Masuk宮下は愛莉を抱いたまま部屋の中を行ったり来たりし、何度もやさしく声をかけた。「愛莉ちゃん、大丈夫よ。私がいるからね。ちゃんとそばにいるから」愛莉は宮下の肩に顔をうずめ、息もできないほど泣きじゃくりながら、それでもしゃくり上げつつ尋ねた。「宮下さん……ララちゃんは……どうして……あんなふうに……怒るの……?」宮下は胸が締めつけられる思いだった。それでも、こう言うしかなかった。「愛莉ちゃん。あの方は、あなたを産んで育てたお母さんじゃないの。実の娘みたいに思えなくても、仕方ないのよ」その言葉に、愛莉はかっとなった。「うそだよ!宮下さん、うそつき!もう抱っこしないで、下ろして!」宮下は離すまいとしたが、愛莉はその腕の中で泣きながら足をばたつかせた。結局、愛莉は宮下の腕からするりと抜け出した。宮下が息をつく暇もないうちに、愛莉は寝室を飛び出し、そのまま階下へ駆け下りていった。けれど、ばたばたと階段を下り切ったときには、もう下に沙羅の姿はなかった。愛莉はその場に立ち尽くし、心細さをにじませた声で呼んだ。「ララちゃん……愛莉のこと、もういらないの……?」だが返ってきたのは、上から響く宮下の切羽詰まった声だけだった。「愛莉ちゃん、そんなふうに走っちゃだめよ。転んでしまうから!」愛莉には何ひとつ届いていなかった。ただ小さく、何度もつぶやくばかりだった。「ララちゃん……」……レストランでは、食事もほぼ終わりかけたころ、昂輝と拓海がほとんど同時に席を立った。どちらも、トイレに行くと言う。二人が離れると、一華は興味津々といった様子で玲奈に身を寄せた。「あの須賀さん、どう見ても見覚えがあるのよね。私たち、前にどこかで会ってない?」玲奈は眉をひそめ、うなずきかけてから、また首を振った。「私も……はっきりしないの」だが一華は、かなり確信があるようだった。「絶対どこかで会ってる気がするのよ。でも、それがどこだったか思い出せなくて」玲奈は探るように言った。「よくある顔立ちなんじゃない?」一華は呆れたように玲奈を見た。「あの顔がよくある顔なら、この世はイケメンだらけよ」玲奈は何も返せなかった。そのとき、レストランの入口のほうから会計
そのころ、勝は玲奈を迎えられないまま、肩を落として智也が予約していたレストランへ向かった。個室の扉を開けると、中は念入りに飾りつけられていた。風船が飾られ、前もって用意された贈り物が置かれ、豪華な昼食まで並んでいる。ケーキまで準備されていた。部屋にいたのは智也ひとりだけだった。入口の足音に気づくと、彼は反射的に振り返った。だが、そこにいたのが勝だとわかった瞬間、その顔から笑みがすっと消えた。そして智也は、声を低く抑えて尋ねた。「玲奈は?」勝はうなだれたまま、さらに小さな声で答えた。「東さんに……連れて行かれました」それを聞いた瞬間、智也は握っていたスプーンを思わずテーブルに叩きつけた。耳障りな音が個室に響く。「どういうことだ?お前は何をしていた!女ひとりも連れ戻せないなら、何の役に立つ!」勝はおびえながらも、なおも弁解した。「新垣社長、奥様ご自身が東さんについて行くとおっしゃって……私にも、どうにも……」だが智也は、そんな言い訳を聞く気などなかった。「出ていけ!」その一喝に、勝は慌てて個室を後にした。部屋には、クラッカーも贈り物も、すべて用意されていた。玲奈が来さえすれば、智也はこの特別な贈り物を彼女に渡すつもりだったのだ。それなのに、彼女は昂輝と一緒に行ってしまった。胸の奥に重いものがつかえ、智也はこらえきれず玲奈に電話をかけた。だが、彼女は出なかった。一度では足りず、立て続けに十回以上かけたが、それでも応答はない。智也は今にも怒りが噴き出しそうなほど、ぎりぎりのところにいた。そのとき、ちょうどスマホが鳴った。素早く手に取って画面を見た彼は、一瞬、息をのんだ。だが表示されていたのは玲奈ではなく、沙羅からの着信だった。胸によぎったわずかな期待は、たちまち失望に押しつぶされる。智也は電話に出ることなく、そのまま切った。しかし切っても、沙羅はまたすぐにかけてきた。智也は出る気もなく、ただ切り続けた。それでも沙羅は、執拗に何度もかけてきた。智也はうんざりして、彼女の番号をそのまま着信拒否にした。そうしてようやく、静けさが戻った。一方そのころ、小燕邸では――沙羅は智也に十回以上電話をかけていたが、一向につながらなかった。
そう言うと拓海は手を上げ、店員を呼んだ。二品追加してから、メニューを閉じる。店員は注文を書き留め、背を向けて去っていった。拓海が本当に居座る気だとわかり、玲奈は一気に気分が沈んだ。玲奈は昂輝と一華に向かって言った。「先輩、一華。場所、変えない?」だが昂輝は拒んだ。「大丈夫。俺たちは俺たちで食べればいい」昂輝にはわかっていた。拓海はこの場所を突き止めた。なら次の店も突き止める。今夜いくら移動しても、拓海は追ってくる。昂輝が「大丈夫」と言ったことで、玲奈も遅れてそれに気づいた。だから玲奈は、もう移動の話はしなかった。皆が席を立たないのを見ると、拓海は昂輝の背後を回り込み、玲奈の隣に座ろうとした。だが昂輝の反応は早かった。一歩先に玲奈の隣へ座った。拓海は眉を寄せた。それでも怒らない。舌先で頬の内側を軽く押し、面白がるように言った。「さすが医者。反射神経いいね、東さん」昂輝は笑っていない笑みで返した。「須賀さんこそ。褒めてもらって光栄だ」結局、拓海はどうにもならず、さっき昂輝が座っていた場所に腰を下ろした。座るなり、拓海は隣の一華がずっと自分を見ているのに気づいた。拓海は面白がって、顔を向けた。「どうも」一華は頬杖をつき、丸い目で拓海をじっと観察している。見惚れているわけじゃない。ただ拓海の顔が妙に見覚えがあった。どこかで見た気がする。でも、どうしても思い出せない。拓海が声をかけたのをきっかけに、一華が言った。「なんか……見たことある気がするんだけど」その台詞は拓海も聞き慣れている。拓海は薄く笑った。「ナンパの定番だな。みんなそう言う」一華は真顔だ。「違うよ。ほんとに、どこかで会った気がする」女の口説き文句は見慣れている。拓海は本気にしなかった。冗談めかして訊いた。「夢の中とか?」それを聞いた一華は、一瞬で白けた。息を吸って、冷めた声で言った。「自意識過剰」拓海は笑った。「まあ、ほどほどに」二人のやり取りは、玲奈も耳に入っていた。一華が「見たことある」と言ったことで、玲奈の胸にも疑問が湧いた。――拓海が言っていた助けてくれた人は、別にいるのかもしれない。
昂輝の言葉に、玲奈は全身がびくりとした。空気が一瞬で固まる。短い沈黙のあと、玲奈は笑って昂輝と一華に言った。「食べましょう。どれも美味しそう」玲奈は、昂輝の想いに無視で返した。あまりに直球で言われると、みんなが余計に気まずくなる。玲奈はそれが怖かった。昂輝もそれ以上は何も言わなかった。取り箸を手に取り、甲斐甲斐しく玲奈の皿へ料理をよそった。一方で一華には、顔を向けて言うだけだった。「篠原、ここの味はいい。食べてみて」一華は部外者だから、状況がすぐに見えた。昂輝は玲奈が好きだ。一華は長い間、昂輝に片想いしてきた。けれど昂輝は優秀で、周りに女が途切れたことがない。それでもずっと独り身でいられたのは、どこかおかしいか、心に誰かがいるかだろうと思っていた。一華は、その誰かが誰なのか知らなかった。だが今夜の昂輝の気遣いを見て、すべて腑に落ちた。悔しさはある。それでも一華は、昂輝の一途さにどこか感心もしていた。昂輝がまた料理を玲奈の皿に入れる。玲奈は慌てて、礼儀正しく言った。「ありがとう」昂輝の目は優しく、甘さが滲んでいる。「俺に、そんなにかしこまるな」玲奈は小さく笑い、黙った。一華は反対側で、ずっと自分で箸を動かしていた。気まずくならないように、玲奈は話題を探し、一華に話しかけ続けた。幸い、一華は嫉妬深いタイプではなかった。昂輝が好きなのが玲奈だと知っても、変な顔はしなかった。食事は、ひとまず穏やかに進んだ。だが、まだ半分も食べていない頃。玲奈が向かいの一華を見上げたその瞬間、視界の端に、入口から入ってくる拓海が映った。外は雨だったのだろう。暖簾をくぐって入ってきた拓海の肩には、細かな水滴がついている。拓海は店内を一周見回し、迷いなく玲奈を捉えた。視線がぶつかった瞬間、玲奈はすぐに目を逸らした。それでも拓海はゆっくり近づいてきた。そして、拓海は昂輝の隣に立った。それから、玲奈に向かって低く言った。「なあ、玲奈。友だちと飯?」玲奈は顔も上げない。答える気もない。玲奈が黙っているのを見て、拓海は痞っぽく笑った。そして昂輝へ向き直って言った。「俺も混ぜてもらっていいですか。東さん、気にしな
試験会場の門前は、思ったより車が少なかった。それでも玲奈が外へ出ると、昂輝の黒いアウディと、智也の目立つマセラティがすぐに目に入った。ただ、智也本人はいない。運転席にいるのは菅原勝だった。昂輝も早くから来ていて、外でしばらく待っていたらしい。昂輝と勝の姿を見た瞬間、玲奈は思わず目を見張った。勝のほうが動きは早い。一歩前に出て、玲奈に言う。「奥様。新垣社長が、奥様のために打ち上げを用意しています。必ずお迎えするように、と」玲奈は勝をちらりと見ただけで、視線を昂輝へ移した。それから視線を戻し、勝に言う。「智也に伝えて。今夜は、帰りが少し遅くなるって」それを聞いて、勝は困ったように眉を寄せた。「奥様……どうか私を困らせないでください」玲奈は声を落とす。「じゃあ、私のことも困らせないで」勝は言葉に詰まった。「ですが奥様、これは社長のご意向で……」智也の名前を出せば、玲奈が折れると思ったのだろう。けれど玲奈は折れない。玲奈は昂輝に言った。「先輩、行きましょう」昂輝はドアを開け、玲奈が乗り込んでから運転席へ回った。今夜、昂輝はあらかじめ店を予約していた。もつ鍋の店だ。着くと、もう一人いた。一華だ。一華を見た玲奈は意外そうに、昂輝と一華を見比べた。昂輝が口を開くより早く、一華が言う。「なに、そのキョロキョロした目。医学界なんて狭いんだよ。会おうと思えば、わりと会える」玲奈は半信半疑のまま、昂輝が引いた椅子に座った。玲奈の表情を見て、一華が説明する。「私、久我山で出張手術があってさ。その日たまたま東先輩も手術してて。終わったらご飯行こうって話になって、また連絡ついたの。そしたら今日、あんた院試終わったから集まろうって、東先輩から連絡きたの」玲奈は昂輝を見てから、一華に言った。「そういうことだったんだ」そこで昂輝が、ちょうどよく口を挟んだ。「試験が終わって、気分もいいだろ。それに一華はルームメイトだったから、ちょうどいいと思って」玲奈は淡く笑い、昂輝に言った。「じゃあ座って」テーブルは窓際の長方形で、窓側には座れない。玲奈と一華は、長辺に向かい合って座っていた。昂輝は通路側に立っている。
玲奈が院試を受けると知った沙羅は、心の底から面白くなかった。以前から、玲奈は成績優秀だと聞いている。ただ結婚してからは、医学の世界から距離を置いていた。それが今、また勉強をやり直そうとしている。沙羅はすでに院生だ。それでも、玲奈に注目をさらわれるのが怖かった。だから心の奥に、玲奈にうまくいってほしくないという種を、そっと落とした。そんな思いを抱えたまま、沙羅はほとんど眠れずに夜を明かした。翌朝。まだ空も白みきらないうちに、沙羅は智也の部屋へ忍び足で向かった。客室のドアが開く音がした瞬間、沙羅はすぐに智也のドアを開けた。沙羅は艶っぽい格好をしていた。真っ赤なシルクのガウン。乱れた髪に、火照った頬。顔には色気が滲み出ている。昨夜、何があったのか。玲奈には想像がついた。玲奈は沙羅をちらりと見ただけで、階下へ向かおうとした。自分をまるで相手にしない玲奈を見て、沙羅の胸に怒りが噴き上がった。その時、下から愛莉の声が飛んだ。「ママ!」玲奈は階段の途中にいて、愛莉が自分を呼んだのだと思った。反射的に返事をする。「なあに」だが次の瞬間、愛莉が顔を上げる。玲奈が返事をしたとわかると、笑みが一気に消えた。そして言い添える。「呼び間違えた。ララちゃんが下りてきたのかと思った」その言葉に、玲奈の身体がわずかに震えた。それでも平静を装い、短く返した。「……そっか」玲奈はそのまま階段を下りていく。階段の上にいた沙羅は、玲奈の一瞬の硬直を見逃さなかった。口元に意地の悪い笑みが浮かぶ。――今のは、多少なりとも効いただろう。玲奈が車で出て行ってから、沙羅は智也の部屋へ戻ろうとした。部屋に入ると、智也がベッドの端に座っていた。寝間着を羽織り、胸元の筋肉が照明に蜜色の艶を帯びている。それを見た瞬間、沙羅の胸がきゅっと締まった。智也も顔を上げた。だがその目は鋭く、冷たい。智也は沙羅を問い詰めた。「朝っぱらから俺の部屋に来て、何がしたい」智也はわざと目を閉じたままにしていた。沙羅が何をするつもりか、見たかったのだ。その言葉を聞いた沙羅の顔が、さっと赤くなった。沙羅はわざと傷ついたように言った。「智也……。私、会いた
涙が枯れるまで泣き続け、もうこれ以上泣けなくなった時、彼女はゆっくり車を走らせ春日部家に戻った。今の彼女が帰れる場所は春日部家しかなかった。幸いなことに、春日部家のみんなは彼女を拒絶しなかった。家に着いた時、すでに夜明け前だった。車を止めたところ、玄関の前で人影がうろうろと行き来していて、かなり焦っているのに気付いた。彼女は驚き、よく見ると、それが兄の秋良だった。秋良も玲奈に気付き、立ち止まって何も言わず、じっと妹が近づいてくるのを静かに見つめた。近づくと、妹が無事だと確認し、秋良は部屋に戻ろうとした。その時、玲奈は突然彼を呼び止めた。「兄さん」秋良は足を止
玲奈は優しく問いかけ、顔にも特別何も感情は浮かべていなかった。その瞬間、愛莉は少しぼんやりした。あの優しかったママが戻ってきたような気がしたのだ。愛莉はその顔に向けて、思わず本音を漏らした。「うん、帰りたいの」玲奈は微笑み、さらに優しい声で言った。「じゃあ、ちょっと荷物を片付けて、ママが送ってあげるから」母親があっさりと承諾したのに、愛莉は逆に胸がざわついた。「でも、パパが……」しかし、玲奈はその言葉を遮った。「帰りたければ帰っていいのよ、ママが送るから」ここにいたくないのに、無理に引き止めても意味などない。春日部家のみんなにも会えたし、今後愛莉を連れて来る必要
週末、昂輝は一緒に医学部の講義に参加するために春日部家へ玲奈を迎えに来ていた。二人は5分早く教室に着いたが、一番いい席はすでに他の人に取られており、最前列に座ることになった。玲奈は宮口教授の学生ではないので、やはり少しおずおずと緊張していた。昂輝は教室に入ると、周りの学生たちが「先輩」と挨拶してきた。玲奈を誰なのかという好奇な目を向けてきた者もいた。彼は何も言わず、ただ淡々と微笑んだ。宮口教授はもう結構年を取っているので、騒がしいのが苦手だ。それに、もうすぐ授業が始まるから、昂輝が返事しようにもすぐに返事できなかった。宮口教授の前では、昂輝だってちゃんとルールを守らなければ
しかし、彼女はそれ以上説明せず、ただ微笑んで昂輝に感謝を述べた。「褒めてくれてありがとうございます。でも、自分がどのくらいの者か、ちゃんと分かっています」昂輝は呆気に取られ、玲奈が本当に大きく変わったことに気付いた。かつて明るくて太陽のようだった女の子の目に、劣等感がはっきりと見て取れる。しかし、彼女は成績がよくて、優秀だった。大学院への推薦も受けて、多疾患研究センターの一員に加わる機会もあった。しかし、彼女は結婚を選んでしまった。昂輝は再びステージ上を見やった。沙羅は確かに輝いて眩しく見える。純白のドレスに包まれたしなやかな姿は、観客の注目の的となっていた。しかし、昂