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先に照れてしまったのは彰の方だった。彼は厚焼き玉子を私の皿に取り分け、「早く食べて」と急かした。結婚生活は、かつて私が信じていた通り素晴らしいものだ。ただ、相手もより素敵な人に変わっただけのこと。結婚して半年後、妊娠が分かった。彰は感動のあまり涙を流したが、すぐ不安そうに言った。「二人の時間はまだ十分楽しめていないのに、早すぎないだろうか?もし心配なら……」「いいえ」私は彼の不安を遮るように言った。「赤ちゃんと一緒に世界中を旅したいの」私の願いを叶えるため、彰はすぐさま業務の引継ぎを済ませてくれた。そして、私を連れて世界一周の旅に出た。もちろん、専属医、ベビーシッター、それにボディーガードたちも一緒に。お母さんの言った通りだった。帰ってきてからは、何もかもが輝いて見える。ここは、私を愛してくれる人たちで溢れているから。旅先のスイスに到着した日、私は久しぶりにSNSを更新した。咲が「いいね」を押してくれた。彼女とはずっと連絡を取っていなかったが、連絡先を消していなかった。すると彼女の方からメッセージが届いた。「長谷部之野、刑務所に入ったみたいですよ」刑務所?破産しただけだと思っていたが、刑務所に入るようなことまでしていたとは。咲の話によると、破産した之野は「皆に裏切られた」と思い込み、社会を逆恨みして暴走したらしい。幸せそうなカップルを見つけては言いがかりをつけ、無理やり別れさせようとしていたそうだ。最後には医学部と法学部の学生カップルに絡んだのが運の尽きだった。相手には軽傷しか負わせられず、逆に自分は重傷。その上、傷害罪で実刑判決を受けたという。なるほど、自業自得だ。咲は実家に戻り、安定した仕事に就いたそうだ。結婚も恋愛も、もうこりごりだと言っていた。男なんて信じられない、これからは自分の力だけで生きていく、と。これで、全てが終わった。これでいい。私たちは皆、それぞれの行いに見合った結末を迎えたのだ。一年後、娘の生後一ヶ月を祝うパーティーが開かれた。娘がとても可愛い子だ。私は彼女に「美月(みづき)」と名付けた。美しい月のように輝いてほしい。父親である彰も、母親である私も、彼女を何より愛している。そして美月には、たっぷりの愛情を注
長谷部之野は終わった。この茶番を見終えて、私はそう思った。「疲れましたか?」私が心の中でほくそ笑んでいると、耳元で不意に問いかける声がした。彰はジャケットを脱いで、シャツ一枚になっている。そこで初めて気がついた。穏やかな彼が、実はこんなにもたくましい体をしていたなんて。耳が熱くなり、私は恥ずかしくてうつむいた。「平気です」「今日の結果で、気は晴れましたか?」彼はそう優しく尋ねると、私の隣に腰を下ろし、ヒール靴で赤くなった踵に薬を塗ってくれた。「はい、ありがとうございます」私は小さい声で呟き、彼と視線を合わせる勇気がなかった。一目見たら、彼の優しさに溺れてしまいそうで。「私たちは夫婦ですから、そんなに遠慮しなくていいんですよ。でも大丈夫、待ちますから」そう言って、彰は私の額に軽くキスをした。結婚して三日、私たちは徐々に打ち解けてきた。この日、彰は私をゴルフに連れて行ってくれた。車内では、最新の経済ニュースが流れている。「IT業界のHYグループが破産を宣言、社長の長谷部之野氏は……」アナウンサーの放送が終わらないうちに、彰がラジオを消した。「聞きたくないなら、チャンネルを変えるよう言ってください。遠慮はいりませんよ」彼は相変わらず穏やかな笑顔で私を見ている。私は少し恥ずかしくて髪を耳にかけた。「そんなことないですよ。私、意外と野次馬根性があるんです」「じゃあ、続きを聞きますか?」彼はからかうように言い、私は思わず吹き出してしまった。「いいえ、大体の予想はつきますから」この数日、共通の友人を介して、之野の情報は嫌でも耳に入ってきていた。あれだけ悪名をばら撒いたのだ。まともな結末になるはずがない。私はゴルフがあまり得意ではないが、彰は上手だ。彼は私の背後に立ち、手取り足取り教えてくれた。これほど互いの体が密着したのは、これが初めてだ。実は、結婚して三日経つが、私たちはまだ夜を共にしていない。彰は私が彼のことを受け入れるまで待つと言ってくれた。胸が高鳴り、背中越しに彼の鼓動を感じながら、私はまるで十八歳のあの春に戻ったかのような心地になった。年齢も、共に過ごした日々の長さも関係ない。心がときめかなくなった時、それこそが、恋が死んだ
車はゆっくりと別荘のガレージに停まった。彰の声につられて顔を上げると、ちょうど彼の穏やかな瞳と目が合った。私は之野としか付き合ったことがない。男という存在に抱いていた印象も、すべて之野によって形作られたものだった。自己中心的で、欲望と野心が露骨に顔に出る生き物だった。彰のような物腰が柔らかく、思いやりのある男が見たことがない。だからといって、浮かれていてはいけない。これはあくまで政略結婚なのだ。私は愛想よく微笑んで車を降り、彰と共に別荘へと入った。お母さんと彰の両親がすでに待っていた。お母さんは私を見るなり駆け寄ってきて、ギュッと私を抱きしめ、こっそりと囁いた。「弁護士がもう長谷部之野のところへ行って、出資引き上げの話をしてるわよ」さすがはお母さん、仕事が早い。私は笑って親指を立てて見せた。翌日、私たちの結婚式が行われる。緊張のあまり眠れない、なんてことはなかった。ただ、式の進行確認や衣装合わせに、忙殺されていただけだ。早朝にはヘアメイクさんが来て、花嫁の支度が整えられていく。九年間、あれほど願っても叶わなかった結婚式が、こんなにもあっさり実現してしまうとは。相手にその気さえあれば、結婚するというのはこんなに簡単なことだったのだ。彰とはまだ親しくないけれど、少なくとも悪い人ではなさそうだ。彼はとても穏やかで、思いやりがある。ウェディングドレスに着替え、外で待っていた彰のもとへ歩み寄る。タキシード姿の彰は、昨日よりずっと素敵だった。私はこらえきれずに尋ねてしまった。「どうして私と結婚しようと思ったんですか?私たちは知り合ったばかりですよね」彼は、私がそう聞くのがわかっていたかのように微笑んだ。「これから一生かけて、ゆっくりとお互いを知っていけばいいんですよ」五十嵐家は敬虔なカトリックの家系だ。私たちの結婚式は教会で行われた。神父が聖書の朗読を終え、私たちに向き直り、問いかける。「新郎、五十嵐彰。あなたは高坂詩織を妻とし、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、彼女一人を愛することを誓いますか?」「誓います」彰がそう答えた瞬間、私の視界が涙で滲んだ。なぜだろう。どこの結婚式でも聞くありふれた誓いの言葉が、今日はひどく胸に
彼が私を「嘘つき」だと叫ぶ声だけが、耳に残った。確かに、私は彼に嘘をついた。けれど、彼こそが正真正銘の大嘘つきだ。九年間、彼は私を九年間も騙し続けた。九年の献身をもってしても、彼の妻になれなかった。いいわ。だったら、別の人の妻になってやる。ギリギリで飛行機に乗り込むと、飛行機は定刻通りに離陸した。席に着くと、私はアイマスクをつけて休むことにする。この二日間、家を引き払うための荷造りで、まともに眠っていなかったからだ。ゆっくりと目を閉じると、今までに見たこともないような、素敵な夢を見た。夢の中で、私はとても素敵な人と結婚していた。彼は私の夢を無条件で応援してくれる。私と一緒にいるために時間を作り、世界中を旅して、オーロラを見に連れて行ってくれた。喜びも悲しみも分かち合い、共に困難を乗り越え、命が尽きるまで、互いに寄り添い続ける。三時間後、飛行機は東都国際空港に着陸した。久しぶりに踏む故郷の地に、私はかえって気後れするような、落ち着かない気持ちになった。辺りを見回してみるが、お母さんが言っていた、迎えに来てくれるはずの婚約者の姿は見当たらない。嫌な予感が胸をよぎる。之野にあまりにも深く傷つけられてしまったせいだろうか。少しでも不穏な気配を感じると、すぐに逃げ出したくなってしまう。でも、単なる誤解かもしれないし、すれ違ってしまうかもしれない。私はお母さんに電話して訊いてみることにした。電話をかけようとしたその時に、誰かに肩を軽く叩かれた。驚いて、振り返る。目の前に立つ男性は、私よりずっと背が高く、見上げなければ顔が見えないほどだ。之野も整った顔立ちをしていると思っていた。けれど、目の前の人と比べてしまえば、之野など足元にも及ばない。その顔立ちは彫りが深く、鼻筋はすっと通り、唇は熟した果実のように赤い。鼻の先にある小さなほくろが、さらに人の心を惹きつける。「高坂詩織さん、ですね?初めまして、婚約者の五十嵐彰(いがらし あきら)です」「あ、はい。どうも」私がどもりながら挨拶をすると、電話の向こうからお母さんの声が聞こえてきた。「もしもし、詩織?どうしたの?」お母さんが尋ねる。すると、彰は私の前から身を乗り出し、スマホのスピーカーボタンを押した。「もし
呆然と振り返るが、押し寄せる人波の中で、声の主がどこにいるのか、すぐには分からなかった。胸が騒ぎ、私はスーツケースを引いて走り出した。だが背後から伸びてきた大きな手に、私を止まった。「誰?!」私は叫び、その腕を振りほどいて逃げようともがいた。視界の端に、之野の顔が映る。「離して!」私は彼を睨みつけ、怒鳴った。彼の手には、私がテーブルに置いたはずのネックレスと、あの書き置きが握られている。「詩織、これはどういうことだ?」彼は不思議そうに尋ねてきた。私は乾いた笑いを漏らした。「長谷部之野、私たちはもう別れたのよ」私ははっきりと告げる。だが彼は聞く耳を持たず、強引に私の腕を引いて、人目につかない場所へと連れて行った。「記念日の埋め合わせをするって、約束しただろ?機嫌が悪いからって、こんなことしなくてもいいじゃないか」彼はまだ、肝心なことには触れようとしない。あの書き置きを見たのなら、その下に並べた証拠の山も、必ず目に入ったはずなのに。「あなたと小野寺咲のこと、私が何も知らないとでも思ってるの?」もう彼と無駄話をする気はなかった。私は単刀直入に切り出した。之野は、途端に言葉を失った。「咲の子供は……」彼はまだ何かを言い訳しようとしたが、私もう何も聞きたくない。私は一度ならず、何度も彼にチャンスを与えた。この家を出る数時間前でさえ、私は彼に尋ねたのだ。「まだ、私のこと愛してる?」と。あの時、もし彼が「愛していない」と一言でも言ってくれていれば、こんな惨めな結末にはならなかったはずだ。今さら、何の意味があるというの。「之野、周りを見て。みっともない真似はやめて」私は冷ややかにそう言い放った。之野の瞳に、確かな動揺が走った。「詩織、聞いてくれ。俺と咲は、本当に何でもないんだ!あいつが俺を誘惑したんだ。確かに、一度や二度は過ちを犯したかもしれない。でも俺は……」「もういい!」彼を黙らせるため、その頬を力一杯に平手で叩いた。だが、叩かれた之野は、逆に笑い出した。彼は自らの頬を何度も叩き、私に向かって深く身をかがめると、すがるように懇願した。「その通りだ、詩織……!叩かれて当然だ!俺が間違ってた!俺は最低のクズだ!俺を許せないなら、気が
朝食を買いながら会議する?ずいぶんと珍しいことだ。そして朝の八時過ぎ、咲がまたSNSを更新した。【指輪より朝ごはん。派手なサプライズも嬉しいけど、本当に心に沁みるのは、日常の中のささやかな愛情だったりする】結構なことだわ。ダイヤの指輪も、朝ごはんも、彼女は両方手に入れたのだから。せいぜいお二人で末永くお幸せに。私は起き上がると、荷物をまとめ始めた。スーツケース一つに荷物をまとめるのに、それほど時間はかからなかった。私のものは、もう多くない。捨てるべきものは、全て捨てた。この家にはもう、私の生きた痕跡など、どこにも残っていない。午後六時。之野が本当に帰ってきた。約束を守るなんて、彼にしては珍しいことだった。だが、私が実家へ帰る飛行機に乗るまで、もう十二時間しか残されていない。彼はブランドの箱を持って、息を切らしながら私の前に立った。「詩織、最近本当に忙しくて、すまなかった。これは、君へのプレゼントだ。九周年、おめでとう」箱の中には、高級ブランドのバッグが入っている。確かに、私が「素敵ね」と言ったことのあるデザインだ。けれど、お金で買えるブランド品と、心のこもった朝食、どちらが本当の愛情かなんて、私にだって分かる。「ありがとう」私は、淡々とそれを受け取った。之野はほっと息をついた。「気に入ってくれると思ってたよ」彼は腕を広げて私を抱きしめ、額に優しくキスを落とした。「詩織、仕事が落ち着いたら、旅行に行こう。君、ずっと北極圏のオーロラを見たいって言ってたじゃないか」「ええ」私は静かに頷いたが、もう彼の言葉を信じることはなかった。オーロラを見たいというのは、まだ学生だった頃の夢だ。仕事に追われるうちに、いつの間にか忘れてしまっていた。これまで私が何気なく口にしてきた、ささやかな願いの数々を、彼は一つも叶えてくれなかった。ほんの少し寄り添っていたが、之野はまたすぐに出ていこうとする。飛行機の離陸まで、あと十時間。私は彼の背中を見つめ、ふと、呼び止めた。「之野」彼は足を止め、振り返った。「どうした?」私は、彼のあの美しい瞳をまっすぐに見つめ、これが最後だと心に決めて、真剣に問いかけた。「まだ、私のこと愛してる?」彼は、何か面白い冗談でも聞いたかのように