愛莉の顔色は青ざめ、まだ本調子には程遠かった。玲奈は、しばらく救急外来に留まらせ、容体が落ち着いてから帰宅させようと決める。処方されたのは消化を助ける薬と乳酸菌。宮下が持ってきたお湯で、それを飲ませた。薬を口にしたあと、愛莉はかえって眠れず、ベッドの背に寄りかかり、弱々しい声を洩らす。「ママ......お腹、すいた」胃の中のものを吐き出したのだから、当然だ。玲奈は胸が締めつけられる思いで額に触れ、穏やかに問う。「何が食べたい?ママが買ってきてあげる」「おかゆが欲しい」「わかったわ」玲奈は微笑んだ。宮下に愛莉を託し、玲奈は傘を手に病院を出た。娘のことばかりで必死に走り回り、外に出てようやく気づく。寝間着姿のまま、髪は乱れ、見るも無惨な格好だった。数百メートル歩いたところで、雨脚がさらに強まった。傘を差しても、靴も裾もびしょ濡れになっていく。それでも娘の「おかゆが食べたい」という一言が頭から離れず、玲奈は雨に打たれながら二十四時間営業のお粥店に駆け込んだ。傘を店頭に置き、扉を開いた瞬間――思いがけない人物と鉢合わせた。「奥様?」菅原勝が、濡れた寝間着姿の玲奈を見て、眉をひそめた。玲奈は短く「ええ」と返事をし、そのとき初めて智也のことを思い出した。――愛莉が病気なのに、彼はどうして帰って来ないのか。父親なら、いくら仕事が忙しくても、娘を病院に連れてきて然るべきではないのか。緊急時には考える余裕もなかったが、勝の顔を見た途端、その疑問が胸を突き上げた。思わず問いかける。「智也は......まだ仕事中なの?」「えっ?」勝は一瞬きょとんとした。玲奈は小さく眉を寄せる。「愛莉が病気だと伝えたのに会議があるって......まだ終わってないの?」時計はすでに夜十時を回っている。彼が残業することは珍しくないが、ここまで長引くことは滅多になかった。勝は深く考えもせず、口を滑らせる。「会議なんてありませんでしたよ。午後三時には会社を出てます」玲奈は一瞬固まり、すぐ問い返す。「何ですって?」「わ、私は......」言った瞬間に失言を悟ったのか、勝の視線は泳いだ。玲奈はそこで全てを悟ったように淡々と頷く。「そう、わかったわ。仕事
その夜――春日部宅にて。玲奈が陽葵を連れて帰宅すると、陽葵は真っ先に台所へ駆け込み、朝作った卵クレープを温め直した。お盆に載せて運び出し、玲奈のそばでじっと味見の反応を待つ。実際のところ味はさほど良くはなかった。それでも玲奈は最後まで食べきり、「とても美味しいわ」と繰り返し褒め、やんわりと改善点も伝えた。陽葵は素直に受け止め、「次はもっと上手に作る」と笑顔で応えた。夕食を終えた家族は、しばし団らんの時を過ごした。――その後。洗面を終えた玲奈がスマホを手に取ると、着信履歴が十数件も残っていた。すべて、智也からだった。どうすべきか迷っていると、再び着信。直感で悟る――これはきっと、ただ事ではない。ためらわず応答した途端、荒々しい怒声が飛び込んできた。「玲奈、いったい何をしていた!なぜ俺の電話に出ない!」いきなりの怒号に、玲奈も苛立ちを隠さず声を荒らげた。「智也、わたしが何をしていようと、あなたに関係ある?」「愛莉が病気だ。すぐに戻って来い!」智也は言い争いを避け、要件を端的に告げた。――その一言に、玲奈の心臓は大きく跳ねた。瞬時にベッドから飛び起き、寝間着のまま部屋を飛び出す。「どうしたの?昼間は元気だったじゃない!」階段を駆け下りながら問いかける。智也の声は落ち着きを取り戻していた。「宮下の話だと、夕飯を終えたあと腹痛を訴え、ほどなくして食べたものをすべて吐いたらしい」玲奈は血の気が引く思いで急ぎ足を速めた。すでに夜は更けていた。家族を煩わせることなく、自分で車を走らせ小燕邸へ向かう。屋敷に着くと、宮下がぐったりした愛莉を抱き、居間を行き来していた。扉を開けた瞬間、安堵と涙が入り混じった声が響く。「奥様......ようやくお戻りに......」雨はまだ降り続いていた。玲奈は傘もささずに駆け込んだため、寝間着は半ば濡れていた。靴を脱ぐ間もなく宮下のもとに駆け寄り、愛莉を抱き取る。娘は浅い眠りの中で目を開き、かすかな声を漏らした。「......ママ」玲奈はその額に頬を寄せる。熱はない。発熱が原因ではなさそうだ。「愛莉、どこが痛むの?ママに教えて」小児外科医としての顔に切り替え、丁寧に問いかける。力の抜けた体を抱
先生や友達に玲奈のことを話すとき、陽葵の背筋はぴんと伸び、顎を高々と上げて、目の中は誇らしさでいっぱいだった。その姿に、玲奈は思わず口元をほころばせた。けれどふと隣に目をやると――愛莉は陽葵の後ろに隠れるように立ち、リュックの紐を握りしめ、うなだれて肩を震わせていた。泣いているのだと、一目でわかった。玲奈の胸はぎゅっと縮み、すぐに娘を呼びたくなった。だが、唇まで上った言葉は喉奥で固まり、どうしても出てこなかった。その間に陽葵は校門から駆け出し、玲奈の手を自然に取った。我に返った玲奈は、背後から取り出した小さな包みを差し出した。「ほら、欲しがっていたピンクの小さなヒョウのぬいぐるみ。おばさんが買ってきたわ」受け取った陽葵は飛び跳ねて喜び、声を弾ませた。「ありがとう、おばちゃん!おばちゃん大好き!」感謝を繰り返したあと、陽葵は玲奈にしゃがむようせがみ、頬ずりをし、何度も抱きついてきた。校門の内側でそれを見ていた愛莉は、リュックの紐を強く握りしめ、目を見開いて陽葵を睨みつけた。――あれは自分のママなのに。なぜ陽葵が抱きしめているのか。なぜ自分のママが、陽葵を迎えに来るのか。胸の奥が押し潰されるように苦しい。悔しくて、悲しくて......けれどママは自分を見てくれない。玲奈は陽葵の頭を撫で、髪を整えてやると優しく言った。「陽葵、先生にさよならを言って」「先生、さようなら!」陽葵は元気よく手を振った。そうして玲奈と陽葵は、大小二つの傘を並べ、雨の中を並んで歩き出した。校門の前に残された愛莉は、鉄の門をつかんで叫ぶ。「ママ!」だが、雨音と陽葵のはしゃぐ声にかき消され、玲奈の耳には届かなかった。そのときようやく宮下が駆けつけ、出て行こうとした玲奈と鉢合わせる。「奥様」変わらぬ恭しい呼びかけに、玲奈は立ち止まる。陽葵はおしゃべりを止め、顔を上げて玲奈を見た。玲奈は落ち着いた声で指示を出す。「宮下さん、悪いけど愛莉をお願い。帰ったら早めに洗面させて、ちゃんと休ませて。スマホは長く遊ばせないで」細やかな言いつけに、宮下は何度も口を開きかけたが、結局言葉を呑み込んだ。玲奈もそれ以上、耳を貸す気はなかった。「さあ、陽葵。帰りましょう」「
その瞬間――玲奈の脳裏に、ひとりで娘を育ててきた日々が蘇った。熱を出しやすい幼子を抱えて、必死に病院へ駆け込んだ夜。智也には何度連絡しても繋がらず、濡れそぼつ雨の中、ひとりで愛莉を胸に抱えて走った。病院までの道を、いったい何往復しただろう。びしょ濡れになりながらも、ただ「隣に彼がいて、大丈夫だ、俺がいると声をかけてくれたら」――その願いを胸に、必死で踏ん張ってきた。けれど、彼はいつも忙しく、手の届かないところにいた。だから玲奈は、やがて自分ひとりで全てを解決する術を覚えていったのだ。なのに、ほんのさっき、智也は玲奈の首に挟まれていた傘を取り上げて、自ら「俺が持つ」と口にした。数え切れないほど夢見た光景が、ようやく現実となった。けれど玲奈の胸に去来したのは、喜びではなく、込み上げる悔しさと哀しみだった。――もっと早く、こうしてくれていたなら。こんなにも心が荒み、死んだように冷め切ることはなかったのに。雨の中を歩く間、智也の傘はずっと玲奈のほうへ傾けられていた。けれどそれは、彼女のためではない。抱かれた愛莉のためだ。それでもいい。少なくとも、愛莉に対しては優しいのだから。正門に着くと、玲奈は愛莉を後部座席に乗せた。身をかがめる彼女の背に、智也は傘を差し続けていた。ドアを閉め、運転席に腰を下ろす。玲奈がドアを引き寄せたとき、智也はいまだ傘をさしたまま車の脇に立っていた。思わず顔を上げ、かすれた声で告げる。「......ありがとう」智也は眉を寄せ、何も言わない。だが、彼女の服がまだ濡れているのに気づくと、黙って上着を脱ぎ、玲奈の膝に置いた。「風邪をひくな」玲奈は一瞬呆気に取られ、思わず上着を返そうとした。だが、智也はもう傘をさして自分の車へと歩き去っていた。玲奈は深追いせず、上着を助手席に放り投げた。車を発進させながら、後部座席の愛莉に問いかける。「帰りに何が食べたい?」「幼稚園の門のとこにあるスープ餃子!あと、温かいヨーグルトも!」「わかったわ」玲奈が微笑んで応えると、智也は別の車の中からその様子を見届け、ようやく視線を外した。午後五時半。玲奈は仕事を切り上げ、六時ちょうどに幼稚園に到着した。雨は一日中降り続き、園門の前には先生に
雨脚が糸のように垂れ下がり、景色は一枚の帳のようになっていた。それを眺めているうちに、玲奈の心もいくらか和らいでいく。その静けさを破ったのは、突然の着信音だった。取り出した画面には、綾乃の名前。だが電話口から聞こえてきたのは、愛らしい姪の声だった。「おばちゃん、今夜は春日部家に帰ってくる?」玲奈は少し考えてから答えた。「帰るけど......少し遅くなるわ」「やった!」弾む声が耳をくすぐる。「おばちゃん、わたしネットで卵クレープの作り方を勉強したの。今朝早起きして作ったら、おじいちゃんもおばあちゃんも、パパとママも食べてくれて、美味しいって褒めてくれたの。おばちゃんの分もちゃんと残してあるんだよ。今日、放課後迎えに来てくれる?一緒に家に帰ろうよ」柔らかな声に、玲奈の胸はとろけるように甘くなった。小さな姪の無邪気な誘いを、断ることなどできるはずもない。「......ええ」承諾すると、電話の向こうでさらに歓声があがった。「やった、おばちゃんがお迎え!やった!」玲奈も思わず笑みを浮かべる。「じゃあ、おばさんはそろそろ切るわね」「おばちゃん、大好き!」「おばさんも陽葵が一番好きよ」通話を終えたあと、玲奈はしばらく画面を見つめて動けなかった。「一番好き」先ほどの言葉を思い返し、胸の奥がちくりと疼いた。もし、愛莉が以前のままだったなら、自分はそんな言葉を口にできただろうか。けれど今は――娘よりも、姪のほうが自分を慕ってくれている。その思いが胸を締めつけた。ふと視線を上げると、向かいから智也の眼差しが注がれていた。どれほどの間、見られていたのかは分からない。ただ、その瞳の奥には明らかな不満の色があった。それでも玲奈は一歩も怯まず、むしろ真っ直ぐに言い放った。「今夜はあなたが愛莉を迎えに行って。わたしは実家に戻る用事があるから」理由は告げなかった。だが、電話のやり取りを智也も耳にしていたはずだ。細められた黒い瞳に、不可解な光が揺れる。口調は淡々としていたが、そこには嘲りの色が滲んでいた。「......姪のために帰るのか?」玲奈は否定せず、静かに頷く。「そうよ。陽葵が、わたしのために料理を作ってくれたの」その一言
玲奈は、自分がどうやって部屋に戻り、いつソファに身を横たえたのかも覚えていなかった。暗い部屋で横向きに寝転び、目の前の虚空を見つめたまま、ただ茫然としていた。どれほどの時が過ぎたのか――ようやく愛莉が戻ってきた。「ママ?」暗がりの中から小さな声が響く。玲奈は我に返り、感情のない声で答えた。「......ええ」声を頼りに近づいた愛莉は、彼女のそばに腰を下ろした。「ママ、おばあちゃんは元気?」不意に母のことを口にされても、玲奈の胸に喜びはなかった。きっと先ほど沙羅が自分の母のことを話したのを聞いて、愛莉も思い出したのだろう。玲奈の返事は素っ気なかった。「ええ」愛莉はそのまま母の肩に顔を埋めた。「ママ、わたしおばあちゃんに会いに行きたい」その意図がどこにあるのか、玲奈にはわからなかった。だが即座に拒む。「だめよ。あなたは幼稚園が大事。ちゃんと通わなきゃ」愛莉は考え込み、やがて譲歩するように言った。「じゃあ冬休みになったら、ママと一緒におばあちゃんの家に行こうよ。そのときはおばあちゃんの家でお正月を過ごそう」――お正月?もしそうなれば、母の直子はきっと喜ぶに違いない。けれど、愛莉の春日部家の人たちに対する態度は良くない。彼女が行けば、春日部宅はきっと騒がしくなるだけだ。玲奈ははっきりと否定せず、ただ淡々と返した。「そのときになって考えましょう」子どもの気まぐれなど、今は行きたいと思っても、いざ時が来れば気が変わるもの。それに――愛莉の心の中では、沙羅の存在が何よりも大きいのだから。疲れたのか、愛莉は母の腕に身を横たえ、指先を握りながら問う。「ママ、おばあちゃんって美味しいもの作ってくれるの?」玲奈は一瞬、息を呑んだ。思い出すのは、愛莉を連れて春日部宅に帰ったあの夜。母が心を込めて料理を作ったのに、愛莉は口にする前から不満ばかり口にした。胸がずきりと痛み、玲奈は答えを避けた。「もう寝なさい。ママは疲れたの」「うん。ママ、おやすみ」「おやすみ」愛莉はベッドに戻り、ほどなく眠りについた。だが玲奈はソファに横たわりながら、どうしても眠れなかった。あの夜のことが頭を離れず、気づけば涙が頬を濡らしていた。その