Se connecter石柱に刻まれた文字を、ミーコはじっと見つめていた。 古い。 けれど。 完全に読めないわけではない。「……名前じゃない」 ミーコが呟く。 フィルニアが隣から覗き込む。「じゃあ何だ?」「分からない」 ミーコは指先を文字へ近付けた。「人の名前みたいに見えるけど……」 石柱の文字へ触れる。 その瞬間。 淡い緑色の光が広がった。 ミーコの目の前へ、いくつもの光景が浮かび上がる。 古い街。 今よりも低い塔。 まだ西方都市と呼ばれていなかった頃の景色。 そこへ様々な種族が集まっている。 何かを囲んで話し合っている。 そして。 一人の人物が石柱へ手を置いた。 声は聞こえない。 けれど。 何かを託している。 その人物が立ち去った後。 石柱だけが残った。 映像が消える。「……昔の記憶」 ミーコが目を開く。「この石柱は、何かを封じるために置かれたんじゃない」 女性が尋ねる。「では、何のために?」「残すため」「……残す?」「誰かがここに何かを残したんです」 ミーコは石柱を見る。「たぶん、記録とか……約束とか」 フィルニアが腕を組む。「じゃあ、地下にある扉も?」「扉は……」 ミーコが振り返る。 さっきまで黒い霧に包まれていた通路。 そこにはもう異変がなかった。 黒い存在も。 消えていた。「……いない」 ミーコが呟く。「どこへ行った?」 フィルニアが周囲を見る。 兵士達も辺りを探した。 だが。 どこにもいない。 ただ石柱の足元に。 小さな光が一つだけ残っていた。 ミーコがしゃがみ込む。 手を伸ばす。 光は指先へ触れた。 温かい。 それは一瞬だけミーコの手のひらで揺れ。 やがて消えた。「……ありがとう」 なぜそんな言葉が出たのか。 ミーコ自身にも分からなかった。 ◇ 地下から地上へ戻る。 都市はまだ騒然としていた。 空に浮かんでいた黒い亀裂は、すでに消えている。 街の灯りも少しずつ戻り始めていた。 人々は互いの無事を確かめ合っている。 ミーコとフィルニアも大通りへ出た。 女性が二人へ近付いてくる。「助かりました」「私達だけでは、あの地下へ入ることもできなかった」 ミーコは首を振った。「私達も何が起きたのか、全部分かったわけじゃあ
地下全体が大きく揺れた。 天井から細かな砂埃が落ちてくる。 壁に掛けられていた古い灯りが、左右へ大きく揺れていた。 ミーコは足元を確かめながら、目の前に立つ黒い存在を見つめている。 フィルニアは一歩前へ出た。「ミーコ、下がってろ」『うん』 ミーコは素直に後ろへ下がる。 だが。 目は黒い存在から離さなかった。 さっき聞こえた声。 ――見つけた。 あの言葉が、まだ頭の中に残っている。「お前……何なんだ?」 フィルニアが問い掛ける。 黒い存在は答えない。 ただ。 胸元に浮かんだ小さな光だけが、ゆっくり明滅している。 その光は、黒い身体とは不釣り合いなほど淡かった。 フィルニアが拳を握る。「答えないなら――」『待って』 ミーコが止めた。「どうした?」『あれ……』 ミーコは胸へ手を当てる。「怖がってる」 フィルニアが振り返る。「……怖がってる?」『うん』「何が?」『分からない』 ミーコは首を横へ振った。『でも、さっきからずっと』『何かから逃げてるみたい』 黒い存在が、ゆっくり顔を上げる。 顔はない。 それでも。 ミーコには、その動きがどこか怯えているように見えた。 その時。 背後から声が飛んできた。「近付かないで!」 昼間に出会った女性だった。 その後ろには数人の兵士がいる。「ここは危険です!」「でも……」 ミーコが振り返る。 女性は黒い存在を見たまま、息を呑んでいた。「それは、この都市に昔から残っているもの」「知ってるんですか?」「詳しくは知らない」「私達が知っているのは、あの扉の向こうに何かが封じられていたということだけ」 フィルニアが黒い扉を見る。「だったら、何で今になって出てきた?」「分からない」「何年も動かなかったのに」 女性の声が震える。「今日になって突然……」 ゴン。 その時。 黒い存在が一歩前へ出た。 兵士達が一斉に武器を構える。「止まれ!」 黒い存在は止まらない。「撃て!」 弓が放たれた。 矢が黒い身体へ突き刺さる。 しかし。 傷口から黒い霧が噴き出すだけで、倒れる様子はない。「効いてない!」 兵士の一人が叫ぶ。 黒い存在が腕を上げる。 その瞬間。 廊下の壁から黒い亀裂が走った。 バキッ! 石壁が崩れ落ちる
朝。 湖を包んでいた霧が、ゆっくりと晴れていく。 水面には薄い光が差し込み、昨日まで見えていなかった対岸の景色が少しずつ姿を現した。 ミーコは湖畔に立っていた。 昨夜見えた光の道は、まだ残っている。 緑色の細い線。 湖面から森の外へ伸び、その先へ続いていた。「これ……本当に道なのかな」 ミーコが呟く。「少なくとも、普通の道ではないな」 フィルニアが隣から答える。「俺様達が歩くと、ちゃんと光が前へ伸びていく」 試しに一歩踏み出す。 光の線が少しだけ明るくなった。 もう一歩。 また先へ伸びる。「面白いな」 フィルニアが笑う。「歩けってことだろ」『そうみたい』 ミーコも頷いた。 森精族達は少し離れた場所から二人を見ている。 案内してくれた女性が近付いてきた。「ここから先は、私達の村へ戻る道とは違うわ」「西方都市へ向かうなら、この道を使うといい」「どのくらいかかりますか?」「歩きなら半日ほど」 ミーコは頷く。「ありがとうございます」「こちらこそ」 女性はミーコの手を取った。「森を守ってくれてありがとう」「私は何も……」「あなたが木へ触れたことで、眠っていた道が開いた」「それだけでも、この森にとっては大きなことよ」 ミーコは少し照れたように笑った。「じゃあ……また来てもいいですか?」「いつでも」 フィルニアが横から口を挟む。「俺様もな」「あなたは少し静かにしていなさい」「なんで俺様だけ!」 森精族達から小さな笑いが起きた。 久しぶりに聞いた笑い声だった。 ミーコはその光景を見つめる。 昨日まで知らなかった人達。 けれど。 別れるとなると、少し寂しかった。「行こう」 フィルニアが言った。「ああ」 二人は森を抜ける。 緑の光に導かれるように。 西へ向かって歩き始めた。 ◇ 森を出ると。 景色が一気に変わった。 木々が途切れ、なだらかな丘が続いている。 遠くには白い城壁。 その向こうへ無数の塔が伸びている。 昨日、湖面に映っていた都市だった。 だが。 実際に目の前へすると、その大きさは想像以上だった。「でかいな……」 フィルニアが呟く。「王都より大きいかも」 ミーコも目を見張る。 城壁の外側にはいくつもの街道が伸び、商隊が行き交っ
朝の森には、薄い霧が残っていた。 木々の間から差し込む陽射しが白い靄を照らし、葉の一枚一枚に残った露がきらきらと輝いている。 ミーコは古い集会所の中に立っていた。 床に刻まれた紋様は、もう光っていない。 けれど。 壁へ伸びていた緑色の光の線だけは、まだ消えていなかった。 細い光。 それは壁を抜け、森の奥へ向かっている。「この先に……フィルちゃんがいる」 ミーコは小さく呟いた。「そう言ったんだよね」 返事はない。 あの声は、もう聞こえなかった。 森精族の女性が、光の線をじっと見つめている。「私達には何も見えないわ」「え?」「あなたには見えているのね」 ミーコは頷く。「はい」「なら、案内してもらうしかなさそうね」 女性が弓を背負い直した。「行きましょう」 ミーコは扉の外へ出る。 森の空気を吸い込む。 昨日までの不安とは少し違っていた。 仲間達の姿は見えない。 声も届かない。 それでも。 完全に離れてしまったわけではない。 そんな気がしていた。 ◇ 一方。 森の反対側。 フィルニアは村の広場に立っていた。 周囲には森精族の村人達が集まっている。 皆、どこか不安そうな顔をしていた。「黒い光が出るようになったのは、いつからだ?」 フィルニアが尋ねる。 老人が腕を組む。「三日前だ」「最初は森の奥で、小さな光が見えただけだった」「次の日には村の近くまで来た」「そして昨日」 老人が言葉を止める。「一人の旅人が森へ入った」「戻ってきたのか?」「……戻ってこなかった」 フィルニアは黙り込んだ。 持っていた干し肉を口へ運ぶ気にもならない。「何か手掛かりは?」 リーナが聞く。 老人は首を横に振った。「ただ」「森の北側にある古い道が、昨日から光っている」 フィルニアの目が変わる。「古い道?」「昔、森の集会所へ繋がっていた道だ」「今は使われていない」「それが光ってるのか?」「そうだ」 フィルニアは立ち上がった。「そこへ行こう」「待って」 リーナが止める。「まだ朝だよ」「朝だからいいんだ」「夜まで待つ理由がない」「でも危険かもしれない」 フィルニアは少し考える。「だったら、なおさら行く」「俺様はミーコを探さなきゃならない」 その言葉を聞
光が消えた。 何も見えない。 何も聞こえない。 ただ身体だけが、どこまでも落ちている。「――っ!」 ミーコは反射的に手を伸ばした。 誰かの手を探す。 フィルニア。 トシオ。 ミツコ。 タマ。 ユキ。 けれど、指先には何も触れない。「フィルちゃん!」 声を張り上げる。 返事はない。 どこまでも続く暗闇の中を、自分だけが落ちているようだった。 その瞬間。 遠くに小さな光が見えた。 それは徐々に大きくなっていく。 ミーコは目を細める。 光の向こうに何かがある。 山。 森。 そして――巨大な大地。「……え?」 落下していた身体が急に止まった。 次の瞬間。「きゃああああああっ!」 身体が勢いよく放り出された。 ドサッ!!「いったぁ……」 柔らかな草の上へ落ちる。 しばらく動けなかった。 頬へ草が触れている。 風が髪を揺らす。 鳥の声が聞こえる。「……生きてる」 ミーコはゆっくり身体を起こした。 周囲を見渡す。 見知らぬ森。 見知らぬ空。 そして。「フィルちゃん?」 返事はない。 ミーコは立ち上がった。「フィルちゃん!」 今度は少し大きな声を出す。 鳥達が木々から飛び立つ。 だが、人の声は返ってこなかった。「……どこ?」 ミーコの胸がざわつく。 さっきまで一緒だった。 ほんの少し前まで、同じ橋にいた。 それなのに。 今は自分一人。 ミーコは両手を握り締めた。「大丈夫」 自分へ言い聞かせる。「フィルちゃんも、みんなも……きっと無事」 そう言ってみたものの。 胸の奥に残った不安は消えなかった。 ◇ 同じ頃。 森の少し離れた場所。 巨大な木の根元へ、フィルニアが転がっていた。「……」 目を開く。 空が見えた。「……ここ、どこだ?」 ゆっくり起き上がる。 周囲には木々。 鳥の声。 遠くから水の流れる音。「ミーコ?」 立ち上がる。「おーい!」 返事はない。「ミーコー!」 もう一度叫ぶ。 やはり何も返ってこない。 フィルニアは頭を掻いた。「……まいったな」 いつもの軽い口調だった。 しかし。 その表情には少しだけ不安が浮かんでいた。「タマ達もいない」 橋で何が起きたのか。 思い出そうとする。 黒
街道を吹き抜ける風は穏やかだった。 丘の上では風車がゆっくりと回り、黄金色の麦畑が波のように揺れている。 荷馬車は西へ向かい、のんびりと街道を進んでいた。「いい天気だなぁ」 フィルニアが荷台へ寝転がりながら空を見上げる。『寝てばかりだな』 タマが苦笑する。「寝てない」『目を閉じてるだけか?』「そうだ」『それを寝てるって言うんだ』 ミーコとユキが思わず笑った。 その笑い声を聞きながら、トシオは手綱を握る。 ミツコは隣で景色を眺めていた。「平和だねぇ」「ああ」 短い返事。 それでも二人には十分だった。 旅は順調だった。 少なくとも、その時までは。 昼を過ぎた頃。 街道脇に、一基の古びた石碑が建っていた。 高さは人の背丈ほど。 長い年月を経て風化し、文字もほとんど読めない。 その石碑を見た瞬間。 トシオの視線が止まる。「……」「どうしたのぉ?」 ミツコが尋ねる。「いや」 トシオは首を横へ振った。「何でもない」 荷馬車はそのまま石碑を通り過ぎる。 だが。 誰にも気付かれないまま。 石碑の亀裂が淡く黒く光った。 さらに街道を進む。 旅人達とも何度かすれ違った。 商隊。 吟遊詩人。 巡礼者。 誰もが穏やかな表情を浮かべている。 その中で、一人の老人が荷馬車へ近付いてきた。「旅のお方」 白い髭を蓄えた老人だった。 トシオは馬を止める。「どうされました?」「西へ向かわれるので?」「ああ」 老人は少しだけ空を見上げた。「最近、この街道では妙なことが続いております」 ミーコ達も耳を傾けた。「旅人が突然姿を消えたという話です」『姿を?』 ユキが聞き返す。「ええ」「争った形跡もなく」「荷物だけ残っていたそうです」 タマが眉をひそめる。『盗賊じゃないのか』「盗賊なら荷物を置いていきません」 老人は静かに首を振った。「噂でしかありませんが……」「道そのものが旅人を飲み込んだ、と」 フィルニアが腕を組む。「そんなことあるのか?」「誰にも分かりません」 老人は深く頭を下げた。「どうか、お気を付けください」 そう言い残し、ゆっくりと去っていった。 荷馬車が再び動き始める。 しばらく誰も口を開かなか