椅子が片付けられている。
小さな体育館くらいはありそうな広間だが、家の者だけが使う場所らしい。
天井画にシャンデリア。白地に蔓を模したような金模様が施された壁紙。
壁沿いに設けられたチェストの上にはいかにも高級品といわんばかりのインテリアが飾られ、上座奥の壁には好奇な身なりをした人物の絵画が掛けられている。
田舎者に見られるだろうと考えつつも、アデーレはその豪勢な室内に目を奪われてしまう。
同郷の少女たちも、同じように圧倒されているようだ。
そんな少女たちをやんわりとたしなめるように、軽い咳払いをするアメリア。
その音に促され、皆がアメリアの方に視線を戻す。
「どれも貴重なものなので、くれぐれも粗相のないようお願いいたします……ラヴィニアさん」
アメリアが隣に立つ使用人……ラヴィニアに視線を向ける。
後は任せる、ということだろう。
「かしこまりました、スィニョーラ」
両手を腹部で重ね、ゆっくり頭を下げるラヴィニア。
ラヴィニアの返事を確認したアメリアは、皆に軽く会釈をして食堂を後にする。
アメリアの退室を確認した後、軽くうなずいたラヴィニアが自らの方を見る使用人たちと向き合うように振り向く。
「という訳で皆さん。ここからは私が指示を出しますので、分からないことがあったらいつでも尋ねてくださいねー」
灰色の髪と垂れ目が特徴の、温厚そうな雰囲気を見せるラヴィニア。
後輩たちに向けるその緩やかな声色も、彼女の穏やかな性格を表しているかのようだ。
しかしアメリアからこの場の仕切りを任されるほどに、彼女もまた熟達の使用人である。
ラヴィニアはメリナの同期で、アデーレも少しだけ話したことのある相手だ。
実際に性格も穏やかで、はきはきした性格のメリナと雑談していた時は、まるで賑やかな妹の話を聞く聞き上手の姉のようだった。
ふと、彼女の背後にある銀製の皿に目が行く。
わざわざスタンドを使って立てられている辺り、実用品ではなくインテリアだろう。
「このお皿はちょっとびっくりしちゃう高級品だから、私が手入れしますね」
アデーレの視線に気づいたのか、ラヴィニアが穏やかな笑顔で答える。
(あれには触らないでおこう)
これから手入れするインテリアの数々が、アデーレには地雷と同等の危険なものに見えてきたのだった。
◇
装飾品や家具を磨いていく作業を続けて、一時間は過ぎただろうか。 単純な仕事量は窓ふきなどと比べれば楽なのだが、わずかなミスで大惨事と考えると、何より精神が
アデーレが今手にしているのは、青と赤、金の装飾が施された白磁製のランプだ。
ワインボトルほどの大きさがあり、丸みを帯びた白色ガラスのカバーには指紋一つ付いていない。
わずかに震える手でランプを持ち、乾いた布で丁寧に磨いていくアデーレ。
時折落としてしまうイメージが頭を
「アデーレさん、少しいいかしら?」
いつの間にか背後にいたラヴィニアが静かに声をかけてくる。
「はい。どうしました?」
ランプをチェストの上に戻してから振り返ると、真っ先に困り果てた表情のラヴィニアと目を合わせる。
何か粗相を働いたのかとアデーレは身構えてしまうが、こちらを驚かせないよう気を遣ってくれているラヴィニアの様子を前に少し気を緩める。
「えっとね、お嬢様が今日は隣の応接室でお茶がしたいそうなの」
その言葉が一瞬のめまいを誘い、思わず手元の布を落としそうになる。
メリナの話では、普段エスティラは寝室でお茶を済ませるという話だったはずだ。
「あー……め、珍しいですね。応接室でなんて」
「お嬢様は気まぐれな方ですからねぇ。今日は外出も出来ないので、気分転換かしら」
「なるほど……」
ラヴィニアもメリナから話を聞いているため、アデーレとエスティラの確執については知っている。
そんなアデーレを気遣って、わざわざ教えてくれたのだろう。
とはいえ、主人ともあろう者が用もなく食堂に来るということはないはずだ。
おとなしく仕事を続けていれば、急な鉢合わせもない。
そう自分に言い聞かせつつも、布を持つアデーレの手が強く握りしめられる。
その時、背後の扉が開く音が耳に入る。
「あら、意外と人手は少ないのね」
広い室内によく響く声は、どこか聞き覚えのあるものだった。
アデーレの身体が、凍り付いたかのようにぴたりと固まる。
(何でだ……?)
脳裏の声はアデーレと、そして良太の焦りも混ざり合っているようだった。
ヒールで床を鳴らしながら歩み寄る人物を確認するため、アデーレは軋む扉のようにぎこちなく振り返る。
その瞬間目についたのは、背中にかかるボリュームのある長い金髪。
そしてへの字に曲げた口元と、突き刺すような視線を放つ澄んだ青い瞳の釣り目。
アデーレは確信した。
成長しているが、出会った当時の面影は間違いなく残っている。
今ここに立つ高貴な少女こそ、バルダート家令嬢。エスティラ・エレ・バルダートだ。
「お嬢様っ、どうなされたのですか?」
隣にいたラヴィニアが、慌ててエスティラの元へ駆け寄る。
「暇なのよ、アメリアに外出止められて。だからあなたたちの仕事ぶりでも見てやろうと思っただけよ」
「そ、そうでしたか」
その
十人中十人が確信するほどに、今のエスティラは間違いなく機嫌が悪い。
アデーレはすぐさま彼女から目を逸らし、他の仕事はないかと周囲を見渡す。
そんなごまかしもむなしく、エスティラの足音が真っすぐアデーレの方へと向かってきた。
「あなた」
ついに声をかけて来たエスティラ。だが不審なアデーレの動きに対し特別怒りを向けてきた様子はない。
アデーレの後ろ姿を見ただけで、顔を確認していないからだろうか。
「……はい」
出来るだけ不安を顔に出さないよう、平静を装ってゆっくりと振り返る。
近くで見るエスティラの顔は、一目で分かるほどに美人だ。
だが不満を隠さないその険しい表情は、使用人ならば誰でも不安に駆られてしまうだろう。
その時、アデーレの緊張がさらに高まる。
何を思ったのか、エスティラがアデーレの傍まで近寄り、じっと顔を見つめてきたのだ。
自身より身長の高いアデーレに対し、つま先立ちで顔を近づけるエスティラ。
それは彼女の長いまつげが、アデーレの鼻先に触れそうなほどの距離だ。
アデーレの緊張はピークに達し、背中を冷たい汗が流れる。
「んー……」
顎に手を当て、考えこむ仕草を見せるエスティラ。
鼻先が触れそうなほどに顔が近い。
何でこんなに顔を近づけてくるのか。
アデーレは心の中で、彼女の行動に対する不満を漏らしていた。
「あなた、どっかで会ったかしら?」
「そ、そうでしょうか」
「ええ。どこだったかしら。ラヴィニア、何か覚えてない?」
「私はぁー……特に存じ上げませんねぇ」
アデーレ……おそらくラヴィニアも、出来れば思い出さないでほしいと願っていた。
ただでさえ不機嫌なエスティラだ。
もしも目の前にいるのが因縁の相手だと気づいたら、どんな無茶振りをしてくるかわかったものではない。
このまま穏便に済んでくれと、アデーレは口に出すことなく祈り続ける。
「ふぅん。まぁいいけど」
アデーレから顔を離し、出口の方へと体を向けるエスティラ。
どうにか危機を脱したかと、アデーレは気づかれぬよう胸を撫で下ろす。
だが……。
「あなた、今からお茶の用意をしなさい」
危機を脱してなどいなかった。
むしろ、状況は更に悪化していくばかりだ。
「えっ? ですがお嬢様、彼女はまだ新人でして」
「それくらい新人メイドにも出来るでしょ。どうせ、いつかやることなんだし」
「それはそうなのですがぁ……」
ラヴィニアの不安げな眼差しが、アデーレに向けられる。
既にアデーレの笑顔は引きつっていた。
「半端に思い出せないのも気持ち悪いわ。あなた、しばらく私についていきなさい」
再びエスティラがアデーレと向き合い、指を差して命じてくる。
使用人である以上、こうなると逆らうのは不可能だ。
「か……かしこまりました」
主の命令に、素直に従う使用人。
渋々頭を下げるアデーレだが、使用人たるもの不平不満を表に出すなど言語道断だ。
今はそれを徹底し、少しでも過去を想起させないよう立ち回るしかない。
こうして、アデーレの使用人としての最大の試練が、二日目にして訪れたのだった。
結晶魔獣との決戦から数日後。 名目上の休暇を終え仕事に戻ったアデーレは、貯蔵室で待つメリナと落ち合っていた。 だが、勝者であるはずの二人の顔に笑顔はなく、揃って眉をひそめ向かい合う。「やっぱりアデーレの懸念通りだったよ」「そうでしたか……」 大きな戦いを終えた後とは思えないほどに、アデーレは憂鬱なため息を漏らす。「海の底も調べたみたいだけど、あの入り江に停泊してたダニエレ教授の船は見つからなかったって」 メリナの話に対し、アデーレは驚くわけでもなく静かに相槌を打つ。 人気の少ない入り江に停泊していた、ダニエレがこの島に来るために用いた大型帆船。 大学の所有物であるこの船が、件の戦いの後から行方不明になっているのだ。 エヴァが船を悪事に利用していたことは、既にメリナから説明を受けている。 それ故に、あの戦いの直後に見た沖の船に強い懸念を抱いていた。「アデーレは、船を盗んだのはダニエレ教授の助手だって考えてるんだよね」「はい……。その場合、出港の準備を配下の眷属に進ませていたってことになるけど、眷属だけで船を動かしてるってことなのかな?」「それは少し難しいかもね。ムトゥラの眷属は指示に対し忠実な分、自発的に動くことはまずあり得ないから」 傍らに浮かぶアンロックンの言葉を受け、表情を曇らせるアデーレ。 彼女が最も懸念していたことは、銀のムトゥラと化したエヴァ・アソニティスが生存していることだ。 アデーレはあの丘の頂上での戦いで、エヴァに対し致命傷といえる傷を負わせることができた。 それでも倒したという確信が持てず、その不安は小さなトゲのようにアデーレの心で残り続けていた。「つまり、銀のムトゥラは自らが戦いに赴くことで囮になって、その間眷属には船を出港させるための準備を進めていた……かもしれないわけか」 俯き気味のメリナが腕を組み、重苦しいため息をつく。 アデーレは言葉を返すことなく、静かにうなずきながら彼女の様子をうかがう。「万が一、船の奪取こそがムトゥラの目的だとしたら、今回の戦い自体僕らの目を船から遠ざけるためのものだったかもね」 すっかり反省した様子のプルトも会話に加わり、それぞれが魔女の力を得たエヴァの動向に思考を巡らせる。 島に危害を加えることが主目的でなかったという事実は、アデーレにとって衝撃的なものだ。 そ
夜の闇が辺りを包み、三日月のわずかな光が荒野を照らす。 丘の麓にはかつて結晶魔獣だったものの破片が散らばり、破壊の寸前まで追い詰められていた最後の防壁が静かに佇む。 その上に立つアデーレが、静寂に包まれた戦場を見下ろす。 動く者は何もなく、二人の戦士が全ての魔獣を撃破したことを物語っている。 彼女が軽くため息を漏らしたところで、地上で戦っていたメリナが防壁に飛び乗ってくる。「お疲れ様」「あ、はい。終わりましたね」 二人で並び、自分たちの成果を改めて確認する。 前方には戦いによって荒れた土地。 後方には無傷の港町。 暗い町から人気は消えているが、港の方に目をやると何隻もの船が明かりを灯し、沖に出ているのが確認できる。 島民全員が脱出できたというわけではないだろうが、しばらくすれば魔獣が倒されたことに気づいた人々が戻ることだろう。 彼女たちは、島の人々を守るという大切な使命をやり遂げた。 群体で攻め入った魔獣を全て倒すという困難な戦いを乗り越え、この島の平穏を取り戻したのだ。 そんな達成感を噛みしめつつ、アデーレが赤い髪をなびかせつつ、わずかに紅潮したメリナの顔を見る。 わずかに目を潤ませ遠くの海を眺めている彼女もまた、自らの戦いの成果を実感していることだろう。 アデーレがもう一度町へと視線を戻そうとしたその時。「ありがとう」 消え入りそうな声で、メリナがつぶやく。「私なんかを信じてくれて、本当に……」 静かな町を見つめたまま、彼女は再び涙をこぼす。 涙はすぐに氷の粒へと変わり、吹き付ける風に流され荒野の方へと消えていく。「お礼を言うのは私の方ですよ」「そんなこと……」 それ以上言葉は続かず、はにかみながらも静かに見つめ合う二人。 しかしこういったやり取りに慣れていないせいか、ほぼ同時に笑い出してしまう。 もう二人の間に険悪な気配は微塵もない。 互いを友と認め、味方と信じあえる仲間がそこにいた。「まあ、【私】はまだ許していませんけどね」 その時、フラムアルクスに変形したアンロックンが低めの声でつぶやく。 普段とは違う、私という一人称。 その上で一切の陽気さを感じさせない威圧的なその声色。 突然のことにアデーレが目を丸くし、顔を上げたメリナは肩を震わせる。 これは相棒であるアンロックンではなく、聖火の女
巨大結晶魔獣の体から、白い光があふれ出す。 体内からは破砕音が轟き、直後に白い閃光が胴体の反対側から突き出す。 体を射抜かれた魔獣は悶絶するように二本の触手を震わせると、結晶同士がこすれ、ぶつかり合う断末魔のような騒音が轟く。 直後に落下するメリナ目掛け触手を振り下ろすも、彼女の背中を支えるアイギスが旋回し巨大な触手を容易く回避する。 触手はそのまま小型の魔獣が集まる地面に叩きつけられ、多くの魔獣を巻き添えにしつつ巨大魔獣が地面に倒れる。 立ち上る土煙の中から、砕けた結晶の破片が周囲へと飛び散る。 やがて倒れた巨大魔獣の体から白い炎が噴き出し、内側から巨大な爆発を引き起こす。 岩や結晶、氷片……無数の破片が空中へと散乱し、それらは地上に落ちる前に霧散していく。 巨大魔獣の撃破を空中で見届けると、メリナは自らの右手に再びグラギデンドを生み出す。 その後眼下に残る魔獣の群れに視線を移すと、彼女の視線に呼応するようにアイギスが地上の向け急降下。 目の前に迫る結晶魔獣が前方へと突き出された穂先で貫かれ、直後にアイギスの翼による突進を受け真っ二つに砕ける。 その後再び上空へと舞い上がったアイギスが、足に掴んでいたメリナを魔獣の群れへと投げ込む。 慣性により前方に向け落下していくメリナは、そのまま地面を滑るようにして着地。 その間もグラギデンドを縦横無尽に振り回し、周囲に集まる魔獣をなぎ倒していく。「ここからッ!」 穂先を地面に突き立て、ブレーキをかけて強引に停止するメリナ。 その直後、氷壁の方から彼女の周囲目掛け、白い炎の矢が降り注ぐ。 矢は次から次へと魔獣を貫いていき、地面に突き刺さると同時に周囲の空気を凍り付かせながら爆散する。 メリナが氷壁の方を見上げると、フラムアルクスを構えたアデーレが壁の下に向け大量の矢を放っていた。「なんとも壮観だね」 文字通り、矢継ぎ早に放たれる炎の矢を前に、プルトがやや困惑した様子でつぶやく。 負傷により前線へ出られないと弱り果てていたアデーレだが、断続的に矢を放つその光景はそれに反する勇ましいものだ。「それがアデーレ……ヴェスティリアなんだよ」「ロントゥーサ島の守護者、か」 メリナの脳裏に、かつてアデーレに救われたときの記憶が蘇る。 自分を使用人として育て上げ、人並みの生活を与えてくれた
ひとしきり涙を流した後、目元をぬぐい立ち上がるメリナ。「ごめん……ありがとう、アデーレ」 普段とは違う、どこか刃のような鋭さもうかがわせるベルシビュラの姿。 だがアデーレに向けたその笑顔は、アデーレがよく知るメリナ・バラッツィのそれと変わらない優しいものだった。 そんな彼女に向けうなずき、満足げにほほ笑むアデーレ。 そしてもう一度、今度はメリナと共に迫り来る魔獣たちの方を睨む。 和解を果たした今、この目の前に迫る危機を共に乗り越えなければならないのだ。 落ちた槍をメリナが手に取り、続いてアデーレが突き立てていたフラムアルクスを引き抜く。 だが、その反動で彼女の体が揺れ、メリナの肩に寄りかかる形になる。 アデーレの表情はわずかにこわばり、それを目の当たりにしたメリナが眉をひそめる。「すみません。実はちょっと本調子じゃなくて」「本調子じゃないって……そっか、そうだよね。たくさん傷ついたんだから」 格好つけた手前、自らが弱っていることを誤魔化すようにアデーレが苦笑を浮かべる。 だが、それを必要以上なまでに深刻にとらえてしまったのだろうか。 寄りかかるアデーレの肩を抱き、その場に座らせるようメリナが促してくる。 しかし、アデーレはもう一度フラムアルクスを杖にしつつ、座ることを拒否。 弱っていることを隠しきることはできていないが、それでも全ての苦痛を強引に押し込める。 そんな彼女の強がりに、それでもメリナは手を差し伸べる。「無理しないで。ここは私に任せてくれていいから」「いえ、目の前のアレを倒すまで、休むわけにはいかないんで」 笑ってみせながらも、魔獣の群れへと視線を外さないアデーレ。 ここまでの激闘の末、ある程度の侵攻は抑えられていたが、もはや一部の個体は最後の防壁に到達している。 このまま巨大魔獣までもがこの場に辿り着けば、結晶魔獣たちが港町になだれ込むのを防ぐのは難しいだろう。 文字通りの正念場。アデーレの言う通り、戦士に休む暇はない。 それはメリナも分かっていることで、姿勢を立て直すアデーレの無理する姿を、彼女はただ黙って見守るのだった。 二人の眼下では、既に結晶魔獣が防壁に攻撃を仕掛けている。 それを確認したアデーレは、右腕の炎を燃え上がらせながらフラムアルクスを構える。「まずはあの巨大魔獣を倒しましょう。こ
高速ですれ違うアデーレとエヴァ。 互いに背を向け、攻撃を振り切った体勢で立ち止まる。 全力を込めた一撃は、アデーレの体に大きな疲労をもたらす。 彼女の体が大きくよろめき、フラムアルクスを突き立て膝を付く。 肩には大きく切り裂かれた傷跡があり、血が吹き上がるように流れていく。 手応えを確信しているのか。 口元を吊り上げ、あざ笑うかのような顔を浮かべながらエヴァが振り返る。 そして、トドメと言わんばかりにもう一度背中の触手をもたげたその瞬間……。「ガはッ!?」 結晶で構成されたエヴァの左半身が、大きく粉砕される。 砕けた体が氷片のように宙を舞い、月明りを反射しながら美しく輝く。 その瞬間を驚愕の表情で眺めるエヴァは、一体何を思うのだろうか。 アデーレの放った一閃が、ついにその体を打ち砕いた。 痛みに耐えるように歯を食いしばり、アデーレが半身を失ったエヴァの方を見る。「と、届かなかっ……偉大な、魔女の……みとめ、ないッ」 敗北を受け入れていないであろうエヴァが、ろれつの回らない声で叫びながら顔を歪ませる。 残された右半身で必死にバランスを取り、残された触手を振り乱しながら跪くアデーレに迫ろうともがく。 しかしその足掻きもむなしく、彼女は一歩たりとも前進することなく崩れ落ちる。 歯を剥き出しにし、怒りを露わにしながらも右手をアデーレの方へと伸ばすエヴァ。 バランスを崩した体は、そのまま陥没穴の方へと転げ落ちていく。「認める、ものか――ッ!!」 半身のない体で、エヴァが裂けんばかりの絶叫を上げながら落ちていく。 もはや陶酔していた結晶の魔女の力も、アデーレの体に届くことはない。 その声も周囲の轟音にかき消され、彼女の気配は荒野の中に消えていった。「……倒せた、かな?」 フラムアルクスを支えに立ち上がり、アデーレが穴の方を覗く。 転げ落ちたエヴァの姿は確認できず、残された結晶魔獣が群れを成してアデーレを倒さんと上っている。 魔獣の群れに飲み込まれたエヴァを探すのは難しいだろう。 姿が確認できないことに一抹の不安を覚えつつも、最大の障害を退けたことには変わりない。 そして、アデーレには人々を守るという優先すべき大事な仕事が残されている。 しかし、渾身の一撃を放った彼女には、これ以上戦う力はほとんど残されていない。
白色の炎を纏い、新たな力を会得したアデーレ。 冷たい月明りによる手痛い攻撃を受けたためか、いよいよエヴァの顔から余裕というものが消え失せる。 彼女は無言のまま、その結晶で作られた鋭利な腕をアデーレへと向ける。 それに呼応するように、脚を止めていた周囲の魔獣たちが一斉に動き出す。 これまでと変わらない、数による一斉襲撃でアデーレを圧倒しようという魂胆だろう。 背中の触手を伸ばしたエヴァも、両腕を広げながら迫り来る。 魔獣たちがアデーレの間合いに入った瞬間、彼女はその場で回転しながら後方に移動する。 その間、柄の両端に刃が付くフラムアルクスが、手首の捻りによって波打つように中空を舞う。 揺らめく姿はそよ風。しかし敵を切り裂くその瞬間、刃は光の筋となって魔獣の体を一閃する。 しかし、エヴァは身を逸らすことで流れるような斬撃を回避。 回避する彼女をアデーレは深追いせず、一気に距離を離してから燃え盛る炎の矢をフラムアルクスにつがえる。「諦めの悪いことで」 吐き捨てるようなエヴァの言葉に続き、双方の間合いに結晶魔獣が割って入る。 直後、アデーレの手から炎の矢が放たれ、それは一直線に結晶魔獣の胴体を貫く。 抜けてきた矢をエヴァは紙一重で回避するも、今度は射抜かれた魔獣の爆発が彼女を後方へ押し返す。 刃の斬撃と矢の一撃を合わせたアデーレの動きは、舞いを奉納する巫女のそれを思わせる。 白いコートを大きくなびかせ、時折ずれる帽子の位置を直す姿は壮美にも映る。 そのトリッキーな戦闘スタイルは、魔獣たちを確実に翻弄していく。 普段の火竜の力とは正反対となる動きは、もはや別の戦士といっても過言ではない。「いいね……体が軽いっ」 その場で軽く跳躍し、眼下に目掛け弓を構えるアデーレ。 大きく燃え盛る右腕から多数の矢が一斉に生成され、魔獣目掛け放たれる。 炎の矢は白い光跡を残しながら地面へと降り注ぎ、群れとなった魔獣を無作為に貫いていく。 上空からの射掛けは止むことを知らず、白い流星雨が魔獣の群れを打倒していく。 対するエヴァも、降り注ぐ矢を瞬間移動の如き素早さで回避すると、背中の触手で地面を叩き飛び上がる。 結晶の刃となった腕がアデーレを捉え、彼女の心臓を貫かんと突き出される。 しかしフラムアルクスと研ぎ澄まされた腕がぶつかり合い、エヴァの
「それで、あなたは一体何なの?」 少年が家族のいる場所へと駆け出していった後。 アデーレは破壊された大通りを離れ、人目を避けられる裏路地に移動していた。 この場にアデーレ以外に人の姿はなく、傍には彼女の後についてきたあの錠前が浮いていた。 緩やかに揺れる錠前からは、金属がぶつかり合うような音がかすかに聞こえる。
普段ならば多くの人で賑わう大通り。 だが、怪鳥の出現によって人々は逃げ出し、アデーレの手によって怪鳥が倒された後は、周囲を静寂が包み込んでいた。「そういえば、これってどうやれば戻れるんだろ」 自身の髪を手にし、それを見つめるアデーレ。 いくら確認してみても、見慣れぬルビー色の髪が目に映る。
空気が焼けたかのような熱気が、アデーレの全身にまとわりついていた。 呆然と自分が伸ばした手の先を見つめるアデーレ。 手からは白い蒸気が昇り、その先には倒れ込む怪鳥の姿があった。 子供は最初と変わらず、自身の身を抱きながらその場でうずくまっていた。 「……え?」 アデー
礼拝堂を後にしたアデーレは、一人バルダート家の屋敷に続く坂道を上っていた。 この道は港から続く大通りで、馬車も通れるよう頑丈な石畳によって舗装されている。 バルダートのお嬢様と最悪の出会いを果たしたのも、この場所だった。 バルダート家がこの地に別邸を持ったのは、避暑のためである。 シシリューア島は周囲の島々に比べると、地熱の影響によ







