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08

Author: 仲原
last update publish date: 2026-07-08 22:37:10

 手当を終え、用が無くなった薬箱は所定の位置へ。使っていた食器たちはシンクに移動し、軽く汚れを落とした後で食器洗い洗浄機へと並べていく。慣れた手つきで操る機械。洗剤を入れコースを設定したら、直ぐに機械が動き始める。

「何時頃に出掛けようか?」

 食事に出るという話が止まったままだったことを思い出し、海亜は時計を探して視線を彷徨わせた。

「そうですね……」

 数字の無い壁掛け時計。金メッキの針が小さな音を立てて忙しなく回っている。

「今が四時過ぎなので、六時半に出るというのは……」

 時間を計算し、外出の時間を決めてしまおうとしたところで鳴り響いたのは、コール音だった。

「電話?」

「そうみたいだ」

 シェア数の多い人気のあるデザイン。保護することだけを目的としている黒いカーボン調のケース。それに収まっている小さな機械から吐き出されたのは軽快な旋律で。昴の手の中で存在を主張している端末の画面には、着信を表す画像がフルスクリーンで表示されている。

「母さん?」

 画面に表記された番号の持ち主。個人名でなく『母』とだけ書かれた味気ない文字に首を傾げながら、軽く手を上げ謝罪を意味するジェスチ
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  • さよならは、笑顔の後で   75

    「何を食べたら良いんだろう」 食べたいと思うモノはあったとしても、決める基準はいつだって昴が優先。彼の好みに合わせて何を食べるのかを決めていたため、こうやって自分の為に何かを決めるのは苦手だと感じてしまう。「そっか。私は……」 自分のために決めるという選択肢を、選んだことがなかったんだ。  好きだと思うメニューを目の前にしても、無意識に探してしまう誰かの好み。 今はその必要が無いんだと気付いた瞬間、自分のために食事を選ぶ事が難しく感じて吐き気を覚えてしまう。 胃は空腹を訴えているのに、心が満たされることを否定する。それが辛くて思わず乾いた笑いが零れるのを止められない。「当たり前って、当たり前じゃ無かったんだなぁ」 刷り込まれた日常は、とっくの昔に普通ではないものに変わってしまっているのだ。それに気付くのが遅かったせいで、いつまで経っても埋められないギャップに苦しみ、足踏みをしていたのだろう。「もう、後戻りは出来ないものね」 気持ちを切り換えて前に進む。そうするしか無いと何度も自分に言い聞かせ、目にとまったメニューを注文てから窓の外を眺める。「少しずつ、慣れていかなきゃ」 今頃あの人はどこで、何をしているんだろうか。 考えないようにしても思い浮かぶ沢山の事が、彼の面影を消してくれず海亜の中で燻り続けている。「頭が、痛いや」 取りあえず今日は。ここで空腹を満たした後、もう少しだけ物件を探して回ろう。そのことを手帳に留めようとバッグを開いた時だった。「電話?」 テーブルの上に置いたままにしてあった携帯端末が、突然震え出す。「何?」 慌ててそれを手に取ると、ディスプレイに表示された内容を見て息を呑んだ。「え? どうして?」 灯りの点いた液晶パネル。そこに記載されている文字はメッセーアプリに届いたメッセージではなく、電話番号を表す十一桁の数字である。「何でこの人が……」 余りにも予想外の文字に浮かぶのは動揺で。その数字の持ち主が誰なのか分かった瞬間、電話を取るべきなのか判断が付かず狼狽える。 暫く呆然と眺めていると、随分長くコールを鳴らした後で、電話の主は諦めたように着信を切ってしまった。「……どんな用事があって?」 そこに表示されて欲しかったのはたった一人の人間の名前だった。それなのに、実際に表示されたのは海亜の実父であ

  • さよならは、笑顔の後で   74

    「……苦い」 手渡されたときよりも随分と温くなってしまった一本の飲み物は、余り飲み慣れない嗜好品で。口の中に広がる苦みが心の痛みに重なるように感じ、再び涙が溢れてしまう。「……これから、どうしよう」 勢いに任せて家を飛び出たため、昴の待つ家に帰るつもりはない。 だからといっていつまでもホテル暮らしが出来るほど、海亜の財布に余裕が有るわけでも無いのだから、近いうちに身の振り方を決める必要はどうしても出てきてしまう。 以前借りてた部屋に関しては結婚を機に解約して随分経つため、とっくに別の人が住んでいるだろうし、泊めてくれと頼める友人も直ぐには思い付かない状態だ。「早めに不動産屋に行かなきゃ」 口に出した言葉に表情を曇らせながら缶を握る手に力が篭もる。「でも、保証人……どうしよう……」 単身物件の中には保証人無しで契約することが可能なものも存在していると聞いたことはあるが、海亜自身、そのような条件で住む場所を探すのは初めてなのだ。女性一人で契約する場合、条件が良い安全な場所に巡り会える確率はどれくらいのものなのかと、それが気になり手が震えてしまうのを止められない。「考え無し、だったのかなぁ……?」 早まったというのは確かにそうだろう。ただ、もう、これ以上。あの場所に留まるには精神が疲れ果ててしまっていた。 最後に一口だけ苦くて黒い水を飲み込むと、海亜は丁寧に畳んだタオルを持ちカウンターへと歩いて行く。「あの」 カウンターの向こう側では、スタッフの男性が作業の手を止め「大丈夫ですか?」と問いかけてくれる。「お騒がせしてすいません」 湿って草臥れてしまったタオルを返すと、海亜は小さく頭を下げて礼を述べる。「本当にありがとうございました」「いえいえ。お客様の心が少しでも軽くなったのでしたら、それだけで十分ですから」 何も聞かれない優しさ。その居心地に良さに柔らかくなる表情。「本日はごゆっくりお休みください。お体を冷やされないよう、温かくしてお過ごしくださいね」 中身の残った缶コーヒーと、優しく手を振る誰かの気配。 ほんの少しだけ。呼吸がしやすくなったことに、海亜はほうっと息を吐いたのだった。◆ 不動産屋の前を通る度、宅建情報を眺めては一人唸る。そんなことを何度繰り返したのだろう。 家出をしてからまだ一ヶ月も経っていないのだが、

  • さよならは、笑顔の後で   73

     あれからどれくらいの時間、外に居たのだろうか。 ふらつきながらやっとの思いで戻ったホテル。ロビーに入ると、フロントで業務の処理をしていたスタッフが驚いて駆け寄ってくる。「お客様!」「…………あ」 人の存在を感じた瞬間、大きく前へ身体が傾いた。「だ、大丈夫ですか!?」 床に倒れる前に宙で止まる身体。スタッフの腕が支えてくれている事に気付き、慌てて身を起こし離れる。「ご、ごめんなさい!」 こんな失態を曝すなんて。気が抜けたことで支えを失った身体を叱咤しながら海亜は立ち直すと、軽く頭を下げてから立ち去るべく足を動かした。「お待ちください」 しかし、スタッフはそんな海亜を引き留め優しく誘う。「取りあえず、こちらへどうぞ」 示されたのは革張りのボックスソファ。「あ……あの……」 そこに腰掛けてくれと言われているのだろうが、残念なことに、今の海亜は全身がずぶ濡れの状態。このままそこへ腰掛けると、折角のソファが濡れて台無しになってしまうだろう。「濡れてしまいますが……」 だからこそ、その誘いは低調に断る。つもり、だった。「構いませんよ」 そんな海亜を気遣ってか、スタッフはにこやかにそう言うと、彼女に座って欲しいと再び声を掛ける。「濡れてしまったら拭けば良いだけです。そんなことよりも、お客様の事の方が心配ですよ」 言葉は非常に丁寧ではあるが、そこには有無を言わさない強い意志が感じられる。結局根負けしてしまい、海亜は素直にその言葉に従い腰を下ろした。「タオルを取って参りますね」 海亜が落ち着いた事を確認した後、スタッフは一度ロビーから姿を消してしまう。「あっ……」 制止をするのも間に合わず、止めるために上げた手が宙で止まったまま。行き場の無い言葉を飲み込みぼんやりとそこに在る光景を眺める。暫くするとスタッフが、真っ白なバスタオルと缶コーヒーを手に戻ってきた。「お待たせして申し訳ございません」 そう言って差し出されたバスタオルを、海亜は戸惑いながら受け取る。「本来ならば、直ぐにお部屋にお戻り頂き身体を温めて頂いた方が良いとは分かっているのですが、足下が覚束ない様でしたので」「あ。そう、……ですね」 肌触りの良いふわふわのタオル地に指を滑らせると、じんわりと心が温かくなる。「宜しければ、こちらもどうぞ」「……はい」 手渡

  • さよならは、笑顔の後で   72

    「私はそんなに、あなたにとって、頼りにならない人間なのでしょうか?」 夫婦とは。 互いに支え合っていくものだと思っていた。 どちらか片方の力関係ではなく、互いを支配しあうものでもなく。 足りない部分を補って、いつまでも対等で有り続けたい。 例えソレが理想を論じている事だとしても、海亜にとってこうありたいと願い、思い描く夫婦の形はそのようなモノを指している。 だから全ては言えなくても、負担を軽くしてあげられる程度の荷物は持ってあげたかった。 何でも聞いて、何でも話せる。 辛い事も、苦しい事も。楽しい事も、幸せな事も。 全てを共有し、そうやって、時を静かに重ねながらゆるやかに歳を取っていく。 いつか迎える終わりの時まで、そのような関係で居続けたい。そう強く願っていたのに。「私では、あなたの支えになる事は不可能って。つまり、そういうことなんですよね?」 共有して貰えない情報。いつまでも隠されたままの秘密。信用を失った時点で、相手のことを信じる事は難しく、そうやって疑ってしまう自分が居ることが悲しくて仕方ない。「もう。良いです」 言い終わると同時に浮かべる笑いはどこか寂しげなものだ。「これ以上は、話合う必要が無さそうなので」 もう話を聞きたくない、と。一方的に会話を打ち切ると、海亜は昴をその場に残して自室へと向かい歩き始めた。「海亜!!」 背後からは海亜の名を呼ぶ昴の声。だが、その声を無視して部屋に駆け込むと、急いで扉を閉め鍵を掛けてしまう。「海亜! 開けてくれ! 海亜!!」 激しく叩かれるドア。何度もしつこく動くドアノブ。それでも掛けられた鍵は侵入者を拒み、そこに立ち入ることを許さない。「頼む……開けてくれ……海亜……っっ」 いつの間にか、扉の向こうから聞こえてくる彼の声に含まれる嗚咽。何度もしゃくりながら、必死に請うのは話を聞いてくれという言葉で、触れられない事が嫌だと言うように悲痛な叫びが海亜の心を抉っていく。「みあっ……悪かった……謝るから……っっ」 どうしてこうなってしまったのだろう。 考えても分からない答えは、未だ手に入りそうに無かった。◆ 離婚すると決めてからは、ますます二人の時間はすれ違うことが多くなってしまった。 決別を決めた海亜としては、一刻も早く彼を解放してあげたかったのだが、何だかんだと理由を

  • さよならは、笑顔の後で   71

     その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍り付く。もし本当に鍵を持っているのだとしたら、幾ら鍵を掛けようと簡単に侵入されてしまうのは考えなくとも分かる。防犯が意味を成さない状況において、どれだけ自身の力で身を守ることが出来るのだろうか。 少なくとも、彼女にこちらの言葉が届くとは全く思えない。そんな風に思うほど、常識の通じない事が目の前で起こったばかりなのだ。「……はぁ……はぁ……」 無意識に強く握りしめるドアノブ。施錠したはずの鍵が外される音が怖くて仕方が無い。「開けなさいよっっ!! このクソ女っ!!」 解錠すれば簡単に中に入れると思っていたのだろうか。開きそうで開かないドアに苛立った彼女が、力任せに何度もドアを開こうとしてくる。「うぅっ……」 しかし、ここで押し巻けてしまったら、あの恐怖を再び味わわなくてはならなくなってしまう。「邪魔すんなって言ってんのっっ!! 巫山戯んなよ!? 泥棒女がっっ!!」 必死にドアを引っ張り続けること十数分。『バンッッ!!』 大きな音を立てて扉越しに伝わる衝撃。「覚えてなさい! 絶対に許さないんだから!!」 まるで悪役のような捨て台詞が聞こえてきたかと思うと、苛立たしげな音を響かせて遠ざかる気配。完全に音が聞こえなくなってからも、暫くは怖くてドアノブから手が離せず震えてしまう。「なん……なのよ……」 ほんの短い間にこれだけの予想外な事が起こるなんて思いもしなかった。 一本、一本。丁寧にドアノブから指を引き剥がすと、力なくその場にへたり込み恐怖で震える肩を強く抱き締める。「鍵……」 勝手に開けられた事は勿論問題なのだが、何故彼女がこの家の鍵を持っていたのかと言う事も見過ごせない問題の一つだ。 上手く力の入らない足を無理矢理立たせると、海亜はしっかりと扉を施錠してからダイニングへと戻る。「昴さん」 ダイニングでは、昴が青い顔をして呆然と立ち尽くしていた。「聞きたいことがあります」 そう言われて昴は正気に戻ったように海亜の方へと視線を向ける。「…………海亜?」「あの人に鍵を渡したのは、本当に昴さん。あなたなんですか?」 これまでいくつかの裏切りにあってきたが、一番納得がいかないのがこの一件である。どんな目的があって鍵を渡したのかは不明だし、海亜自身は彼女を招いて良いと言ったことは一度も無い。同居人に

  • さよならは、笑顔の後で   70

    「今日、買い物に行くって伝えてあったじゃん」 この人は一体何を言っているのだろう? 訳が分からず昴の方へと視線を向ければ、彼も混乱しているようで怯えるように狼狽えている事に気が付く。「ねぇ、昴。早く買い物に連れて行ってくれない?」 今はそれどころじゃ無い。 この状態を見ればそんなこと直ぐに分かるはずだ。 しかし、突如現れた訪問者は海亜という存在を一切無視し、甘えるように海亜の夫へと腕を伸ばしてきた。「っっ!!」 反射的に弾かれる手。女性の細い腕が、非常にゆっくりとした動きで大きく跳ねる。「え? 何?」 こんなことをされるのは想定外だったのだろう。己の扱いに不機嫌になった彼女は、不服そうに頬を膨らませた後、距離を詰めて無理矢理昴の腕にしがみつく。「今更奥さんに罪悪感でも感じてるとでも言いたい訳?」 聞こえてきたのは今更という言葉に過敏になってしまうのは、つい先程までその事について話合おうとしていたからだ。昴の口から聞きたかった言葉。それは見ず知らずの第三者から告げられる事になりますます気持ちが落ち込んでしまう。「もうバレちゃったんだし、良いじゃん」 実にあっけらかんと言われると、一層のこと清々しささえ感じてしまう。「さっさと離婚しちゃいなよ」 だからといってそれが許せるのかというと、そういうわけでは無いのが人の心というものだろう。 見せつけられた二人の関係性。これが真実かどうかなんてことは、この際どうでもいい。重要なのは、今、こうして、二人が親密である光景を見せられていること。 そして、その事について海亜自身がどう感じて居るのかと言うことだろう。「…………」 この光景を見た瞬間、海亜の内側で一気に怒りが込み上げてくる。 それと同時に強く感じたのは嫌悪感で。 何が楽しくて、こんな不愉快な光景を見せられているのだろうか。 この人は一体、何をしたくてここに来たのだろう。 可能性には気付いていたが、敢えてそこを疑問にすることで、相手へと怒りを向ける理由を作っていく。「奥さんと離婚出来たら私と結婚出来るじゃん。元々付き合ってたんだし、丁度いいじゃない」 この人は一体、何を言っているのだろう。そこかしこで見るイメージとは異なり、今の彼女はどことなく我が儘な子どものように見えてしまう。確かに目の前に居るのは四埜杜繭という女性なの

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