ログイン「澤野様、婚姻届の事前確認のご予約でお間違いないでしょうか? 記録を確認しますと、澤野様はこれまでにも相当な回数、事前確認のご予約をされていますが、そのすべてを当日になってキャンセルされています」 「相当な回数……?」頭を殴られたような衝撃に襲われ、澤野愛夏(さわの あいか)はその場で固まった。「そんな……まさか」 職員は戸惑った様子で画面を確認し、愛夏にも見えるようモニターを向けた。 「お相手のお名前は、毎回同じですね。藤山大翔(ふじやま ひろと)様です」 画面に表示された「藤山大翔」の文字を見つめたまま、愛夏の顔からすっと血の気が引いていった。 どうして……? 大翔と出会って、まだたった3ヶ月しか経っていないはずなのに。 ぼんやりしたまま屋敷に戻ると、大翔の仲間たちがからかうように話している声が耳に入ってきた。 「大翔、愛夏さんの記憶障害も、もう7、8年になるんだろ?彼女がプロポーズするたびに、こっそり薬をすり替えて治療を止めさせてるんだろ。いつか本当に、お前のことを全部忘れられちまうのが怖くないのかよ」 その言葉を聞いた瞬間、愛夏は全身から血の気が引いていくのを感じた。 そして、ようやく思い出した。 この8年もの間、自分は何度も大翔のことを忘れ、そのたびにまた彼に恋をしていたのだ。 すべては、大翔が薬をすり替え、治療を妨げていたせいだった。 「お前らは知らないだろうな。記憶を失ったあいつが、また俺に惚れ直す瞬間の顔、あれを見るのがたまらなく興奮するんだよ。 なりふり構わず俺にアプローチするところも好きだし、俺に嫉妬して不機嫌そうに俺を見る目も好きだ。ぎこちなく甘えてこようとする、あのおずおずとした仕草も……本当に、可愛くて仕方ない。 だからさ、何度忘れられても、あいつはまた俺に惚れる。俺はそう信じてる」 愛夏は絶望に目を閉じた。 そうはいかないわ、大翔。 今度こそ、あなたのことを、きれいに忘れてみせる。
もっと見る目の前に広がる火の海を見つめた瞬間、大翔は全身を焼かれるような恐怖に襲われ、その場に崩れ落ちた。「愛夏……」大翔は真っ青な顔で、声を震わせながら言った。「頼む、無事でいてくれ……何も起きないでくれ……」彼はまるで正気を失ったかのように、火の海へと駆け出した。アダムが彼を制止した。「気は確かか?今入ったら死ぬぞ!」けれど大翔は構わずアダムを振り払い、そのまま炎の中へと飛び込んでいった。「彼女が死んだら、俺が生きてる意味なんてない」熱気と炎が、大翔の服や肌を容赦なく焼いた。目を見開き、必死に炎の中をかき分けるように進んでいった。自分でも、どれだけの時間探し続けたのか分からなかった。ようやく部屋の隅で、全身をずぶ濡れにした愛夏を見つけた。彼はよろめきながら愛夏を抱き上げ、必死にドアの外へと駆け出した。愛夏は彼の袖をつかみ、耳元にひとこと、息も絶え絶えにつぶやいた。「大翔……今度は……ようやく、私を助けてくれたの……?」大翔の体が一瞬こわばった。そうしてついに火の海を抜け出すと、愛夏をアダムの腕の中に預けた。そのまま、彼自身の体は糸が切れたように倒れ込んだ。大翔は、悪夢を見た。夢の中、車が愛夏に向かって激しく突っ込んできたその瞬間。本来なら彼女を助けに行くべきだったのに、彼は身を翻し、歌織を抱えたまま立ち去り、彼女をたった一人その場に置き去りにした。彼女の体は傷だらけで、血だらけでピクリとも動かなかった。大翔は振り返りたかった。けれどどれだけ自分の体を動かそうとしても、どうすることもできなかった。かつての自分は、愛夏を嫉妬させるためだけに彼女の安全すら顧みなかった。なんて身勝手な人間だったのだろう。本当に、愛夏の言った通りだった。自分のエゴを満たすためだけに、彼はあれほど残酷に彼女を傷つけ続けてきたのだ……大翔ははっと目を覚まし、勢いよく体を起こした。消毒液の匂いが充満する病室に自分が横たわっていることに気づく。点滴の針を引き抜き、ベッドから降りようとした。傍らにいたアシスタントが驚いたように目を覚ました。「社長、目が覚めたんですか!?どこか具合が悪いんですか?すぐに医者を呼びますね」大翔は全身を震わせながら尋ねた。「……愛夏は?」怖かった。彼はひどく怖か
愛夏が2階に上がると、アダムがのんびりとコーヒーを片手に興味津々な様子で聞き耳を立てていた。彼女はすぐさま蹴りを一発お見舞いした。「こんなところで盗み聞きしてたの?」アダムは慌てて両手を上げた。「隠れてないんだから、盗み聞きじゃないだろ」「聞いて、何か感想は?」愛夏は彼をじろりと見た。アダムは真剣に考えたあと、言葉を選びながら答えた。「あいつってさ、本当にとんでもない変態だな。誰かを好きになるのに、相手を痛めつけて喜んでる奴、初めて見たよ」思わずぷっと噴き出した愛夏は、笑いが止まらなくなった。アダムの「変態」という一言が、大翔にこれ以上ないほど的確な表現だと思ったのだ。まさに彼そのものだった。彼女が笑うのを見て、アダムは少し表情を引き締め、真面目に尋ねた。「それでこれからどうするつもりなんだ?もし彼が、まだ諦めないつもりだったら?」愛夏は首を振り、はっきりとした口調で言った。「アダム、私にはね、一つ長所があるの。一度決めたことは、最後まで貫くところ。彼を愛してたときは、何もかも投げ打つくらい、全身全霊で愛した。だから今もう愛してないなら、どんなことがあっても二度と愛し直したりしない」愛夏は寝室のドアを開けた。廊下の先に、小さな人影があるのに気づく。大翔が後をついてきたのだろうと、彼女には見当がついた。もしかしたら今しがた彼女が話したことも、全部聞かれていたかもしれない。それでも、彼女は振り返らなかった。ただドアをしっかりと閉め、彼に関するすべてをその扉の外へと締め出した。大翔はその場に立ち尽くしたまま、今にも崩れ落ちそうだった。アダムがすれ違いざま、素っ気なく声をかけた。「藤山さん、いつ帰るつもりです?」大翔は何も答えず、ただ全身をこわばらせながら冷たい壁にもたれかかり、放心したような表情を浮かべていた。そのまま丸3時間、彼はそこに立ち続けた。その間、愛夏は一度も部屋から出てこなかった。まるで、わざと彼を避けているかのように。大翔には分かっていた。この先も、彼女はきっと今日のようにずっと自分を避け続けるだろうと。大翔の口元に、自嘲するような笑みが浮かんだ。壁に手をついてそのまま立ち去ろうとしたその瞬間、ガソリンのような刺激臭が鼻をついた。続いて、何かが焦げるような嫌な
何度も記憶を失ってきたけれど、愛夏がこれほど穏やかな気持ちで大翔と向かい合って座るのは、初めてだった。彼女は温めた牛乳まで一杯、彼に差し出した。大翔はそのカップを落ち着かない様子で持ちながら、視線をさまよわせていた。「言いたいことがあるなら、遠慮せず言って」愛夏は静かに彼を見つめた。その瞳は驚くほど静かに凪いでいる。「これが、私たちが話す最後の機会になるかもしれないから」大翔の胸が、鉛のように沈んだ。彼ははっと顔を上げ、その目には怯えの色すら浮かんでいた。「愛夏、俺は……」いざ口にしようとすると、途端に言葉が乱れた。「歌織が今までお前をたくさん傷つけてきたことは分かってる。でも、本当に知らなかったんだ。それに俺があんなことまでしてしまったのは、お前を愛しすぎてたからだ。お前が俺のために嫉妬して、俺に夢中になって取り乱す姿が、見たかった……」そう言いながら、彼はうなだれ、自分の髪をつかんで激しく引っ張った。「愛夏、俺が悪かった。俺はクズだ。全部、俺のせいだ!あの写真の件も、もう会社の公式アカウントで声明を出して、お前の無実を証明した。今はもう、みんなお前が無関係だってことを分かってる。今はネットで俺が散々叩かれてるよ。見る目のない最低な男だってな」大翔はそう言いながら慌ててスマホを取り出し、その声明を表示させた。コメント欄には千件を超える書き込みがあり、そのすべてが大翔と歌織への非難で埋め尽くされている。彼は素早く画面をスクロールした。「ほら、これ見てくれ。見る目がない、自分の彼女を傷つけたって書いてある。これもだ。前にお前を中傷してたことを謝罪してる……」「は……もういいから」愛夏はため息をつき、うんざりした様子で彼を遮った。「そのコメント、私も全部見た。藤山家が今、蛯名家を潰しにかかってて、蛯名家が3日前に正式に破産を発表したことも知ってる。でもそのことは、私たちの関係には何の影響もない」愛夏は彼を見つめたまま、この上なく落ち着いた表情で言った。「大翔、私たちはもう完全に終わったの。これが最後になることを願ってる。言いたいことがあるなら言って。言い終わったら、帰っていいから」愛夏は手元のカップをテーブルに置き、立ち上がって歩き出した。強い力が突然、彼
愛夏が知る限り、大翔は人一倍、世間体を気にする人間だった。カフェであれほどの屈辱を受けたのだから、もう二度と姿を見せることはないはずだった。けれど、まったく予想外だった。翌日、カフェの開店時間ぴったりに、大翔がまた入り口に立っていたのだ。周囲からは大勢の好奇の視線が注がれ、中には指をさして噂する者までいた。昨日の出来事を、みんなまだ覚えていたのだ。大翔なら、こんな扱いには耐えられないはずだった。けれど彼は、何も言わなかった。静かにブラックコーヒーとパンを一つずつ注文し、いつもの席に座った。一日中仕事の処理をしながら、ほとんど顔を上げることもなかった。同僚まで思わず感心してつぶやいた。「あの人、本当に面の皮が厚いね。あんなに噂されてるのに、まるで何事もなかったみたいに微動だにしないなんて」愛夏も意外だった。「彼、前は……あんな人じゃなかったのに」以前の彼なら、これほど大勢に指をさされるどころか、たった一人からちょっとした視線を向けられただけで、すぐに冷たい顔をしていたはずだった。そのせいで、愛夏自身もどう対応すればいいのか分からなくなってしまった。それから丸1週間、大翔は毎日同じことを繰り返した。コーヒーとパンを一つずつ頼み、一日中座り続ける。足首の怪我も、日に日に良くなっているようだった。愛夏はとうとうお手上げになり、思い切って仕事を辞めることにした。追い払えないなら、自分が避ければいい。ところが、大翔は今度は邸宅の前まで追ってきた。カフェに居座っていたのが、今度は邸宅の外のベンチに朝から晩まで座り込むようになった。母は呆れたようにつぶやいた。「あの子、本気であなたに許してもらう気ね」愛夏はそれを聞いても、冷めた様子で首を振るだけだった。「でも、私は絶対に許さない」愛夏は家から一歩も出ず、彼が外にいることなど知らないふりを続けた。そうこうするうちに5月になった。F国は、その年最大級の台風による猛烈な暴風雨に見舞われた。夕方5時から、雨粒は叩きつけるように激しく降り始めた。母は二階から外を見下ろし、不安げに言った。「愛夏、彼にどこかへ避難するよう言ったほうがいいんじゃない?テレビではこの暴風雨、何日も続くって言ってたわよ。あの子、ずっと外で座り込んでるつもりなの?何