Share

第210話

Author: ルーシー
玲奈は淡々と、一言だけ返した。

「うん」

智也は一瞬きょとんとした。

その「うん」が、自分のどの問いに対するものなのか分からなかったのだ。

彼はじっと彼女を見つめた。

よそよそしく冷ややかな態度は、これまで見てきた彼女とはまるで別人のようだった。

愛莉が入院しているというのに、彼女の落ち着きぶりは、付き添っている自分よりも冷静に見える。

ふと視線を落とすと、玲奈の手首に光るブレスレットが目に入った。

見覚えがある――あれは、かつて拓海が競り落とした品だ。

しかし思考を深める暇もなく、沙羅からの電話がかかってきた。

智也が応答すると、受話器の向こうで心配そうな声が響く。

「智也、愛莉は大丈夫?」

「もう平気だ。

お前は来なくていい。

点滴が終わったら、俺が連れて帰る」

安心した沙羅は続けた。

「じゃあ私と宮下さんで夕食を用意しておくね。

戻ったらすぐ食べられるようにしておくから」

智也は「うん」と答え、顔を上げると、ちょうど玲奈が自分を見ているのに気づいた。

通話を切ったあと、玲奈が口を開く。

「私は先に帰るわ」

智也は驚き、声を上げる。

「中に入って愛莉を見ないのか?」

「用事があるの。

私は入らないから、あなたがそばにいてあげて」

そう言って背を向け、外へ歩き出した。

だが二歩ほど進んだところで、ふと立ち止まる。

智也は怪訝そうに彼女を見やった。

玲奈は再び彼の前に戻り、静かに視線を落として尋ねる。

「白鷺邸の件の契約、まだ署名していないでしょう?」

その言葉に、智也はようやく思い出す。

玲奈が山田に渡した書類――まだ自分の手には届いておらず、当然署名もしていなかった。

おそらく何らかの契約書なのだろう。

少し考えてから答える。

「この二日で時間を作って実家に戻る。

そのとき署名して、すぐお前に送らせるよ」

玲奈はまだ不安げに念を押した。

「できるだけ早くお願い」

智也はうなずいた。

「分かった」

玲奈はそれ以上言わず、身を翻して去っていった。

病院を出ると、涼しい風が頬をかすめる。

智也が離婚の意志を迷いなく口にしたその態度を思い返すと、分かっていたこととはいえ胸が痛んだ。

五年の結婚生活も、結局は何の意味も持たなかったのだ。

自分の存在は、彼にとってペットほどの価値もないの
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter
Comments (3)
goodnovel comment avatar
maasa16jp
なんか夫婦の家に愛人とその親を引き込んで 娘もそんな感じって前からわかってたやん いつまでそんな娘なんていらんいらん
goodnovel comment avatar
美桜
この人たち全員気持ち悪い。
goodnovel comment avatar
カナリア
これで気持ち固めるかしら? もう十分傷ついたし、自分の為に生きていいんじゃないかな? やっと話進むかなぁ
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • これ以上は私でも我慢できません!   第234話

    彼は、沙羅を安全な場所へ送り届けたら、またホールへ戻ってきて自分を探すはず。玲奈は、そう信じていた。けれど結局、それは儚い夢に過ぎなかった。智也は戻らず、電話すら一本寄越さなかった。迎えに来ると言ったはずなのに――彼が連れて帰ったのは沙羅だった。拓海は、呆然とする玲奈の視線を追い、その先にある光景を目にした。彼もまた、智也と沙羅が寄り添う姿を見たのだ。そして玲奈の胸の痛みを察すると、冷笑を洩らす。「玲奈......お前は人生を賭ける相手を間違えた。自分を裏切っただけじゃない。お前は......」――俺をも裏切った。だが、その言葉だけは飲み込んだ。玲奈の胸は確かに痛んでいた。けれど、しばらくすると冷静さを取り戻す。――彼は自分を愛していない。だからこそ、生死に関心などあるはずがないのだ。そう思い至り、玲奈は拓海へ向き直る。「さっきはありがとう」拓海は顔をそむけ、低い声で問う。「後悔してるか?」「......してるわ」玲奈は正直に答えた。そう言い残し、席を立ち、会場を後にしようとする。拓海は歩調を合わせ、言葉を続ける。「価値のない相手だと分かっているのに、どうしてそんなに苦しむ?」玲奈は足を止め、淡く笑った。「須賀君......私、本当にもう平気よ」それは事実だった。けれど、八年という歳月――約三千日を共にした記憶が、時に感情をねじ伏せてしまうのもまた事実だった。拓海はそれ以上は何も言わなかった。ただ、彼女を送ることだけは譲らなかった。家へ向かう道でも、黙ってハンドルを握り続けた。家に着くと、邦夫はまだ眠らずに待っていた。玲奈が広間に入るや否や、立ち上がって声をかける。「玲奈さん、なぜ一人で戻ったんだ?」玲奈はあらかじめ用意していた言い訳を口にする。「智也が送ってくれました。でも用事があって、そのまま出て行ったんです」祖父は納得できない様子で問い詰める。「何かあったのか?二人で喧嘩でも?」玲奈は微笑み、首を振る。「いいえ。私たち、喧嘩なんてしていません」――そもそも感情がなければ、争いすら起きようがない。祖父は半信半疑のまま、それでも言い聞かせるように言った。「玲奈さん、智也とは仲良く

  • これ以上は私でも我慢できません!   第233話

    電話は智也からだった。拓海がまた余計なことをしそうで怖くなり、玲奈はすぐに応答した。「今どこだ?」智也の低い声が受話口から響く。玲奈が答えるより早く、彼は続けた。「おじいさんに頼まれて、おまえを迎えに来た」その言葉を聞き、玲奈はちらりと拓海を見やった。彼は怨嗟を湛えた目でじっとこちらを見つめ、その視線に玲奈の背筋は粟立つ。――まるで「裏切った」と責めているような。そう思ったが、きっと錯覚だろう。彼と自分の間に、深い関わりがあるはずもないのだから。「すぐに出るわ」そう答えて通話を切ると、一言も残さず会場へ駆け戻った。宴会のホールへ近づくにつれ、妙なざわめきが耳に届く。騒ぎ声――しかも恐慌に駆られた叫び。さらに、物が壊される音まで混じっている。玲奈は直感で察した。――何か起きている。出口へ出るには、どうしてもホールを通らねばならない。せめて裏口から中をのぞこうと、そっと扉に近づいた。半開きの隙間から見えたのは、荒れ果てた光景だった。割れた食器、壊れた装飾。そして、その中心でペティナイフを振り回す男。「どこだ!出てこい!出て来い!」荒れ狂う声が響き渡る。男の顔を見て、玲奈の血の気が引いた。――さきほど清花に手を伸ばそうとした、あの男。恐らく狙いは自分だ。そう悟った瞬間だった。階段の上から、ひとりの女性が姿を現す。沙羅だった。男は彼女を見つけるなり、包丁を振りかざして突進してきた。沙羅は初めて事態に気づいたらしく、蒼白になって悲鳴を上げ、階段を駆け上がった。「智也!助けて!」二階の扉が開き、智也が飛び出してくる。彼は咄嗟に近くの物を掴み、階下へ投げつけた。狙いは男の注意を逸らすこと。どう見ても、相手は精神を病んでいるようだった。効果はすぐ現れる。物音に男の視線が奪われる。だが、その投げられた物は偶然にも裏口の扉に当たり、わずかに開いた隙間から――玲奈の服の色がのぞいた。男の目にそれが映った瞬間、標的が切り替わった。彼は二階から駆け下り、玲奈をめがけて突進する。玲奈は恐怖に駆られ、必死に裏庭へ走った。「逃がすか!」振り上げられた刃が、すぐ背後に迫る。――もう追いつかれる。その刹那。拓海が

  • これ以上は私でも我慢できません!   第232話

    けれど今の玲奈は、ただの小児外科の下っ端医師にすぎず、まだ執刀の資格すら持っていない。その言葉に玲奈の胸は揺れ、しばし言葉を失った。その時、少し離れた場所から二人の少女が手を振る。「清花、一緒に踊ろうよ!」「行く!」清花は元気よく答え、玲奈に目を向ける。「お義姉さん、友達と遊んでくるね」玲奈は小さく頷いた。「ええ、気をつけて」清花は二歩ほど歩いたところで、ふと立ち止まり、振り返って微笑む。「お義姉さん、私の医学への思いは変わらないよ。もしあの時、私が愛莉の出産に立ち会えていたら......絶対にお義姉さんをあんなに怖がらせたりはしなかった」彼女は産婦人科を志し、女性が出産を恐れずに済むようにしたいのだ。その言葉を聞いた玲奈の胸は強く打たれた。――自分もかつて、同じ夢を抱いていた。愛莉を産んだ時の惨痛な記憶がよみがえり、心臓を締めつけられるような不安に駆られる。その子が今は、自分以外を「ママ」と呼びたがっているのだ。玲奈は胸を押さえ、顔を覆い、嗚咽をこらえた。その時、淡い煙草の香りが背後から漂ってきた。はっと振り返ろうとした瞬間には、すでに拓海の手が彼女の肩に置かれていた。警戒心を露わにした玲奈を見て、拓海は喉の奥で笑いを漏らす。「......子犬みたいに可愛げがあるな」彼女が泣いていたのを分かっていても、彼は何一つ触れず、ただ茶化す。――その方が、彼女を笑わせられると思っているのだ。玲奈は見上げ、眉を寄せた。「どうしていつも、気配もなく現れるの?」拓海はポケットから清潔なハンカチを取り出し、そっと彼女の涙を拭う。「誰かを本気で想えば、そいつの体に目がいくつも生えるんだ。いつだって見てしまう」まただ。彼はいつも、言葉巧みに情熱を語る。玲奈は一言も信じず、立ち上がって一歩身を引く。「もう遅いから、帰るわ」背を向けかけた瞬間、拓海の手が素早く彼女の腕をつかむ。玲奈が必死に振りほどこうとすると、彼はさらに力を込め、一気に抱き寄せた。右腕で腰を抱き締め、胸に押し込む。同時に、彼女の手を取り、自分の腹部へと導いた。シャツの裾から中へと押し込み、硬い筋肉に指先を押し当てさせる。「......分かるか?」低く囁き、視線を絡める。

  • これ以上は私でも我慢できません!   第231話

    玲奈は智也を避けるように歩き出した。だが智也は後を追い、声をかける。「なんでそんなによそよそしくする?」玲奈が答える前に、背後から声が飛んできた。「兄さん」振り返ると、涼真がパジャマ姿で寝室のドア口に立っていた。彼は智也を見て問いかける。「沙羅さん、最近は演奏会を開かないの?もうずいぶん彼女のピアノを聴いていない」智也は淡々と答える。「今は学業を優先している。しばらくは演奏会はしないだろう」涼真は不満そうに眉をひそめる。「兄さんほどの人間なら、卒業証書くらい取らせてやれるだろ?」玲奈は智也が弟に足止めされている間に、彼らの会話を聞き流しながら外へと足を進めた。祖父に言われた飲みの会場へ着いた時には、すでに夜の十時になっていた。祖父から渡された招待状があったおかげで、入場は問題なかった。会場に入ると、男女は皆きらびやかに着飾っている。その中で、玲奈だけがラフな服装だった。好奇の視線を感じたが、無視してホールを見回す。探しているのは――清花。グラスがぶつかり合い、笑い声が響く華やかな会場。人の波に目が眩みそうになったが、やがて見つけた。隅の席で、一人黙々と食べている清花の姿を。玲奈がそちらへ向かうと、同じように一人の男が清花に近づいていた。背丈は低く、平凡な風貌。だが、挙動は卑しく目つきもいやらしい。玲奈は直感で察した――危険だ。男の手が清花に伸びる寸前、玲奈は小走りで駆け寄り、その手を乱暴にはじき飛ばした。「何をしてるの!」不意の声に清花も立ち上がる。後ろを振り返り、玲奈の姿を見つけると、慌てて彼女の傍に身を寄せた。「お義姉さん......!」玲奈は男を警戒しつつ、清花に小声で告げる。「おじいさんが心配してたわ。あなたの様子を見てきてって」清花も相手の意図を悟り、恐怖に顔を強ばらせる。彼女は玲奈の袖を握り、か細い声で言った。「......お義姉さん、私は大丈夫」玲奈は前の男を睨みつけ、一喝する。「失せなさい!」男は酔いで顔を赤らめ、言葉もなく、ただ陰険な眼差しで玲奈を睨み返す。その視線に不快感を覚えた玲奈は、清花の手首を取った。「行きましょう。ここじゃ話せない」余計な騒ぎを避けるため、彼女は

  • これ以上は私でも我慢できません!   第230話

    祖父は上座に腰かけ、角に座っている涼真へ声をかけた。「涼真、おまえ、義姉さんのために誕生日の歌を歌ってやれ」涼真はスマホをいじりながら、鼻で笑う。「じいちゃん、義姉さんももう大人だろ。子供でもないのに、誕生日の歌なんてバカバカしい」その言葉に祖父はすぐさま憤りを見せた。「なら、私が歌う!孫の嫁に、私が歌って何が悪い!」そう言って声を張り上げ、歌い出そうとした。実と美由紀は互いに顔も見ず、口もきかない――どうやら夫婦喧嘩の最中らしい。祖父もその二人には何も言わなかった。智也は玲奈の隣に座り、俯いてスマホを操作していた。指先がせわしなく動いている。誰とやり取りしているのか、玲奈には分からなかった。――けれど、おそらく沙羅だろう、と彼女は思った。涼真は祖父の言葉を拒絶した後、再びスマホに目を落とした。結局、この食卓で心から「おめでとう」と思ってくれているのは、祖父ただ一人だった。それを悟った瞬間、玲奈の胸にじわりと熱いものがこみ上げる。かつては、彼女はこの一族の誰にでも必死に気に入られようとしてきた。けれど実際には、祖父以外の誰一人として、彼女の努力を心に留めた者はいなかったのだ。気まずそうな祖父の顔を見て、玲奈はそっと口を開いた。「おじいさん、お気持ちは十分伝わりました。歌は結構です。今度おじいさんのお誕生日には、私が歌いますから」その言葉に祖父の目は赤く潤み、うつむいた声が震えた。「......じゃあ、ケーキを切ろうか」祖父が自分のために悲しんでくれていると分かって、玲奈は逆に笑顔を作った。「はい、まずはおじいさんに」玲奈最初の一切れを祖父へ渡すと、邦夫はゆっくりと味わいながら食べ始めた。玲奈が他の人たちへ目を向けると、それぞれが勝手に動き、彼女の誕生日など意にも介していなかった。彼女は祖父に続いて自分の分を切り取ると、もう誰にも配らなかった。ケーキを口に運んだ時、ちょうど智也がスマホを置いた。彼は顔を向け、低く声をかける。「誕生日おめでとう」甘いケーキが口に広がるのに、心は苦く締めつけられる。玲奈は作り笑いを浮かべ、短く返した。「ありがとう」祖父は甘ったるいものは苦手だった。だが玲奈を悲しませまいと、無理をして一切れ

  • これ以上は私でも我慢できません!   第229話

    智也がまだ何も言わないうちに、邦夫から電話がかかってきた。通話を取ると、受話口から不満げな声が飛んでくる。「この馬鹿者、ちゃんとお嫁さんを迎えたんだろうな?」智也は短く答える。「ああ」「なら早く戻ってこい。みんな待ってるぞ」祖父の言葉に頷き、電話を切った。携帯をしまうと、智也は玲奈へ視線を向けて告げる。「離婚協議書ができたら連絡する。署名はその時に」玲奈も、この件は急かしても無意味だと分かっていた。まして新垣家のような家庭で、しかも子どもが絡むのだから、手続きには時間がかかる。「分かったわ」彼女が承諾すると、智也は続ける。「それじゃ、今は家に戻って夕食にしよう」そのまま車を発進させた。向かう道中、二人の間に会話はなかった。玲奈はふと、祖父のことを思い出す。離婚となれば誰もが頷くだろう。だが、祖父だけは違う。彼だけは心の底から、玲奈と智也に添い遂げてほしいと願っている人だった。そもそも二人の結婚は、祖父が強く後押ししたからこそ実現した。当時、玲奈はその厚意に心から感謝し、結婚後も変わらず祖父を大切にしてきた。そして祖父もまた、彼女を実の孫娘のように可愛がってくれた。――だからこそ、離婚の話をどう切り出せばいいのか分からない。信号待ちの合間に、玲奈は智也の横顔を見つめる。前方を見据える顎のラインは硬く緊張し、鼻梁は鋭く、薄い唇は固く結ばれ、長い睫毛の影が目元に落ちている。彼は、誰が見ても美しい男だった。かつて玲奈は、その顔に心を奪われ、すべてを捧げてきた。――けれど今は、何の感情も湧いてこない。視線を外さず、玲奈は問いかけた。「おじいさんには、どう説明するつもり?」智也は顔を向け、正直に答える。「分からない。ただ、絶対に反対されるだろう」彼が自分を見る目は、もうずっと冷めきっていた。玲奈は少し考え、淡々と告げる。「じゃあ隠しておきましょう。離婚届を出したあとで、少しずつ伝えればいい」智也は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。「......ああ」着くと、使用人たちが出迎えに出てきた。智也は車を降りると、玲奈のためにドアを開けることもせず、まっすぐ後部トランクへ向かう。彼女が降り立った時

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status