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流れる時に沈む月

流れる時に沈む月

By:  はじめCompleted
Language: Japanese
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一ノ瀬明咲(いちのせ あき)と芦屋時也(あしや ときや)は、三度も結婚式を挙げたけど、そのたびに、みんなの笑い者になった。 一度目の式。誓いの言葉を交わしている途中で、朝比奈若菜(あさひな わかな)が鉄のハンマーを持って乱入してきた。 二度目の式。司会が「新郎新婦、ご入場です」と明るく宣言した直後、会場のスクリーン一面に、時也と若菜のツーショットが次々と映し出された。 三度目の式。バージンロードを歩き出す寸前、時也のスマホに若菜からビデオ通話が入る。 「時也、私ここから飛び降りる。これで借りをチャラにしてよ?」 時也は鼻で笑う。「飛びたいなら早くしろ。俺の結婚の邪魔をするな」 でもその直後、会場の誰かが叫ぶ。「若菜さんが本当に飛び込んだ!」 時也は「誓います」と言いかけたけれど、そのまま明咲を見つめて「どうあれ、一人の命だ。明咲、式は延期しよう」と静かに告げた。 それきり、彼は会場から消えた。 明咲は崩れ落ちた。「時也、もう延期なんてしなくていい……私、結婚やめる!」

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Chapter 1

第1話

潮崎市、センター病院。

「子宮外妊娠です。卵管破裂は命にかかわります!こんな大手術なのに、どうして一人で来たんですか?主人は?早く呼んでサインをもらってください!」

朝霧静奈(あさぎりしずな)は、腹部を引き裂かれるような激痛に耐えながら、電話をかけた。

呼び出し音は長く続いた。

受話器の向こうから、冷たい声が聞こえる。

「何?」

「彰人、今、忙しい?お腹がすごく痛くて、少しだけ……」

「暇じゃない」

彼女が言い終わる前に、不機嫌な声が冷たく言葉を遮った。

「腹が痛いなら医者に行け。こっちは忙しい」

「彰人さん、誰から?」

電話の向こうから、甘い女の声が聞こえる。

「どうでもいい相手だ」

彼の声が、急に優しくなった。

「どれがいい?好きな方を言え。競り落としてプレゼントしてやる」

耳元で、ツーツーという無機質な音が鳴り響く。

静奈の心は、まるでナイフでじわじわと切り刻まれるようだった。

彼女の顔色が真っ白になり、呼吸が浅くなっているのに気づき、医師が叫んだ。

「急げ!すぐに手術室を押さえろ!患者の手術を始める!」

静奈が次に目を覚ましたのは、病室のベッドの上だった。

「目が覚めましたか?昨日は本当に危険な状態だったんですよ。処置が早かったから助かったものの、もう少し遅かったら危なかったんですから!」

若い看護師が、点滴をしながら愚痴をこぼした。

「それにしても、あなたの主人、ひどいじゃないですか!こんなに大きな手術をしたのに、一度も顔を見せないなんて!本当に無責任ですよ!

はい、これ、介護士センターの番号です。必要なら、介護士を呼んでくださいね」

「ありがとうございます」

静奈は看護師から名刺を受け取った。

携帯を取り出し、介護士センターに電話をかけようとした、その時。

突然、ニュース速報がポップアップで表示された。

【潮崎市一の富豪、長谷川グループ社長・長谷川彰人氏、二十八億円のマダム・デュヴィエのダイヤモンドネックレスを落札!恋人の笑顔のため、衝撃のプレゼントか!】

目に突き刺さるような見出しに、静奈の瞳孔が大きく開いた。

写真に写っているこの上なく端正な顔立ちは、まさしく自分の夫、長谷川彰人(はせがわあきと)だった。

だが、自分は彼にとって決して公開できない妻。

結婚して四年。

彼はいつも、氷のように冷たく無慈悲だった。

てっきり、それが彼の持って生まれた性格なのだとそう思っていた。

彼の心を動かすため、自分は従順で物分かりの良い「長谷川夫人」を必死に演じてきた。

しかし今、彼が堂々と他の女性を腕に抱き、世間に愛情を見せつけている姿を見て、ようやく悟った。

彼は本当に少しも自分を愛してなどいなかったのだ。

胸が締め付けられるように痛む。

静奈の目には、みるみるうちに涙が滲んだ。

もう、諦めなければ。

四年も続いたこの茶番を、終わらせる時が来たのだ。

静奈は予定より二日早く、退院手続きを済ませた。

医師は心配そうな顔で言った。

「体はまだかなり衰弱していますよ。もう少し入院していた方が……」

「家の用事がありまして」

「しばらくは絶対に安静にしてください。激しい運動は禁止、それから性行為は絶対に駄目ですよ。一週間後にまた検査に来てください」

「ええ、わかりました。ありがとうございます、先生」

静奈は汐見台という住宅街にある一軒家の邸宅に戻った。

家政婦の田所敦子(たどころ あつこ)は、あからさまに不機嫌な顔で彼女を責め立てた。

「若奥様、近頃はますます目に余りますね!何日も家を空けるなんて!若様がお知りになったら、お怒りになりますよ!」

敦子は長谷川家の家政婦という立場だが、その振る舞いは姑同然だった。

彼女は彰人のめのとであり、自分は特別な存在だと自負している。

彰人から寵愛を受けていない静奈のことなど、鼻から見下していた。

静奈は分かっていた。

敦子が自分に対してこのような態度を取るのは、彰人の指示ではないにしても、彼の黙認があるからだ。

でなければ、これほどまで傲慢になれるはずがない。

これまでは、彰人に気に入られようと、静奈は彼の周りの人間すべてに媚びへつらってきた。

敦子にいじめられ、見下されても、いつも腹の底に怒りを押し殺してきた。

しかし、もう我慢する必要はない。

静奈は敦子の頬を思い切り平手で打った。

その声は侮蔑に満ちていた。

「出過ぎた真似を!ただの雇われの分際で、誰に向かってそんな口を利いている!」

「なっ!」

敦子は顔を覆い、愕然とした表情で目を見開いた。まさか静奈が手を出すとは思ってもみなかったのだろう。

「私を叩いた……」

「叩かれて当然よ!何?まさか、やり返すつもり?」

静奈の冷え切った一言が、敦子を凍り付かせた。

いくら若様に疎まれていようと、彼女は長谷川家の大奥様が直々に選んだ人なのだ。

敦子は、込み上げる怒りを無理やり飲み込むしかなかった。

静奈は背を向け、二階へと上がっていく。

背後から、敦子の小声での悪態が聞こえてきた。

「顔が綺麗なだけで、何の役にも立たないくせに。どうせ若様からは見向きもされないんだわ。この家の若奥様の席なんて、すぐに他の人のものになるんだから!」

棘のある言葉が、ナイフのように静奈の胸に突き刺さる。

彼女は深呼吸をした。

もう、どうでもいい。

今日を限り、彰人に関するすべては、もうどうでもよくなるのだ。

自室に戻った静奈は、私物をすべてスーツケースに詰めた。

彼女の物は驚くほど少なく、スーツケース一つで十分だった。

スーツケースを持ち上げた瞬間、傷口が引きつれた。

腹部に激しい痛みが走り、冷や汗が雨のように流れ落ちる。

静奈は痛み止めを数錠飲んで、ようやく少し落ち着いた。

薬が効いてきたのか、彼女はベッドに横たわると、いつの間にか眠りに落ちていた。

深夜。

部屋に、大きな人影が入ってきた。

バスルームからシャワーの音が聞こえ、二十分ほどして、彰人が腰にバスタオルを巻いた姿で出てきた。

彼は彫刻のように整った顔立ちで、広い肩幅に引き締まった腰、そして力強く割れた腹筋のが男性的魅力を放っていた。

水滴が筋肉を伝い、緩く巻かれたタオルの内側へと消えていく。

彼は何も言わなかった。

まるで月に一回の事務的なことをこなすかのように、静奈のネグリジェの裾をめくり上げた。

眠っていた静奈は、痛みに体を震わせた。

「痛い……」

彼女は無意識に彼を押しのけた。

「やめて」

「拒むふりか?静奈、それが新しい手口か?」

低く、嘲るような声が頭上から降ってきた。

彰人は彼女から離れるどころか、報復するように続けた。

「月に一度の夫婦の営みは、お前がおばあさんに頼み込んで実現したことだろう?今更やめたいと?」

傷口が引き裂かれるような痛みに、静奈の目から涙がこぼれ落ちた。

彰人が自分を憎んでいることは分かっている。

数年前。

彰人の祖母である大奥様が、二人の結婚を強引に進めた。

結婚後、彰人が彼女に冷淡な態度を取り続けるのを見かねた大奥様が、月に一度は夫婦として同衾するよう、彼に命じたのだ。

その度に、彼はまるで道具でも扱うかのように、彼女で欲望を処理するだけだった。

四年間にも及ぶ結婚生活を思い返し、静奈の胸は痛みに満たされた。

細心の注意を払い、自分を殺して尽くしてきたというのに、彼の心からの愛情はひとかけらも手に入らなかった。

それならば、これ以上執着する必要がどこにあるだろう?

「彰人、離婚よ……」

静奈が言い終わる前に、けたたましく携帯の着信音が鳴り響いた。

彰人は、夜中に電話がかかってくることを非常に嫌う。

しかし、その電話には驚くほど優しく応じた。

「どうした?」

「彰人さん、一人だと怖いの。会いに来てくれない?」

受話器から、甘えたような女の声が聞こえる。

「わかった」

彼は一瞬のためらいもなく承諾した。

その声には、静奈が一度も聞いたことのない優しさが滲んでいた。

「すぐに行くから、二十分だけ待ってて」

電話が切れる。

彰人は、ためらうことなく彼女の上から体をどけた。

そして、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。

数分後、階下から車が走り去る音が聞こえた。

涙が枕を濡らす。

静奈は、白くなった指でシーツを固く握りしめた。

愛すると、愛さないとでは、これほどまでに違うのだ。

翌朝。

静奈は離婚協議書をテーブルの上に残し、スーツケースを引いて家を出た。

その瞬間、腹部に骨の髄まで染み込むような痛みが走り、体の下から暖かい何かが流れ出る感覚があった。

太ももを伝って、足元へと落ちていく。

ふと下を見る。

そこには、衝撃的なほどの血だまりが広がっていた。

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ノンスケ
ノンスケ
計算高い女に狙われたら、優柔不断な男はなす術もないって感じですね。結婚式を3回もやり直すとか、普通にないでしょう。招待される側も複雑だろうなぁ。律はいい男でよかった。
2025-11-01 11:04:27
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松坂 美枝
松坂 美枝
結婚式に向いてない男 式の途中で他の女を思う癖あり それで全部ダメにする 主人公のご両親がマトモで良かった
2025-10-30 09:54:41
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KuKP
KuKP
バカによる、人を巻き込むドタバタ茶番劇 他人に迷惑しかかけないクズ野郎の考えることは分からん
2025-10-31 06:03:57
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24 Chapters
第1話
一ノ瀬明咲(いちのせ あき)と芦屋時也(あしや ときや)は、三度も結婚式を挙げたけど、そのたびに、みんなの笑い者になった。一度目の式。誓いの言葉を交わしている途中で、朝比奈若菜(あさひな わかな)が鉄のハンマーを持って乱入してきた。血走った目で祭壇の花を叩き落とし、ガラスが割れる音と悲鳴。あっという間に、幸せの場は修羅場に変わった。時也はすぐに警察を呼び、若菜はあっけなく連行された。二度目の式。司会が「新郎新婦、ご入場です」と明るく宣言した直後、会場のスクリーン一面に、時也と若菜のツーショットが次々と映し出された。どの写真も直視できないほど生々しい。明咲は、その場に立ち尽くすしかなかった。時也は何も言わず、スタッフに目配せして電源を落とすと「明咲、俺が全部片付ける。待ってて」とだけ告げて会場を出ていった。彼女とゲストを置き去りにして。後から聞いた噂では、時也は若菜を郊外の更生施設に突っ込んで「生き地獄を見せてやる」と言い放ったらしい。三度目の式。バージンロードを歩き出す寸前、時也のスマホに若菜からビデオ通話が入る。画面の向こうで、若菜は海を背に微笑んだ。「時也、私ここから飛び降りる。これで借りをチャラにしてよ?」時也は鼻で笑う。「飛びたいなら早くしろ。俺の結婚の邪魔をするな」でもその直後、会場の誰かが叫ぶ。「若菜さんが本当に飛び込んだ!」SNSのトレンドには【#朝比奈若菜、海へ身を投げ捨てる】時也は「誓います」と言いかけたけれど、そのまま明咲を見つめて「どうあれ、一人の命だ。明咲、式は延期しよう」と静かに告げた。それきり、彼は会場から消えた。明咲は崩れ落ちた。まわりのざわめきと、好奇の視線が肌に刺さる。「三度目だよ?やっぱり時也さんは若菜さんに未練があるんだろうね」「明咲さんも運が悪い……」父の一ノ瀬和正(いちのせ かずまさ)は慣れたようにゲストへ頭を下げ、母の由紀子(ゆきこ)は駆け寄ってきて明咲を抱きしめる。「明咲、もうやめよう?時也さんは、信用できない」胸の奥が強く締めつけられて、息が詰まる。悔しさがこみ上げてきて、スマホを握りしめた指が震える。今すぐ時也に電話したい。帰ってきてほしい。その思いだけが胸を満たす。私って、いったい何者なんだろう。あなたにとって私は、何なんだろう――
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第2話
電話の向こうの声は、一瞬の迷いもなかった。「もちろん。今、海外にいるんだ。二週間だけ時間をくれ。仕事を片付けたら、すぐに帰国して明咲を迎えに行く」男の声には揺るぎのない真剣さがにじむ。「明咲、待ってて」電話を切ると、目の前には母の由紀子の心配そうな顔。「明咲、頼むから、やけになって変な人にすがったりしないでね」「大丈夫だよ、お母さん。ちゃんと考えてるから」由紀子はしばらく黙って明咲を見つめていた。小さいころから人一倍しっかりしていた娘だということを、よく分かっている。やがて、ふっと息をついて明咲の手をそっと包む。「分かった。お母さんは明咲の味方だから。これからは、とにかく幸せになって。もう、我慢だけはしないでね」母の言葉が、冷たくなった心にじんわりとしみていく。明咲は思わず鼻の奥がつんとした。私は、ずっと一人じゃなかったんだ――両親と一緒に結婚式の後片付けを終えたころには、すっかり夜も更けていた。母が「今夜は家に泊まれば?」と勧めてくれたけれど、明咲は断って、ひとりで時也との新居へ戻る。婚約破棄を決めた以上、ちゃんと本人に会って、きっぱり話をしなきゃ。すべて片付けてから、その部屋を去るつもりだった。玄関のドアを開けると、リビングの灯りがついている。数歩入ったところで、明咲の足が止まった。キッチンの入口に、エプロン姿の若菜が立っている。ちょうどできたての肉じゃがをお盆に載せていた。若菜の顔色はまだ青白い。なのに、その目には、どこか芝居じみた従順さが浮かんでいる。「お帰りなさい、明咲さん。ご飯できてますよ。時也さんが、今日は一日中大変だったでしょうって。あなたの好きなメニューを頼まれました」若菜は料理をテーブルの中央に置く。その手つきも、すっかりこの家の女主人のようだった。言いたいことが喉につかえて、明咲は一言も発せなかった。まさか時也が、若菜をこの家に連れてくるなんて。こんな皮肉、想像もしなかった。明咲の顔色の変化に気づいたのか、時也がソファから立ち上がる。そして、振り返るなり若菜に向かって怒鳴る。「何を突っ立ってる。明咲が帰ってきただろ。家政婦なら家政婦らしく、出しゃばるな」若菜は顔をこわばらせ、何か言いかけたけど、黙ってキッチンに引っ込んだ。明咲の目線は、テーブルの端に
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第3話
明咲が部屋に戻ろうと立ち上がったとき、台所から聞こえた物音に足が止まった。若菜が床にしゃがみ込んで、割れた陶器の破片を一つひとつ丁寧に拾い集めていた。その前には時也が腕組みをして立っていて、見下ろすような目で嘲りの笑みを浮かべている。「若菜、どうしてこんなこともまともにできないんだ?俺を蹴って金持ちに鞍替えしたときは、なんでもできるって顔してたくせに。俺の前じゃ何もできないのか?」若菜の指が一瞬止まったが、何も言い返さず、また破片を掌に集めていく。そのとき、チッという小さな音がした。破片で指先を切ったのだ。真っ赤な血が、白い手にじわりと広がる。その瞬間、時也の顔から嘲笑が消え、目の奥がぎゅっとすぼまった。動揺を隠せない表情に変わるのが、明咲にもよく分かった。彼は思わず一歩踏み出し、若菜の手を掴もうとしたが、途中でピタリと動きを止めてしまう。代わりに手を強く握りしめて、何もできずにいる。若菜が顔を上げると、目尻には涙が浮かんでいた。傷ついた手を抱えたまま、何も言わない。数秒だけ、時也はその様子をじっと見ていたが、とうとう我慢できなくなって、若菜を立ち上がらせた。「自分の世話もできないで、ここにいる意味なんてないだろ」ぶつぶつ文句を言いながらも、ポケットから絆創膏を取り出して、そっと彼女の指に貼る。その手つきは、驚くほど優しかった。二人の距離はすぐ近い。呼吸が混じるほど。若菜が鼻をすすりながら、柔らかく言う。「時也、本当に……そんなに私のこと、憎いの?」声が震えていた。「もう一度、私を好きになってくれることは、ないの?」時也の体がびくりと固まる。明咲の目にも、彼の心の揺れがはっきりと見て取れた。胸の奥が、きつく握りつぶされたみたいに痛い。彼らがかつて愛し合い、そして激しく憎みあったことを、明咲は誰よりも知っている。人を心から切り離すことが、どれほど難しいかも知っている。だから、あのとき手を差し伸べたとき、見返りなんて考えなかった。愛していると言ったのも、家に迎え入れてくれたのも、時也の方だった。でも、本当にこの家で暮らしてみて気づいた。彼の心の一番奥、決して誰にも触れさせないその場所には、ずっと若菜が住んでいる。絶対に踏み込めない、禁じられた部屋。もうこれ以上は見ていられなかった。明咲は
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第4話
明咲は額を押さえながら、一人で病院に向かった。傷は深くて、痛みに耐えながら十数針も縫うことになった。ようやく救急処置を終えて廊下に出ると、時也が若菜を支えながら病室へ歩いていく姿が見えた。若菜は青ざめた顔で、半分身体を時也に預けている。時也も眉をひそめながら、それでも彼女を払いのけようとしない。思わず、明咲は柱の陰に身を隠した。二人が一緒に病室へ入っていくのを、じっと見送ってしまう。どうしてここまで来てしまったのか、自分でも分からない。ただ、気がついたら病室の前に立っていた。ドアは半開きで、中の会話がはっきり聞こえてくる。ベッドの上の若菜が、突然時也のシャツをぎゅっと掴んで、涙を溜めて訴える。「ねえ、どうしてそんなに私に優しくしてくれるの?もしかして、まだ私のこと……好きなの?」「そんなこと……」時也が言いかけたところで、若菜が首を伸ばして彼にキスをした。息が止まった。明咲は廊下から、その一部始終を見てしまった。最初こそ、時也はわずかに抵抗していた。けれど、次の瞬間には彼の手が若菜の後頭部を包み、今度は自分から激しく応え返していた。胃の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような吐き気。明咲は口を押えて、トイレに駆け込んだ。何度もえづいても、何も出てこない。ただ、生理的な涙だけが頬を伝う。思い出すのは、過去二回の結婚式が台無しになったとき、時也が「若菜のことは自分がちゃんと片付ける」と何度も言っていたこと。でも、「片付ける」なんて全部嘘だったんだ。結局、二人の関係は何も終わってなかった。苦笑が漏れる。心の中を片付けていないのに、どうして他人を入れようとしたんだろう。こんな単純なこと、時也だって本当は分かっていたはずだ。一方で自分と婚約しながら、若菜とはずっと断ち切れない。私はいったい、何だったの?薬を受け取ると、もう一秒もここにいたくなくなった。急いで時也との新居に戻り、荷物の箱をガムテープで閉じた。少しでも早く、時也と離れた場所へ。最後の箱を閉じ終えたとき、スマホが鳴った。親友からのメッセージだ。【明咲、トレンド見た?】胸がざわつきながら、SNSを開く。一番上には、こんなトピックが。【#朝比奈若菜の裏切りに隠された真相】タップすると、最初に流れてきたのは一本の動画。画面の
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第5話
電話からツー、ツーと無機質な音が響いた。時也は、明咲の返事を待つ気もなく、そのまま通話を切った。その瞬間、誰かの手が勢いよく振り下ろされてきた。パシンという音とともに、スマホが床に転がった。女が顔をぐっと近づけてきて、吐き捨てるように言った。「聞こえた?このクズ!若菜さんの手柄を横取りしようなんて思うなよ。時也さんは最初から、あんたの味方じゃないんだから!」明咲の髪を乱暴に掴み、玄関の方へ引きずっていく。頭皮が焼けるように痛い。他の女たちも群がってきて、手を伸ばし、むき出しの腕を強くつねる。涙がこぼれるのを止められなかった。こんな連中に、何を言っても通じない。明咲は、ただ必死に暴れるしかなかった。指先が壁の「緊急通報ボタン」に触れる。思いきり力を込めて押した。「通報する気!?」誰かが叫んで、腕を思い切り押さえつけてくる。さらに別の手が服を剥ごうとした。心が真っ暗になる。もうダメかもしれない。そのとき、外から怒鳴り声が響いた。「そこで何してる!?」警備員が駆けつけてきた。明咲は、藁にもすがる思いで叫ぶ。「助けて!この人たち、無断で家に押し入って、私を殴ったんです!」警備員たちはすぐに間に入って、女たちを取り押さえた。明咲はその場に崩れ落ちた。髪はボサボサ、頬には赤い手形、腕や肩は青あざだらけ。惨めな姿で地面に座り込んだまま、まだ誰かが怒鳴っていた。「時也さんと若菜さんを引き裂いた罰よ!絶対に許さないから!」明咲は髪を押さえて、冷ややかに笑う。「許されるかどうかは知らないけど、あんたたちの不法侵入と傷害、これで捕まるのはあんたたちの方よ」そのまま通報し、警察が到着して女たちを連行していった。明咲も事情聴取と被害届のため警察署へ。弁護士を呼んで、「絶対に許さない」と強く伝えた。警察署を出るころには、外はすっかり夜だった。通りを歩けば、道行く人たちがこちらを指差し、ひそひそと噂する声が聞こえる。「……略奪女……」、「泥棒猫……」誰かが小さくそう呟くのも聞こえた。胸が焼けるような思いで、予備のスマホを取り出し、SNSのトレンドをチェックする。昼間の【#朝比奈若菜の裏切りに隠された真相】はまだランキング一位。そこへ新たに、こんなトピックが追加されていた。【#一ノ瀬家のお嬢様、略奪愛で炎上】
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第6話
もう、時也とこれ以上揉める気もなかったし、若菜とべったりの二人を見るのもごめんだった。明咲は時也との新居に戻ると、すぐに引越し業者を呼び、持ち物をすべて運び出してもらった。服も、本も、時間をかけて選んだインテリアも、冷蔵庫の中の食材さえ一つ残らず。部屋ががらんどうになり、自分の痕跡が何一つなくなったのを確かめてから、玄関の棚に鍵を置いて、そのまま振り返ることなく出ていった。その後の数日、ネットは完全にカオスだった。前まで若菜の可哀想アピールに騙されていた人たちは、一転して彼女を叩きまくり、「嘘つき」、「売名」、「炎上商法」などの言葉が飛び交った。でも、時也は若菜のことを必死に隠していた。住所はもちろん、最近の写真すら一枚も出回らない。どんなにネットで叩かれても、若菜自身には一切届かない。明咲はニュースを見ながら、どこか冷めた目で嘲りの笑みを浮かべた。時也の「愛」って、これだけ分かりやすかったんだ。若菜のことは、誰にも触れさせないように守ってる。自分のことは?家に押しかけられて殴られても、見て見ぬふり。それなのに、若菜は毎日のようにSNSを更新していた。まるで、明咲に見せつけるかのように。【彼のおかげで手に入れた宝物】ジュエリーがずらりと並ぶテーブルの写真。【食べたいって言ったら、十キロ以上先まで買いに行ってくれた】シュークリームがきれいに並んだ写真。【暗闇が怖くても、彼がいてくれれば大丈夫】病室のベッド脇で眠る時也の優しい横顔。明咲は、わざと自分を痛めつけるみたいに、その投稿を一つ一つスクロールした。昔、時也と一緒にいても、彼が「何が好き?」と聞いてくれることなんてなかった。スーパーに買い物に付き合ってくれたことも、誕生日や記念日を大切にしてくれたことも、思い出せない。当時は、家族を失った人間に、そんな余裕はないんだと自分を慰めてきた。でも今なら分かる。「愛せない」のではなく、「自分を愛せない」だけだった。スマホの通知が鳴った。若菜からのメッセージだった。【時也が全部考えてくれてるから、もう安心していいって。明咲さん、ごめんね】一瞬で心臓が凍りつく。メッセージの意味を飲み込めないうちに、親友からリンクが届いた。【芦屋時也と朝比奈若菜、復縁の噂!一ノ瀬家のお嬢様は恩をタテに結婚?】
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第7話
「明咲、何言ってるんだ!」時也の声が突然大きくなった。焦りと怒りが混じった口調で、彼女の言葉を遮る。「若菜とはもう終わったんだ。俺がこの先、結婚したいのは明咲、君だけだ!」その声には、明咲を説得しようとしているというより、自分に言い聞かせているような必死さが滲んでいる。「今、ちょっとすねてるだけだろ?今回は大目に見る。ネットのこともすぐ静かになるから、心配するな。結婚式ももうすぐだ」話が終わらないうちに、電話は唐突に切れた。無機質なツー、ツーという音が耳に残り、「私は冗談じゃない」という言葉は結局伝えられなかった。画面を見つめながら、頭の中は真っ白だった。時也は明らかに今でも若菜を忘れられないはずなのに、誤解が解けた今も、なぜここまで結婚にこだわるのか。自分はただ、感謝のための代役か、あるいは世間を黙らせるための「見せかけの婚約者」なのか――ふうっと息を吐き、もうこれ以上悩むのはやめた。婚約を解消する気持ちは、もう変わらない。本当にその時が来れば、時也にも「私は本気だった」と分かるはずだ。その後も、ネットの炎上は次々と形を変えながら続いた。時也の裏からの誘導もあって、明咲がどれだけ証拠を出しても「恩をタテに結婚を勝ち取った女」として、すぐ悪意ある話題にすり替えられていく。スタッフと頭を抱えてネット対策を相談していたその日の夕方、ふとスマホを見た明咲は目を疑った。これまで自分を叩いていた書き込みやトレンドが、一夜にして跡形もなく消えていたのだ。呆然としたまま画面を見つめる。――時也が手を回して助けてくれたわけじゃない。それなら、一体誰が?考えても分からず、明咲は仕事を切り上げて帰ろうとした。会社のビルを出たところで、冷たい空気をまとった時也が突然現れ、いきなり手首を掴んで、無理やり車へ連れて行かれた。「何するの!」思わず振り払おうとするが、時也の手は鉄のように固い。「行くぞ、若菜と交換だ」「……は?何の話?ちゃんと説明して!」助手席に押し込まれ、ドアをバタンと閉められる。時也は怒りをあらわにした目で明咲をにらみつけた。「若菜から助けを求める連絡があった。君がビジネスのために、彼女を蒼木不動産の社長に差し出したってな!明咲、君も蒼木(あおき)社長がどんな人間か知ってるはず
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第8話
蒼木不動産の社長は、脂ぎった顔をソファに沈めて座っていた。その脇には、黒服の屈強なボディーガードが二人、無言で控えている。明咲が無理やり部屋に押し込まれると、社長はにやりと笑い、ボディーガードたちに合図を送った。「動くなよ、しっかり押さえろ。お嬢さんに逃げられちゃ困るからな」両腕をがっちり掴まれ、明咲は床に無理やり膝をつかされた。蒼木社長はゆっくり立ち上がり、すぐそばの棚から鞭を取り出す。その先端が、からかうように明咲の肩をなぞった。「一ノ瀬さん、芦屋社長が君をよこしてくれたんだ。せいぜい楽しく遊ぼうってさ。調子に乗らない方がいいぞ。脱がせろ!」突然怒鳴り、鞭で床を激しく叩いた。心臓が止まりそうになる。明咲は睨み返し、声を振り絞る。「私が誰だか分かってるの?一ノ瀬家が黙ってると思うの!?」たとえ蒼木不動産と一ノ瀬家が互角の力を持っていても、本気で揉め事になれば、蒼木側が無事で済むとは限らない。そんなことは百も承知だ。だが、蒼木社長は余裕の笑みを浮かべて、身をかがめ、明咲の耳元でささやいた。「一ノ瀬さん、俺が君に手を出すのに、何も考えずに来ると思ったかい?君の婚約者の芦屋社長が、全部許してくれてるよ。今夜どんなことをしても、彼は絶対に止めない。ましてや、一ノ瀬家にバレることもない」社長はゆっくり身を起こし、明咲の頬を軽く叩いた。「芦屋社長の力があれば、君の家族にこれくらい隠すのは簡単なことさ」明咲の顔から血の気が引いていく。――時也が、ここまで冷酷になれるなんて。胸の奥を鋭い刃で貫かれたような痛み。息ができない。「もう婚約は解消した。彼には何の権利もない!」最後の意地で叫ぶ。だが蒼木社長は鼻で笑い、手を振って指示を飛ばす。「脱がせろ。無駄口は聞くな!」ボディーガードたちがすぐに駆け寄り、服の襟を力いっぱい引き裂く。生地が裂ける音が響いた。明咲は必死に叫び、両手で服を押さえる。死んでも、絶対にこの人たちの好きにはさせない!激しく抵抗したせいか、しばらくの間、ボディーガードたちもなかなか思い通りにできなかった。見かねた蒼木社長が苛立ち、ボディーガードを突き飛ばして自ら鞭を振り上げる。「調子に乗るな!」バシン!鞭が風を切り、明咲の服の上から容赦なく叩きつけられた。その瞬間、布越し
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第9話
時也は、腕にしがみつく若菜をそっと抱き寄せながら階段を降りていった。車に乗り込んでも、若菜は彼の腰にしがみついたまま離れようとしない。時也は優しく背中を撫でて、静かに言った。「若菜、大丈夫だ。もう心配いらない、今すぐ家に連れて帰るから」そう言って運転手に指示を出すと、車はゆっくり動き出した。しばらくして、若菜の震えもようやく収まってくる。時也は彼女をそっと離し、じっと顔を見つめた後、手首に視線を落とした。「若菜、ケガはないか?蒼木社長に、何かされなかった?」若菜は首を横に振ったが、時也が手首にそっと触れた瞬間、痛みに小さく声を上げた。時也はハッとし、すぐに彼女の袖をまくる。白い腕には、力いっぱい掴まれたことを物語る紫色の痣がいくつも浮かんでいた。「これ……蒼木社長にやられたのか?」時也の声が低くなり、目には明らかな怒りと悔しさが宿っていた。若菜は慌てて腕を引っ込め、うつむいて小さく呟く。「大丈夫だよ、時也。心配しないで」「本当に大丈夫か?蒼木社長がどういう人間か、俺も分かってる……」そう言いかけて、ふいに口をつぐんだ。頭の中によぎったのは、さっき明咲が何度も言っていた「私と蒼木不動産は何の取引もない」という言葉。あのときは怒りに任せて無視していたが、今になって妙な違和感が胸をよぎる。――もし、明咲の言葉が本当だったら?もし彼女と蒼木不動産の間に本当に何の関わりもなかったとしたら、自分は、明咲をあんな場所に一人で残してしまったことになる。時也の心に、不安がじわりと広がった。そんな彼の様子を見て、若菜がそっと服の袖を掴む。「どうしたの?まだ私のこと、心配してるの?」「いや……」時也は顔を上げるが、その声はどこか落ち着かない。「ただ、蒼木社長みたいな人間のところに、明咲を一人で置いてきたのが気になって」不安はどんどん大きくなっていく。若菜は赤い目で時也を見つめ、袖を握りしめながらつぶやいた。「大丈夫だよ。明咲さんは一ノ瀬家のお嬢様だし、蒼木不動産とも取引がある。いくら蒼木社長でも、まさか何かするなんて……」「でも、明咲は『取引なんかしてない』って言ってた」時也は眉をひそめたまま、混乱した声を絞り出す。若菜は俯いたまま、苦笑いを浮かべる。「……そうなの?でも、蒼木社長
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第10話
時也は眉をひそめて、すぐさまスマホでニュースを開いた。そこには蒼木不動産の過去の悪事がぎっしりと並び、最後には決定的な映像が添えられていた。動画の中で、蒼木社長は両手に手錠をかけられ、警察に連行されている。大勢の記者が取り囲み、数人の怒りに満ちた人間が殴りかかろうとするのを、警察が必死に押さえ込んでいた。蒼木社長の顔からは、かつての横柄さが消え失せ、ただ真っ青になって恐怖に震えている。時也は無意識のうちにスマホを撫でていたが、背中にはじっとりと冷たい汗がにじんでいた。あの日、明咲を蒼木社長の部屋に突き飛ばした時の、彼女の必死の抵抗と叫び。「私と蒼木不動産は何の取引もない」その目の色も声も、あれは全部、本気だった。心臓がぎゅっと握りつぶされたような痛み。呼吸すら乱れていく。時也はあわてて明咲の番号を呼び出し、震える指で電話をかけた。ツー……ツー……何度かけても、コール音の向こうからは誰の声も返ってこない。十回、二十回……ただ冷たい機械音が続くだけ。だんだん呼吸が荒くなり、胸の奥に最悪の想像がよぎる。明咲に、何かあったんじゃないか。蒼木社長が捕まったのは、明咲を巻き込んだからじゃないのか。スマホを握る手が、今にも壊れそうなほど強くなる。「時也!」背後から若菜の声が飛んできて、思考が一瞬止まる。顔を上げると、若菜が青ざめた顔で壁にもたれ、病室の入り口に立っていた。何か言おうとしたが、若菜が近づいてきて、そっと彼の腰に抱きついた。柔らかな声でささやく。「この間、ずっとそばにいてくれてありがとう。時也、本当は、今も私のこと……想ってくれてるんでしょ?あの時どうしても抗えなかったの、全部、本当なんだよ。ずっと……時也を忘れたことなんてなかった」赤い目で見上げて、「もう一度やり直せないかな?」と、かすれた声で言う。時也は口を開くが、喉が詰まって声にならない。この何年も、若菜を恨んできた。でも同時に、どうしても忘れられなかった気持ちもあった。今さら全部が「事情があった」と分かった今、許せるはずなのに。でも、頭の中を占めるのは明咲のことばかり。明咲の笑った顔、怒った顔。あの日、自分がドアの向こうに押し込んだ時の、あの絶望的な目……そして、何度かけても出てくれない電話。若菜を
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