LOGINそう考えると、ようやく胸のざわつきが収まった。それでも山田は来ない。沙羅は愛莉に言った。「愛莉ちゃん、スマホ取ってくれる?雅子おばあちゃんに来てもらって、付き添ってもらうの」愛莉は露骨に嫌がった。「やだ」愛莉の反応を見て、沙羅の胸の奥に、ちいさな快感が走る。――雅子は、この子をちゃんと従わせてる。名前を出しただけで怖がるなんて。けれど沙羅は愛莉の気持ちなど気にせず、にこりと笑って言う。「山田さんだと、私は落ち着かないの。雅子おばあちゃんは、私のママだもの。ママがそばにいてくれたら安心でしょ?ね?」その言葉を聞いた瞬間、愛莉の胸がどくんと鳴った。――どうしてみんな、そんなにママが好きなの?幼稚園の子だって、迎えに来るのはいつもママ。あの嫌な陽葵だって、毎日ママの後ろにくっついている。みんなそうだ。それだけでも嫌なのに、沙羅までママが一番みたいに言う。胸の奥が、じわっと苦くなった。玲奈の顔が浮かぶと、好きという気持ちはもう湧いてこない。出てくるのは、むしろ恨みだった。複雑な感情に押しつぶされそうになり、愛莉は勢いよく沙羅に抱きつく。腰にしがみついて、泣きながら叫んだ。「ララちゃんが、私のママになって。私はララちゃんだけがママならいいの!」沙羅は抱き返した。けれど胸の内に、本当の思いやりは一片もない。表情だけはやさしく作って、「うん」と頷く。愛莉は泣き続け、沙羅の服は涙で湿っていく。沙羅は苛立ちを覚え、思わず愛莉を押しやった。そして俯き、問いかける。「どうしてパパと一緒に帰らなかったの?」愛莉は眉を寄せた。「ララちゃん、私がいて嫌なの?」沙羅はすぐに笑顔を貼りつける。「違うよ。私は心配してるだけ」愛莉は必死に言う。「心配しなくていいよ。私、自分のこともできるし、ララちゃんのことも守れる」沙羅は小さく笑って頷いただけだった。「うん」さらに三十分ほどして、雅子が病室に現れた。姿を見た瞬間、沙羅はたまらなくなって目を赤くする。「ママ......」雅子はベッド脇にどんと腰を下ろす。その勢いで愛莉はベッドの足元へ追いやられた。愛莉は雅子が怖くて、一言も言えない。雅子は沙羅の手を握り
玲奈が先に階段室を出ると、智也はすぐ後ろから追いかけた。二人は並んで、沙羅の病室へ向かう。智也はわざと玲奈の横に歩調を合わせ、肩を並べた。病室の前に着いても、玲奈は中へ入らず、入口に立ったままだった。玲奈が入る気がないのを見て、智也も無理に引っぱり込もうとはしない。智也が病室へ入ると、まず沙羅の様子を確認した。眠っているのを確かめてから、今度は愛莉に声をかける。「愛莉、帰るぞ」その言葉に、愛莉は一気に慌てた。大声で首を振る。「やだ!帰らない!ララちゃんと一緒にいる!」智也は宥めるように言う。「言うことを聞きなさい。山田を呼んで、彼女の付き添いを頼むから」だが愛莉は頑として譲らない。顔を背けて言い張る。「いや!帰らない!私がララちゃんの面倒を見る!」智也の表情が、すっと冷えた。声を低くして問いただす。「もう一回聞く。帰るのか、帰らないのか」愛莉はきっぱり答えた。「帰らない」智也は短く言った。「......分かった」そして淡々と続ける。「じゃあ、パパとママは先に帰る。あとで山田を寄こして、お前とララちゃんを見てもらう」そう言い捨てると、智也は踵を返して病室を出ていった。愛莉は背中を目で追った。――どうせ、私を一人で置いていくはずがない。パパなら、戻ってくる。ところが、智也は本当に出ていったきりだった。涙が一気にこぼれ落ちる。それでも愛莉は、まだ信じた。パパが、私を病院に置き去りにするわけがない、と。けれど待っても待っても、智也は戻らない。三十分以上が過ぎた頃、ようやく愛莉は気づいた。――パパは、もう来ないのかもしれない。その瞬間、怒りが込み上げた。愛莉は手を振り上げ、机の上のコップを叩き落とした。「ふんっ!ぜんぶあの悪いママのせい!パパを奪ったんだ!悪いママ!悪いママ......!」音が大きすぎて、沙羅ははっと目を覚ました。愛莉は慌てて駆け寄る。「ララちゃん、起きたの?私がうるさかった?」沙羅は愛莉の泣き顔を見ても、胸は動かなかった。むしろ、平手打ちしてやりたい衝動がこみ上げる。せっかく眠れたのに、叩き起こされたのだ。怒りを呑み込んではみたが、笑
そう言いながら、愛莉は沙羅の胸に飛び込み、ぎゅっと抱きついた。沙羅はこの泣き虫を突き放したくてたまらなかったが、堪えた。智也は外にいる。それに愛莉まで目の前で騒がしくて、ますます苛立つ。――いっそ、このまま倒れてしまったほうが早い。そう計算した次の瞬間、沙羅は本当にそうした。そのままベッドへ、力なく崩れ落ちたのだ。愛莉は目を見開いて固まり、遅れて絶叫した。「パパ!パパ!ララちゃんが倒れた!」入口で玲奈と張り合っていた智也は、その声を聞くなり迷わず部屋へ駆け込んだ。玲奈は病室のほうを見なかった。ただ、智也の切迫した声が聞こえる。「沙羅......!」それに重なるように、愛莉の胸を裂く泣き声。「ララちゃん......!」――結局。夫も娘も、別の女を心配する。さっき智也が何を言っていようと関係ない。玲奈は、智也があの人を気にかけているのを、もう嫌というほど思い知らされた。しかも、愛莉は「腕なんていらない」とまで言った。あの腕は――私が命を削って産んだ体じゃないの?そう思った途端、胸の奥がざわついて、頭が熱くなった。部屋の中の騒がしい声も、もう一秒たりとも聞いていられない。玲奈は立ち上がり、ゆっくりその場を離れた。向かったのは階段室。小さな窓を開け、玲奈は眼下の久我山の街を見下ろす。眩い都会。車の流れ、ネオン、高層ビル――全部がきらきらしているのに、彼女の心だけが石みたいに重い。窓枠にもたれ、吹き込む冷気に髪を乱されながら、玲奈はスマホの動画をぼんやり流した。けれど出てくるのは、別れだの離婚だの、そんな文句ばかり。しまいには「離婚したら子どもは誰にも要らない存在になる」だなんて。うんざりして、玲奈は乱暴に画面を消した。――そして顔を上げた瞬間。目の前に、智也の深い黒い瞳があった。玲奈は湧き上がる怒りを必死に押し込み、少し間を置いてから尋ねた。「......どうして来たの?」智也は階段室の入口に立ったまま言う。「お前がいなかったから。心配になって、見に来た」玲奈が、彼の口から「心配」という言葉を聞いたのは初めてだった。けれど、胸が温まるどころか、疑いが先に立つ。何年も望んだ言葉が今さら叶っても、信じる理由が
【出会った日......?】玲奈は思い出せなかった。けれど不安のほうが先に立ち、すぐ直子に打った。【受け取ったの?】直子から返ってくる。【さすがに受け取れなかったわ。でも須賀君が置き捨てて、そのまま行っちゃったの】玲奈は落ち着かず、指を早めた。【お母さん、そのカードは大事に保管して。数日中に時間を作って、私が返しに行くから】【わかったわ。ちゃんとしまっておくわね】スマホを握りしめたまま、玲奈はもう一度だけ確認する。【ほかに、須賀君は何か言ってた?】直子は隠さず、そのまま返した。【うちへの結納金だと思ってって】その文字を見た瞬間、玲奈は自分が言葉を読めなくなったみたいに感じた。しばらく固まってから、やっと短く返す。【......わかった】画面を消そうとした、そのとき。頭上から低く、掠れた声が落ちてきた。「誰にメッセージしてた?」智也だった。玲奈が顔を上げると、智也は見下ろしている。暗がりに顔が半分沈み、輪郭はぼやけているのに、視線だけが鋭く刺さってくる。動揺を飲み込み、玲奈は平然と答えた。「母に」言い終わるなり、智也が手を差し出す。「じゃあ見せろ」玲奈は眉を寄せる。「見せてどうするの?」それでも智也は手を引かない。「俺に隠し事はするな」玲奈はおかしくなって、返事の代わりに沙羅がいる診察室のほうへ視線を投げた。中から沙羅のか細い嗚咽が聞こえてくる。玲奈は智也に言った。「まず彼女のほうを見てあげたら?」彼女に、玲奈はわざと強く言った。何を忘れてるのか――思い出させるみたいに。それでも智也の視線は玲奈から離れない。「こんなの、ちょっとした怪我だ。少し我慢すればいい」その言葉で、玲奈の体の芯が一気に冷えた。まさか智也が、怪我をした沙羅に対してそんな言い方をする日が来るなんて。この人は――本当に心があるの?玲奈は智也をじっと見た。探るように、見透かそうとして。けれど彼の顔は静まり返っていて、何ひとつ読み取れなかった。いったい、何を考えているのか。一方、診察室の中ではギプス固定が進んでいた。沙羅は汗と涙でぐしゃぐしゃになり、痛みに耐えている。愛莉はそばで見守り、目を真っ赤にしてい
玲奈はわかっていた。智也は潔癖気味で、汚れることを嫌う男だ。それなのに今、沙羅が涙でシャツを濡らしても、彼は少しも嫌な顔をしない。その様子を見て、玲奈はふと考えてしまう。智也が沙羅をそこまで愛していないとしても――少なくとも彼の中で、沙羅はやはり特別なのだろう、と。沙羅を抱えたまま玲奈の横を通り過ぎるとき、智也は足を止めた。そして声を落として言う。「愛莉と手を繋いでやれ」玲奈が答えるより先に、愛莉が首を振った。「いい。パパの服の裾つかんで歩くから」そう言って、愛莉は智也のコートの裾をきゅっと握った。智也はそれ以上何も言わず、愛莉の好きにさせた。玲奈はその場に立ち尽くし、胸の奥が薄く冷えていくのを感じる。もう慣れたはずなのに、やっぱり刺さる。苦い笑いを二つ落としてから、玲奈も遅れて歩き出した。智也は沙羅を助手席に座らせ、丁寧にシートベルトまで締めてやった。立ち上がろうとした瞬間、沙羅が智也の手を引く。眉を寄せ、痛みに耐える顔で呟いた。「智也......怖い」水みたいに柔らかい声だった。人の心を揺らすような、甘い響き。智也は一瞬動きを止め、沙羅を見下ろす。そして頭を軽く撫でて、静かに言った。「大丈夫。大したことじゃない」それでも沙羅の涙は増すばかりで、しゃくり上げながら訴えた。「私......足が悪くなって、歩けなくなったらどうしよう」智也は指で彼女の唇にそっと触れ、言い聞かせる。「心配するな。そんなことにはならない」頬を染めた沙羅が、恐る恐る続ける。「もし......本当にそうなったら、あなた......」言い終える前に、智也が先に答えた。「万が一そうなっても、俺がその先の人生まで面倒を見る」その言葉で、沙羅の表情がすっと落ち着いた。瞳には一気に光が宿る。玲奈がここにいても、勝つのは自分――沙羅はそう確信したのだろう。智也が助手席のドアを閉め、振り返る。玲奈はまだ車のそばに立ったまま、乗る気配がない。「乗れ。愛莉の隣に座れ」玲奈は返事をせず、ドアを開けて後部座席へ滑り込んだ。愛莉は右側に座っている。けれど体ごと前へ傾け、ドアの隙間から小さな手を伸ばし、沙羅の手を握った。「ララちゃん、すごく痛
車に乗り込むと、玲奈は後部座席へ座り、愛莉もその隣に腰を下ろした。二人は左右に分かれ、間にはまるで天の川でも流れているみたいな距離があった。車内は静まり返り、誰ひとり口を開かない。智也はバックミラー越しに、ときおり後ろの妻と娘へ目をやった。――そこにいるのは、家族というより、互いを避け合う他人同士だった。玲奈は窓の外へ顔を向け、流れていく街灯の影をぼんやり追う。けれど心はずっと遠くに漂っていた。智也の条件を飲んだ自分が、情けなくて仕方ない。頬を張り飛ばしてやりたいほどだ。けれど拒めば、智也は別の手で必ずねじ伏せてくる。そうなるくらいなら、最初から承諾したほうがまだマシ――そう結論づけるしかなかった。それにしても、どうして急にこんな態度を取るのか。智也は離婚を待ち望んでいたはずだ。別れれば堂々と沙羅を迎えられるのに。なのに今の智也は、まるで別人みたいだった。この数日も、過去五年も。玲奈は一度も智也の本心を掴めなかった。自分は彼を、何ひとつ理解できていなかったのだ。やがて車が停車した。智也が愛莉を連れて降りると、玲奈も続いて外へ出る。ここは学のいる大学だった。玲奈が、ずっと憧れてきた博士課程。降りた瞬間から、玲奈は周囲の景色に目を奪われた。校内に漂う、濃い学術の空気。胸の奥が静かに熱を帯びる。前を行く一大一小は足早だ。玲奈は急がず、ゆっくりと後ろからついていく。心にあるのは、この場所への渇望だけだった。――三年後には、自分もここに立っていたい。気づけば三人は、沙羅のいる場所へ辿り着いていた。沙羅は階段に腰を下ろし、ズボンの裾を膝の上までまくり上げていた。覗いた脛はすらりと真っ直ぐで、肌は白い。傷口はないが、大きな青あざがはっきり残っている。玲奈は一目見ただけで、おおよその見当がついた。――骨に響いている。たぶん、打撲だけじゃない。しばらく座り込んでいた沙羅は、智也がようやく来たのを見た途端、目を赤くした。次の瞬間には、顔中涙でぐしゃぐしゃだった。沙羅が泣くのを見て、愛莉は胸を痛めたように駆け寄り、そっと首に抱きつく。「ララちゃん、泣かないで。愛莉とパパ、来たよ」沙羅は愛莉を抱き返しながらも、その言葉には答えず
おそらく足を捻ってしまったのだろう。玲奈は暫く経っても起き上がることができなかった。誰かが彼女の腕を掴んできた時、彼女はおどろいて後ろを振り返った。そこにいたのは昂輝だった。玲奈はその瞬間目を真っ赤にさせて、鼻の奥をツンとさせた。彼女が伏し目がちにすると、瞳から涙が零れてきた。「どうしてまだこんなところに?」昂輝は彼女の傍に屈んで、満面の笑みで尋ねた。「何も問題なんてないのに、俺に銀行カードをくれてどうしようって?」玲奈はまだ顔を下に向けたまま、後悔したような口調で言った。「実は、私のせいであなたが……」彼女が話し終わる前に昂輝がこう言った。「分かってるよ」それを聞
黒いロールスロイスの後部座席には、智也と愛莉が並んで座っていた。愛莉は長い間泣き続け、ようやく泣き止んだが、また時々肩を震わせていた。暫く待つと、沙羅は幼稚園から出てきた。智也は相変わらず彼女のためにドアを開けてあげた。沙羅は目を潤ませながら礼を言った。「智也、ありがとう」智也は無理やりに笑顔を見せ、車を回って、向こう側からまた乗り、座った。愛莉は二人の間に、智也と沙羅が左右から囲むように座っていた。沙羅の傷ついた指はまだ手当せず、ティッシュでぐるぐる巻きにしただけで血を何とか止めている状態だった。しかし、彼女は痛みを訴えず、車に乗り込むとすぐ愛莉に謝った。「愛
愛莉はその小さな顔をしかめていた。「だったらママがパパを怒らせたの?」智也は表情を厳しくさせて言った。「愛莉、考えすぎた。ママはパパを怒らせるような資格すらないんだからな」愛莉は顔を下に向け、気落ちした様子だった。「だけど、パパ、私もうかなりママに会ってないよ」智也は心が締め付けられる思いで娘を抱きしめて尋ねた。「ママが恋しい?」愛莉は頭を左右に振った。「よく分かんない」智也は娘の気持ちが分かり、優しい声で彼女を慰めた。「パパが時間を作ってママに話してみるから」愛莉はそれを聞いて頷き、智也のほうへ何度も振り返りながら自分の寝室へと戻っていった。ララちゃんはすごく良く
沙羅は電話を切り、振り返ると心配そうな顔をした玲奈がこちらに向かって歩きながら愛莉の名前を呼んでいた。その時、沙羅の手はまだ爪が折れたせいで血が止まらずにいた。どんなに痛くても、今自分の爪のことなど考える余裕はなかった。愛莉がいなくなったから、智也にどう説明すればいいのか。玲奈が近づいてくるのを見て、沙羅は思わず彼女に声をかけた。「春日部さん」玲奈は冷たい眼差しで彼女を見つめた。「愛莉は?」沙羅がある方向を指差した。「あちらに行ったはずなのよ」玲奈は彼女とそれ以上話すつもりがなく、沙羅をかわすようにして追いかけた。幼稚園の活動はまだ続いていたが、陽葵は玲奈のこと