Masuk「俺が、やる」
低い声が、店の奥から響いた。
振り向くと、カミヤがカウンターの影から出てくるところだった。
いつの間にか、そこにいたらしい。昨夜、あれほど血まみれだったはずなのに、もう傷はどこにも見当たらない。
「やるって何を」
真珠さんが、眉をひそめる。
「囮だ」
カミヤは、警察の二人を真っ直ぐ見る。
「俺が奴らの前に出て、暴れる。そうすりゃ、賀茂側も堂前も、黙ってねえだろ。引きずり出されるもんがあるはずだ」
「……その隙に、我々が動く」
久我山警部は、すぐに意図を理解したようだった。
「囮として、あなたを使うということですか」
「使うとか言われるとムカつくな」
カミヤは、口を歪めて笑う。
「俺は俺で、あいつらにムカついてる。昨日の段階で、もう目をつけられた側だ。だったら、どうせならこっちから噛みついてやった方がスッキリする」
「あなた……何者ですか」
前書き第4章:この物語は「孤独な化け物が、不器用な人間に拾われる話」です。三百年ひとりで生きてきた人狼と、「仕事だから」を盾にして本音を隠す看護師。似た者同士の二人が、山奥の小さな診療所で出会います。ばちばち火花を散らしながら、少しずつ距離が縮まっていく——そんな不器用な関係を楽しんでいただけたら嬉しいです。甘いだけじゃなく、ちょっとほろ苦い。でも読み終わった後に、胸の奥がじんわり温かくなる。そんな物語を目指しました。それでは、山あいの診療所へどうぞ。*** 風が冷たかった。 十月の山は、もう冬の匂いがする。落葉した広葉樹の隙間から覗く空は、水を薄めたような青だった。 嶺風会リーダーの戸塚洋介は、足元の枯葉を踏みしめながら、後続のメンバーに声をかけた。「この先に沢があるから、そこで昼休憩にしよう」 リュックの肩紐を締め直す。標高はまだ八百メートル程度だが、整備された登山道を外れた獣道は足場が悪い。初心者の後輩二人がやや遅れている。「戸塚さーん、もうちょい待ってくださいよー」「鍛え方が足りんぞ、松田」 笑い声が木々の間に散った。穏やかな秋のトレッキング。何事もない一日になるはずだった。 沢の音が近づいてきた頃——戸塚の足が止まった。
数日後。 次の町へ向かう国道を、 ボロい原付が一台、走っていた。 六月の陽射しは容赦なく、 アスファルトが蜃気楼みたいに揺れている。 路肩の雑草だけが、 やたらと元気だった。 カミヤは、 片手でハンドルを握り、 もう片方の手で煙草を探った。 ポケットの中に、 指先が見慣れないものに触れる。 柔らかい。 布だ。 煙草じゃない。 汐風町を出てすぐのコンビニで、 荷物を整理していたときには気づかなかった。 財布とタオルに挟まれるようにして、 そいつはひっそりと潜んでいた。 原付を路肩に停める。 エンジンを切ると、 蝉の声だけが世界を埋めた。 取り出したのは、 小さな布袋。「汐風神社」と刺繍された、 白地に水色の糸のお守り。 角が少しだけ擦り切れていて、 持ち主がずっとポケットの中で握りしめていたのが分かる。「……いつの間に入れやがった」 呟いて、 すぐに心当たりが浮かぶ。 あの朝だ。 海辺の堤防で、 あいつが背伸びをして——。 あの一瞬、 ジャケットの裾を掴んだ手。 あれは、 ただしがみついていたわけじゃなかったのか。「……小賢しいガキだ」 悪態をつきながら、 布袋の口を開ける。 中から、 小さく折りたたまれた紙が出てきた。 何度も折り直した跡がある。 角がくたびれていて、 書いては消し、消しては書き直したのだろう。 広げると、 ルーズリーフの切れ端だった。 罫線の上を、 少し丸みのある文字が走っている。 ペンの色は、黒。
気づいたとき、 私は風の中にいた。 頬を切るような、冷たい風。 耳のすぐ横で唸るエンジンの音。 前を見れば、薄暗い山道が、後ろへ後ろへと流れていく。 私の両腕は、 自然と何かにしがみついていた。 硬くて、あたたかいもの。 黒いジャケットの布越しに伝わる、体温と筋肉の動き。 その正体に気づくまで、少し時間がかかった。「……カミヤ、さん……?」 かすれた声で呼ぶと、 すぐに、低い声が返ってきた。「起きたか」 背中越しでも分かる、いつもの調子。 少し掠れているけれど、それが妙に安心させる。 私は、 自分の状況を確かめるように、そっと視線を落とした。 彼の腰に、 私の腕がしっかり回されている。 後ろから、 彼に抱きつくみたいな格好で、原付に二人乗りしていた。 さっきまで私を縛っていた鎖の感触は、もうどこにもない。 代わりに、 ジャケットの下で、彼の鼓動がトクトクと鳴っているのが分かる。「鎖……」「引き千切った。あんなガラクタ、いらねぇだろ」 あくまでぶっきらぼうに言い捨てる。 それでも、 その一言だけで、胸の奥がじん、と熱くなった。 山道を下る原付が、ガタガタと揺れる。 私は思わず、彼のジャケットをぎゅっと掴んだ。「もっとちゃんと掴め。落ちんぞ」 そう言って、 彼の片手が後ろへ伸びてくる。 私の手首をつまみ、 腰のあたりへと押し当てるように導く。 彼の身体に、 さらに密着する形にな
漆黒の狼が、 一匹ではなかった。 クロ。 ギン。 アオ。 アカ。 キ。 五つの影が、 それぞれ違う色の「目」を灯して現れる。 クロの目は、 いつも通り、燃えるような赤。 ギンの目は、 淡い青白さを帯びている。 影のくせに、 光を持っているような、不思議な色。 アオの目は深い群青。 冷たい水の底のような、 静かな光。 アカは濃い紅。 ほとんど血の色に近い。 牙を見せて笑っている。 キは琥珀色。 どこか、カミヤの瞳に似ている。 五匹の狼が、 トンネルの中を駆けた。 音もなく。 影だけを引き連れて。「な、なんだ、まだ増えたぞ!?」「ど、どこから――」 怨念に取り憑かれた暴走族たちの口から、 ようやく「恐怖」の音が漏れる。 黒い霧は、 彼らの心を麻痺させていたはずだ。 だが、 その「上」を行く恐怖が現れたのだ。 クロは、 壁を駆ける。 ギンは、 霧の中に溶ける。 アオは、 足元の影から影へと跳び回る。 アカは、 真正面から突撃する。 キは―― 詩乃のそばに、 音もなく寄り添った。 それは、 カミヤがそう命じたからだ。 五匹五様の動き。 クロは、 &
朽縁トンネルは、 すでに「こちら側」の空気ではなかった。 夜中。 月齢は、十六に届く少し前。 山の頂を越えた月が、 トンネルの入口を、青白く照らしている。 だが、その光が、 トンネルの中に一歩でも踏み込むことはない。 闇が濃すぎるのだ。 中から、 黒い霧がじわじわと溢れ出している。 生ぬるく、 重く、 湿った憎悪の塊。 その手前に、 百台近い単車がずらりと並んでいた。 エンジンは止まっているのに、 そこに座る連中からは、 エンジン音以上の「ノイズ」が漏れている。 歪んだ笑い声。 意味を失った呟き。 「死ね」「壊せ」「燃やせ」といった、 原始的な欲求だけを繰り返す声。 目は、誰一人としてまともではない。 瞳孔は開ききり、 黒い霧が眼窩を満たしている。 トンネルの中央。 コンクリートの床に、 鎖で繋がれた少女が、一人、膝をついていた。 柊木詩乃。 制服の袖は、ところどころ破れている。 手首には、金属の冷たい輪っか。 足首にも鎖。 短い鎖が、彼女の行動範囲を数歩に限定していた。 顔は俯いていて、表情までは見えない。 だが、肩は震えていなかった。 怯えではなく、 何かを堪えるような、 静かな強張り。 その横。 龍二が立っていた。 もはや、人間の面影は薄い。 瞳はどす黒く濁りきり、 &
港の風が、ざわついていた。 昼間の漁港は、いつもなら騒がしい。 網を引き上げる声、トラックのバック音、魚を捌く包丁の音。 だが、その日は違った。 音はあるのに、どこか芯が冷えている。 カミヤは、荷揚げの仕事をひと段落させ、汗を拭った。 銀色の微細な粒子が、陽の光の中で一瞬だけきらりと光り、すぐに肌に溶けた。「おい、新入り。今日はもう上がっていいぞ」 親方がそう声をかけてくる。 いつもより少し、早い終わりだ。「いいのか。まだ日も高いが」「こういう日はな……魚も人間も、早く家に帰った方が身のためよ」 親方は煙草に火をつけながら、港の方角を顎で示した。「さっきから、山の方がうるせぇんだよ。聞こえねぇか?」 耳を澄ます。 遠く、かすかに、爆音が重なって聞こえた。 エンジン音。 ひとつやふたつじゃない。 うねるような、多数の咆哮。 それだけじゃない。 風の匂いが変わっていた。 海の匂いの奥に、 焦げたゴムと、安いガソリンと、 それから――湿った土に染み込んだ、古い血の残り香。 朽縁トンネルの方角だ。「……面倒くせぇ音だな」 ぼそりと呟く。 そのときだった。「カミヤ!」 背後から、ドスの効いた声が飛んだ。 振り返ると、勝田がいた。 スナックのヨレたジャンパー姿のまま、息を切らせている。 あまり走るタイプじゃない男だ。 その男が汗だくで駆けてくる時点で、ただ事ではない。「逃げろ」 開口一番、それだった。「連中、まともじゃねぇ。県内から暴走族かき集めてきやがった。ざっと百人。全員
外の空気は、さっきまでと同じはずなのに、まるで別物に感じられた。 さっきまで、ただの「海辺の町」だったこの場所が、急に「敵地」に変わる。「全国ニュースになったか」 防波堤に向かう途中、カミヤがぽつりと言った。「もう、逃げるだけじゃ、済まねえな」「どういうこと……」「親が、警察に届け出て、マスコミに泣きついた。ああやって『善良な被害者』を演じられたら、世間は簡単に味方する」「でも、真実は違う……」「真実なんざ、だれも興味ねえよ」 乾いた声。
本当に、海はあった。 国道から少し脇道にそれて、しばらく下り坂を走ると、視界の先に突然、空の続きみたいな青い平面が広がった。「……」 言葉が、喉の奥に張り付いた。 朝焼けの光を受けて、海はまだ薄青くて、ところどころ銀色に光っている。波が寄せては返すたびに、白い泡が砂浜に線を残しては消えていく。「本当に、海だ……」「偽物の海ってなんだよ」「プールとか、ゲームの中のとか」「それはそれで現実だろ」「うるさい。今はロマンチックなやつ」
夜って、こんなに長かったっけ。 カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。 一本、二本、三本。 オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。「眠いか、落ちんなよ」 前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。「落ちない。ちゃんと掴んでるし」「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」「じゃあ、どこ掴めばいいの」
人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。「そんな顔で食うな」 隣で、狼谷がぼそっと言った。「変な顔ってこと?」「うまそうに食いすぎ」 彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。「……冷てぇ」「レンジで温めてもらえばよかったのに」「いい。これで」 本当に、どうでもよさそうな顔で言う。