さよならを選んだ日

さよならを選んだ日

Por:  水瀬Actualizado ahora
Idioma: Japanese
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結婚四年目の記念日、鹿島乃愛(かしま のあ)は離婚を切り出した。 江口卓也(えぐち たくや)の表情が曇り、視線が鋭くなる。 「俺が義姉の出産に付き添って、お前のそばにいなかったからか?」 「そうよ」 兄が亡くなった翌日、卓也はA国へ渡り、未亡人となった兄嫁に付き添った。 それから四年。 国内とA国を行き来し、乃愛が彼を必要とするときでさえ、卓也が向かうのは兄嫁とその子どものもとだった。 三日前、兄嫁が帰国した。 兄嫁と乃愛が同時に水難に遭ったとき、卓也が咄嗟に助けたのは兄嫁だった。 乃愛が甥に危害を加えたと誤解され、玉砂利の上に正座をさせられても、卓也は目も向けなかった。 乃愛は八年、卓也を愛し、彼の真心を疑ったことはなかった。 けれど今、初めて自分の愛が揺らぐ。 「もういい」 卓也は離婚届を破った。 「俺は兄貴の子どものためにやってきただけだ。 これからはもう付き添わない」 乃愛は言った。 「破るなら、また用意するだけ。 署名するまで、何度でも」 卓也の目から冷たさが消え、驚きが浮かぶ。 彼は素早く乃愛の手を掴んだ。 「愛し合って結婚して、お前は八年も俺を支えてきた。 ......それでも手放せるのか?」 乃愛は静かに手を引き抜いた。 「手放せないものなんて、ないわ」 卓也は、乃愛が本気で離婚するとは思っていなかった。 二人は八年を共に過ごしてきた。 それに、乃愛は卓也と結婚するために、ひとり雨に打たれながら江口家の門前で跪き、海外での研修の機会まで捨てたのだ。 それほどのものを犠牲にした乃愛が、離れるはずがない――そう思っていた。 だが、離婚届が本当に手渡されたとき、卓也は呆然とした。 それから先、卓也はプライドをかなぐり捨てる。 何度も乃愛の部屋の前で跪き、声を絞った。 「頼む。 開けてくれ。 中に入れてくれ」

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第1話
結婚四周年の記念日。鹿島乃愛(かしま のあ)は、江口卓也(えぐち たくや)に離婚を切り出した。「結婚記念日にお前と過ごさず、義姉のところへ行った。それだけで離婚するのか?」卓也は眉を寄せ、腑に落ちない顔をした。「乃愛。俺たちは八年、愛し合ってきたんだぞ」乃愛は小さく頷く。「理由はいろいろある。でも、今日の理由はそれだけよ」昨夜、乃愛は家政婦に食事を用意させ、花も、贈り物も買った。卓也と二人で、記念日の夜を過ごすつもりだった。結婚して四年。記念日は毎年、そうしてきた。乃愛は、新しく買った寝間着に着替えていた。だが、その服を脱ごうとした瞬間、卓也のスマホが鳴った。電話の向こうで、女が泣いている。卓也は動きを止めると、ベッドを降り、浴室へ入った。水音だけが響く。乃愛はベッドに横たわったまま、火照った肌の行き場を失っていた。卓也が出てくると、乃愛は問いかけた。「行かないでくれない?」卓也はもうシャツを着ている。整った顔が、曇っていた。「悠斗が熱を出したみたいだ。様子を見てくる。すぐ戻る」それだけ言い残して、卓也は出て行った。あの夜、乃愛は彼の帰りを待ち続けた。けれど、卓也は戻らなかった。夜明け近く。鹿島晴香(かしま はるか)からメッセージが届いた。添えられた写真には、病院のベッドで卓也が江口悠斗(えぐち ゆうと)を抱いている姿が写っている。穏やかな表情を浮かべ、その眼差しはただ一心に悠斗を見つめていた。まるで実の子を見つめるように。その下に、晴香の文が続く。【乃愛、先に寝てて。卓也は悠斗が心配で仕方ないの。昔、わざわざ海外まで来て私の出産に付き添ってくれたでしょう。だから悠斗のことも実の子みたいに思ってるの。それと、今夜は帰らないみたいよ】乃愛はそれを何度も読み返し、呆然とした。目には、信じられないという色が浮かぶ。出産に付き添った――?卓也の兄が突然亡くなったあと、晴香は悲しみを理由に海外へ行った。そして間もなく、妊娠に気づき、そのまま海外で、出産を迎えた。乃愛は思い出す。晴香が臨月を迎えるころ、卓也は頻繁に出張へ出ていた――あれは、晴香の出産に付き添うためだったのか。涙が大粒のまま落ち、スマホの画面に弾けた。苦しくて、乃愛は目を閉じる。
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第2話
乃愛は病室の入口に立ち、晴香が卓也に水を差し出すのを目にした。卓也は手を伸ばして受け取ろうともせず、晴香の手元に口を寄せ、そのまま一口だけ飲んだ。乃愛は離婚届を握りしめ、扉を押して中へ入った。その瞬間、熱で頬を真っ赤にした悠斗がびくりと震え、卓也の腕の中で泣き出した。誰も、乃愛が来るとは思っていなかった。卓也はきりっとした眉をひそめ、低い声で問う。「乃愛、何してる。悠斗がやっと寝たところだろ」「私に何の関係もない」乃愛はそう返し、続けた。「あなたにだって関係ないでしょう。実の子でもないのに、そんなに気にかけるの?」「乃愛!」卓也は声を強めた。「まだこんなに小さいし、熱もあるんだ。怒ってるなら、帰ってからいくらでも相手してやる。今は休ませてやれ」離婚届を持ってきたことはさておき、普通なら弟嫁として甥に会いに来ることは筋が通る。それなのに、乃愛が現れた途端、卓也は反射的に「騒ぎを起こしにきた」と受け取った。我に返った乃愛は、離婚届を卓也のほうへ差し出す。「署名して。早くサインして、とっとと離婚しよう」卓也の顔は冷えきっていた。まるで、聞き分けのない子どもを見るように。晴香が歩み寄り、口を挟んだ。「乃愛、何か誤解があるんじゃない?卓也はただ悠斗に会いに来ただけよ。今はもう落ち着いたし、卓也を連れて帰らせてあげて」晴香は身をかがめ、優しい声であやす。「悠斗、ママのところにおいで。卓也おじさんは帰って休むの」三歳の悠斗は小さな体のまま、病気のせいでひどくやつれて見えた。彼は卓也の襟元をつかんで離さず、泣きながら訴える。「卓也おじさん......うぅ、行かないで......」晴香の顔に困惑が浮かび、声も少し厳しくなる。「悠斗、言うことを聞いて。ママのところに来なさい」「いい。俺が抱く」卓也はそう言い、乃愛へ目を向けた。「見ただろ。悠斗はまだつらいんだ。乃愛、理解してくれないか?」乃愛は冷えた目でそのやり取りを見つめ、胸が引き裂かれるように痛んだ。唇をわずかに吊り上げる。「わかったわ。でも、署名しないと......」乃愛は悠斗を見て、少し身を寄せた。「オオカミが子どもをさらいに来るわよ」もともと弱っていた悠斗は、それでさらに激しく泣いた。だが
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第3話
卓也の眉と目元は冷え切り、瞳には鋭い冷光が宿っていた。低い声で言う。「乃愛。俺と離婚しても、後悔するなよ」乃愛の睫毛が、びくりと大きく震えた。「......サインして」後悔するはずがない。毎晩、あの母子のそばから帰ってくるのを待てというのか。そんな大らかさは、自分にはなかった。むしろ、自分はひどく器が小さい。愛しているからこそ、ここまで耐えてきた。二年。もう十分、誠心誠意尽くしてきたと思う。なのに卓也は、自分の真心をゴミみたいに捨てて、見向きもしなかった。なら、もう尽くすことはない。乃愛は、卓也が署名する手元を見つめた。骨ばった指が万年筆を握り、乱暴な字で名前を書きつける。乃愛は一歩進み、離婚届を取り上げた。「明日、役所ね。必ず来て」そう言い捨てて、彼女は背を向けた。悠斗は、まだ小さな声で泣いていた。卓也は視線を落として言う。「悠斗。男の子はな、泣き虫じゃダメなんだぞ。男の子は、オオカミだって倒せるんだ」悠斗の目には涙が溜まったまま。それでも、言われてしゃくり上げるのを堪え、言った。「僕、立派な男の子になる。オオカミをたおす」「うん。えらい」卓也は口元をわずかに緩め、褒める。けれど、その笑みは目には届かなかった。晴香が自責の声で言った。「全部、私のせいね。私が悪いの。悠斗が急に熱を出して、どうしたらいいか分からなくて......そのせいで乃愛が、あなたと離婚するなんて。卓也、早く追いかけて。悠斗は私が見るから」「必要ない」卓也は沈んだ声で言う。「子ども相手に意地を張るなんて、あいつは分別がなさすぎる。今回で分からせるんだ、俺がいなければ何もできないことを」晴香はそれでも言った。「でも、離婚するって......」「しない」卓也は断言した。「晴香、先に帰って。俺がここで悠斗を見ているから」晴香は首を振る。「そんなの、だめよ。私は悠斗の母親だもの。私が帰ったら、変でしょう?」卓也はそれ以上は言わなかった。ただ目を伏せる。口では言い切ったのに、胸の奥に、理由のない焦りが広がっていく。乃愛は以前も、悠斗のことで拗ねたことがある。けれど、彼が少し宥めれば、それで済んだ。離婚なんて、口にしたことは一度もない。それが今回はとうとう離婚を
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第4話
乃愛はぱちりと瞬きをし、目の奥のつんとした痛みをこらえた。そのとき、スマホが震えた。ラインにメッセージが一通、届いている。開いた瞬間、乃愛は信じられず、目を見開いた。何十枚もの写真。そこに写っているのは、どれも卓也が晴香のそばにいる場面だった。晴香がようやくお腹を目立たせ始めた頃、卓也は彼女に付き添って産婦人科へ行っている写真。腹がさらに大きくなると、二人で公園を散歩している写真。出産の日、卓也が病室の外で待っている写真。写真の一枚一枚の下には日付があり、すべて晴香が出産した年に撮られたものだった。あの年、卓也は頻繁に出張していた。それは、立ち会い出産のためだけじゃない。――彼は晴香の妊娠期間を、丸々付き添っていたのだ。それなのに今、この男が私の隣に横たわり、強引に、支配的に抱きしめている。八年も一緒にいたのに。彼は、本当に私を愛したことがあったのだろうか。胸を錐で貫かれるような痛みが、遅れて押し寄せた。必死に堪え込んでいた涙が、とうとう溢れ出す。乃愛は勢いよく起き上がり、手を振り上げて卓也の頬を叩いた。痛みで目を覚ました卓也は、怒鳴りかけて――すぐに、彼女の涙に気づいた。「乃愛......」胸が締めつけられ、卓也は起き上がって彼女の肩を掴む。「どうした?悪い夢でも見たのか?」「卓也。離婚届、出しに行くわよ」乃愛は伏し目がちに身を引き、男の手を避けた。卓也の声はいっそう柔らかくなる。「乃愛、いったい何があった。どうして急に離婚なんて言い出す?俺たち、うまくいってただろ。......もう、やめよう。な?」乃愛の涙は、もう止まっていた。それを聞いて、彼女は問う。「あなたは、私が拗ねてるだけだと思ってるの?」卓也は答えない。沈黙が、すべてを語っていた。乃愛は、拳を綿に打ち込んだような無力感に襲われた。彼は、自分が嫉妬したのだと思っている。帰ってきて少し宥めれば、また元どおり。そしてこれからも、彼は自分と晴香の間を行き来する――そういうつもりなのだろう。乃愛は画面を開き、スマホを彼に見せつけた。「あなた、あの年は出張が多いって言ってたわよね。お兄さんが亡くなって株価が不安定で、提携の話をまとめなきゃいけないって。......でも、現実は?あなたは彼
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第5話
乃愛は冷笑して言った。「私は当然、変な考えなんてしてない。どうせ私たち、もう離婚するんだから。行きましょう。役所へ。たとえあなたが、悠斗があなたの子だって言っても、私はどうでもいい」「.......お前」卓也の表情は、凍りつくほど冷え切った。「この話は、お前が落ち着いてからだ」卓也は大股で出て行き、扉が乱暴に閉まる音が響いた。彼が去ったあと、乃愛は壁の写真を一枚見て、手を伸ばして引き剝がし、床へ叩きつけた。ガラスが砕ける。写真の中の彼女と卓也は、真っ二つになった。叩きつけた直後、スマホが鳴った。母からの電話だった。「乃愛、今日は何の日か、忘れてないわよね?」乃愛はスマホのカレンダーを見て、ようやく思い出した。今日は父の誕生日だ。「もちろん覚えてるよ。パパの誕生日でしょ。プレゼントももう用意してるし、ちょうど帰るところだったわ」無理に笑って言った。鹿島詩織(かしま しおり)は優しい声で続ける。「そうよね。絶対忘れないと思ってた。帰るときは気をつけてね。家で待ってるから」「うん。分かった」電話を切ると、乃愛は簡単に身支度を整えた。鏡の中の自分は、目が腫れて赤く、顔色も悪い。まるでじゃじゃ馬みたいだった。鹿島家のお嬢様が、こんな姿でいるはずがない。乃愛はメイクをして、口紅も塗った。身支度を終えるまでに、二時間近くかかった。――そのとき、またスマホが鳴った。今度も詩織から。「乃愛、パパがね。今年の誕生日会はやめるって。面倒だって言うの。だから、あなたも無理しなくていいわよ」やめる?さっきまで、忘れてないか気にしていたのに。その瞬間、乃愛の中で何かが繋がった。視線が、少しずつ冷えていく。「分かった。プレゼントは人に届けさせるわ。ちょうど体調も良くないし、今日は行かないでおくね」「ええ。ゆっくり休んで」詩織はそう言って、電話を切った。乃愛は薄化粧で、惨めなくらいに青白い顔を隠し、少しだけ血色を取り戻した。けれど、眼差しだけは異様に冷たい。車の鍵を強く握りしめる。乃愛は外へ出て、車を走らせ、鹿島家へ向かった。空は晴れていた。敷地に入った途端、リビングから楽しげな笑い声が聞こえてきた。そばにいた使用人が彼女を見るなり、顔色を変える。「は、晴香様」「呼び方が違うわ。
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第6話
詩織が乃愛の手を掴んだ。「乃愛、違うの。あなたが思ってるようなことじゃない。晴香も、たまたま戻ってきただけで......本当に、祝うつもりはなかったのよ」乃愛は小さく首を傾げ、目元がじわじわと赤くなっていく。「そう。晴香が帰ってきたら、私は帰っちゃいけないんだ。パパとママにとって、晴香こそ本当の娘なんでしょ。私は部外者ってことよね」「乃愛!」明夫が叱りつけた。「お前が晴香を嫌がるから、呼ばなかったんだ。せっかく帰ってきたなら、おとなしくしていろ。今日は俺の誕生日だ。俺が不愉快になることはするな」乃愛は一人ひとりを見た。乃愛に向けられる視線には、警戒と、ためらいと、怯え――そんなに、自分が怖いのか。乃愛はゆっくり歩み寄り、プレゼントをテーブルに置いた。「パパ。誕生日おめでとう」明夫は、ようやく言うことを聞いたと思ったのか、口元に薄い笑みを浮かべた。「よし。気持ちは受け取った。帰ってきたなら、座れ」だが乃愛は座らない。視線を、晴香に向けた。「おめでとう。あなたの勝ちよ。もう奪わなくていい。私の夫はあなたにあげる。私たち、離婚するから。パパとママも――あなたが欲しいなら、あげる。あなたに譲るわ」晴香の顔色がさっと青ざめた。「乃愛、違うの。私、そんな......」「乃愛!」明夫が怒鳴る。「ふざけたことを言うな。ここには子どももいるんだぞ!」乃愛の目元は赤い。涙だけは落とすまいと必死だった。メイクを崩したくない。「子ども?なら聞けばいいじゃない。昨日、誰がこの子につき添ってたのか」乃愛は、晴香の胸に縮こまっている悠斗を見る。「悠斗。昨夜は卓也おじさんが一緒だったんだよね?」悠斗は怯えた声で答えた。「......うん」それを聞いて、乃愛は両親を見た。明夫も詩織も、何ひとつ言わない。空気が、恐ろしく静まった。悠斗は怯えたのか、とうとう泣き出した。晴香は慌てて彼の耳を塞ぎ、切羽詰まった声で言う。「乃愛、悠斗が熱を出して......私、どうしていいか分からなくて、卓也に頼るしかなかったの。不快だったら、もう二度と電話しない......私、今すぐ出ていく」そう言いながら晴香は泣き出し、泣いている息子も抱き上げて、玄関へ向かった。二人はまるで、いじめられた被
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第7話
「乃愛」卓也が大股で詰め寄る。まず晴香と悠斗を起こし、支える。それから乃愛の腕を掴み、鋭く問い詰めた。「何をしてる」強く引かれ、乃愛はよろめいた。乃愛は卓也の怒りなど意に介さず、逆に不思議そうに尋ねる。「どうしてあなたがここにいるの?今年は誕生日会はやらないって、あなたには言ってなかったの?」そう言って、彼女は詩織と明夫に目を向けた。二人の視線が揺れる。「ああ。やらないって言ったのは、私にだけなのね。そういうことね」乃愛は理解した。「やっぱり晴香だけが実の娘で、あなたたちは最初から同じ側。お似合いだわ。こそこそ誕生日会。あなたと、あの人にだけは連絡して」そう言い終えると、乃愛は口角を吊り上げ、また晴香に向かって足を上げた。「見ればわかるでしょ。私がこの人をいじめてるの」「――っ!」乃愛が短く声を上げた。卓也に突き飛ばされたのだ。身体が後ろへ弾かれ、背中が強く木の幹にぶつかった。「乃愛......」卓也の表情が揺れ、声が少しだけ和らぐ。「今日は義父さんの誕生日だ。言いたいことがあるなら、今日が終わってからにしろ」乃愛は、ふうん、とだけ返した。「言いたいことなんてない。あなたたちが家族で誕生日を祝うのに、私みたいな外野になんの関係がある?」乃愛は立ち直り、服の乱れを整えてから、もう一度言う。「誕生日が終わったら、役所に行って。離婚の手続きが済んでから、ここに顔を出すのが筋でしょう」「乃愛!」その言葉に、詩織が青ざめて駆け寄った。「離婚だなんて、軽々しく言わないで。あなたたち、長いこと一緒にいたでしょう?離婚なんて、言えばできるものじゃないのよ」乃愛は冷たく言った。「離婚しなかったら、あなたの大事な晴香はどうやって彼のところに行くの。子どもを抱えながら、愛人のままでいろって?」乃愛は顎を上げ、卓也を見た。「あなたが離婚に同意しないなら、私はあの二人に会うたび殴る。叫んで回ってもいいわ。こいつは愛人だって」指先が、晴香と悠斗を刺す。「晴香。悠斗を連れて二階へ行きなさい。今日は帰らなくていい。お前は俺が認めた娘だ。誰にも追い出させない」明夫が立ち上がり、厳しい顔で言った。晴香は悠斗を抱いて二階へ上がっていく。「俺の鞭を持ってこい!」明夫が
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第8話
彼は再び、乃愛の手を握った。鋭い黒い眼差しが、彼女を深く見据える。そして明夫に向き直り、言った。「義父さん。あの件をきちんと片づけられなくて、乃愛を傷つけたのは俺です。あとは俺に任せてください」明夫は不機嫌そうな顔でソファに腰を下ろした。「君はあいつを甘やかしすぎだ。ますます手がつけられなくなるぞ!」卓也は穏やかに笑う。「乃愛は俺の妻です。一生、甘やかすのが当然でしょう」明夫は鞭をローテーブルに置いた。詩織が一歩近づく。「卓也君、背中は痛くない?薬、塗ってく?」卓也は首を振った。「大丈夫です。贈り物はもう人に届けさせました。俺は乃愛を連れて先に戻ります。何かあれば、いつでも連絡してください」卓也は乃愛の手を強く握り、外へ向かって歩き出す。二歩も行かないうちに、乃愛がその手を振り払った。彼女は鞭で叩かれたことがある。痛みがどれほどか、知っている。ひりついて、皮膚が裂けるみたいな痛み――あれは今でも忘れられない。だからといって、卓也が身代わりに数発受けたくらいで、感動するはずがない。自分の不幸を招いたのは、この男だ。叩かれるのは当然。乃愛は半ば強引に、卓也の車へ乗せられた。卓也が身をかがめ、シートベルトを締めようとしたとき、乃愛がふいに訊いた。「晴香と寝たことある?」卓也の目から、さっきまでの温度が一瞬で消えた。「......あれは俺の義姉だ。いい加減にしろ」「昔言ったじゃない、兄嫁はいい女って」乃愛はぱちりと瞬きをする。「――彼女といて、楽しい?」「乃愛」卓也の声が沈む。「いい加減にしろ」「でも、寝てないなら分からない。どうしてあなたは、あの人のことになるとあんなに必死なの」乃愛は手を放し、服に強くこすりつけた。まるで汚いものに触れたみたいに。「卓也。あなた、本当に気持ち悪い」「気持ち悪い?」卓也は怒り――そして、ふっと笑った。彼は乃愛の顎を掴み、悪魔みたいに囁く。「乃愛。欲求不満でそんなに荒れてるのか?なら、夫の俺が鎮めてやる」言い終えると同時に、薄い唇が乃愛の唇を塞いだ。「......っ!」乃愛はすぐに口を開き、思い切り噛みついた。血の味が、二人の唇と歯の間に広がる。「最低!」乃愛は平手で彼の頬を叩いた。「離婚するわ!
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第9話
二人が役所に着くころには、入口の前にすでに車が何台も並んでいた。乃愛が降りようとすると、ドアロックが開いていない。掠れた声で言った。「開けて」卓也は片手でハンドルを握ったまま、全身に冷たい気配をまとっている。車内の空気は息が詰まるほど重い。そのとき、卓也のスマホが鳴った。画面を見て通話に出る。「......もしもし」しばらくして切り、卓也は乃愛に言った。「会社でトラブルだ。数日、出張しなきゃならない。戻ってから手続きをする」「済ませてから行って」乃愛は彼を見た。「待ちたくない」卓也は淡々と言う。「今やっても、受理までには時間がかかる。数日くらい変わらない」そう言って、ロックを開けた。「降りろ」「今入って手続きするだけ。あなたの時間なんて取らない」乃愛の声も沈んだ。だが卓也は車を降り、道端へ歩いていく。タクシーを止め、そのまま一人で行ってしまった。乃愛は目を閉じ、シートベルトを強く握りしめた。彼女は車内に、ひとりで長い間座っていた。外の空が暗く沈むほど、ずっと。最後に乃愛を現実へ引き戻したのは、一本の電話だった。「ねえ、乃愛。今日早く上がれたの。ごはん行こ?」親友の浜崎由希(はまさき ゆき)の声。乃愛は掠れた声で言った。「迎えに来て。役所の前にいる」由希は声の異変に気づき、短く返事をして急いで来た。窓を叩く音がして、乃愛はようやくドアを開けて降りた。脚が痺れている。そのまま由希に抱きついた。「乃愛、どうしたの。何があった?昨日って、卓也との記念日じゃなかった?うまくいかなかったの?......まさか離婚のつもり?」由希が息せき切って訊く。乃愛は彼女の肩にもたれ、力のない声で言った。「私、晴香に負けたわ。完敗よ」バーの中は、光が揺れて瞬いていた。酒が五色の光を映し、視界を酔わせ、神経を麻痺させる。由希は事情を聞くうちに、拳を固く握った。「あなたの両親があの女を家に連れ帰ってから、あなたへの愛情も関心も奪っていった。そのあと、あの女が江口恒一(えぐち こういち)と結婚したから、もう大人しくなると思ってた。なのに彼が死んだら、今度は卓也に目をつけるなんて。ほんとに気持ち悪い。人のものばっかり欲しがって」乃愛は酒を一杯飲み、由希に寄りかかって
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第10話
悠斗は、母に車の中へ置かれた。「すぐ迎えに来るからね」そう言われたのに。目を覚ましても、母は現れなかった。悠斗はひとりで車を降り、母を探しに行った。けれどここは広すぎて、どこにも見つからない。小さな口をへの字にして、泣き出しそうになったそのとき。目の前に二人の大人が現れた。見上げると、片方は知っている。悠斗は小さく呟いた。「......乃愛おばさん」由希が肘で乃愛の腕をつつく。「どうする?」乃愛は目を細めた。飲みすぎて頭がぼんやりしている。身をかがめ、悠斗の頬をつまむ。「どうしてここにいるの?」悠斗の涙が一気に溢れた。「......ママ、さがすの」「ふん。勝手に探させとけばいいのに。何かあったら江口家は晴香を許さない。そのとき、どう言い訳するのか見ものだわ」由希が鼻で笑い、乃愛を引っ張って行こうとした。けれど乃愛は動かなかった。店内はライトが揺れて、人が行き交う。三歳の男の子がいるだけで、そこだけ浮いて見えた。乃愛はこめかみを押さえ、言った。「先に家まで送る。家の人に、ママに電話してもらいな」由希が目を丸くする。「乃愛、何してるの。そんなの損な役回りじゃない?」乃愛は淡々と言う。「晴香とは因縁がある。卓也のことも憎い。でも悠斗は三歳。子どもがここで危ない目に遭うのを見て見ぬふりなんて、私にはできないわ」乃愛は悠斗の小さな手を握り、店の外へ向かった。「ねえ乃愛、余計だって。晴香はその子を使って卓也の同情を引いて、あなたをこんなに苦しめたのに。面倒を見る必要なんてないのよ?」由希はなおも止めようとした。それでも乃愛は歩みを止めない。ただ――彼女は酔っていた。入口の階段を下りるところで身体がふらつき、足を踏み外した。そのまま転げ落ちる。咄嗟に、乃愛は悠斗を胸に抱き込んだ。子どもにぶつけさせたくなかった。由希が慌てて駆け寄り、支える。「大丈夫?怪我してない?」肘も膝も痛い。けれど重症ではない。乃愛は首を振った。「代行を呼ぼう。私たち、お酒飲んでるし」代行が来て、由希が訊く。「で、どこ行くの?」乃愛は横に座る悠斗を見て言った。「江口家よ」それを聞いた由希の目が、ぱっと輝いた。「いいじゃん。子ども連れて告げ口しに行け
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