Share

第7話

Author: ルーシー
この日の午後1時半、智也は会社の管理職たちと会議をしていた。

自分の携帯が鳴りだした時、彼は無意識にその相手は玲奈だと思い、携帯に手を伸ばして出らずに切ってしまおうと思ったが、それは東通りにある幼稚園の番号だと気付いた。

愛莉に何かあったのではないかと心配になり、智也は緊急で会議を一旦停止し、外に出てその電話に出た。

「もしもし、新垣愛莉ちゃんの保護者の方でしょうか?」

「はい、そうです」

「本日、幼稚園では保護者とお子様たちのちょっとしたイベントがございます。愛莉ちゃんのご家族の方はまだいらっしゃっていないようですが」

幼稚園の先生がそう智也に言ったので、彼は少し驚き、意外だった。「愛莉の母親が来ていませんか?」

「もしお越しでしたら、このようにお電話はおかけしておりません。幼稚園での親子の活動と聞いて大人の方はそこまで重要なイベントだとは捉えられないかと思います。ですが、小さなお子様たちにとってはとても重要なイベントなのです。もう少しで始まりますが、ほかのお子様たちの保護者はすでに来ていて、愛莉ちゃんだけ一人ぼっちだと、どのような気持ちになると思いますか?」

幼稚園のその先生の言葉には少し苛立ちのようなものが聞こえた。智也も別に子供に対して無責任な親であるわけではない。

ただ、彼は玲奈が昨日のメッセージを読んで、愛莉のこのイベントに参加してくれるものだと思い込んでいただけなのだ。

しかし、それが彼女は幼稚園には来ていないというのだ。

この状況で玲奈に連絡していたのでは間に合わないので、智也は仕方なく「すぐに行きます」と自分が行くことにするしかなかった。

そう言い終わると、彼は電話を切って、秘書に管理職会議は延期すると通知を出させた。

午後4時半、親子のイベントは終了した。

愛莉はこの日の午後ずっと顔をぶすっとさせていて、明らかに不機嫌だった。

幼稚園が終わって、智也は愛莉と一緒に車に乗った。

二人は後部座席に一緒に座り、智也は娘のことを気にかけて尋ねた。「今日は、ご機嫌斜めだったな」

愛莉は悲しそうに目を赤くさせた。「ママ、どうして来なかったの。早めに来てって言ったのに。ほかのお友だちはみんなママが来てくれて、私だけパパだったよ。今日ララちゃんが演奏会じゃなかったら、別にママに来てもらおうとも思わなかったのよ」

智也は娘の手を握り、粘り強く彼女をなだめた。「今日はパパがうっかりしていただけだよ。今後は二度とこんなことにはならないからね」

そのように父親が言っても、愛莉はやはり機嫌を損ねたままだった。

ほかの園児たちは母親が一緒に参加し、彼女は来てくれたのは父親だった。活動内容によっては男である父親のほうが有利になることが多かった。

彼女は一位になるのがとても好きだが、不公平な条件で一番になるのは好きではない。

智也は娘がそれでも機嫌が悪いことが分かり、慰めようとしたが、この時、美由紀から電話がかかってきた。

電話に出ると、電話越しに美由紀の声が聞こえてきた。「明日はお父様の誕生日よ。今夜はお客様たちが来られて食事をするから、愛莉ちゃんと一緒にレイシーモールまで迎えに来てちょうだい」

智也はそれを聞いた瞬間ぼけっとしてしまった。しかし、よく考えてみれば、確かに明日は父親の誕生日だ。

そしてハッとした後、智也は「分かった」と一言返事をした。

電話を切った後、智也はまだ不機嫌そうに顔をしかめている愛莉のほうを向いて、娘の顔に手を伸ばして触った。そしてとても愛おしそうな声でこう言った。「明日はおじいちゃんの誕生日だ。ママが今日来なかったのは、きっと実家で夕飯の支度をしているからだろう。忘れたか?毎年この日は、ママは実家でたくさんご馳走を用意するだろう」

愛莉は真剣そうに考えてから、確かにそうだったと思い出した。

それを考えるとようやく愛莉は機嫌を少し直し、顔を上げて偉そうにこう言った。「それもそうね。そういう事情がなかったら、お友だちから笑われるところだわ。私はママに可愛がられてない子なんだとか言われちゃうのよ」

智也はそれを聞いてクスッと笑い、すぐにこう言った。「次、またこういうイベントがあったら、ララお姉ちゃんに来てもらおうな」

そして一瞬で、その場の鬱々とした空気はあっという間に晴れてしまった。愛莉はとても興奮した様子で言った。「うんうん、それがいいわ。パパ最高」

智也は愛莉の髪の毛をわさわさと撫で、優しい声で言った。「じゃ、おじいちゃん家に行こうか?」

愛莉はまた眉間にしわを寄せた。「だったら、ママに会わなきゃならないの?」

玲奈が今日幼稚園の親子イベントに来てくれなかったから不機嫌になったし、それに母親はこの間ララお姉さんのことを叩いたのだ。

だから愛莉はこの時、玲奈に対して恨みを持っていて、今は母親の顔も見たくないのだ。

それに会ったら会ったで、母親は彼女を抱きしめキスをしてくるものだから、それが不快だった。

母親からはキッチンの匂いがする。でも、ララちゃんはそんな母親とは違って、とても良い香りがするし、手も柔らかく瑞々しい。

智也は愛莉が嫌そうにその可愛い顔を歪めているのに気が付いてはいたが、正直に「そうだよ」と返事した。

愛莉は今夜必ず祖父の家に行かないといけないことが分かり、瞳をうるうるさせて智也のほうへ向き言った。「じゃ、後でママに会っても、無視していい?私まだママのこと許してあげてないの。あんな人とお話なんかしたくない。ララちゃんにちゃんとごめんなさいするまでは……」

智也は娘のシートベルトを締めてあげた後に「いいよ」と言葉を返した。

愛莉をなだめてから、智也は車をレイシーモールへと走らせた。

5時半に美由紀を車に乗せた。

そして6時に車は実家へと戻っていった。

車の中で、美由紀は友人をパーティーに誘うため、ずっと電話をかけていた。

智也が愛莉を連れて家に入った時、リビングには明りも灯っていなかった。

お客用のテーブルや食器のセットもされておらず、キッチンにはもちろん豪華な料理など準備されていなかった。料理用の鍋もコンロも冷たくそこにあって、何か料理をしたような痕跡すらなかった。

すると美由紀はそれに驚き、何度も自分の目を擦ってようやく今目の前に広がる光景が現実のものだと確信できた。

玲奈と智也が結婚してから、毎年この日は美由紀が玲奈にわざわざ注意するまでもなく、玲奈が自主的に全ての準備を行っていたからだ。しかもその準備は完璧で、食卓に並べられる料理は海や山の幸をふんだんに使った、どれも豪華なご馳走ばかりで招待された友人たちは口を揃えて絶賛していた。

それで美由紀もこれを常々自慢のネタにし、友人たちの前で自慢していたのだ。

しかし、この時、空っぽのキッチンとリビングが美由紀の怒りを爆発させた。「あの最低な嫁は一体なんなんだい。今日がどんな日なのか、わざわざ私から教えてやらなきゃ分からんのか?」

そう怒鳴り散らしながら、すぐに玲奈に電話をかけた。

しかし、電話をしても、全く出ない。

美由紀はまた何度も電話をかけてみたが、やはり電話が繋がる気配はなかった。

彼女は怒りが頂点に達し、携帯を床に叩きつけて画面が粉々に割れてしまった。

それとは逆に智也のほうはいたって落ち着いていて、娘の愛莉を怪我をしないよう庇うのを忘れなかった。

娘を胸に抱きしめて、智也は美由紀を慰めた。「外で食べようよ。久我山にある最高級のレストランを予約するからさ」

美由紀はじろりと智也を睨み、ハアハアと荒い呼吸をしていた。「例年家でお客様を招待して食事をしていたのに。さっきもいつもと同じようにそう言っちゃったわ。今年はなんてことなの、私にこんな恥をかかせやがって。あのふざけた嫁は頭でもおかしくなったんじゃないでしょうね。こんなに物分かりの悪い態度を取って、どうやら、新垣家の夫人としてやっていく気はないようね」

そもそも美由紀は玲奈と智也の結婚に最初から反対だった。新垣家のおばあ様がこの結婚を後押ししていなければ、誰がこんな嫁などもらう気になるというのだ?

怒り狂う祖母を見て愛莉は驚き、智也の懐で縮こまり、一言も発しなかった。

智也は美由紀の恨みつらみには構わず、ただ玲奈は一体どうしてしまったのだろうとだけ考えていた。

彼が昨日彼女に電話をした時も出なかったし、娘の幼稚園の活動にも参加しなかった。今夜の食事会の準備もしていないし……

この点、いつもの玲奈とは違って様子がおかしい。

しかし、彼女も一人の立派な大人なんだから、特別何かあったわけでもないだろうと考えを戻した。

智也の胸の中で、愛莉も我慢できなくなったらしく、ぶつぶつと文句を漏らしはじめた。「ママったら、ご飯の準備もしないし、わざと幼稚園のイベントにも参加してくれなかったわ。きっと私に幼稚園で恥をかかせるためだったのよ。ホント、この人って母親失格ね。ララちゃんとは大違い、ララちゃんだったら、私にこんな悲しい思いなんてさせないわ。私、もうママなんか要らない……」
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (1)
goodnovel comment avatar
煌原結唯
まったくもってひどい扱い。
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • これ以上は私でも我慢できません!   第614話

    ほんの一瞬で、玲奈の視界はふさがれた。目の前には、濁った黒だけが広がる。昂輝が、あんな汚れた場面を見せまいとしてくれたのだと気づき、玲奈は感謝するようにかすかに唇をゆるめた。そしてそっと彼の手を外し、振り返って微笑んだ。「大丈夫よ。もう慣れてるから」昂輝は玲奈を見下ろした。彼女は笑っていたが、その目の奥には隠しきれない悲しみがあった。胸が痛んだが、かけるべき言葉が見つからない。結局、昂輝はこらえきれず、玲奈をそっと抱き寄せた。広くて温かなその胸に包まれた瞬間、玲奈の目はふいに熱を帯びた。一方そのころ、車の中では――智也は、ようやく玲奈の居場所を突き止め、彼女が出てくるのを交差点のそばで待っていた。ただ、そこへ沙羅がやって来るとは思ってもいなかった。彼女は車に乗り込むなり、何も言わずに服を脱ぎはじめ、そのまま智也に抱きついて、むやみに唇を重ねてきた。小柄なはずの沙羅が、そのときばかりはどこからそんな力が出るのかと思うほどだった。智也の首に腕を回し、無茶苦茶に口づけてくる。智也はそんなやり方が好きではなかった。思いきり彼女を突き放すと、沙羅は助手席側の窓ガラスにぶつかり、そのまま無様にずり落ちた。服は乱れ、髪もひどく崩れている。その目からは、切れた真珠のように涙が次々とこぼれ落ちていた。沙羅は顔を覆い、泣き声を押し殺していた。そんな彼女を見て、智也は苛立たしげに車の外へ目をやった。その一瞥で、道路の向こうにいる玲奈と昂輝の姿が目に入った。昂輝は玲奈を抱きしめ、大きな手で何度も彼女の背をやさしく撫でている。その瞬間、智也は隣で涙を流す沙羅のことなど構っていられなくなった。そのまま車のドアを開け、勢いよく降りる。大股で道路を渡ってくると、鋭い声で言い放った。「玲奈、何をしている」その声を聞いて、玲奈はようやく昂輝の腕の中から離れた。目元は少し赤い。けれど、涙はこぼれていなかった。玲奈は智也を見つめ、軽蔑をにじませた声で言った。「あなたこそ、何をしていたの?」智也は、玲奈が自分と沙羅のキスを見たのだとすぐに察した。それで誤解し、輝に抱きしめられていたのだと思い至る。そう考えた途端、彼は慌てて弁解した。「沙羅とはそんな関係じゃない。

  • これ以上は私でも我慢できません!   第613話

    拓海と昂輝の言い争いは、ますます激しさを増していった。玲奈が間に入っても、とても止められそうになかった。玲奈は頬を赤くしながら、拓海に向かって声を張り上げた。「須賀君、もうやめて」その声に、拓海はぴたりと黙り込んだ。視線を落として玲奈を見る目には、苛立ちとやり場のない悔しさがにじんでいる。「どうして俺にだけ言うんだ?あいつには言わないのか?」そう言いながら、拓海は昂輝を指さした。玲奈はその手をぱしりと払いのけ、冷えた表情のまま言った。「元々は、先輩と一華と私の食事なの。私たちはただの普通の関係だから、どうかこれ以上こういうことはしないで」その言葉は、玲奈たちと拓海のあいだに、はっきりと一本の線を引いた。拓海は向こう側。玲奈たちはこちら側。彼女が何を言おうとしているのか、拓海には痛いほどわかっていた。だからこそ、聞きたくなかった。「もういい。聞きたくない。帰ればいいんだろ」拓海は自分から一歩引いた。気圧されたわけではない。ただ、玲奈に嫌われるのが怖かったのだ。本意ではなかったが、彼はそれ以上何も言わず、その場を去るしかなかった。車に乗り込むときになっても、なお口の中では不満をこぼしていた。「俺が気にしてるのをいいことに……相手が他のやつなら、見向きもしないくせに」だが、そんな言葉が玲奈の耳に届くことはなかった。玲奈はゆっくり振り返り、顔を上げて昂輝を見た。「先輩、行きましょう」昂輝は、玲奈の顔に疲れがにじんでいるのを見て、申し訳なさそうに言った。「ごめん。嫌な思いをさせたね」玲奈は唇を軽く結んで小さく笑い、首を横に振った。「謝るのは私のほうよ」昂輝は、彼女の表情に浮かぶ申し訳なさを見て、すぐに言葉を継いだ。「玲奈、君のせいじゃない。君が優しいからこそ、須賀さんっみたいな人が――」そこまで言って、昂輝はふと口をつぐんだ。意識しないまま、まるで拓海を褒めるような言い方をしてしまったことに気づいたのだ。もっとも、それも嘘ではなかった。昂輝は拓海のことをよく知っているわけではない。知っているのは、女性関係の噂が絶えないということくらいだ。それでも、玲奈のそばに現れるときの拓海は、いつも一人だった。数秒の沈黙

  • これ以上は私でも我慢できません!   第612話

    宮下は愛莉を抱いたまま部屋の中を行ったり来たりし、何度もやさしく声をかけた。「愛莉ちゃん、大丈夫よ。私がいるからね。ちゃんとそばにいるから」愛莉は宮下の肩に顔をうずめ、息もできないほど泣きじゃくりながら、それでもしゃくり上げつつ尋ねた。「宮下さん……ララちゃんは……どうして……あんなふうに……怒るの……?」宮下は胸が締めつけられる思いだった。それでも、こう言うしかなかった。「愛莉ちゃん。あの方は、あなたを産んで育てたお母さんじゃないの。実の娘みたいに思えなくても、仕方ないのよ」その言葉に、愛莉はかっとなった。「うそだよ!宮下さん、うそつき!もう抱っこしないで、下ろして!」宮下は離すまいとしたが、愛莉はその腕の中で泣きながら足をばたつかせた。結局、愛莉は宮下の腕からするりと抜け出した。宮下が息をつく暇もないうちに、愛莉は寝室を飛び出し、そのまま階下へ駆け下りていった。けれど、ばたばたと階段を下り切ったときには、もう下に沙羅の姿はなかった。愛莉はその場に立ち尽くし、心細さをにじませた声で呼んだ。「ララちゃん……愛莉のこと、もういらないの……?」だが返ってきたのは、上から響く宮下の切羽詰まった声だけだった。「愛莉ちゃん、そんなふうに走っちゃだめよ。転んでしまうから!」愛莉には何ひとつ届いていなかった。ただ小さく、何度もつぶやくばかりだった。「ララちゃん……」……レストランでは、食事もほぼ終わりかけたころ、昂輝と拓海がほとんど同時に席を立った。どちらも、トイレに行くと言う。二人が離れると、一華は興味津々といった様子で玲奈に身を寄せた。「あの須賀さん、どう見ても見覚えがあるのよね。私たち、前にどこかで会ってない?」玲奈は眉をひそめ、うなずきかけてから、また首を振った。「私も……はっきりしないの」だが一華は、かなり確信があるようだった。「絶対どこかで会ってる気がするのよ。でも、それがどこだったか思い出せなくて」玲奈は探るように言った。「よくある顔立ちなんじゃない?」一華は呆れたように玲奈を見た。「あの顔がよくある顔なら、この世はイケメンだらけよ」玲奈は何も返せなかった。そのとき、レストランの入口のほうから会計

  • これ以上は私でも我慢できません!   第611話

    そのころ、勝は玲奈を迎えられないまま、肩を落として智也が予約していたレストランへ向かった。個室の扉を開けると、中は念入りに飾りつけられていた。風船が飾られ、前もって用意された贈り物が置かれ、豪華な昼食まで並んでいる。ケーキまで準備されていた。部屋にいたのは智也ひとりだけだった。入口の足音に気づくと、彼は反射的に振り返った。だが、そこにいたのが勝だとわかった瞬間、その顔から笑みがすっと消えた。そして智也は、声を低く抑えて尋ねた。「玲奈は?」勝はうなだれたまま、さらに小さな声で答えた。「東さんに……連れて行かれました」それを聞いた瞬間、智也は握っていたスプーンを思わずテーブルに叩きつけた。耳障りな音が個室に響く。「どういうことだ?お前は何をしていた!女ひとりも連れ戻せないなら、何の役に立つ!」勝はおびえながらも、なおも弁解した。「新垣社長、奥様ご自身が東さんについて行くとおっしゃって……私にも、どうにも……」だが智也は、そんな言い訳を聞く気などなかった。「出ていけ!」その一喝に、勝は慌てて個室を後にした。部屋には、クラッカーも贈り物も、すべて用意されていた。玲奈が来さえすれば、智也はこの特別な贈り物を彼女に渡すつもりだったのだ。それなのに、彼女は昂輝と一緒に行ってしまった。胸の奥に重いものがつかえ、智也はこらえきれず玲奈に電話をかけた。だが、彼女は出なかった。一度では足りず、立て続けに十回以上かけたが、それでも応答はない。智也は今にも怒りが噴き出しそうなほど、ぎりぎりのところにいた。そのとき、ちょうどスマホが鳴った。素早く手に取って画面を見た彼は、一瞬、息をのんだ。だが表示されていたのは玲奈ではなく、沙羅からの着信だった。胸によぎったわずかな期待は、たちまち失望に押しつぶされる。智也は電話に出ることなく、そのまま切った。しかし切っても、沙羅はまたすぐにかけてきた。智也は出る気もなく、ただ切り続けた。それでも沙羅は、執拗に何度もかけてきた。智也はうんざりして、彼女の番号をそのまま着信拒否にした。そうしてようやく、静けさが戻った。一方そのころ、小燕邸では――沙羅は智也に十回以上電話をかけていたが、一向につながらなかった。

  • これ以上は私でも我慢できません!   第610話

    そう言うと拓海は手を上げ、店員を呼んだ。二品追加してから、メニューを閉じる。店員は注文を書き留め、背を向けて去っていった。拓海が本当に居座る気だとわかり、玲奈は一気に気分が沈んだ。玲奈は昂輝と一華に向かって言った。「先輩、一華。場所、変えない?」だが昂輝は拒んだ。「大丈夫。俺たちは俺たちで食べればいい」昂輝にはわかっていた。拓海はこの場所を突き止めた。なら次の店も突き止める。今夜いくら移動しても、拓海は追ってくる。昂輝が「大丈夫」と言ったことで、玲奈も遅れてそれに気づいた。だから玲奈は、もう移動の話はしなかった。皆が席を立たないのを見ると、拓海は昂輝の背後を回り込み、玲奈の隣に座ろうとした。だが昂輝の反応は早かった。一歩先に玲奈の隣へ座った。拓海は眉を寄せた。それでも怒らない。舌先で頬の内側を軽く押し、面白がるように言った。「さすが医者。反射神経いいね、東さん」昂輝は笑っていない笑みで返した。「須賀さんこそ。褒めてもらって光栄だ」結局、拓海はどうにもならず、さっき昂輝が座っていた場所に腰を下ろした。座るなり、拓海は隣の一華がずっと自分を見ているのに気づいた。拓海は面白がって、顔を向けた。「どうも」一華は頬杖をつき、丸い目で拓海をじっと観察している。見惚れているわけじゃない。ただ拓海の顔が妙に見覚えがあった。どこかで見た気がする。でも、どうしても思い出せない。拓海が声をかけたのをきっかけに、一華が言った。「なんか……見たことある気がするんだけど」その台詞は拓海も聞き慣れている。拓海は薄く笑った。「ナンパの定番だな。みんなそう言う」一華は真顔だ。「違うよ。ほんとに、どこかで会った気がする」女の口説き文句は見慣れている。拓海は本気にしなかった。冗談めかして訊いた。「夢の中とか?」それを聞いた一華は、一瞬で白けた。息を吸って、冷めた声で言った。「自意識過剰」拓海は笑った。「まあ、ほどほどに」二人のやり取りは、玲奈も耳に入っていた。一華が「見たことある」と言ったことで、玲奈の胸にも疑問が湧いた。――拓海が言っていた助けてくれた人は、別にいるのかもしれない。

  • これ以上は私でも我慢できません!   第609話

    昂輝の言葉に、玲奈は全身がびくりとした。空気が一瞬で固まる。短い沈黙のあと、玲奈は笑って昂輝と一華に言った。「食べましょう。どれも美味しそう」玲奈は、昂輝の想いに無視で返した。あまりに直球で言われると、みんなが余計に気まずくなる。玲奈はそれが怖かった。昂輝もそれ以上は何も言わなかった。取り箸を手に取り、甲斐甲斐しく玲奈の皿へ料理をよそった。一方で一華には、顔を向けて言うだけだった。「篠原、ここの味はいい。食べてみて」一華は部外者だから、状況がすぐに見えた。昂輝は玲奈が好きだ。一華は長い間、昂輝に片想いしてきた。けれど昂輝は優秀で、周りに女が途切れたことがない。それでもずっと独り身でいられたのは、どこかおかしいか、心に誰かがいるかだろうと思っていた。一華は、その誰かが誰なのか知らなかった。だが今夜の昂輝の気遣いを見て、すべて腑に落ちた。悔しさはある。それでも一華は、昂輝の一途さにどこか感心もしていた。昂輝がまた料理を玲奈の皿に入れる。玲奈は慌てて、礼儀正しく言った。「ありがとう」昂輝の目は優しく、甘さが滲んでいる。「俺に、そんなにかしこまるな」玲奈は小さく笑い、黙った。一華は反対側で、ずっと自分で箸を動かしていた。気まずくならないように、玲奈は話題を探し、一華に話しかけ続けた。幸い、一華は嫉妬深いタイプではなかった。昂輝が好きなのが玲奈だと知っても、変な顔はしなかった。食事は、ひとまず穏やかに進んだ。だが、まだ半分も食べていない頃。玲奈が向かいの一華を見上げたその瞬間、視界の端に、入口から入ってくる拓海が映った。外は雨だったのだろう。暖簾をくぐって入ってきた拓海の肩には、細かな水滴がついている。拓海は店内を一周見回し、迷いなく玲奈を捉えた。視線がぶつかった瞬間、玲奈はすぐに目を逸らした。それでも拓海はゆっくり近づいてきた。そして、拓海は昂輝の隣に立った。それから、玲奈に向かって低く言った。「なあ、玲奈。友だちと飯?」玲奈は顔も上げない。答える気もない。玲奈が黙っているのを見て、拓海は痞っぽく笑った。そして昂輝へ向き直って言った。「俺も混ぜてもらっていいですか。東さん、気にしな

  • これ以上は私でも我慢できません!   第266話

    拓海もむっとして言い返した。「じゃあ陽葵が悪者だって言うのか?」真言は言い負かされて、顔を真っ赤にして怒鳴った。「ふん、パパに言いつけてやる。須賀おじさんがぼくをいじめたって!」玲奈はタクシーで家へ戻った。玄関先に着くと、意外なことに智也の車が停まっていた。夕食の時間まではまだ二時間ほどあり、綾乃と秋良たちはまだ帰っていない。健一郎と直子も留守だった。そのため、玲奈が陽葵の手を引いて中に入ると、リビングのソファに智也がひとり腰かけていた。テーブルの上には湯気の消えた一杯のお茶が置かれていたが、彼は手をつけていなかった。もし家族の誰かがいたなら、智也は

  • これ以上は私でも我慢できません!   第252話

    手を洗い終えて顔を上げると、鏡の中にもう一つの人影が映っていた。智也が壁にもたれ、視線を玲奈の背中に残った汚れに注いでいた。そして不意に口を開いた。「さっきの女は、わざとやったんだ」玲奈は体を起こし、ペーパータオルで手を拭きながら答えた。「分からないわ」実際、彼女にも分からなかった。宴会場は人であふれていて、あの娘が本当にわざとだったかどうかは判断しづらい。ましてぶつかったのは背中で、後ろに目はないのだから。智也は姿勢を変え、腕を組んで彼女を見据えた。「俺にははっきり見えた。確かにわざとだった。誰かに恨まれてるのか?」玲奈は数秒の沈黙の後、淡

  • これ以上は私でも我慢できません!   第257話

    人々が駆けつけると、沙羅はすぐに愛莉の傷を確かめに走った。薫は、玲奈が犬に噛まれているのを目にしながらも、ただ傍観するばかりで助けようともしない。逆に洋は、どこからか棒を見つけてきて、必死に犬を叩いていた。だが犬は異様な執念で、玲奈の腕に食らいつき離そうとしない。洋は棒で叩きながら、声を張り上げて威嚇するしかなかった。一方の薫は面倒そうに犬から目をそらし、愛莉の方を振り返る。小さな脚から血が滲み、いくつもの傷が刻まれているのを見て眉をひそめた。「愛莉の足、血が出てる!急いで病院へ!」その言葉に、沙羅はすぐさま愛莉を抱き上げ、走り出した。薫も後に続いたが、

  • これ以上は私でも我慢できません!   第259話

    玲奈はふと顔を上げ、窓の方に目をやった。窓は半分開いていて、秋の夜風が吹き込み、レースのカーテンを揺らしていた。風に紛れて、玲奈はかすかに拓海の残り香を感じ取った気がした。――自分が戻る前に、彼がこの部屋を訪れていたのかもしれない。立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。首を伸ばして左右を確かめたが、拓海の姿はどこにも見えなかった。玲奈はそっと窓を閉めた。その瞬間、枕元で携帯が鳴り出す。ベッドに戻り手に取ると、画面に映っていたのは智也の名前だった。一瞬ためらったものの、結局は通話を繋いだ。「もしもし」声は冷たく、どこか力もなかった。受話器の向こうはしばらく

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status