彼は、沙羅を安全な場所へ送り届けたら、またホールへ戻ってきて自分を探すはず。玲奈は、そう信じていた。けれど結局、それは儚い夢に過ぎなかった。智也は戻らず、電話すら一本寄越さなかった。迎えに来ると言ったはずなのに――彼が連れて帰ったのは沙羅だった。拓海は、呆然とする玲奈の視線を追い、その先にある光景を目にした。彼もまた、智也と沙羅が寄り添う姿を見たのだ。そして玲奈の胸の痛みを察すると、冷笑を洩らす。「玲奈......お前は人生を賭ける相手を間違えた。自分を裏切っただけじゃない。お前は......」――俺をも裏切った。だが、その言葉だけは飲み込んだ。玲奈の胸は確かに痛んでいた。けれど、しばらくすると冷静さを取り戻す。――彼は自分を愛していない。だからこそ、生死に関心などあるはずがないのだ。そう思い至り、玲奈は拓海へ向き直る。「さっきはありがとう」拓海は顔をそむけ、低い声で問う。「後悔してるか?」「......してるわ」玲奈は正直に答えた。そう言い残し、席を立ち、会場を後にしようとする。拓海は歩調を合わせ、言葉を続ける。「価値のない相手だと分かっているのに、どうしてそんなに苦しむ?」玲奈は足を止め、淡く笑った。「須賀君......私、本当にもう平気よ」それは事実だった。けれど、八年という歳月――約三千日を共にした記憶が、時に感情をねじ伏せてしまうのもまた事実だった。拓海はそれ以上は何も言わなかった。ただ、彼女を送ることだけは譲らなかった。家へ向かう道でも、黙ってハンドルを握り続けた。家に着くと、邦夫はまだ眠らずに待っていた。玲奈が広間に入るや否や、立ち上がって声をかける。「玲奈さん、なぜ一人で戻ったんだ?」玲奈はあらかじめ用意していた言い訳を口にする。「智也が送ってくれました。でも用事があって、そのまま出て行ったんです」祖父は納得できない様子で問い詰める。「何かあったのか?二人で喧嘩でも?」玲奈は微笑み、首を振る。「いいえ。私たち、喧嘩なんてしていません」――そもそも感情がなければ、争いすら起きようがない。祖父は半信半疑のまま、それでも言い聞かせるように言った。「玲奈さん、智也とは仲良く
電話は智也からだった。拓海がまた余計なことをしそうで怖くなり、玲奈はすぐに応答した。「今どこだ?」智也の低い声が受話口から響く。玲奈が答えるより早く、彼は続けた。「おじいさんに頼まれて、おまえを迎えに来た」その言葉を聞き、玲奈はちらりと拓海を見やった。彼は怨嗟を湛えた目でじっとこちらを見つめ、その視線に玲奈の背筋は粟立つ。――まるで「裏切った」と責めているような。そう思ったが、きっと錯覚だろう。彼と自分の間に、深い関わりがあるはずもないのだから。「すぐに出るわ」そう答えて通話を切ると、一言も残さず会場へ駆け戻った。宴会のホールへ近づくにつれ、妙なざわめきが耳に届く。騒ぎ声――しかも恐慌に駆られた叫び。さらに、物が壊される音まで混じっている。玲奈は直感で察した。――何か起きている。出口へ出るには、どうしてもホールを通らねばならない。せめて裏口から中をのぞこうと、そっと扉に近づいた。半開きの隙間から見えたのは、荒れ果てた光景だった。割れた食器、壊れた装飾。そして、その中心でペティナイフを振り回す男。「どこだ!出てこい!出て来い!」荒れ狂う声が響き渡る。男の顔を見て、玲奈の血の気が引いた。――さきほど清花に手を伸ばそうとした、あの男。恐らく狙いは自分だ。そう悟った瞬間だった。階段の上から、ひとりの女性が姿を現す。沙羅だった。男は彼女を見つけるなり、包丁を振りかざして突進してきた。沙羅は初めて事態に気づいたらしく、蒼白になって悲鳴を上げ、階段を駆け上がった。「智也!助けて!」二階の扉が開き、智也が飛び出してくる。彼は咄嗟に近くの物を掴み、階下へ投げつけた。狙いは男の注意を逸らすこと。どう見ても、相手は精神を病んでいるようだった。効果はすぐ現れる。物音に男の視線が奪われる。だが、その投げられた物は偶然にも裏口の扉に当たり、わずかに開いた隙間から――玲奈の服の色がのぞいた。男の目にそれが映った瞬間、標的が切り替わった。彼は二階から駆け下り、玲奈をめがけて突進する。玲奈は恐怖に駆られ、必死に裏庭へ走った。「逃がすか!」振り上げられた刃が、すぐ背後に迫る。――もう追いつかれる。その刹那。拓海が
けれど今の玲奈は、ただの小児外科の下っ端医師にすぎず、まだ執刀の資格すら持っていない。その言葉に玲奈の胸は揺れ、しばし言葉を失った。その時、少し離れた場所から二人の少女が手を振る。「清花、一緒に踊ろうよ!」「行く!」清花は元気よく答え、玲奈に目を向ける。「お義姉さん、友達と遊んでくるね」玲奈は小さく頷いた。「ええ、気をつけて」清花は二歩ほど歩いたところで、ふと立ち止まり、振り返って微笑む。「お義姉さん、私の医学への思いは変わらないよ。もしあの時、私が愛莉の出産に立ち会えていたら......絶対にお義姉さんをあんなに怖がらせたりはしなかった」彼女は産婦人科を志し、女性が出産を恐れずに済むようにしたいのだ。その言葉を聞いた玲奈の胸は強く打たれた。――自分もかつて、同じ夢を抱いていた。愛莉を産んだ時の惨痛な記憶がよみがえり、心臓を締めつけられるような不安に駆られる。その子が今は、自分以外を「ママ」と呼びたがっているのだ。玲奈は胸を押さえ、顔を覆い、嗚咽をこらえた。その時、淡い煙草の香りが背後から漂ってきた。はっと振り返ろうとした瞬間には、すでに拓海の手が彼女の肩に置かれていた。警戒心を露わにした玲奈を見て、拓海は喉の奥で笑いを漏らす。「......子犬みたいに可愛げがあるな」彼女が泣いていたのを分かっていても、彼は何一つ触れず、ただ茶化す。――その方が、彼女を笑わせられると思っているのだ。玲奈は見上げ、眉を寄せた。「どうしていつも、気配もなく現れるの?」拓海はポケットから清潔なハンカチを取り出し、そっと彼女の涙を拭う。「誰かを本気で想えば、そいつの体に目がいくつも生えるんだ。いつだって見てしまう」まただ。彼はいつも、言葉巧みに情熱を語る。玲奈は一言も信じず、立ち上がって一歩身を引く。「もう遅いから、帰るわ」背を向けかけた瞬間、拓海の手が素早く彼女の腕をつかむ。玲奈が必死に振りほどこうとすると、彼はさらに力を込め、一気に抱き寄せた。右腕で腰を抱き締め、胸に押し込む。同時に、彼女の手を取り、自分の腹部へと導いた。シャツの裾から中へと押し込み、硬い筋肉に指先を押し当てさせる。「......分かるか?」低く囁き、視線を絡める。
玲奈は智也を避けるように歩き出した。だが智也は後を追い、声をかける。「なんでそんなによそよそしくする?」玲奈が答える前に、背後から声が飛んできた。「兄さん」振り返ると、涼真がパジャマ姿で寝室のドア口に立っていた。彼は智也を見て問いかける。「沙羅さん、最近は演奏会を開かないの?もうずいぶん彼女のピアノを聴いていない」智也は淡々と答える。「今は学業を優先している。しばらくは演奏会はしないだろう」涼真は不満そうに眉をひそめる。「兄さんほどの人間なら、卒業証書くらい取らせてやれるだろ?」玲奈は智也が弟に足止めされている間に、彼らの会話を聞き流しながら外へと足を進めた。祖父に言われた飲みの会場へ着いた時には、すでに夜の十時になっていた。祖父から渡された招待状があったおかげで、入場は問題なかった。会場に入ると、男女は皆きらびやかに着飾っている。その中で、玲奈だけがラフな服装だった。好奇の視線を感じたが、無視してホールを見回す。探しているのは――清花。グラスがぶつかり合い、笑い声が響く華やかな会場。人の波に目が眩みそうになったが、やがて見つけた。隅の席で、一人黙々と食べている清花の姿を。玲奈がそちらへ向かうと、同じように一人の男が清花に近づいていた。背丈は低く、平凡な風貌。だが、挙動は卑しく目つきもいやらしい。玲奈は直感で察した――危険だ。男の手が清花に伸びる寸前、玲奈は小走りで駆け寄り、その手を乱暴にはじき飛ばした。「何をしてるの!」不意の声に清花も立ち上がる。後ろを振り返り、玲奈の姿を見つけると、慌てて彼女の傍に身を寄せた。「お義姉さん......!」玲奈は男を警戒しつつ、清花に小声で告げる。「おじいさんが心配してたわ。あなたの様子を見てきてって」清花も相手の意図を悟り、恐怖に顔を強ばらせる。彼女は玲奈の袖を握り、か細い声で言った。「......お義姉さん、私は大丈夫」玲奈は前の男を睨みつけ、一喝する。「失せなさい!」男は酔いで顔を赤らめ、言葉もなく、ただ陰険な眼差しで玲奈を睨み返す。その視線に不快感を覚えた玲奈は、清花の手首を取った。「行きましょう。ここじゃ話せない」余計な騒ぎを避けるため、彼女は
祖父は上座に腰かけ、角に座っている涼真へ声をかけた。「涼真、おまえ、義姉さんのために誕生日の歌を歌ってやれ」涼真はスマホをいじりながら、鼻で笑う。「じいちゃん、義姉さんももう大人だろ。子供でもないのに、誕生日の歌なんてバカバカしい」その言葉に祖父はすぐさま憤りを見せた。「なら、私が歌う!孫の嫁に、私が歌って何が悪い!」そう言って声を張り上げ、歌い出そうとした。実と美由紀は互いに顔も見ず、口もきかない――どうやら夫婦喧嘩の最中らしい。祖父もその二人には何も言わなかった。智也は玲奈の隣に座り、俯いてスマホを操作していた。指先がせわしなく動いている。誰とやり取りしているのか、玲奈には分からなかった。――けれど、おそらく沙羅だろう、と彼女は思った。涼真は祖父の言葉を拒絶した後、再びスマホに目を落とした。結局、この食卓で心から「おめでとう」と思ってくれているのは、祖父ただ一人だった。それを悟った瞬間、玲奈の胸にじわりと熱いものがこみ上げる。かつては、彼女はこの一族の誰にでも必死に気に入られようとしてきた。けれど実際には、祖父以外の誰一人として、彼女の努力を心に留めた者はいなかったのだ。気まずそうな祖父の顔を見て、玲奈はそっと口を開いた。「おじいさん、お気持ちは十分伝わりました。歌は結構です。今度おじいさんのお誕生日には、私が歌いますから」その言葉に祖父の目は赤く潤み、うつむいた声が震えた。「......じゃあ、ケーキを切ろうか」祖父が自分のために悲しんでくれていると分かって、玲奈は逆に笑顔を作った。「はい、まずはおじいさんに」玲奈最初の一切れを祖父へ渡すと、邦夫はゆっくりと味わいながら食べ始めた。玲奈が他の人たちへ目を向けると、それぞれが勝手に動き、彼女の誕生日など意にも介していなかった。彼女は祖父に続いて自分の分を切り取ると、もう誰にも配らなかった。ケーキを口に運んだ時、ちょうど智也がスマホを置いた。彼は顔を向け、低く声をかける。「誕生日おめでとう」甘いケーキが口に広がるのに、心は苦く締めつけられる。玲奈は作り笑いを浮かべ、短く返した。「ありがとう」祖父は甘ったるいものは苦手だった。だが玲奈を悲しませまいと、無理をして一切れ
智也がまだ何も言わないうちに、邦夫から電話がかかってきた。通話を取ると、受話口から不満げな声が飛んでくる。「この馬鹿者、ちゃんとお嫁さんを迎えたんだろうな?」智也は短く答える。「ああ」「なら早く戻ってこい。みんな待ってるぞ」祖父の言葉に頷き、電話を切った。携帯をしまうと、智也は玲奈へ視線を向けて告げる。「離婚協議書ができたら連絡する。署名はその時に」玲奈も、この件は急かしても無意味だと分かっていた。まして新垣家のような家庭で、しかも子どもが絡むのだから、手続きには時間がかかる。「分かったわ」彼女が承諾すると、智也は続ける。「それじゃ、今は家に戻って夕食にしよう」そのまま車を発進させた。向かう道中、二人の間に会話はなかった。玲奈はふと、祖父のことを思い出す。離婚となれば誰もが頷くだろう。だが、祖父だけは違う。彼だけは心の底から、玲奈と智也に添い遂げてほしいと願っている人だった。そもそも二人の結婚は、祖父が強く後押ししたからこそ実現した。当時、玲奈はその厚意に心から感謝し、結婚後も変わらず祖父を大切にしてきた。そして祖父もまた、彼女を実の孫娘のように可愛がってくれた。――だからこそ、離婚の話をどう切り出せばいいのか分からない。信号待ちの合間に、玲奈は智也の横顔を見つめる。前方を見据える顎のラインは硬く緊張し、鼻梁は鋭く、薄い唇は固く結ばれ、長い睫毛の影が目元に落ちている。彼は、誰が見ても美しい男だった。かつて玲奈は、その顔に心を奪われ、すべてを捧げてきた。――けれど今は、何の感情も湧いてこない。視線を外さず、玲奈は問いかけた。「おじいさんには、どう説明するつもり?」智也は顔を向け、正直に答える。「分からない。ただ、絶対に反対されるだろう」彼が自分を見る目は、もうずっと冷めきっていた。玲奈は少し考え、淡々と告げる。「じゃあ隠しておきましょう。離婚届を出したあとで、少しずつ伝えればいい」智也は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。「......ああ」着くと、使用人たちが出迎えに出てきた。智也は車を降りると、玲奈のためにドアを開けることもせず、まっすぐ後部トランクへ向かう。彼女が降り立った時