LOGIN「ほ、本当に?」 壱馬さんの声は、上ずって激しく震えていた。 先ほどまでの、私を部屋に引きずり込んだ強引さはすっかり影を潜め、私のたった一言の肯定の言葉に全てを懸けているかのような、あまりにも脆く儚い姿がそこにあった。 私はこれ以上彼を不安にさせまいと、彼から目を逸らすことなくしっかりと見つめ返した。 「好きですよ」 言葉にした瞬間、私の中にずっと巣食っていた重苦しい霧のようなものが、嘘のように綺麗に晴れていくのを感じた。 私は壱馬さんの背中に回していた腕にさらにきゅっと力を込め、彼の服の布地をしっかりと握りしめた。 「嘘じゃないよね。冗談でしたなんて言って、取り消したりできないよ」 私が困るようなことは決して言わなかった壱馬さんが、こんなふうになってしまうなんて。その不器用な独占欲が、私にとってはたまらなく嬉しくて、同時に愛おしくて仕方がなかった。 「嘘じゃないです」 壱馬さんを安心させるために、もう一度、今度は先ほどよりもはっきりと言葉の輪郭をなぞるように紡ぐ。 彼の瞳に浮かんでいた怯えのような色が、私の言葉を聞いてゆっくりと溶け出し、代わりに熱を帯びた強い光へと変わっていくのがはっきりと分かった。 「花澄…!」 次の瞬間、私の視界は彼の広い胸によって完全に塞がれた。先の抱擁とは全く違う、けれどそれ以上の強い力で全身をきつくきつく抱き締められる。 「壱馬さん、、苦しいです」 肋骨が軋むほどの強い抱擁に、私は思わず苦笑しながらそう呟いた。苦しいと言いながらも、私の手は自然と彼の広い背中を包み込むように回され、むしろ壱馬さんをもっと近くに感じようと密着させている。彼の力強い腕の中に閉じ込められているこの状況が、今の私にとってはこの世界で一番安全
エレベーターの中。密室特有の重苦しい空気が立ち込めていた。いつもなら優しくエスコートしてくれるはずの壱馬さんの手は、今は無言のまま私の腕を逃がさないとばかりに掴んでいる。 「壱馬さん」 恐る恐る絞り出した私の声は、無機質なモーター音にかき消されるように空しく響いた。 壱馬さんはこちらを見ようともせず、ただ前を見据えたまま何も言わない。 やがて無情にも到着を知らせる電子音が鳴り、重い扉が開かれる。 彼は私の腕を引いたまま足早に廊下を進み、家の前に着くと片手で荒々しくカバンの中から鍵を探し始めた。 「壱馬さん、怒ってますよね…」 背中に向かって投げかけた問いにも、やはり返事はなかった。 ガチャリと冷たい音を立てて鍵が開くと、彼は何も言わずに乱暴にドアノブを引き寄せる。 有無を言わさぬ強い力で手首を引っ張られ、私はよろめくようにして暗い玄関の中へと引きずり込まれた。いつもは温厚で、私のペースを何よりも尊重してくれていた壱馬さんが、こんなにも強引に私を振り回すなんて。 彼をここまで追い詰めてしまった原因は、間違いなく私にある。 「ごめんなさい。私からもちゃんと説明させ…」 重い鉄のドアがバタンと大きな音を立てて閉まり、外の光が完全に遮断された瞬間、視界がぐらりと揺れた。 言葉の続きは、ドアが閉まった瞬間に彼に強く引き寄せられた反動で、喉の奥へと飲み込まれてしまう。ドン、と彼の広い胸に顔をぶつけると同時に、背中に回された力強い腕が、私の身体を折れんばかりの強さできつく抱きしめた。 怒って突き放されると思っていたのに、予想外の行動に私の頭は真っ白になった。 「壱馬さん…?」 すると、私を締め付ける彼の腕の力が、さらに一段階強くなった。肩口にうずめられ
「あ、ごめん樹の声は、壱馬さんの放った圧倒的な威圧感と怒気とは裏腹に、驚くほど穏やかで静かだった。樹の指先が私の肩を微かにポンと叩いたように感じたのは、気のせいだったのだろうか。私を安心させようとするようなその不器用な優しさが、かえって私の胸をギュッと締め付けた。「…昔付き合ってて、今も大切な子って」壱馬さんの口から紡がれたその言葉は、まるで毒を含んだ棘のようだった。それは、いつか樹がどこかで話した私のことなのだろうか。どうしてそれを壱馬さんが知っているのかは分からないけれど。「うん。花澄のことだよ」樹は壱馬さんの刺すような視線から少しも逃げることなく、はっきりと、迷いのない声で私の名前を口にした。その響きは、私たちが共に過ごしたあの温かくて愛おしかった数年間を、この場で堂々と肯定しているかのようだった。「そうだったんだ」 先ほどまでの激情が嘘のように、壱馬さんの声からスッとあらゆる感情が抜け落ちた。抑揚のない、機械的でさえあるその冷酷なトーンは、怒鳴られるよりも何倍も恐ろしく、私の心臓の鼓動を不規則に早まらせる。「気持ち悪いおじさんだって聞いてたのに、まさか壱馬だったとは」樹の口元には少しだけ悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。かつて、壱馬さんとのお見合いが決まった時にお姉様が言った言葉だった。謎が多い気持ち悪いおじさんだって。実際は全然違かった。誰もがハッとするほど端正な顔立ちをしていて、優しく温かい人だった。「俺そんなふうに言われてたんだ」ゆっくりと、壱馬さんの視線が樹から私の方へと移された。その瞳の奥を覗き込んだ瞬間、私の心臓は冷たい手で鷲掴みにされたようにギュッと収縮した。そこに宿っていたのは、怒りよりも、哀蔑と自嘲だった。「えっと…お二人はどういったご関係なんですか?」どうにかしてこの息の詰まるような空気を変えなければならないと、必死の思いで口を開いた。
「壱馬さん、」目の前が真っ白になる。最悪のタイミング。樹の腕の中に収まったまま、私は金縛りにあったように動けない。壱馬さんの低い、地を這うような声が鼓膜を震わせ、心臓が跳ね上がる。「何してるの」冷たい声に、心臓がギュッと締め付けられた。壱馬さんの瞳には、いつも私に向ける柔らかな光は微塵も残っていない。ただ静かに、射抜くような鋭さで私を捉えている。その視線の冷たさに、体温がみるみる奪われていくのを感じる。「違っ、これは」慌てて樹さんの胸を押し返し、物理的な距離を作ろうともがく。けれど、動揺で指先が震え、言葉が喉に張り付いてうまく出てこない。裏切るつもりなんて毛頭なかったのに、この状況をどう説明すればいいのか、頭の中がパニックで真っ白に染まっていく。「俺には抱きしめあってるようにしか見えないけど」突き放すような物言いに、言いようのない絶望感が襲う。確かに、傍目にはどう言い逃れもできないほど、私たちは密着していた。疑われても仕方がない、自業自得だ。でも、それでも。「これには訳が」必死に声を振り絞るけれど、喉が引き攣ってうまく音にならない。お互い、新しい一歩を歩むために。過去に区切りをつけて、友達として最後のお別れをしていたところなんです。……なんて、心の中で繰り返す言葉が虚しい言い訳にしか聞こえないことは、自分が一番よく分かっていた。抱きしめ合っていたという視覚的な事実は、どんなに美しい言葉で飾っても、壱馬さんの瞳には裏切りとして映っているに違いない。けれど、誤解されたままは、どうしても耐えられなかった。「すみません。私が無理を言って…え」私の窮地を察し、樹が私を守るようにゆっくりと振り返った。その瞬間、樹の言葉が物理的に遮られたように止まった。「樹?」壱馬さんの声から、先ほどまでの刺々しい怒り
「家まで送ってくれなくて良かったのに」カフェで別れていれば、こんな風に胸の奥がザワつくこともなかったはずなのに。「俺が送ってあげたかったの 」その言葉の響きに、思わず足を止めそうになった。でも、これは愛じゃない。かつてお互いを一番に想い、そして苦しみ抜いて別れを選んだ者同士が持つ、腐れ縁のような情だ。「ありがとう」絞り出すように答えた一言は、午後の乾いた空気に溶けていった。私は視線を足元に落とし、自分の影が樹の影と付かず離れず並んでいる様子をじっと見つめた。もう二度と、こうして二人きりで歩くことはない。その残酷な終止符を、ありがとうという短い言葉で打つしかなかった。「…着いた。ここだよ」私たちは目的地に辿り着いてしまった。昼間の明るい光に照らされたマンションのエントランスは、逃げ場がないほど鮮明に日常の終わりを告げている。「じゃ…元気でね」その一言に込められた、彼なりの終わりを感じ取った。互いの未来を祈り合う、あまりにも静かで、あまりにも痛々しい決別の合図。「うん。樹も」私の名前を呼ぶ彼の声が、風のように柔らかく、けれど永遠の別れを告げる鐘のように重く響いた。昼間の明るさが、そのやりきれなさをいっそう際立たせていた。「…花澄」青空の下で、彼の瞳が揺れているのが見えた。何かを言おうとして唇を震わせ、それでも言葉を探している。「ん?」努めて冷静に、けれど微かに震える喉を抑えながら聞き返した。耳元で、自分の鼓動が早鐘のように鳴り響く。「最後に抱きしめてもいい?」その言葉は、明るい日差しの中で、あまりにも切実に響いた。「え?」驚いて声を上げたけれど、本当は私だって、こうでもしなければ本当のさよならができないことを悟っていた。肯定も否定もできず、私はただ目を見開いて立ち尽くす。彼が提示した、最後の願
「花澄……」樹の口から漏れた私の名前は、ひどく掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。「本当にごめんなさい。我儘だけど、理解して欲しい、です」絞り出した声は情けないほどに震えていた。謝罪を口にすればするほど、自分の身勝手さがどこまでも浮き彫りになっていく。理解してほしいなんて、傷つけた相手にこれ以上の思いやりを要求するなんて、本当に救いようのない我儘だ。それでも、中途半端な優しさを見せて樹を縛り続けることだけはしたくなかった。「…探してみるよ。花澄のいない世界で、幸せに生きれる方法を」その言葉に、心臓が大きく跳ねた。樹が私という存在を心から消し去って、新しい一歩を踏み出そうとしてくれていることが、途方もなく嬉しかった。「私が言えることじゃないって分かってるけど、ちゃんと幸せになって欲しい」 樹には、私のような身勝手な人間のせいで流させた涙の分まで、それ以上の笑顔と穏やかな時間で満たされてほしい。私のいない場所で、私以上に彼を大切にしてくれる誰かと出会ってほしい。「花澄も、ちゃんと幸せになってね」樹は最後まで、不器用なほどに優しかった。私の選んだ道が幸せへと繋がっていることを祈ってくれている。樹の優しさを無駄にしないためにも、私は私が選んだ道で、不幸になってはいけないのだと自分に言い聞かせた。「ありがとう」短く、けれどありったけの感情を込めて。本当はもっと言いたいことがたくさんあった。「ごめんね」も「好きだったよ」も、全てをひっくるめて、この四文字に託すしかなかった。「その人の隣で、今までできなかったこと全部、飽きるまでやりなよ」樹は、私のこれからを肯定してくれた。私の我儘を、これから始まる新しい生活を、全て包み込むように認めてくれた。「うん」「その人と、仲良くね」必死に堪えている樹の本当の感情が、痛いほどに伝わってくる。限界まで張り詰めた心の糸を、彼は私のためにギリ
「だめ?」壱馬様の声は、少しだけ甘えているようだった。そんな風に言われたら、断れるわけがない。「私ができることなら…」言いながら、視線をそっと伏せた。顔が熱くて、壱馬様の目を見られなかった。でも、心の中では、何を言われても受け止めたいと思ってた。それくらい、彼の存在が大きくなっていた。沈黙が落ちる。空気が、ふっと静かになる。鼓動の音だけが、耳の奥で響いていた。そして─────「俺のこと、壱馬
「か、帰りましょう」言った瞬間、自分の声が自分のものじゃないみたいに震えて聞こえた。これ以上ここにいたら、きっと心が持たない。壱馬様の声も、視線も、全部が近すぎて、触れたら壊れてしまいそうで。「えぇ〜花澄が止めたくせに」その軽い調子の声が、胸の奥にじんわりと広がる。責めているわけじゃない。むしろ、からかうような、甘えるような声。確かに止めたのは私だ。もっと話したかった。あのときはただ、その気持ちだけで動いていた。
言いながら、視線は膝の上に落ちていた。顔を上げる勇気がなかった。でも、言葉だけは、どうしても伝えたかった。壱馬様の隣にいる彼女が、あまりにも自然で、その姿が、自分には到底届かないものに見えてしまった。その痛みがずっと胸の奥に残っていた。「それって、」壱馬様の声が、少しだけ低くなった。問いかけるようで、でもどこか確かめるような、そんな声。「自分と比べてしまって、情けなくなって…どうしても、苦しくなってしまったんです」
「え?元気ですよ、?」慌てて返した声は、思った以上に上ずっていた。言葉の選び方も、口調も、どこか不自然で。自分でも、嘘っぽいと思ってしまうほどだった。笑顔を作ろうとしたけれど、頬がこわばってうまく動かない。「嘘。さっきから顔がこわばってるし、目も合わない」その指摘に、思わず息を呑んだ。何もなかったふりをしていたのに、彼の目には映っていた。誰かに心を覗かれることが、こんなにも緊張するなんて。「それは…」