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その冬は、
何年ぶりか分からないほど雪が積もっていた。 古い平屋の屋根は白く染まり、 山あいの小さな村は静まり返っている。 縁側では、 トシオが湯飲みを片手に空を見ていた。 「よう降るなぁ」 「ほんとやねぇ」 ミツコは小さく笑い、 みかんの皮を剥いている。 85年。 長い人生だった。 二人には、 子供がいた。 けれど、 生まれて間もなく亡くなった。 それ以来、 二人きりで生きてきた。 悲しくなかったわけじゃない。 寂しくなかったわけじゃない。 それでも、 二人で飯を食べ、 笑って、 季節を越えてきた。 ただ最近、 ミツコは少しだけ痩せた。 病院の帰り道。 「長くはないでしょう」 医者はそう言った。 トシオは何も答えなかった。 ミツコも、 「そうですか」 と笑っただけだった。 だから今日も、 何でもない日みたいに過ごしている。 それが二人の優しさだった。 夕方。 買い物帰りの山道。 吹雪の中で、 トシオが足を止めた。 「……ん?」 小さな声。 雪の積もった側溝の奥。 ミツコが覗き込み、 息を呑む。 「まぁ……!」 そこにいたのは、 三匹の子猫だった。 二匹は雪みたいに白い。 もう一匹だけ、 ほんのり水色がかった毛並みをしていた。 三匹とも、 身体が震えている。 「こんな小さい子……」 ミツコは迷わず、 そっと抱き上げた。 すると、 水色の子猫がゆっくり目を開く。 丸い瞳。 片方は蒼。 片方は金。 不思議な、 吸い込まれそうな瞳だった。 トシオは小さく眉をひそめる。 「……普通の猫じゃねぇな」 「でも放っとけんよ」 ミツコは胸に抱き寄せる。 子猫は、 安心したみたいに小さく鳴いた。 「ミーコ」 「ん?」 「この子、ミーコや」 ミツコは笑った。 「この元気な子はタマ。 このふわふわの子はユキ」 トシオは少し呆れた顔をしたあと、 ふっと笑う。 「もう名前決まったんか」 その夜。 炬燵の中で、 三匹は丸くなって眠っていた。 タマは腹を見せている。 ユキはミツコの膝の上。 そしてミーコだけが、 静かに雪の降る外を見ていた。 まるで── 何かを警戒するように。 その時だった。 家の奥で、 古い柱がギシリと鳴る。 風もないのに。 トシオが振り返る。 暗い廊下の向こう。 そこに一瞬だけ、 “誰か”が立っていた。 白く長い影。 次の瞬間には消えていた。 「……なんだ今の」 低く呟いたその時。 ミーコのオッドアイが、 淡く蒼く光った。ゴォォォォォ──!!空気が震える。巨大要塞ヴァルグレイド。その黒い巨影が、草原の空を覆っていた。近づくほど分かる。大きい。あまりにも大きい。まるで山そのものが、空を飛んでいるみたいだった。側面には、無数の砲門。腹部には、巨大な魔導結晶。そして城壁には、レイシス王国の紋章。獅子と波を重ねた王家の証。ミーコ――アクアリア=ヴァル=レイシスの顔が曇る。「……第一王子派」カリヴァが低く呟いた。「間違いないな」竜人兵たちにも緊張が走る。空中要塞は、本来なら国家戦争級兵器。それがこんな辺境まで来る時点で、異常だった。「ミーコを探しとるんか?」トシオが聞く。ミーコは小さく頷いた。「私が生きていると知られれば、争いはもっと酷くなります」その声には、王女としての責任が滲んでいた。だが。「ふぅん」トシオは空を見上げる。「でかい船じゃのぉ」「船……?」カリヴァが固まる。「空を飛んでおるだけで、あれは船じゃろ」タマが吹き出した。「じーちゃん、その発想好き」だが次の瞬間。ヴァルグレイドの側面が、赤く光る。カリヴァの顔色が変わった。「全員伏せろ!!」轟音。空が裂けた。極太の光線が、草原を薙ぎ払う。ドォォォォォン!!爆炎。地面が抉れる。草原が吹き飛ぶ。タマがミーコを庇う。ユキが悲鳴を上げた。ミツコの髪が爆風に揺れる。そして。その中心で。トシオだけが、動かなかった。黒煙の中。仁王立ち。片腕を前へ出した姿勢のまま。カリヴァの瞳が揺れる。「……防いだ?」トシオの足元。大地が深く抉れている。だが。それだけだった。トシオは、少し痺れた腕をぶらぶら振る。「熱いのぉ」沈黙。竜人兵たちの顔から、完全に血の気が引いた。ヴァルグレイドですら、止まったように見える。タマが口を開ける。「……じーちゃん今、王国砲止めた?」「なんか飛んできた」「なんかじゃない!!」ユキは震えながら、ミツコへしがみつく。ミツコは困ったように笑った。「トシオさん、怪我しとらん?」「腹減った」「後でおにぎり作るねぇ」その瞬間。カリヴァ=ドラグニルは、確信していた。この二人は、ただの人族ではない。神話そのものだと。その時だった。ヴァルグレイド上空
草原を吹き抜ける風は、冷たかった。砕けた槍。沈黙する竜人兵。そして。素手で槍を握り潰した青年――トシオを見つめる、カリヴァ=ドラグニルの鋭い瞳。「……何者だ、貴様ら」低い声だった。疑念。警戒。そして、わずかな恐怖。トシオは頭を掻く。「何者って言われても、昨日まで漁師じゃったしのぉ」「漁師……?」カリヴァの眉が寄る。タマが慌てて前へ出た。「じーちゃんはじーちゃんだよ!」「タマ、それ説明になっとらんよ」ミツコが苦笑する。その空気に、竜人兵たちの方が混乱していた。意味が分からない。目の前の存在は、明らかに異常。なのに、どこにでもいる家族みたいに会話している。その時だった。一人の竜人兵が、突然顔色を変えた。「……っ!」震える指で、トシオとミツコを指差す。「ま、まさか……」兵士の瞳には、明確な怯えが浮かんでいた。「どうした」カリヴァが問う。竜人兵は、乾いた唇を震わせる。「角が……反応しています」空気が止まる。カリヴァの目が細くなる。竜人族の角。それは、古代の魔力や神性に反応する器官。嘘はつかない。兵士は、恐怖に滲んだ声で呟いた。「……始まりの民」ミーコの顔が凍りついた。ユキも息を呑む。タマはきょとんとしている。「はじまり?」カリヴァが、ゆっくりトシオへ近づく。その目には、先程までの軍人としての視線ではなく、“神話を見る者”の色があった。「人族……」静かな声。「馬鹿な。存在するはずがない」トシオは首を傾げる。「人族?」「レヴァナスタシア最古の伝承だ」今度はミーコが答えた。その声は、どこか震えている。「世界アルケシアを巡った、最初の二人」風が吹く。草原が揺れる。ミーコは、まるで古い絵本を読むみたいに続けた。「男神アダル。女神イヴェナ」「七種族を導き、命を繋ぎ、世界へ知恵を与えた存在」ユキが静かに俯く。「そして……神代の終わりに消えた種族」沈黙。タマだけが、話についていけずに瞬きをしていた。「え?じゃあじーちゃん達って神様?」「違うのぉ」トシオは即答した。「昨日まで畑の大根抜いとった」空気が崩れる。ミツコが吹き出した。「ほんとやねぇ」だが。カリヴァだけは笑わなかった。竜人族第三戦団長
「……戦争が始まってしまう」ミーコ――水色がかった銀髪の少女は、震える声で呟いた。空を覆う、巨大要塞ヴァルグレイド。その黒い影だけで、空気が重くなる。タマは耳を伏せた。「なんでこんな場所に王国軍が……」ユキも不安そうに空を見上げる。「追手……?」ミーコは答えなかった。その表情だけで、全部伝わってしまった。トシオは腕を組む。「とりあえず、腹減ったのぉ」「この空気で!?」タマが叫ぶ。ミツコは少し笑った。「みんな落ち着いとらんもん」その時だった。ゴォォォッ!!上空から、爆風が吹き荒れる。巨大な影。空を横切ったのは、黒い竜だった。いや。一匹じゃない。三匹。巨大な翼が、太陽を隠す。タマが反射的に前へ出る。ミーコの顔が険しくなる。「竜人族……!」竜は、少し離れた草原へ降下した。轟音。地面が揺れる。そして。砂煙の中から現れたのは、鎧姿の戦士たちだった。漆黒の角。竜の尾。金色の瞳。人ではない。その中心にいたのは、長身の女戦士だった。燃えるような赤髪。大剣。鋭い目。彼女は、ミーコを見るなり目を細める。「……やはりか」空気が張り詰めた。タマが低く唸る。ユキはミツコの後ろへ下がった。ミーコは一歩前へ出る。「ヴォルグラード帝国軍……」女戦士は静かに頷く。「竜人族第三戦団長。カリヴァ=ドラグニル」その名だけで、ミーコの顔色が変わった。かなり偉いらしい。しかし。トシオだけは、ぽりぽり頭を掻いていた。「長い名前じゃのぉ」沈黙。竜人兵たちがザワつく。カリヴァの眉がぴくりと動いた。「……貴様、状況を理解しているのか?」「してないのぉ」トシオは即答した。「起きたら若返っとった」タマが頭を抱える。「じーちゃん!!」その時。竜人兵の一人が、ミーコへ槍を向けた。「レイシス王族を確認!確保します!」空気が凍る。だが次の瞬間。カリヴァが、その兵士の前へ腕を出した。「待て」低い声。そして。彼女はゆっくり、片膝をついた。竜人兵たちが息を呑む。「……まさか、ご存命だったとは」風が草を揺らす。赤髪の戦団長は、静かに頭を垂れた。「アクアリア=ヴァル=レイシス王女殿下」静寂。トシオが眉を上げる。ユキが不安そうにミーコ
──暖かい。最初に感じたのは、陽の光だった。まぶたの裏を、優しい熱が照らしている。雪の寒さじゃない。囲炉裏の火でもない。もっと広く、果てしない温もり。トシオはゆっくり目を開けた。青空。どこまでも、どこまでも続く蒼。「……なんじゃここは」起き上がった瞬間。バキッ。足元の岩が砕けた。「……は?」自分の声が若い。いや、それだけじゃない。腕。肩。胸。着物が張るほど、筋肉が盛り上がっている。トシオは自分の手を見た。シワがない。白髪もない。日に焼けた、若い頃の腕だった。「……夢か?」その時。「トシオさん」聞き慣れた声。振り向いた瞬間、トシオの目が止まる。そこにいたのは、黒髪の少女だった。透き通るような肌。柔らかな目元。見覚えのある笑顔。「……ミツコ?」少女は困ったように笑う。「みたいやねぇ」二人はしばらく、何も言えなかった。目の前の相手が、ちゃんと“あの人”だと分かるのに、姿だけが違う。トシオは頭を掻く。「若返っとる……」「びっくりやねぇ」ミツコは、まるで他人事みたいに笑った。その時だった。草むらが揺れる。白銀の影が飛び出した。「ミツコおおおぉぉ!!」ドンッ!!勢いよく胸へ飛び込んできたのは、猫耳の少女だった。水色がかった銀髪。ふわふわの尻尾。蒼と金のオッドアイ。涙でぐしゃぐしゃの顔。「あぁ……よかった……!」その後ろから、さらに二人。「ばーちゃぁぁぁん!!」銀毛の少年獣人。ぴょこんと跳ねた二本のアホ毛。元気そうな顔をしているのに、今は涙でいっぱいだった。そして、その隣には銀白の少女。長いふわふわの髪。儚げな瞳。今にも泣き崩れそうに、ミツコを見つめている。「おばあちゃん……っ」ミツコは目を丸くした。「……ミーコ?」少女は何度も頷く。「タマもユキも……」トシオは、しばらく三人を見つめた後、ふっと笑った。「でかくなったのぉ」「そこなんですか!?」タマが涙目で叫ぶ。その声に、ミツコが吹き出した。「ほんとタマやねぇ」そして、三人まとめて抱き締める。「大丈夫よぉ」その瞬間。世界が震えた。ゴォォォォ──!!遠く。山脈の向こう。巨大な黒煙が空へ昇る。風が変わる。そして。空に浮かぶ、
その夜。吹雪だった。窓を叩く風が、まるで誰かの叫び声みたいに響いている。ミツコは布団の中で、静かに呼吸していた。浅い。弱い。トシオは、その手を握っている。もう何も言わなかった。言葉にした瞬間、終わってしまいそうだったから。囲炉裏の前では、タマとユキが寄り添っている。そしてミーコだけが、外を見ていた。蒼い瞳。その奥に映るのは、雪山ではない。“門”。異世界へ続く、巨大な光の裂け目。ついに境界が崩れ始めていた。ミーコは理解していた。この家が、この世界との“楔”だった。そして。ミツコの命こそが、門を安定させていたのだと。「……嫌」小さな声。王女ではない。ただの幼い少女の声だった。「嫌です……」その時。ミツコの瞼が、ゆっくり開く。「ミーコ……?」「……っ」ミーコは慌てて駆け寄る。ミツコは、弱々しく笑った。「泣かんでよぉ」その手が、ミーコの頭を撫でる。優しい。あまりにも優しい。ミーコは、初めて知ってしまった。“母”の温もりを。「……おばあちゃん」ぽろりと涙が落ちる。ミツコは、少し驚いたように目を丸くした。そして、嬉しそうに笑った。「うん」その瞬間。世界が揺れた。ゴォォォォ──!!家の外。山の奥で、巨大な蒼い光が空を裂く。門が開く。吹雪が逆巻く。家が軋む。タマが叫ぶ。ユキが震える。ミーコのオッドアイが、強く輝き始める。そして。ミツコは最後に、トシオを見る。「……ありがとうねぇ」トシオは、何も言えなかった。ただ、強く手を握る。そして。ミツコの手から、力が抜けた。静寂。その瞬間。門が完全に開いた。蒼い光が、家ごと飲み込む。タマの身体が光る。ユキの毛並みが舞う。ミーコの姿が、人の形へ変わり始める。そしてトシオは、ミツコを抱き締めたまま、光の中へ落ちていく。──暖かい。最後に、そう思った。気づけば。そこには、青空が広がっていた。
あの日から。家の周囲には、時々“何か”が現れるようになった。雪の上に残る奇妙な足跡。夜中、山の奥で響く遠吠え。そして、ミーコたちが時折見せる、猫とは思えない表情。けれど。不思議と、家の中だけは穏やかだった。「タマ、味噌汁飲もうとせん!」「にゃっ!?」「ユキは細すぎるねぇ。もっと食べんね」「みゃぅ……」「ミーコはまた難しい顔しとる」囲炉裏の前。ミーコは小さく目を逸らした。トシオは、その様子を見ながら煙草に火をつける。「最近、よう笑うようになったな」ミーコの耳がぴくりと動いた。「……そうでしょうか」まだ拙いが、もう普通に言葉を話している。最初こそ驚いていたミツコも、今では自然に返事をしていた。「いいことや」ミツコは笑う。「笑える時は笑わんと」その横顔を見て、トシオは静かに目を伏せた。最近、咳が増えた。立ち上がる時、少し苦しそうにする。分かっていた。時間はもう、長くない。その夜。雪は止み、空には星が出ていた。縁側。ミツコは毛布にくるまり、三匹を膝に乗せている。「綺麗やねぇ」空を見上げ、小さく笑う。ミーコは、そんなミツコをじっと見ていた。「……怖くないのですか」「ん?」「終わることが」静かな声。王族として、多くの死を見てきた声だった。ミツコは少し考え、空を見上げる。「怖いよ」その言葉に、ミーコの目が揺れる。「でもねぇ」ミツコは、三匹をそっと撫でた。「最後に、こんな幸せもらったけん」「……」「悪くない人生やった」ミーコは俯く。小さな身体が震えていた。その時。遠くの山が、一瞬だけ蒼く光った。空気が変わる。トシオが立ち上がる。そしてミーコは知ってしまう。──来る。“世界”が、こちらを見つけた。







