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第149話

Auteur: ルーシー
二分後、玲奈はホテルのドアを開いた。

智也は振り返ることもなく、ただ大股で廊下の奥へと歩き出す。

歩みながら低く言い放った。

「......ついて来い」

その声音には喜怒も哀しみも混じらず、何を考えているのか一切読めない。

玲奈にできることは、ただ黙って彼の背に従うことだけだった。

廊下の突き当たりで智也は階段室の扉を押し開け、中に入った。

玲奈もあとを追うと、背後で扉が閉ざされた。

智也は入口に立ち塞がり、まるで拓海を中へ入れぬようにしていた。

すべてを目の前で見せつけられた玲奈の胸は、驚きと恐れで押し潰されそうだった。

結婚して五年。

彼を愛し、敬い、離婚を考えたときには、もう愛も敬意も失せたと思っていた。

だが――こんなにも恐ろしいと感じたことは、一度もなかった。

智也は扉に凭れ、静かに煙草へ火を点けた。

打ち上がった小さな炎が彼の顔を照らし出し、その陰鬱な表情には笑みの欠片もない。

薄暗い光の中、その面差しはぞっとするほど冷たかった。

やがて煙を吐き出し、視線を落として彼女を射抜く。

「俺と来い。

ある場所へ」

玲奈はその無表情を見つめ、胸に抱えていた思いがすべて嘲笑に変わるのを感じた。

――そうか。

本当に自分を愛していないのだ。

だからこそ、妻が他の男の隣に横たわっていても、何ひとつ気にしない。

もしそれが沙羅であれば?

彼女が裏切ったのなら、智也は狂ったように取り乱し、崩れ、発狂するに違いない。

玲奈の心は瞬く間に深い闇へ落ちていった。

泣きたいのに涙は出ず、笑いたいのに声も出ない。

結局、どちらもできなかった。

智也はすでに階下へ歩き出していた。

玲奈がついてこないのに気づくと、振り返って冷ややかに言い放った。

「......玲奈。

これでも俺は相当我慢してるんだ」

その響きには警告と、わずかな宥めが同居していた。

だが玲奈には、もうどうでもよかった。

彼は最初から、自分を意に介したことなど一度もなかったのだから。

智也が姿を現した瞬間、彼女は一瞬だけ自らの非を思った。

――まだ離婚していないのに、こんなことをしていいのだろうか。

けれど今にして思えば、それはただの独りよがりにすぎない。

無表情のまま彼の背を追い、下へ。

やがて智也は車に乗り込む。

だが玲奈のためにドアを
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