LOGIN昼間の出来事が、まだ胸の奥に重く残っていた。綾乃は、沈んだ表情の玲奈を見つめ、胸が締めつけられるような気持ちで頬をそっと撫でた。「大丈夫。あと二、三日したら......私が連れて帰ってあげるからね」医師の話では、玲奈の発熱は強く、数日間の入院が必要だという。炎症を落ち着かせ、熱が完全に引いてからでなければ退院できない。玲奈は綾乃の言葉に逆らわず、素直に頷いた。「......はい。綾乃さんの言うとおりにします」唇は乾いてひび割れ、顔色もまだ赤く火照っている。綾乃は彼女の髪を指先で整えながら、やさしく言った。「ちょっと横になってて。お湯を汲んでくるわね」この数日、久我山の気温はぐっと下がり、季節の変わり目でインフルエンザが大流行していた。玲奈は、そんな綾乃を気遣うように声をかける。「......綾乃さん、マスクしてくださいね。私のがうつっちゃうと困りますから」綾乃は笑って頷いた。「分かってるわ。すぐ戻るから、少し休んでてね」玲奈は小さく返事をして、そっと目を閉じた。身体は鉛のように重く、節々が痛み、意識もぼんやりしていた。どれほど眠ったのか分からない。うつらうつらと夢の中で、兄の秋良が――拓海を殴っている光景を見た。その夢に息を呑み、目を開ける。額にはまたびっしょりと汗がにじんでいた。ちょうどその時、病室の外から足音が近づいてきた。玲奈は、てっきり綾乃が戻ってきたのだと思い、背を向けたまま弱い声で呼びかけた。「綾乃さん......兄さん、本当に須賀君に手を出したりしてないですよね?」言い終えるか終えないかのうちに、低く笑う声がした。その直後、懐かしい声が優しく答える。「どうした?そんなに俺のこと心配してたのか?」その声を聞いた瞬間、玲奈ははっとして振り返った。「......須賀君?どうしてあなたがここに?」汗で濡れた髪が頬に張りつき、顔は真っ赤に上気している。拓海はベッドのそばに立っていた。黒いスウェット姿、無造作に乱れた髪。だが、どこか凛とした清潔さをまとっている。粗野さと上品さが同居した、人目を惹く顔立ちだった。その拓海が、玲奈のベッド脇の椅子に腰を下ろした。長い脚を軽く折り、穏やかな笑みを浮かべ
秋良は階段の踊り場に立ち、手にはまだパソコンバッグを提げたまま、拓海が玲奈を抱きかかえて出ていく光景を呆然と見つめていた。問い詰めたい言葉が喉まで出かかったが、玲奈の顔が真っ赤に染まり、苦しげに息をしているのを見た瞬間、その言葉は喉の奥で凍りついた。――今は責めている場合じゃない。拓海が階段を駆け下りると、ちょうど玄関から綾乃が戻ってきた。拓海は玲奈を抱えたまま、息を乱しながらも丁寧に声をかける。「綾乃さん......」綾乃は一瞬立ち止まり、驚いたように目を見開いた。だが、すぐに冷静さを取り戻し、拓海の腕の中でぐったりしている玲奈の様子に気づくと、慌てて問いかけた。「玲奈、どうしたの?」拓海は大股で玄関へ向かいながら、息を整える間もなく答えた。「高熱です。今すぐ病院へ連れていきます!」綾乃が返す暇もないほどの早さで、拓海は玲奈を抱えたまま夜の空気の中へ飛び出していった。その直後、秋良も階段を降りてきて、玄関に立つ綾乃に声をかけた。「行こう。俺たちも行こう」いまは誰がどうやって家に入ったかよりも、玲奈の命のほうがずっと大事だった。深夜。玲奈はぼんやりとした意識のなかで目を開けた。最初に目に入ったのは、真っ白な天井と蛍光灯の淡い光。鼻の奥には、消毒液のつんとした匂いが広がっている。手の甲に鋭い痛みを感じ、視線を向けると、点滴の針が刺さっていた。そのとき、そばから柔らかな声が響いた。「玲奈ちゃん、目が覚めた?」――綾乃の声だ。玲奈はゆっくり首を向け、ベッドの右側に座っている綾乃を見た。左手には点滴のチューブが繋がっている。唇を動かし、かすれた声で呼んだ。「綾乃さん......」声は掠れて弱く、目も真っ赤に腫れていた。綾乃はそっと手を伸ばして玲奈の額に触れ、優しい声で言った。「もう熱は下がったわ。少しは楽になった?」玲奈は小さく笑みを浮かべ、かすかにうなずいた。「......はい。少しだけ」意識がはっきりするにつれて、玲奈の脳裏に、ひとりの男性の姿が浮かんだ。――拓海。確かに、あの夜、彼が窓から入ってきた。夢だったのか現実だったのか。けれど、あの声は確かに聞こえた。胸の奥がざわめき、玲奈は思わず問いかけた。
夕方になっても、玲奈は仕事を切り上げられず、結局、残業をもう三十分ほど続けた。病院を出たとき、同僚に夕食を誘われ、軽く食事を済ませて帰宅したのは夜の十一時を過ぎていた。朝、愛莉が入院している病院を出てからというもの――智也からは一度も連絡がなかった。玲奈もまた、娘の様子を尋ねることはしなかった。春日部家に戻ると、健一郎と直子はすでに寝室の明かりを落としていた。秋良と綾乃の部屋には灯りがついていたが、中は空っぽ。陽葵もとっくに寝静まっているようだった。玲奈は家族を起こさぬよう、足音を忍ばせて部屋へ向かった。ベッドに横たわるころには、湯も浴びる気力が残っていなかった。一晩中眠れず、さらに昼間は休む間もなく働きづめ。身体はもう限界を越えていた。だが、まどろみの中で――身体の内側から熱が立ちのぼるのを感じた。全身が燃えるように熱い。肌は汗でびっしょりと濡れ、息も荒い。手を額に当てた瞬間、その熱に自分でも驚いた。喉は焼けるように痛く、飲み込むたびに刃が立つようだった。身体は鉛のように重く、視界は霞み、目の奥までじんじんと痛む。――移った。愛莉の看病中に感染したのだと、玲奈はすぐに悟った。熱が上がっている。今すぐ薬を飲まなければ。そう思ってベッドから起き上がろうとする。けれど、腕も脚も言うことを聞かない。どれほど力を入れても、身体はびくともしなかった。やがて諦め、そのままシーツに沈み込む。息をするたび、胸の奥がひりつく。汗が滲み、髪の毛が頬に張りついた。どれくらい時間が経ったのか――意識が遠のく中で、玲奈はうっすらと目を開けた。窓のほうで、何かの音がした。視界の端に、ひとつの影がゆらりと現れる。薄闇の中を近づいてくるその人影が、やがて部屋の明かりに照らされたとき――玲奈の瞳に、はっきりとその顔が映った。拓海だった。現実なのか夢なのか。境目が溶けていくように曖昧だった。すべてが幻のように見えた。拓海は窓から身を乗り越え、急ぎ足で玲奈のベッドへ駆け寄った。布団の中の彼女の顔は真っ赤に染まり、全身から湯気が立つほどに汗ばんでいる。その姿を見た瞬間、拓海の心臓が強く跳ねた。「玲奈......!」慌ててベッドの縁に
沙羅は、腕の中にいる愛莉の小さな頬をそっと撫でながら、申し訳なさそうに微笑んだ。「私が悪かったの。私のせいで愛莉が病気になっちゃって......ごめんね、愛莉」愛莉は首を振り、弱々しい声で答える。「ちがうよ。悪いのは愛莉のほう。愛莉が弱いから」沙羅の目が赤く潤み、声には深い罪悪感が滲んだ。「そんなこと言わないで。もしあなたが病気になるってわかってたら、絶対に病院になんて連れてこなかった。......ごめんね嫌いにならないでくれる?」愛莉は小さな手を伸ばして、沙羅の頬を伝う涙をぬぐいながら、かすかに笑った。「ララちゃん、愛莉は怒ってないよ。あと少ししたら、また元気になるから」沙羅は無理に微笑み、その小さな頬をもう一度撫でた。「ほんとにいい子ね、愛莉」愛莉はそのまま沙羅にしがみつく。まるで八本の足で絡みつくタコのように離れなかった。智也は、その光景を見ながら、表情には笑みを浮かべていたが、声色には少しだけ注意の色が混じっていた。「愛莉、沙羅もまだ退院したばかりなんだ。そんなにくっついたら、疲れちゃうよ」その言葉を聞くと、愛莉は素直に手を放した。智也は娘の不満そうな顔を見て、すぐに小さな弁当箱を取り出した。「ほら見て。これは沙羅がお前のために、わざわざ家に戻って作ってくれた特製弁当だよ」その一言で、愛莉の顔がぱっと明るくなった。「わあ!ララちゃんのごはんなんて、初めて!パパ、早く食べさせて!」普段、小燕邸の食事はすべて宮下が用意している。沙羅は研究や仕事で忙しく、台所に立つことなどほとんどなかった。そんな彼女は、少し照れたように笑いながら言った。「でもね、あんまり期待しないでね。私、料理あんまり得意じゃないから......口に合わないかも」愛莉はそんなことおかまいなしで、目を輝かせながら智也をせかす。「パパ、早く開けて!」智也は頷いて、ふたを開けた。中には白く濁った魚のスープ。表面には黒い焦げのような小さな粒が浮かんでいる。見た目は決して美味しそうとは言えなかった。それでも愛莉は、少しも顔をしかめず、スプーンを取り、小さくすくって口に運んだ。......次の瞬間、舌の先がぴりっと痺れる。思わず眉をひ
およそ三十分ほど経って、愛莉はようやくゆっくりと目を開けた。玲奈の顔が視界に入る。本当は、嬉しかった。けれど、その「ママ」というたった二文字が、喉の奥からどうしても出てこない。玲奈は怒らなかった。代わりに、穏やかな声で問いかけた。「少しは楽になった?」手を伸ばして愛莉の額に触れると、熱はずいぶん下がっていた。愛莉は唾をのみ込んだ。喉は刃物で裂かれるように痛く、目の縁が真っ赤に染まり、涙がこぼれ落ちた。その様子を見て、玲奈は優しく言葉をかけた。「味噌汁を買ってきたの。少しだけでも食べて、また寝ようね」愛莉は小さくうなずき、かすれた声で「うん」と返す。玲奈は彼女をそっと支え起こし、顔を拭いてから、スプーンで味噌汁を口に運んだ。しかし、一口飲み込んだ途端、愛莉は顔をしかめて、吐き戻してしまった。玲奈は慌ててティッシュで受け止め、心配そうに尋ねる。「どうしたの?口に合わなかった?」愛莉は唇を尖らせ、かすれた声でつぶやいた。「......これ、ママが作った味噌汁じゃない。ママのが食べたいの」その言葉を聞いた瞬間、玲奈の胸の奥を鋭い痛みが貫いた。――あの朝、雅子にひっくり返されたあの味噌汁。どれほどの時間と想いを込めて煮込んだことか。それを思い出すと、胸が締めつけられた。それでも、玲奈は穏やかに言い聞かせるように微笑んだ。「愛莉、少しだけ我慢してね。お昼にはママがちゃんと美味しいのを作ってくるから。ね?少しだけ食べよう?」愛莉は顔を上げて玲奈を見つめた。母親の疲れ切った表情がそこにある。だが、心の中に湧き上がったのは、同情ではなく、怒りだった。――自分がこんなに苦しいのに、ママは何もしてくれない。味噌汁さえ作ってくれない。そう思うと、胸の奥がぐっと熱くなった。「......もういい。パパとララちゃんが来てくれるから、ママは自分の仕事をしてていいよ」その言葉に、玲奈は微かに息を詰めた。それでも、忍耐をこめてやさしく答える。「愛莉。ママは小児外科のお医者さんだからね。この病気は三日から五日は熱が続くの。最初の数日が一番大事なのよ。ママ、三日間お休みを取ったから、ずっとそばにいるわ」玲奈の声には、ほとん
一晩中眠れなかった玲奈の体は、すでに限界を超えていた。その疲れきった心に、智也の言葉が追い打ちをかける。胸の奥に押し込めていた息が、また詰まった。彼女は奥歯を強く噛みしめ、深く息を吐き出したあとで、ようやく言葉を絞り出す。「――やりたいなら、自分でやって。私は愛莉の分だけ作るわ」智也は、彼女の充血した目と、目の下に濃く刻まれた隈を見て、眉を寄せた。しばらく黙り込んだのち、低い声で問う。「......お前、前はこんなんじゃなかった。ただ味噌汁を少し多めに作ってくれって言ってるだけだろ。それのどこがそんなに気に入らないんだ?」玲奈は、もう抑えきれなかった。振り返りざま、智也を鋭くにらみつける。「智也、あなた自分で言ったじゃない、前はって。人は変わるのよ。いつまでも同じでいられる人なんていない。――私だって、そうよ」智也は、玲奈がここまで声を荒らげるのを、ほとんど見たことがなかった。けれど、最近の彼女は違う。その苛立ちは日に日に強くなっていた。彼の胸の中に、嫌な予感がもやのように広がる。――もしかして、玲奈はもう自分と愛莉を邪魔者だと思っているのではないか。そう考えた瞬間、今度は智也の感情が爆発した。「......具合が悪いなら病院に行け。俺に当たったって治らないぞ」その言葉を聞いた瞬間、玲奈の身体がぴたりと止まった。呆然と智也を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。やがて、かすれた笑いが漏れる。「......そうね。私、病気よ。あんたなんかを好きになった、この目が病気。子どもためにあなたの心をつなぎとめようなんて思った、この頭もおかしいの。私って、ほんと馬鹿よね。どうしようもないほどの」智也は、はっとした。自分の言葉が彼女をどれほど傷つけたか、その時ようやく気づく。思わず手を伸ばし、彼女の腕を掴もうとする。だが、玲奈はその手を振り払った。「触らないで。もう、あなたに触れられたくない」声は震え、身体も細かく震えていた。手にはまだ、かき混ぜる前のおたまを握っている。鍋の中では、米がまだ煮え立ってもいなかった。智也は、その震える背中を見つめながら、ただ焦燥だけに突き動かされていた。もう一度、手を伸ばす







