Masuk皆の視線を一身に受けながら、拓海は玲奈のほうを振り向いた。けれど答えそのものは、背後の皆に向けて言った。「玲奈に任せるよ」この件ばかりは、自分だけで決めにくかった。山へ来る途中で、夜はカフェで話そうと約束していたからだ。最終的な判断を自分に委ねられ、玲奈は少しだけ面食らった。顔を上げると、何組もの期待に満ちた目が、自分へ向けられている。今日は皆、本当に楽しそうだった。それに天気も申し分ない。空を見上げると、もう星がぽつぽつと浮かび始めていた。みんなの気分に水を差したくなくて、玲奈は結局折れた。「……うん。今夜はここで泊まりましょう」そのひと言に、明が喜んだのはもちろん、隣の拓海まで、あからさまに顔をほころばせた。ちょうどそのとき、玲奈のスマホが鳴った。画面を見下ろすと、智也からだった。彼女はスマホを手に取り、少し離れた静かな場所へ移って電話に出た。拓海は彼女が電話に出るのを見ても、追いかけようとはしなかった。相手が智也だとわかっていたからだ。通話がつながると、智也が開口一番に訊いた。「戻ってくるのか?」玲奈は淡々と答えた。「今夜は小燕邸には戻らないわ」その返事に、智也は声を低くした。「戻らない?」よく耳を澄ませば、その声には不機嫌さが滲んでいた。だが玲奈は、彼の感情など意に介さなかった。ただ、もう一度はっきりと言う。「ええ、戻らないわ」それでも智也は食い下がった。「今どこにいる?」玲奈は逆に問い返した。「何か用なの?」智也は少し間を置いてから言った。「愛莉が、おまえの作る味噌汁を食べたいと言っている。明日の朝、作ってやってくれないか」それを聞いた瞬間、玲奈はおかしさすら覚えた。声はさらに冷えていく。「その話をするためだけに電話してきたのなら、わざわざかけてくる必要はなかったでしょ」そう言い切ると、智也が何か言うのを待たず、そのまま通話を切った。一方そのころ、智也は耳元で鳴り続ける話中音を聞きながら、そばにいた愛莉へ視線を落としていた。それからようやく、小さな声で言った。「……今の、聞いただろう。ママは今夜は帰らないそうだ」愛莉は眉を寄せた。「じゃあ、いつ帰ってくるの?」久我山へ戻ってきてもう一
手を押さえて顔をしかめる玲奈を見た瞬間、拓海は、彼女が火傷したのだと察した。すぐさまその手をつかみ、「こっちだ。冷やすぞ」と、ためらいなく言った。玲奈も逆らわず、そのまま彼に手を引かれていった。ほかの面々も心配そうに見守っていたが、拓海が連れていくのを見て、ようやく少し安堵したようだった。二人は小さな別荘の洗面所へ向かった。拓海は蛇口をひねり、玲奈の手を取ったまま、自分の手ごと一緒に水に当てる。ざあざあと水の流れる音だけが静かに響く。その音を聞いているうちに、玲奈の心は不思議なくらい落ち着いていった。一分ほど冷やしたところで、彼女はそっと腕を動かしながら言った。「もう大丈夫」だが拓海は顔を曇らせたまま、低い声で言った。「無理するなよ」玲奈は思わず言い返した。「無理してるのはあなたのほうでしょ。傷から血がにじんでるのに、それでも無理して来るなんて」さっき焼けた串を運んでいたとき、ふと彼の胸元が目に入ったのだ。服で隠してはいたものの、滲んだ血はごまかしきれていなかった。拓海は玲奈の手をつかんだまま、まだ流水から外そうとしない。そのまま彼女の横顔を睨むように見つめて言った。「こうでもしなきゃ、おまえは俺を心配してくれないだろ」玲奈は振り向き、腹立たしげに言った。「あなた……」拓海はそのまま甘い笑みを浮かべた。「認めろよ。おまえ、俺のこと気にしてる」玲奈は顔をそむけた。「気にしてない」その返事を聞くと、拓海は突然、「痛っ」と大げさに声を上げた。胸元を押さえ、いかにも苦しそうな顔をする。玲奈は反射的に彼を見て、思わず支えるように手を伸ばした。「どうしたの?」その心配そうな顔を見て、拓海は堪えきれずに笑った。その勢いで、また彼女の手を握った。「ほらな。やっぱり気にしてるじゃないか」眉を少し上げたその顔には、いつもの不敵な調子が戻っていた。玲奈は視線を逸らし、黙って手を引き抜いた。そのとき、外から明の大きな声が聞こえてきた。「拓海、玲奈さん、焼けたぞー!」玲奈は「今行く」と返し、そのままみんなのところへ戻っていった。一瞬きょとんとした拓海だったが、すぐにそのあとを追った。バーベキューを食べ終えると、今度は皆でトランプを始めた。
拓海は一歩踏み出し、そのまま玲奈の目の前に立った。そして彼女の手を取り、自分の前へ引き寄せる。見下ろすそのまなざしには、隠しようのない心配があふれていた。玲奈は首を振り、喉を詰まらせながら答えた。「違うの。悪いのは私だから」拓海は、彼女が明らかに落ち込んでいることに気づいていた。だからなおさら問い詰めた。「何があった?俺に隠すな」玲奈は顔を上げた。充血した目は痛々しいほどで、見ているだけで胸がざわつく。「夜に話すわ」そう言うと、彼女は軽く自分の手首をひねり、静かに続けた。「須賀君、もう放して」その声に、拓海は名残惜しそうにしながらも手を離した。自由になると、玲奈はそのまま心晴のところへ向かった。二人は小さな椅子に並んで腰かけ、野菜を摘んだり、串に刺したりしながら手を動かしていく。けれど玲奈が上の空なのは、誰の目にも明らかだった。心晴は気になって身を寄せ、小声で尋ねた。「どうしたの?」玲奈は手を止め、心晴のほうを振り向いた。「そんなに、ひどい顔してる?さっきからずっと心配してくれるから」心晴は力強くうなずいた。「うん。してる」玲奈は戸惑うように訊き返した。「そんなにわかりやすい?」心晴はさらに大きくうなずいた。「すごくわかりやすいよ」それを聞いて、玲奈は小さくため息をついた。「心晴、ほんとに大したことじゃないの」それでも心晴は納得していない様子だった。なおも何か聞こうとしたが、玲奈はそれより先に話題を変えた。「そういえば、心晴は?最近どう?長谷川さんとは、もしかして……」明の名が出ると、心晴の視線は自然とそちらへ向かった。明は陽の光の中に立っていた。橙がかった日差しが全身を包み、彼をいっそうやわらかく見せている。いい人だ。あたたかくて、思いやりがあって、相手への気配りも忘れない。濁りのない、まっすぐな人だった。光の中に立つその姿は、見ているだけで人を惹きつける。けれど心晴の胸には、どうしても越えられない壁が残っていた。目を伏せたまま、彼女は玲奈に言った。「過ぎたことは、過ぎたこととして置いていくべきだと思うの。私は今ある景色と、大事にしたい人を大切にしたいだけ。長谷川さんは本当に素敵な人だけど……私
明と颯真が車を走らせ、一行は山頂の小さな別荘へとたどり着いた。山の上からの景色は見事だった。眼下を見渡せば、久我山の街が半分以上、一望できる。まだ昼間だというのに、遠くに広がる街並みはどこか幻想的な魅力を放っていた。山の空気は澄みきっていて、大きく息を吸い込むと、胸の奥まで清々しさが満ちていく。車を降りた玲奈は、それだけで少し気分が軽くなった。昨夜酒を飲んだせいで、まだ体にはうっすらと酒の匂いが残っていた。それに気づいた拓海が、訝しげに声をかけた。「朝から酒びたりだったのか?」相変わらず、口調は軽くて締まりがない。けれど玲奈は、ときどき思うのだ。こういう人でも、根のところでは案外いい人なのかもしれないと。智也とは違う。口は悪いし、ふざけたような物言いも多い。それでも、嫌悪を覚えるようなことは一度もしてこなかったし、むしろ何度も自分を助けてくれた。けれど、その優しさは本来、望月晴子へ向けられるはずのものだったのだと思うと、胸の内に言いようのない落ち着かなさが広がった。玲奈の表情が、さっきまでの和らいだものから、次第に不安げなものへ変わっていくのを見て、拓海は眉をひそめた。「どうした?俺に怒ってるのか?」そう言いながら、彼はゆっくりと距離を詰め、玲奈の黒い瞳をのぞき込んだ。玲奈はそっと手を伸ばして彼を押し返した。「荷物を運ぶの、手伝ってくる」そう言うと、拓海に囲い込まれるような空気から逃げるように、すぐその場を離れた。車のほうへ向かって荷物を持とうとすると、明がそれを止めた。「玲奈さんはいいよ。俺と颯真で運ぶから、向こうでゆっくりしてて」玲奈はあたりを見回してから、また言った。「じゃあ、先にテントを立てるね」言い終わるより早く、拓海が先にテントの入ったバッグを取りにいった。袋からテントを出し、広げようとしたものの、組み立てにはどうしても両腕を大きく使わなければならない。その動きが傷に障るのではないかと、玲奈は思わず気になった。彼女はすぐに駆け寄り、拓海を止めた。「私がやるわ」そう言って、その手からテントを取り上げた。ちょうどそのとき、明が車から最後の荷物を下ろし終え、その言葉を耳にした。顔を上げてこちらを見ると、彼は半ば冗談めかして笑った。
それを聞いた愛莉の顔から、期待の色がすっと消えた。代わりに浮かんだのは、はっきりとした失望だった。「……そっか」愛莉は不機嫌そうにそう答えた。こんなふうに母の反応を確かめれば、玲奈がまだ自分を気にかけているとわかるかもしれないと思っていた。けれど、玲奈はまるで自分のことなど気にしていないようだった。どうしてなのか、愛莉の胸の奥には、もやもやとした居心地の悪さが広がっていく。――前は、あんなに自分のことを大事にしてくれていたのに。……玲奈はタクシーで拓海の家へ向かう道すがら、彼にどう真実を伝えるべきか、何度も心の中で言葉を組み立てていた。こう言おうか。いや、それでは違う気がする。そんなふうに何度も考え直したが、どうにもすっきりとはまとまらなかった。けれど、よくよく考えれば、悪いのは自分ではない。彼女は最初から、何かを故意に隠していたわけではなかった。ならば、自分が必要以上に後ろめたさを感じることはない。そこまで考えて、玲奈はようやく頭の中の逡巡を止めた。こんなことで自分を責める必要はないのだと、言い聞かせるように。ほどなくして、タクシーは拓海の家の前に着いた。車を降りた玲奈は、門の前に人が集まっているのを見て足を止めた。近づいてみると、そこにいたのは見覚えのある顔ぶればかりだった。心晴に、明、颯真――その光景に、玲奈は戸惑いながら声を上げた。「……これは?」そう尋ねながら、彼女は無意識のうちに拓海のそばへ歩み寄っていた。彼は彼女が自分のほうへ寄ってくるのを見ると、口元にかすかな笑みを浮かべ、穏やかに説明した。「今日は天気がいいからな。みんなでキャンプに行こうって話になった」玲奈は少し考えた末、やはり断ろうとした。「私はやめておくわ」だが向かい側にいた心晴が、そのあまりにきっぱりした断り方を聞いて、すぐさま玲奈の手を取った。「玲奈、行こうよ。ね、お願い」ここ数日、心晴の様子はだいぶ落ち着いてきていた。少なくとも、表情には前よりずっと笑みが戻っている。そんな彼女にそう言われると、玲奈も強くは断れなかった。「……わかったわ」一行は二台の車に分かれて向かうことになり、運転を担当するのは明と颯真だった。玲奈は本来、颯真の車に乗るつもりでいた
拓海からのメッセージだとわかると、玲奈は反射的にラインを開いた。トーク画面を開いてみると、友だち推薦でつながった件には触れず、彼はただこう送ってきていた。【今どこだ?】その文面を見つめながら、玲奈はすぐには返す気になれなかった。拓海が自分に向けていた優しさは、もとはといえば一華が彼を助けたことから始まっていた。けれど彼は今も、本当に自分を救った相手が玲奈ではなく、一華だとは知らない。そう思うと、どうしても返信する気持ちになれなかった。それでも考え直した。このことを知る権利は、彼にもあるはずだと。結局、玲奈はこう返した。【あとで会って話せる?】拓海からはすぐに返事が来た。【俺に会いたくなったのか?】いつもの軽口だ。そんなふうに飄々とした調子には、もう慣れているはずだった。けれど今は、その文面を見ているだけで胸の奥が妙に空っぽになる。玲奈はただ、短く返した。【話したいことがあるの】すると拓海は、【じゃあ、こっちに来て】と送ってきた。玲奈は、【わかった。十時ごろ行くわ】と返した。真実は、きちんと伝えたほうがいい。彼女はそう思っていた。スマホをしまったちょうどそのとき、智也が二階から下りてきた。すでに身支度は整っていて、茶色のチェスターコートの下には黒のスーツをきっちり着込んでいる。背が高く、顔立ちも整っているせいで、何気ない装いでもどこか人目を引く。そんな姿を玲奈は一瞥しただけで、すぐに視線をそらした。昨日、彼が時間どおりに来なかったせいで、離婚届を出すのがまた先延ばしになった。そのことを思えば、彼に対してわだかまりがないわけではない。ただ、どれだけ不満を抱いたところで、何かが変わるわけでもなかった。だから玲奈は怒りをぶつけもせず、ただ淡々としていた。だが智也のほうは、階段を下りてくるあいだからずっと、沈んだ顔をしていた。近づいてきたその顔にも、笑みの気配は欠片もない。玲奈は彼を見ようともせず、そのまま脇を通って洗面所へ向かおうとした。するとすれ違いざまに、智也が声をかけた。「今日は会議がある。愛莉の習い事、代わりに連れて行ってくれ」玲奈はきっぱりと言った。「無理よ」智也は、その黒い瞳をじっと見つめた。「何か予定でもあるの
玲奈の冷ややかな拒絶に、智也の瞳には暗い翳りが差していた。しばし沈黙ののち、彼は低く問い返す。「それをするのは、おまえのほうがふさわしいんじゃないのか?」――妻である以上、夫の服を整えるのは当然だろう、と。その意図は明白だった。玲奈は小さく鼻で笑い、しかしきっぱりと言い切った。「わたしは食事をするわ。自分でやるか、宮下さんに頼むかして。智也、わたしがあなたの服を熨すことはない」彼女が名を口にしなかったのは、分かっていたからだ。智也が沙羅をそんな雑用に使うはずがない、と。智也はしばらく玲奈を見下ろしていたが、強いることはせず、やがて無言のまま階段を上が
ワインを一口飲むと、玲奈の目から涙がこぼれ落ちた。鼓動が早い胸を押さえ、不安と混乱でいっぱいになる。そのとき、電話の着信音が鳴った。画面を見ると、表示されたのは兄の秋良の名前だった。まだ時間は早い。時刻は夜の十一時を少し過ぎたころだ。兄に気づかれまいと、玲奈は慌てて涙を拭い、気持ちを整えてから電話に出た。「兄さん」できるだけ平静を装ったつもりだったが、声にはかすかに不自然さが滲んでしまう。秋良はそれを指摘することなく、静かに言った。「もうこんな時間なのに、どうしてまだ帰ってこない?陽葵がずっと君を呼んでいるぞ」その言葉に、玲奈の胸がまた痛んだ。自
涼真は新垣家の末っ子であり、一番寵愛を受けて育ったため、性格もどうしてもわがままで横柄になりがちだった。そのせいで遠慮というものがなく、家の中で彼が恐れる相手は兄の智也ただ一人だ。だから清花に蹴られてもまるで気に留めず、顔を見ようともしなかった。おじいさんは孫の態度に眉をひそめ、杖で床を突きながら言い放った。「涼真、台所へ行って料理を運んできなさい」涼真はすぐさま言い返した。「じいちゃん、俺は召使いじゃないよ。義姉さんに運ばせればいいじゃん」「君の義姉も召使いではない!」おじいさんは声を荒げた。その剣幕に、さすがの涼真もようやく姿勢を正した。涼真は祖父が
沙羅は智也の視線を追い、その先に玲奈と拓海の姿を見つけた。その瞬間、笑顔を浮かべていた沙羅の口角がわずかに下がった。周囲には大勢の人がいて、あからさまな反応はできない。何事もないかのように智也の腕を軽く揺らし、「智也、何を考えていたの?」と問いかける。智也はようやく我に返り、沙羅に振り返り尋ねた。「......弾き終わったのか?」「ええ」「じゃあ、帰ろう」そう言って足を踏み出そうとしたが、沙羅が慌てて腕をつかむ。「智也、まだ撮影があるわ」智也は数秒沈黙してから頷いた。「ああ」会もここまでくれば、進行はほぼ終盤に差しかかっていた。一方、玲奈と拓







