INICIAR SESIÓN結婚四年目の記念日、鹿島乃愛(かしま のあ)は離婚を切り出した。 江口卓也(えぐち たくや)の表情が曇り、視線が鋭くなる。 「俺が義姉の出産に付き添って、お前のそばにいなかったからか?」 「そうよ」 兄が亡くなった翌日、卓也はA国へ渡り、未亡人となった兄嫁に付き添った。 それから四年。 国内とA国を行き来し、乃愛が彼を必要とするときでさえ、卓也が向かうのは兄嫁とその子どものもとだった。 三日前、兄嫁が帰国した。 兄嫁と乃愛が同時に水難に遭ったとき、卓也が咄嗟に助けたのは兄嫁だった。 乃愛が甥に危害を加えたと誤解され、玉砂利の上に正座をさせられても、卓也は目も向けなかった。 乃愛は八年、卓也を愛し、彼の真心を疑ったことはなかった。 けれど今、初めて自分の愛が揺らぐ。 「もういい」 卓也は離婚届を破った。 「俺は兄貴の子どものためにやってきただけだ。 これからはもう付き添わない」 乃愛は言った。 「破るなら、また用意するだけ。 署名するまで、何度でも」 卓也の目から冷たさが消え、驚きが浮かぶ。 彼は素早く乃愛の手を掴んだ。 「愛し合って結婚して、お前は八年も俺を支えてきた。 ......それでも手放せるのか?」 乃愛は静かに手を引き抜いた。 「手放せないものなんて、ないわ」 卓也は、乃愛が本気で離婚するとは思っていなかった。 二人は八年を共に過ごしてきた。 それに、乃愛は卓也と結婚するために、ひとり雨に打たれながら江口家の門前で跪き、海外での研修の機会まで捨てたのだ。 それほどのものを犠牲にした乃愛が、離れるはずがない――そう思っていた。 だが、離婚届が本当に手渡されたとき、卓也は呆然とした。 それから先、卓也はプライドをかなぐり捨てる。 何度も乃愛の部屋の前で跪き、声を絞った。 「頼む。 開けてくれ。 中に入れてくれ」
Ver más悠斗は、母に車の中へ置かれた。「すぐ迎えに来るからね」そう言われたのに。目を覚ましても、母は現れなかった。悠斗はひとりで車を降り、母を探しに行った。けれどここは広すぎて、どこにも見つからない。小さな口をへの字にして、泣き出しそうになったそのとき。目の前に二人の大人が現れた。見上げると、片方は知っている。悠斗は小さく呟いた。「......乃愛おばさん」由希が肘で乃愛の腕をつつく。「どうする?」乃愛は目を細めた。飲みすぎて頭がぼんやりしている。身をかがめ、悠斗の頬をつまむ。「どうしてここにいるの?」悠斗の涙が一気に溢れた。「......ママ、さがすの」「ふん。勝手に探させとけばいいのに。何かあったら江口家は晴香を許さない。そのとき、どう言い訳するのか見ものだわ」由希が鼻で笑い、乃愛を引っ張って行こうとした。けれど乃愛は動かなかった。店内はライトが揺れて、人が行き交う。三歳の男の子がいるだけで、そこだけ浮いて見えた。乃愛はこめかみを押さえ、言った。「先に家まで送る。家の人に、ママに電話してもらいな」由希が目を丸くする。「乃愛、何してるの。そんなの損な役回りじゃない?」乃愛は淡々と言う。「晴香とは因縁がある。卓也のことも憎い。でも悠斗は三歳。子どもがここで危ない目に遭うのを見て見ぬふりなんて、私にはできないわ」乃愛は悠斗の小さな手を握り、店の外へ向かった。「ねえ乃愛、余計だって。晴香はその子を使って卓也の同情を引いて、あなたをこんなに苦しめたのに。面倒を見る必要なんてないのよ?」由希はなおも止めようとした。それでも乃愛は歩みを止めない。ただ――彼女は酔っていた。入口の階段を下りるところで身体がふらつき、足を踏み外した。そのまま転げ落ちる。咄嗟に、乃愛は悠斗を胸に抱き込んだ。子どもにぶつけさせたくなかった。由希が慌てて駆け寄り、支える。「大丈夫?怪我してない?」肘も膝も痛い。けれど重症ではない。乃愛は首を振った。「代行を呼ぼう。私たち、お酒飲んでるし」代行が来て、由希が訊く。「で、どこ行くの?」乃愛は横に座る悠斗を見て言った。「江口家よ」それを聞いた由希の目が、ぱっと輝いた。「いいじゃん。子ども連れて告げ口しに行け
二人が役所に着くころには、入口の前にすでに車が何台も並んでいた。乃愛が降りようとすると、ドアロックが開いていない。掠れた声で言った。「開けて」卓也は片手でハンドルを握ったまま、全身に冷たい気配をまとっている。車内の空気は息が詰まるほど重い。そのとき、卓也のスマホが鳴った。画面を見て通話に出る。「......もしもし」しばらくして切り、卓也は乃愛に言った。「会社でトラブルだ。数日、出張しなきゃならない。戻ってから手続きをする」「済ませてから行って」乃愛は彼を見た。「待ちたくない」卓也は淡々と言う。「今やっても、受理までには時間がかかる。数日くらい変わらない」そう言って、ロックを開けた。「降りろ」「今入って手続きするだけ。あなたの時間なんて取らない」乃愛の声も沈んだ。だが卓也は車を降り、道端へ歩いていく。タクシーを止め、そのまま一人で行ってしまった。乃愛は目を閉じ、シートベルトを強く握りしめた。彼女は車内に、ひとりで長い間座っていた。外の空が暗く沈むほど、ずっと。最後に乃愛を現実へ引き戻したのは、一本の電話だった。「ねえ、乃愛。今日早く上がれたの。ごはん行こ?」親友の浜崎由希(はまさき ゆき)の声。乃愛は掠れた声で言った。「迎えに来て。役所の前にいる」由希は声の異変に気づき、短く返事をして急いで来た。窓を叩く音がして、乃愛はようやくドアを開けて降りた。脚が痺れている。そのまま由希に抱きついた。「乃愛、どうしたの。何があった?昨日って、卓也との記念日じゃなかった?うまくいかなかったの?......まさか離婚のつもり?」由希が息せき切って訊く。乃愛は彼女の肩にもたれ、力のない声で言った。「私、晴香に負けたわ。完敗よ」バーの中は、光が揺れて瞬いていた。酒が五色の光を映し、視界を酔わせ、神経を麻痺させる。由希は事情を聞くうちに、拳を固く握った。「あなたの両親があの女を家に連れ帰ってから、あなたへの愛情も関心も奪っていった。そのあと、あの女が江口恒一(えぐち こういち)と結婚したから、もう大人しくなると思ってた。なのに彼が死んだら、今度は卓也に目をつけるなんて。ほんとに気持ち悪い。人のものばっかり欲しがって」乃愛は酒を一杯飲み、由希に寄りかかって
彼は再び、乃愛の手を握った。鋭い黒い眼差しが、彼女を深く見据える。そして明夫に向き直り、言った。「義父さん。あの件をきちんと片づけられなくて、乃愛を傷つけたのは俺です。あとは俺に任せてください」明夫は不機嫌そうな顔でソファに腰を下ろした。「君はあいつを甘やかしすぎだ。ますます手がつけられなくなるぞ!」卓也は穏やかに笑う。「乃愛は俺の妻です。一生、甘やかすのが当然でしょう」明夫は鞭をローテーブルに置いた。詩織が一歩近づく。「卓也君、背中は痛くない?薬、塗ってく?」卓也は首を振った。「大丈夫です。贈り物はもう人に届けさせました。俺は乃愛を連れて先に戻ります。何かあれば、いつでも連絡してください」卓也は乃愛の手を強く握り、外へ向かって歩き出す。二歩も行かないうちに、乃愛がその手を振り払った。彼女は鞭で叩かれたことがある。痛みがどれほどか、知っている。ひりついて、皮膚が裂けるみたいな痛み――あれは今でも忘れられない。だからといって、卓也が身代わりに数発受けたくらいで、感動するはずがない。自分の不幸を招いたのは、この男だ。叩かれるのは当然。乃愛は半ば強引に、卓也の車へ乗せられた。卓也が身をかがめ、シートベルトを締めようとしたとき、乃愛がふいに訊いた。「晴香と寝たことある?」卓也の目から、さっきまでの温度が一瞬で消えた。「......あれは俺の義姉だ。いい加減にしろ」「昔言ったじゃない、兄嫁はいい女って」乃愛はぱちりと瞬きをする。「――彼女といて、楽しい?」「乃愛」卓也の声が沈む。「いい加減にしろ」「でも、寝てないなら分からない。どうしてあなたは、あの人のことになるとあんなに必死なの」乃愛は手を放し、服に強くこすりつけた。まるで汚いものに触れたみたいに。「卓也。あなた、本当に気持ち悪い」「気持ち悪い?」卓也は怒り――そして、ふっと笑った。彼は乃愛の顎を掴み、悪魔みたいに囁く。「乃愛。欲求不満でそんなに荒れてるのか?なら、夫の俺が鎮めてやる」言い終えると同時に、薄い唇が乃愛の唇を塞いだ。「......っ!」乃愛はすぐに口を開き、思い切り噛みついた。血の味が、二人の唇と歯の間に広がる。「最低!」乃愛は平手で彼の頬を叩いた。「離婚するわ!
「乃愛」卓也が大股で詰め寄る。まず晴香と悠斗を起こし、支える。それから乃愛の腕を掴み、鋭く問い詰めた。「何をしてる」強く引かれ、乃愛はよろめいた。乃愛は卓也の怒りなど意に介さず、逆に不思議そうに尋ねる。「どうしてあなたがここにいるの?今年は誕生日会はやらないって、あなたには言ってなかったの?」そう言って、彼女は詩織と明夫に目を向けた。二人の視線が揺れる。「ああ。やらないって言ったのは、私にだけなのね。そういうことね」乃愛は理解した。「やっぱり晴香だけが実の娘で、あなたたちは最初から同じ側。お似合いだわ。こそこそ誕生日会。あなたと、あの人にだけは連絡して」そう言い終えると、乃愛は口角を吊り上げ、また晴香に向かって足を上げた。「見ればわかるでしょ。私がこの人をいじめてるの」「――っ!」乃愛が短く声を上げた。卓也に突き飛ばされたのだ。身体が後ろへ弾かれ、背中が強く木の幹にぶつかった。「乃愛......」卓也の表情が揺れ、声が少しだけ和らぐ。「今日は義父さんの誕生日だ。言いたいことがあるなら、今日が終わってからにしろ」乃愛は、ふうん、とだけ返した。「言いたいことなんてない。あなたたちが家族で誕生日を祝うのに、私みたいな外野になんの関係がある?」乃愛は立ち直り、服の乱れを整えてから、もう一度言う。「誕生日が終わったら、役所に行って。離婚の手続きが済んでから、ここに顔を出すのが筋でしょう」「乃愛!」その言葉に、詩織が青ざめて駆け寄った。「離婚だなんて、軽々しく言わないで。あなたたち、長いこと一緒にいたでしょう?離婚なんて、言えばできるものじゃないのよ」乃愛は冷たく言った。「離婚しなかったら、あなたの大事な晴香はどうやって彼のところに行くの。子どもを抱えながら、愛人のままでいろって?」乃愛は顎を上げ、卓也を見た。「あなたが離婚に同意しないなら、私はあの二人に会うたび殴る。叫んで回ってもいいわ。こいつは愛人だって」指先が、晴香と悠斗を刺す。「晴香。悠斗を連れて二階へ行きなさい。今日は帰らなくていい。お前は俺が認めた娘だ。誰にも追い出させない」明夫が立ち上がり、厳しい顔で言った。晴香は悠斗を抱いて二階へ上がっていく。「俺の鞭を持ってこい!」明夫が