LOGIN身体がこわばったその瞬間、玲奈は低くかすれた声で智也に言った。「プレゼントは受け取るわ。ありがとう」今の彼がどんな思惑で自分に優しくしているのかはわからない。けれど玲奈は思っていた。彼が差し出すものなら、どんなものでも受け取っておこう、と。離婚してしまえば、彼のすべてはもう自分とは無関係になる。これだけ長いあいだ尽くしてきたのだから、少しくらい報いを受け取ってもいいはずだった。玲奈が贈り物を受け取る気になったことに、智也は素直に気をよくした。もしかすると、彼女が言い出した離婚も、ただの意地や冗談にすぎないのではないか――そんなことさえ考えはじめる。あれほど自分を愛していた玲奈が、そう簡単に気持ちを断ち切れるはずがない。彼にはどうしてもそう思えなかった。そんなことを考えていたとき、扉がノックされた。外から宮下の声がする。「旦那様、お客様がお見えです」それを聞いて、智也は返した。「わかった。すぐ下りる」そう言って、玲奈のそばから立ち上がった。彼は彼女を見下ろして言った。「先に支度していてくれ。用が済んだら、また来る」玲奈は「来なくていい」と言いたかった。だが智也を刺激したくなくて、ただ微笑みながら答えた。「うん」智也が下へ降りていくと、入れ替わるように宮下が部屋へ入ってきた。玲奈は顔を上げて宮下を見る。その表情がどこか沈んでいるのに気づき、不思議そうに尋ねた。「宮下さん、どうしたの?何かあったの」宮下は不安を隠しきれないまま、玲奈に頼み込んだ。「奥様、どうか愛莉ちゃんの様子を見てあげてください。ずっと泣いているんです」その言葉に、玲奈は一瞬だけ戸惑った。だが、愛莉が泣いている理由はおそらく沙羅にあるのだと思い至ると、胸のざわめきはすっと引いていった。表情を冷やし、玲奈はあっさりと言った。「私は行かないわ。もう休みたいから」宮下はそれでも引き下がらず、慌てて続ける。「奥様、愛莉ちゃんは本当は悪い子ではないんです。でも、深津さんのそばにいたままだと、このままでは――」最後まで言わせず、玲奈は口を開いた。「宮下さん。私にだって、どうにもできないことはあるわ」宮下は何度も嘆くように言った。「愛莉ちゃん
愛莉の口から飛び出した言葉に、宮下はぞっとした。愛莉を抱いたまま小燕邸の中へ戻りながら、宮下はきっぱりと言い聞かせる。「愛莉ちゃん、奥様はあなたのお母さんよ。この世でいちばん、あなたを大事に思っている方よ。そんなことを言ってはいけないわ」愛莉は宮下の肩に顔を埋め、しゃくり上げながら言った。「愛莉、ママは一人だけでいいの。二人もいらない」その言葉に、宮下はしばし戸惑った。だが少し考えて、ようやく愛莉の本心に気づく。この子は、沙羅に母親になってほしいのだ。宮下は諭すように続けた。「愛莉ちゃんを産んだのは奥様よ。あなたの身体には、奥様の血が流れているの。あなたは奥様の大切な娘。お母さんは奥様だけ、ただ一人よ」愛莉はふんと鼻を鳴らした。明らかに聞く気はなく、そのまま黙り込んでしまった。宮下も、その拒みようを感じ取り、それ以上は何も言わなかった。けれど愛莉は、沙羅の言葉を心の中にしっかりと刻みつけていた。母親は一人しか持てない。二人はいらない。ママが小燕邸にいる限り、沙羅は戻ってこない。だから――玲奈を小燕邸から追い出さなければならない。……一方、智也は玲奈を連れて二階の寝室へ入るなり、そのまま彼女を扉際へ追い詰めた。右手を玲奈の頭上のドア枠につき、高い身体を覆いかぶさるように近づける。玲奈はすっぽりと彼の影の中に閉じ込められた。智也は、その黒く深い瞳を見つめながら言った。「俺と沙羅は、本当に何もしていない」玲奈は顔を上げ、彼をひととおり見やると、ふっと笑みを浮かべて問い返した。「それで?何が言いたいの?」その目には、何ひとつ波立つものがなかった。彼女はただ静かに彼を見ている。感情の欠片すら浮かんでいない。それが、以前の玲奈とはあまりにも違っていた。智也は数秒言葉を失い、それからようやく、かすれた声で尋ねた。「……俺の言うことを信じるか?」玲奈は肩をすくめ、ひどく真面目な顔で答えた。「信じるわよ。もちろん」その返事に、智也は思わず問い返す。「本当に?」玲奈はうなずいた。「ええ。本当に」本当のところ、信じるかどうかなど大した問題ではなかった。玲奈はただ、智也を刺激したくなかったのだ。彼
一方そのころ、玲奈は智也に手を引かれ、小燕邸へ戻ってきていた。愛莉はリビングの小さな黒板に絵を描いていたが、玄関のほうから足音が聞こえると、はっと顔を上げ、思わず声を上げた。「ララちゃん?」もうかなり遅い時間だというのに、愛莉はまだ二階へ上がらずにいた。沙羅に怒鳴られてからというもの、ずっと気持ちが晴れなかったのだ。きっと機嫌が悪かっただけで、うっかりきつい言い方になってしまっただけ。本気で自分を怒ったわけじゃない――そう何度も自分に言い聞かせていた。けれど、帰ってきたのは沙羅ではなかった。玲奈と智也の姿を認めると、愛莉はしぶしぶといった様子で声をかけた。「……パパ」智也は「ああ」とだけ返し、そのまま玲奈を連れて二階へ向かおうとした。それを見て、愛莉は慌てて呼びかけた。「パパ、ララちゃんは?まだ帰ってこないの?」智也は足を止め、振り返って愛莉を見ると、やわらかく笑って言った。「愛莉、もう遅いから、宮下に連れていってもらって顔を洗って寝ような。パパはママと話があるんだ」玲奈も愛莉を見た。ひと目で、この子が泣いたのだとわかった。いじらしいほどしょんぼりしたその顔に、胸がぎゅっと締めつけられる。だが智也は、玲奈がそこにとどまる隙を与えなかった。彼女の手をつかみ、そのまま上へ連れていく。背後から、愛莉が二度、三度と呼びかけた。「パパ、パパ」けれど智也は、沙羅とのことを一刻も早く玲奈に説明したい一心で、愛莉の声など耳に入っていなかった。父親が玲奈の手を引いて二階へ上がっていくのを見つめながら、愛莉の胸にはいっそうつらさが募った。目からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。それでも、玄関から沙羅が入ってくる気配はない。たまらず愛莉は、今度は自分で探しに行こうと外へ駆け出した。宮下はそのとき台所にいて、愛莉が飛び出していったことに気づかなかった。小燕邸の門を出たところで、ちょうど隣の門が開いているのが目に入る。愛莉はそのまま中へ走り込んだ。雅子に腕をつねられたことがあるせいで、愛莉はあの家をずっと怖がっていた。ひとりで隣へ行くことなど、これまで一度もできなかった。けれど今は、沙羅を見つけたい一心で、その鬼のような雅子さえ怖くなくなっていた。門を
沙羅の懇願は、玲奈に事情を説明したい一心の智也には到底及ばなかった。彼は迷うことすらなく、沙羅の手を振りほどいた。車を降りていくその背を見送りながら、沙羅の目からは涙がこぼれ落ちた。昂輝の車のそばまで来たときには、玲奈はすでに車を降りていた。しかもドアを開けたのは昂輝だった。それを見た智也は急いで歩み寄り、玲奈へ手を差し出した。「玲奈、こっち」そう呼ばれても、玲奈にはひどくよそよそしく聞こえた。今さらそんなふうに呼ばれても、何の意味も感じられない。玲奈はその言葉を無視し、顔を昂輝へ向けた。「先輩、帰りは気をつけてね。安全運転で。着いたらメッセージして」昂輝は不安を拭えなかったが、自分にできることはないとわかっていた。それでも頷いて答える。「わかった」玲奈はふっと笑った。「おやすみなさい」昂輝もつられるように微笑んだ。「おやすみ」だが二人が言葉を交わし終える前に、智也が歩み寄ってきた。自分の上着を玲奈の肩にかけ、そのまま大きな手で彼女の肩を抱き寄せる。そして昂輝を見て、満面の笑みで言った。「東さん、妻に食事をご馳走してくれたうえ、家まで送ってくれてありがとう」まるで自分の所有物であるかのように、玲奈への権利を誇示している。昂輝はその言葉に取り合わなかった。聞こえていないも同然だった。昂輝が去ったあと、智也は玲奈の手を握り、そのまま小燕邸の中へと連れていった。さっきのことを一刻も早く説明したかったのだ。けれど玲奈は、彼に歩調を合わせながらも、少しも急ぐ様子を見せなかった。二人が小燕邸の中へ入っていくのを見届けてから、ようやく沙羅は智也の車を降りた。冬の冷たい風の中に立つその姿は、ひどく寂しく、頼りなく見えた。沙羅は、智也という男のことを、自分はもう十分にわかっているつもりだった。けれど今になってようやく思い知った。自分はこれまで、一度も本当の意味で彼を理解してなどいなかったのだと。彼の自分への優しさは、いったいどれほど本物だったのか。では、今の玲奈への態度は、何のためなのか。これまで注ぎ込んできたものが、すべて水の泡になろうとしていると考えただけで、胸が張り裂けそうに痛んだ。智也を愛しているかどうかは、もはや二の次だった。
ほんの一瞬で、玲奈の視界はふさがれた。目の前には、濁った黒だけが広がる。昂輝が、あんな汚れた場面を見せまいとしてくれたのだと気づき、玲奈は感謝するようにかすかに唇をゆるめた。そしてそっと彼の手を外し、振り返って微笑んだ。「大丈夫よ。もう慣れてるから」昂輝は玲奈を見下ろした。彼女は笑っていたが、その目の奥には隠しきれない悲しみがあった。胸が痛んだが、かけるべき言葉が見つからない。結局、昂輝はこらえきれず、玲奈をそっと抱き寄せた。広くて温かなその胸に包まれた瞬間、玲奈の目はふいに熱を帯びた。一方そのころ、車の中では――智也は、ようやく玲奈の居場所を突き止め、彼女が出てくるのを交差点のそばで待っていた。ただ、そこへ沙羅がやって来るとは思ってもいなかった。彼女は車に乗り込むなり、何も言わずに服を脱ぎはじめ、そのまま智也に抱きついて、むやみに唇を重ねてきた。小柄なはずの沙羅が、そのときばかりはどこからそんな力が出るのかと思うほどだった。智也の首に腕を回し、無茶苦茶に口づけてくる。智也はそんなやり方が好きではなかった。思いきり彼女を突き放すと、沙羅は助手席側の窓ガラスにぶつかり、そのまま無様にずり落ちた。服は乱れ、髪もひどく崩れている。その目からは、切れた真珠のように涙が次々とこぼれ落ちていた。沙羅は顔を覆い、泣き声を押し殺していた。そんな彼女を見て、智也は苛立たしげに車の外へ目をやった。その一瞥で、道路の向こうにいる玲奈と昂輝の姿が目に入った。昂輝は玲奈を抱きしめ、大きな手で何度も彼女の背をやさしく撫でている。その瞬間、智也は隣で涙を流す沙羅のことなど構っていられなくなった。そのまま車のドアを開け、勢いよく降りる。大股で道路を渡ってくると、鋭い声で言い放った。「玲奈、何をしている」その声を聞いて、玲奈はようやく昂輝の腕の中から離れた。目元は少し赤い。けれど、涙はこぼれていなかった。玲奈は智也を見つめ、軽蔑をにじませた声で言った。「あなたこそ、何をしていたの?」智也は、玲奈が自分と沙羅のキスを見たのだとすぐに察した。それで誤解し、輝に抱きしめられていたのだと思い至る。そう考えた途端、彼は慌てて弁解した。「沙羅とはそんな関係じゃない。
拓海と昂輝の言い争いは、ますます激しさを増していった。玲奈が間に入っても、とても止められそうになかった。玲奈は頬を赤くしながら、拓海に向かって声を張り上げた。「須賀君、もうやめて」その声に、拓海はぴたりと黙り込んだ。視線を落として玲奈を見る目には、苛立ちとやり場のない悔しさがにじんでいる。「どうして俺にだけ言うんだ?あいつには言わないのか?」そう言いながら、拓海は昂輝を指さした。玲奈はその手をぱしりと払いのけ、冷えた表情のまま言った。「元々は、先輩と一華と私の食事なの。私たちはただの普通の関係だから、どうかこれ以上こういうことはしないで」その言葉は、玲奈たちと拓海のあいだに、はっきりと一本の線を引いた。拓海は向こう側。玲奈たちはこちら側。彼女が何を言おうとしているのか、拓海には痛いほどわかっていた。だからこそ、聞きたくなかった。「もういい。聞きたくない。帰ればいいんだろ」拓海は自分から一歩引いた。気圧されたわけではない。ただ、玲奈に嫌われるのが怖かったのだ。本意ではなかったが、彼はそれ以上何も言わず、その場を去るしかなかった。車に乗り込むときになっても、なお口の中では不満をこぼしていた。「俺が気にしてるのをいいことに……相手が他のやつなら、見向きもしないくせに」だが、そんな言葉が玲奈の耳に届くことはなかった。玲奈はゆっくり振り返り、顔を上げて昂輝を見た。「先輩、行きましょう」昂輝は、玲奈の顔に疲れがにじんでいるのを見て、申し訳なさそうに言った。「ごめん。嫌な思いをさせたね」玲奈は唇を軽く結んで小さく笑い、首を横に振った。「謝るのは私のほうよ」昂輝は、彼女の表情に浮かぶ申し訳なさを見て、すぐに言葉を継いだ。「玲奈、君のせいじゃない。君が優しいからこそ、須賀さんっみたいな人が――」そこまで言って、昂輝はふと口をつぐんだ。意識しないまま、まるで拓海を褒めるような言い方をしてしまったことに気づいたのだ。もっとも、それも嘘ではなかった。昂輝は拓海のことをよく知っているわけではない。知っているのは、女性関係の噂が絶えないということくらいだ。それでも、玲奈のそばに現れるときの拓海は、いつも一人だった。数秒の沈黙
智也は洗面所の壁にもたれかかっていた。言葉を最後まで言い切る前に、玲奈は電話を切ってしまった。暗くなった画面を見つめながら、胸の奥が妙にざわつく。ポケットから煙草を取り出し、火をつける。炎が立ち上がった瞬間、薫が洗面所から出てきて、興味ありげに声を掛けた。「誰と電話してたんだ?そんなにこそこそと」智也は深く煙を吸い込み、吐き出すと同時に目を細めた。「妻だ」「妻?」薫は一瞬ぽかんとし、それからようやく気づいた。玲奈のことだ。「どうしたんだ?お前、今まで自分から電話なんてしたことなかったろ」智也自身、最近の自分は変わったと思う。最近はふと
玲奈は、愛莉が小燕邸へ入っていくのを見届けた。愛莉はそのまま小走りにリュックの肩紐を握りしめ、弾むように大広間へ駆け込んでいった。走りながら元気いっぱいに叫ぶ。「ララちゃん、ただいま!」娘の弾んだ声に、玲奈の胸はきゅっと締め付けられる。彼女は小さな足取りであとを追い、愛莉が広間に入ったのを見てから、ようやく入口に立った。そこから広間の様子がすべて見渡せる。愛莉はリュックを宮下に手渡すと、ちょうど台所から出てきた沙羅のもとへ駆け寄り、彼女の足に抱きつき、顔を上げて尋ねた。「ララちゃん、雅子おばあちゃんは?」深津雅子(ふかつ みやこ)――沙羅の母親で、つい先ほど
玲奈は、思い切って愛莉の部屋を出た。智也の部屋の前を通ると、扉は半開きになっていた。つい無意識に視線を向けると――そこには、すでに身支度を整えた智也が背を向けて立っており、沙羅が正面からネクタイを結んでいた。彼女の背丈に合わせて、智也はわざわざ首を傾け、身をかがめている。玲奈は慌てて視線を引き戻した。階段を下りながらも思考は止まらない。――自分だってネクタイくらい結べたのに。けれど彼は一度だって、そんなことを求めなかった。他人に触れられることを嫌う彼が、沙羅には迷いなく許す。その事実が胸を刺した。階下に降りると、宮下が玲奈の顔を見て思わず声をかける。
薫に慰められて、沙羅の気持ちは少し落ち着いた。けれど、どうにも胸の奥にざらつきが残っていた。かつて噂に聞いたことがある――昂輝が修士・博士課程にいた頃、彼の周囲には一人の女性もいなかった。そのため「男として正常じゃないのでは」と囁かれたものだ。だが学の席で、沙羅と昂輝が顔を合わせた。その夜、沙羅は医学の質問をいくつも投げかけ、昂輝は根気よく答えてくれた。「滅多に花を咲かせないソテツが、ついに花を咲かせるように、ついに心を動かす相手を見つけたのかもしれない」人々はそう噂した。それ以来、医学界では「東昂輝は沙羅に一目惚れした」という話が流れ始めた。沙羅自身も







