LOGIN結婚の事実を隠して3年。菅原日和(すがわら ひより)は999回、公表を夢見てた。でも夫の菅原真司(すがわら しんじ)がしたのは、他の誰かへの999回のプロポーズ。 日和は、真司の秘書でいられた。彼の友達からかわれれば「愛人」と呼ばれることも受け入れた。 義理の妹としても振る舞えた。でも、真司の妻にだけはなれなかった。 はじめは真司もこう言っていたのに。「日和、もう少しだけ待ってくれ。あと数日したら、俺たちの関係をちゃんと公表するから」 でもその後、彼から数億円が振り込まれた。それは冷たい警告でしかなかった。 「何を話してよくて、何を話しちゃいけないか。お前なら分かるだろ。 お前の両親のお墓のことも、よーく考えるんだな」 さらに時がたち、日和がすっかりおとなしくなって、泣きも騒ぎもしなくなったころ。なぜか今度は、真司が泣いて彼女にひざまずいていた。 「行かないでくれ、お願いだから」
View Moreそれは、心臓をえぐられるような痛みだった。真司は口をぱくぱくさせたけど、声を出すこともできず、そのままひと口、血を吐き出した。彼の体は車椅子からぐらりと傾き、床に崩れ落ちた。病院で、真司は、末期の肺がんだと診断された。免疫力は急激に落ち、病状もどんどん悪化していった。充は日和に付き添って病院を訪れた。それはまるで、過去との最後の別れのようだった。「真司、あなたのためのヘルパーさんは手配したから、これからはその人がしっかり面倒をみてくれるわ。私はもうここには来ない。でも、最後にいくつか、はっきりさせておきたいことがあるの」真司は、日和のあまりにも平然とした様子を見て、胸に鋭い痛みが走った。このときになってようやく、彼ははっきりと悟った。かつて自分だけを見つめてくれていたあの女性を、もう完全に失ってしまったのだと。自分が正しいと思い上がっていた日々、そして、策略をめぐらせていたあの日々の中で、日和を失ってしまったんだ。日和の声は小さかったけど、はっきりと聞こえた。「あなたを許さない。でも、もう恨んでもいない。ただ、これだけは言っておきたいの。私を愛するつもりがなかったのなら、最初から始めないでほしかった。私のためだと言いながら傷つけるようなやり方しかできないのなら……あなたと出会わなければよかった。夫婦っていうのは、幸せな時間を分かち合うだけじゃない。辛いことだって、一緒に乗り越えていくものでしょ。守るっていう言い訳で、私の気持ちを好き勝手に踏みにじることじゃないはずよ。真司、もう楽になって。残りの時間は、穏やかに過ごして」そう言うと、日和は立ち上がり、病室を出ていこうと背を向けた。背後から、押し殺すような泣き声が聞こえてきた。でも、彼女は決して振り返らなかった。1ヶ月後、真司は病院で亡くなった。正人が彼の遺骨を引き取りに病院へやって来た。そのとき、真司の弁護士も一緒に来ていた。「小林さん、菅原社長からのご遺言です。彼がお持ちだったすべての財産と、会社の株式は、すべてあなたが相続されることになっております」日和は目の前の遺言書を見つめ、しばらくの間、我に返れなかった。ふと、真司と結婚したばかりの頃を思い出した。あの頃、彼はこう尋ねてきた。「日和、もし俺がお前より先に死んだら、悲しいか?」
3年後。日和は、フリーのデザイナー「ひより」として、いくつもの国際的な賞をとっていた。アーティストの谷口充(たにぐち みつる)との関係も、少しずつ距離を縮めていた。ふたりの間には、ほんの小さな壁だけが残っていた。その間も、東都のニュースは途切れることがなかった。青木家の一族は全員が刑務所に入り、菅原グループの経営陣はがらりと入れ替わった。真司は事態を収拾すると、会社をプロの経営者に任せた。そして、彼自身は人々の前から完全に姿を消した。死んだという人もいれば、仏門に入ったという人もいた。妻は死んでいないと信じて、世界中を探し回っている……なんて噂もあった。この菅原グループの社長の噂は、数年前からずっと絶えなかった。日和も、周りの人たちが噂の社長夫人をかわいそうだと言いながらあれこれ話すのを、だんだん平気で聞けるようになっていた。でも、まさか真司と本当に再会するなんて、夢にも思わなかった。その日はひどい吹雪で、年の瀬も押し迫った頃だった。街のレストランは、どこも満席だった。日和は充と夕食を食べた後、ふと雪の上を歩きたくなった。道路の向こう側、車椅子に座る男と、まっすぐに目が合ってしまった。彼は骨ばって痩せこけていて、生気のない病的な顔をしていた。昔の、自信に満ちた面影はどこにもない。185センチの長身が車椅子に窮屈そうに収まっていて、ちっとも大きく見えなかった。日和の姿を見つけた瞬間、真司の目は赤くなった。「日和……本当に生きていたのか?全部の神社を回って祈ったんだ。ある神主さんが、俺が執着している人はまだ生きていると教えてくれた。でも、俺に死ぬのをやめさせようとして、そう言ってくれてるだけだと思ってた。だから、世界中を旅し終わったら、もう……」それから先の言葉は、もう声にならなかった。溢れ出す感情のせいで、一つ一つの言葉がひどく不明瞭だった。真司が涙をこぼした瞬間、日和はため息をつき、困ったように首を横に振った。「真司、私が生きていたのに、あなたの元へ戻らなかった。その意味が、まだ分からないの?」真司は、はっと顔を上げた。その目にはあからさまな驚きと痛みが浮かんでいた。「日和……俺を憎んでいるのはわかってる。でも、言い訳を聞いてくれ。お前を裏切ってなんかいない。俺は
3年後。真司は、まるで機械みたいに生きていた。ねじを巻かれたおもちゃみたいに、休むことなく働きつづけた。そして、青木家という大きな木を、少しずつ切り崩していった。そのために、菅原グループも彼自身も、ものすごく大きな代償をはらった。裏社会では、真司の命に、数億円の懸賞金がかけられた。でも彼はまったく怖がらず、むしろ堂々としていた。いつか本当に死んで、日和のそばにいける日を待っていたんだ。真司はデスクに置かれた日和の写真を見て、また涙をこぼした。日和が亡くなったと知らされたあの夜から、彼の両足は完全に感覚を失っていた。医師によると、悲しみのあまり自分を罰する気持ちが、そうさせているらしい。だから気持ちの整理がつけば、また歩けるようになるとのことだった。でも、真司にはどうしても気持ちの整理ができなかった。あらゆる計画が、全部水の泡になってしまった。一番守りたかった人を守るためだったのに。危うい選択を繰り返した末に、日和をいちばん深く傷つけたのは、ほかでもない自分自身だった。亮太が青木グループへの攻撃の進捗を報告し終えた。そして、げっそり痩せてしまった真司を見て、心配そうに言った。「奥様だって、今の社長を見たら悲しみますよ……」「そんなわけないだろ?」真司の声はどこかうつろで、自分をあざ笑う響きがあった。「日和から見れば、俺は冷たくて薄情な裏切り者だ。結婚して3年も、妻がいることすら隠してた。毎日毎日、復讐の計画ばかりで、彼女が流産したときでさえ……」そこまで言って、彼はもうぼろぼろと涙を流していた。亮太は慌ててなぐさめた。「あのときは社長も、ご自分の気持ちに気づいていらっしゃらなかっただけです。きっと奥様もお許しになりますよ」真司は、静かに首を横にふった。「違うんだ。もっといい方法があったはずなんだ。日和を傷つけずに済んだはずなのに。彼女は俺から離れていかないって、無意識に甘えていたんだ。だから、いちばん手っ取り早い方法を選んでしまった……俺は、日和の気持ちをいちばんに考えなかった。俺が、彼女を裏切ったんだ!」真司は、感覚のない自分の両足を、何度も強く叩きつけた。後悔、自責、憎しみ……あらゆる感情が荒れ狂って、今すぐ頭を打ちつけて死んでしまいたいほどだった。でも、罰されるべ
次の日、真司はあの夜、綾子が消した通院記録を彼女に突きつけた。綾子はうろたえ、その場にひざまずいた。「真司、日和はあなたの義理の妹かもしれないけど、私はあなたの婚約者よ。あの女、どこの誰の子かもわからない子を妊娠して、菅原家の恥だったわ。だから私が、あなたのために片付けてあげただけ。何が悪いの!日和の体が弱くて、手術に耐えられなかったのも私のせいだと言うの?」この期に及んで、綾子はまだ悪びれもせずにいる。彼女の言葉を疑いもせず信じていた自分が、本当に愚かでたまらない。真司は雄叫びをあげ、飾り棚の花瓶を拳で殴り砕いた。血の滲む拳の痛みさえ、心の痛みを和らげることはできなかった。婚約は破棄され、綾子は邸宅の一室に閉じ込められた。3日間、与えられたのは水だけだった。「綾子、自分が何をしたのか、よく考えるんだな。すべてを話せ。さもないと、俺がお前に何をするか保証できない」それが、この3日間で真司が綾子にかけた、ただ一つの言葉だった。綾子はいろいろな想像をしていた。きっと真司は自分を可哀想に思うはず。そうでなくても、勝手なことをしたと責めるだけ。でも、まさか日和のために、こんな風に部屋に閉じ込められて放置されるなんて、思ってもみなかった。彼女は狂ったようにドアを叩き続けた。「真司!そもそも、あなたがしつこく言い寄ってこなければ、こうはならなかった!ええ、日和は死んだわ。でも、彼女を殺したのは私じゃない、あなたなのよ!あなたの偽りの優しさと身勝手さ、その冷たさがあの女を殺したの!」ドアの向こうで、どさり、と重い音が響いた。まるで真実を突きつけられて、誰かが崩れ落ちたかのような音だった。すぐに正人の焦った声が聞こえてきた。「誰か来い、真司様が倒れたぞ!すぐに先生を呼ぶんだ!」3日後、真司は朦朧とした意識のなかで目を覚ますと、正人から綾子が姿を消したと聞かされた。残されていたのは、一枚の書き置きだけだった。【真司、私があなたに良かれと思ってしたことを、まだ責めているの?日和は私の一番の親友だった。彼女が逝ってしまった今、私だけ生きていても意味がない。あなたに憎まれたまま生きるくらいなら、いっそ死んでしまいたい。だから、あなたの手を煩わせる前に、私も日和のそばへ行く。私が悪いというのなら、この命で償うから、探さな