LOGIN「着いた」と智也に言われた瞬間、玲奈は反射的にスマホをしまった。隠すような仕草は、明らかに何かを隠している。けれど智也は、それ以上は何も言わなかった。玲奈はシートベルトを外し、車を降りた。智也を待たず、そのまま一人で病院へ向かおうとする。だが二歩ほど歩いたところで、背後から呼び止められた。「玲奈」玲奈は足を止め、振り返って智也を見つめる。「......なに?」智也も車を降りてきた。ロングコートは前を開けたまま。整った顔立ちに、肩の力の抜けた雰囲気。風がコートの裾を揺らし、中の無地のシャツが体格の良さを引き立てている。けれど今の玲奈には、彼に対する余計な感情は何もなかった。智也が近づいてくる。そして玲奈の前で身をかがめ、急に真面目で、どこか誠実な声で尋ねた。「......俺たち、もう一度やり直せると思うか?」その言葉に、玲奈は息を呑んだ。呆然として、その場で固まった。何を言いたいのか分からない。何を求めているのかも分からない。分からないから、答えなかった。玲奈はただ言った。「......愛莉に、会いに行かないの?」智也も少し戸惑ったように目を瞬かせた。自分がなぜあんなことを口にしたのか、本人にも分からなかったのだろう。我に返ったように、智也は言う。「......ああ。行こう」玲奈は道中ずっと落ち着かなかった。智也の言葉の意味を探ろうとしてしまう。あれは一体、何だったのか。けれど玲奈には、結局彼の意図が掴めなかった。病院へ着くと、智也が先を歩き、玲奈は無言で後ろに続いた。ほどなくして、愛莉が入院している階に着く。病室に入る前から、愛莉の泣き声が聞こえた。続いて、沙羅の声もする。「愛莉ちゃん、パパはママを迎えに行ったの。私がここにいるから、泣かないで。ね?」愛莉は頷いた。それでも涙は止まらず、頬を伝い続けていた。ドアの外で沙羅が言い終えた、その直後。智也が扉を押して入った。病室に入ると、智也は沙羅が愛莉を抱いているのを見た。片腕でお尻を支え、もう片方で背中を抱きしめている。沙羅の顔は疲れ切っていて、血の気も薄い。智也は迷わず近づき、沙羅に言った。「沙羅、愛莉を俺に」智也が戻り、しかも
智也が「俺と一緒に家に帰れ」と言ったとき、その表情は真剣で、目にも軽薄さはなかった。だから玲奈は、変な勘ぐりはしなかった。けれどやはり、抵抗はある。玲奈はきっぱり言った。「小燕邸も白鷺邸も、あなたの家でしょ。私の家じゃない。帰らない」拒まれると、智也の顔が冷える。声を落として言った。「俺が前に何て言ったか、忘れたのか」玲奈は少し呆けた。「......何て言ったの?」そのとき、信号が青に変わった。車の流れは多く、智也の車も列の中に挟まれ、スピードは出ない。玲奈は智也の横顔を見つめた。すると、彼の冷たく落ち着いた声が返ってくる。「――もう一回、やる」智也が言わなくても、玲奈だって察しはつく。ただ、さっきの真面目な顔があったから、そんなことを言うとは思わなかった。それに、二人の間にもう一回なんて必要はない。結局、またそれか――意図が分かった途端、玲奈はもう、心晴の件が誰から漏れたのか知りたい気持ちも薄れた。智也が知っているのは、単に彼にその力があるからだろう。もし本当に噂が広まっているなら、心晴ほどの影響力なら、多少はトレンドに上がるはずだ。でもニュースには、彼女の名前なんて一つも出ていない。そこまで考えて、玲奈はようやく気持ちを落ち着けた。そして智也に淡々と言う。「運転中でしょ。今ここで言い争うつもりはないわ。今夜、私があなたの車に乗ってるのは......愛莉のため。それだけよ」そう言って、玲奈はそれ以上何も話さなかった。智也は時折、横目で玲奈を見る。――やっぱり、変わった。そんな確信が胸に残った。玲奈は俯き、拓海からまだ返信が来ていないのを見て、【?】を送った。それでも返事がない。玲奈は続けて打ち込む。【さっき言ったことは、緊急だったからそう言っただけ。気にしないで。嫌な思いさせたならごめん】一方、拓海の車はまだその場に停まっていた。玲奈の「?」は見た。だが返す気になれない。そこへ、またメッセージが届く。拓海は背筋を伸ばしてスマホを取り、画面を見た。そこには玲奈の説明が並んでいる。それを読んだ瞬間、頭上のもやが一気に晴れた。嬉しくて跳ね上がりそうになった拓海は、勢い余って頭を車の
そのときの拓海は、目に入るものすべてが癪に障った。何を見ても腹が立つ。何を見ても気分が悪い。道端を横切った猫にさえ、思わず悪態をつく。「何見てんだよ。さっさと帰れ!」怒鳴られた猫は、びくっとして一目散に走り去った。拓海は振り返り、自分の車へ戻る。ドアを乱暴に閉め、車内でひとり、拗ねた怒りを膨らませた。そのとき、スマホが短く鳴った。ラインの通知音だ。拓海は慌てて手に取り、画面を見る。案の定、玲奈からだった。通知を見た瞬間、頭上にかかっていた霧は一気に晴れた。だが内容を読んだ途端、また雲が差す。玲奈のメッセージはこうだ。【心晴に伝えて。用事ができたから先に帰る。明日またお見舞いに行くって】そこには拓海の名前も、気遣いの一言もない。彼のことには一切触れていなかった。拓海は返信しなかった。それどころか玲奈のプロフィールを開き、「連絡先を削除」の項目まで押しかけた。一瞬、本気で消してやりたいと思った。――でも、指が止まる。消して、もう二度と追加してくれなかったら?拓海は結局押せなかった。見なければいい。そう自分に言い聞かせ、画面を消してスマホを助手席に放り投げた。一方その頃、智也が車を運転し、玲奈はその隙に拓海へメッセージを送っていた。送信できたのを確認してから、彼の返信を待ち続けた。待っても待っても――返事が来ない。その瞬間、玲奈の胸の奥に、かすかな不安が芽生えた。拓海はきっと、怒っているのだろう。本当は少し説明したかった。けれどちょうどそのとき、車が交差点で停まった。赤信号だ。ブレーキがかかった瞬間、智也が横を向いて玲奈を見た。何か考え込んでいる様子に気づき、彼はふっと玲奈のスマホにも視線を落とす。だが画面を見切る前に、玲奈のスマホはちょうどスリープになった。それでも智也は探るように尋ねた。「誰にメッセージしてた?」玲奈は我に返り、無言でスマホを裏返して膝の上に置くと、答えた。「心晴よ」智也は続けて聞く。「......彼女、何かあったんだって?」「誰から聞いたの?」玲奈は驚いた。心晴の件は、知っている人はそう多くないはずだ。智也ははっきり言わず、意味ありげに言う。「世の中に、
智也は体を起こさず、なおも身をかがめたまま、玲奈を深く見つめていた。彼女は明らかに動揺しているのに、平気なふりをしている――それが可笑しくて、智也はふっと口元を緩めた。「......なんだ。俺が怖いのか?」これまで何年も、智也は玲奈の目に恐れなんて見たことがなかった。だが今夜は違う。その瞬間、智也はどこか見慣れない感覚に襲われ、ぼんやりとした眩暈のようなものまで覚えた。彼が見てきた女は多い。誰もが智也を持ち上げ、媚び、へつらった。かつての玲奈もまた、姿勢を低くして彼に合わせる側だった。智也の問いに、玲奈はゆっくり顔を正面へ戻し、堂々と視線を合わせた。声は驚くほど平静だ。「智也、あなたが怖いわけじゃない。ただ......私たちの間に、そんなことをする必要はないって思うだけ」智也は目を細め、腑に落ちない様子で追う。「......どうしてだ?」玲奈は彼を見つめながら、彼が以前よりずっと知らない人みたいに感じられた。少し間を置いてから口を開く。「前みたいに......前と同じように接してくれればいい」二人の関係を、今さら変える必要なんてない――玲奈はそう思っていた。だが智也は眉を寄せ、軽く眉を上げて言う。「俺がもっと優しくしたら、だめなのか?」玲奈の拒絶はきっぱりしている。「だめ」智也の目の光がふっと落ちた。それ以上は追及しなかったが、玲奈の艶のある唇を見た瞬間、胸の奥に小さな衝動が生まれる。――キスしたい。そう思った次の瞬間、体はもう動いていた。智也はわずかに身を寄せ、玲奈の唇へ口づけようとする。玲奈も彼の意図を察したのだろう。ちょうどいいタイミングで、静かに言った。「......早く病院に行かないと、愛莉が泣いちゃうんじゃない?」その言葉で、智也の体がぴたりと固まった。智也は玲奈を見下ろし、何も言わない。けれどその瞳は、探るように彼女を測っていた。智也が黙ったまま、なおも体を起こさないので、玲奈は可笑しそうに聞いた。「智也。私とこんなことして......沙羅は知ってるの?」そこでようやく智也は少しだけ上体を起こした。それでも彼の影が外の光を遮り、玲奈はまだ暗がりに包まれている。智也は、はっきり見えない玲奈の顔を見
玲奈は、智也が怒っているのを肌で感じていた。離婚したいなら、今はまだ彼を宥めておくしかない。もし彼が機嫌を損ねて、離婚届の申請が明ける日に「やっぱり離婚しない」と言い出したら――そのとき玲奈はどうすればいい?玲奈の言葉を聞いた拓海は、呆然と彼女を見た。目には驚きと、信じられないという色が混ざっている。玲奈はその視線を受け止めず、きっぱりと言い放った。「これは私の問題。あなたが口を出すことじゃない」拓海の怒りは頭まで一気に駆け上がった。彼は玲奈を睨み、噛みつくように言う。「そんなにあいつが好きか?あいつがああでも、まだ庇うのか?」拓海が怒っているのを見るのは、玲奈だってつらかった。けれど今この場で智也を怒らせるほうが、よほど致命的だ。だから玲奈は、あえて拓海の言葉に乗った。「そうよ。どれだけ嫌でも、彼は夫なの。夫を庇わないで、あなたを庇えっていうの?」その瞬間、拓海は智也の襟首を放した。自嘲するように笑って吐き捨てる。「......だよな。俺ってほんと、クソみたいな馬鹿だ。馬鹿だよ」そう言うと、拓海は乱暴に背を向けて歩き出した。だが何か思い出したように、すぐ振り返る。玲奈の肩に掛けた自分の上着を取り返そうと手を伸ばした。けれど、薄い肩にそのコートが掛かっているのを見た瞬間、手が止まる。頭の中では「俺に関係ない」と言っているのに、指が言うことを聞かない。結局、伸ばした手を無理やり引っ込めた。拓海は苛立ちを隠せず、短く鼻を鳴らすと、そのまま背を向けて去っていった。玲奈は思わず呼び止めかけた。けれど喉まで出た声は、結局詰まって消えた。今、一番気にするべきは智也だ。正式に離婚が成立してしまえば、そのときはもう何もかもどうでもよくなる。でも今は、まだ終わっていない。拓海が智也を刺激して、智也が本気で「離婚しない」と意地を張ったら、元も子もない。拓海の姿が消えてから、玲奈は振り返って智也に言った。「......行こう。病院に一緒に行く」智也は玲奈を見つめ、声を落として言った。「ずいぶん見送ってたな。......残惜しいのか?」玲奈は智也と喧嘩したくなかった。車へ歩き出しながら、淡々と言う。「名残惜しくない。
智也が車を飛ばして映画館へ着いたとき、ちょうど上映が終わったところだった。館内からは次々とカップルが出てくる。どの若い恋人たちも手を繋ぎ、甘く親密で、度胸のある連中は外に出てもまだキスをしている。その光景を見て、智也の頭には勝手な想像が浮かんだ。――玲奈も拓海と、映画館の中でキスしていたんじゃないか?上映回からして、二人が観たのはホラー映画のはずだ。わざわざホラーを選ぶあたり、誘った側は下心があるに決まっている。智也は道端に立ったまま、考えれば考えるほど腹が立ってきた。人の流れがようやく落ち着いたころ、智也は玲奈と拓海が並んでロビーから出てくるのを見つけた。夜風は刺すように冷たい。拓海は外へ出るなり、自分の上着を玲奈の肩に掛けた。玲奈が「ありがとう」と言うより早く、智也が苛立ちを露わにして詰め寄った。冷えた顔。細めた瞳には危うい光が宿り、視線は刃のように鋭い。「愛莉が病気で入院してるのに、よく他の男と映画なんか行けるな?」口を開けば、非難そのものだった。玲奈は智也を見て、可笑しそうに言い返す。「愛莉は私のこと、母親だって認めようともしないのに。どうして私が映画に行っちゃいけないの?」智也は顔を強張らせ、声を荒げた。「もう一度だけチャンスをやる。俺と病院へ来て、愛莉に会え」玲奈の拒絶は迷いがなかった。「行かない」その強い拒絶に、智也は一歩踏み込み、彼女の手を掴もうとした。だが智也の手が伸びた瞬間、拓海がそれを叩き落とした。同時に拓海は玲奈を背中にかばい、冷たい目で智也を見た。「また何する気だ?」智也はそこでようやく拓海を正面から見て、鼻で笑った。「忘れたのか?彼女はまだ俺の妻だ」拓海も同じように嘲る。「お前の奥さんって、深津沙羅じゃなかったっけ?」智也の顔は陰り、珍しく怒りが滲んだ。声を落として拓海に言う。「必要なら戸籍謄本、見せてやろうか?」だが拓海はまるで動じない。落ち着き払っていて、智也の怒りすら、むしろ痛快そうに受け止めている。そして嘲弄を含んだ声で言った。「それは結構。でも離婚届のほうなら、俺は別に見せてもらってもいいぜ」拓海の挑発に、智也は逆に静かになった。口元を薄く上げ、見下すように問う。
食事会に来たのは多くなく、だいたい7、8人だった。みんな学校関係者だ。ある生徒が怪我をしたので、玲奈は少し遅れて最後に食事会へやって来た。店員が個室を開けた時、その中にいた人はみんな玲奈のほうへ向いた。玲奈が一人一人その場の人を見ていった時、智也と勝がいるのに気付いた。阿部はこれが寄付募金の食事会であるとは彼女に伝えていなかったし、彼女からも特に詳しいことは尋ねずに、食事会に来ることにしたのだった。それに智也が普段行くのは5つ星レストランばかりだったし、ホテルも高級なところにしか泊まらなかったから、そんな彼がこんな田舎で食事をするとは思ってもいなかったのだ。智也も玲奈の
しかし、彼女はそれ以上説明せず、ただ微笑んで昂輝に感謝を述べた。「褒めてくれてありがとうございます。でも、自分がどのくらいの者か、ちゃんと分かっています」昂輝は呆気に取られ、玲奈が本当に大きく変わったことに気付いた。かつて明るくて太陽のようだった女の子の目に、劣等感がはっきりと見て取れる。しかし、彼女は成績がよくて、優秀だった。大学院への推薦も受けて、多疾患研究センターの一員に加わる機会もあった。しかし、彼女は結婚を選んでしまった。昂輝は再びステージ上を見やった。沙羅は確かに輝いて眩しく見える。純白のドレスに包まれたしなやかな姿は、観客の注目の的となっていた。しかし、昂
「愛莉を幼稚園まで送ってくれ。俺はもう会社に着いている」使用人は愛莉の身支度を整え、可愛いツインテールをしてあげて、朝食も食べさせた。8時から待ち続け、8時20分になっても玲奈は戻らなかった。このままじゃ幼稚園に送れてしまう。使用人は少し焦って、慌てて外へ探しに出た。ちょうどその時、邦夫じいさんがステッキをつきながら玄関に現れ、慌ただしい使用人を見て、訝しそうに尋ねた。「どうしたんだ?そんなに慌てて」使用人は邦夫じいさんの後ろを見やったが、玲奈の姿が見えないのに気付き、困惑したように口を開いた。「大旦那様、若奥様はご一緒にいらっしゃっていませんか。お嬢様が待っているのですが
使用人が慌ててベッドに駆け寄り、優しく声をかけた。「お嬢様、どうなさいましたか」愛莉は来たのが使用人だと分かると、さらにわんわん泣き続けた。「パパに会いたい、パパがいいの……」シーツを叩く手にさらに力を入れ、足をバタバタさせながら激しく不満を示した。使用人は彼女を抱き上げようとした。「お嬢様、お父様は仕事に行かれましたよ。お母様が幼稚園まで送ってくださるそうですから、私が先にお支度を手伝いましょうか」愛莉は使用人の手にまだ油のような汚れがついているのを見て、全く嫌悪を隠さず、彼女を押し退けた。「触らないで!汚い手をどけて」使用人は手を引き、小さい声でなだめた。「では、お






