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第1話

Author: Hayama
last update Last Updated: 2025-12-26 12:15:39

「こんな不味いご飯は食べられないわ!」

甲高く響いた声が、食卓の空気を一瞬で凍らせた。

お姉様の手が振り下ろされ、陶器の皿がテーブルから弾け飛ぶ。

カラン、と乾いた音を立てて床に落ちた皿は、無惨に割れ、炊きたてのご飯が畳の上に散らばった。

味噌汁の椀も倒れ、汁がじわりと染み広がっていく。

私は反射的に膝をつき、こぼれた食べ物を拾い集め始めた。

指先が熱い汁に触れても、痛みを感じる余裕はなかった。

ただ、これ以上怒らせてはいけないという思いだけが、私の体を動かしていた。

「申し訳ございません…」

声はかすれていた。

喉の奥がひりつくほど乾いていたけれど、なんとか言葉を絞り出した。

床に散らばったご飯を、一粒ずつ、指先で拾い上げる。

誰にも必要とされていない私が、それでもここにいるという証を、必死に掻き集めるように。

「味が濃いと前にも言ったでしょ!?この役立たず!」

お姉様の怒声が、背中に突き刺さる。

前は味が薄いと怒られた。だから、少しでも美味しくなるようにと、調味料を増やした。

それが、また裏目に出た。

「はい。すみません」

それ以上、何も言えなかった。

言い返す言葉なんて、とうに持ち合わせていない。

反論すれば、もっとひどい言葉が返ってくるだけだと知っているから。

それに、どこかで自分が悪いのかもしれないと、思ってしまう自分がいる。

そのことが、何よりも情けなくて、やるせなかった。

「分かったならさっさと作り直してきなさい」

お姉様は私の方を一瞥することもなく、冷たく言い放った。

その言葉には、感情のかけらもなかった。

「はい」

私は立ち上がり、配膳を抱えて部屋を出た。

背筋を伸ばして歩こうとするけれど、足元がふらつく。

それでも、泣くわけにはいかない。

この家では、私に人権なんてものはないのだから。

この家は、お姉様がすべてだった。

父も母も、いつだってお姉様の味方だった。

私は、ただの影。

いてもいなくても変わらない存在。

いや、むしろ邪魔者として扱われていた。

お姉様は何でもできる。

美しくて、頭が良くて、誰からも愛される。

一方の私は、料理ひとつまともに作れない。

比べられるたびに、私はどんどん小さくなっていった。

どれだけ理不尽に怒鳴られても、どれだけ傷つけられても、両親は見て見ぬふりをするだけだった。

廊下に出たそのとき、不意に背後から声がした。

「花澄」

その声に、私は思わず立ち止まった。

背後から聞こえたその響きは、どこまでも優しくて、けれど胸の奥を鋭く突くようだった。

振り返ると、廊下の向こうに樹様が立っていた。

「樹様…」

彼はゆっくりと歩み寄り、私の手元にある配膳に目を落とした。

ぐちゃぐちゃになった料理、割れた器、こぼれた汁の染み。

それを見ても、彼は眉ひとつ動かさず、ただ静かに言った。

「また美咲が嫌がらせを?」

その言葉には、怒りというよりも、深いため息のような響きがあった。

状況そのものに対する諦めと、苛立ちが滲んでいた。

「私の出来が悪くて…」

そう言って、私は苦笑いを浮かべた。

けれど、それは笑顔とは程遠いものだった。

唇の端だけを引き上げたその表情は、自分でも見たくないほど歪んでいたと思う。

樹様は、私の言葉に眉をひそめた。

その表情が、胸に刺さる。

私のために怒ってくれる人なんて、彼しかいない。

「ちょっと待ってて、俺が一言言ってくるから」

そう言って、彼は踵を返そうとした。

私は慌てて手を伸ばし、彼の袖を掴んだ。

「私なら大丈夫です」

声が震えていた。

止めなければ。彼が動けば、またお姉様の怒りを買ってしまう。

その矛先が彼に向かうことはないと分かっていても、私のせいで彼が嫌な思いをするのが、何よりも怖かった。

樹様は立ち止まり、私の方を振り返った。

そして、何も言わずに、私の手元の配膳に視線を落とすと、

ぐちゃぐちゃになった料理の中から一口、手でつまんで口に運んだ。

「俺は美味しいと思うけど…」

その一言に、胸がぎゅっと締めつけられた。

「汚いですから、食べないでください」

ようやく絞り出した声は、かすれていた。

「汚くなんてないよ。それ貸して」

そう言って、彼は私の手から配膳をそっと受け取った。

そのとき、彼の指先が私の手に触れた。

ほんの一瞬だったのに、その温もりが、心の奥まで染み込んでくるようだった。

「樹様、私が…」

慌てて言いかけた私に、彼は微笑みながら首を振った。

その笑顔は、昔と変わらない。

けれど、今の私には、まぶしすぎた。

「いいから」

その一言に、私は何も言えなくなった。

彼の手の中で、配膳が静かに揺れていた。

「いえ、私が怒られてしまいますので」

私は彼を見上げた。

けれど、彼の表情は変わらなかった。

「いいよ。俺が持ちたくて持ってるだけだから。誰も怒らないよ」

こんなふうにされると、期待してしまいそうになる。

ありもしない未来を、夢見てしまいそうになる。

「樹様…そんなに優しくしないでください」

声が震えた。

優しくされるたびに、心が軋む。

届かないと分かっているのに、手を伸ばしたくなってしまうから。

「…そうやって呼ばないでよ。距離を置かれてるみたいで嫌なんだ」

彼の声は、少しだけ拗ねたような響きを帯びていた。

けれど、その奥には、確かな真剣さがあった。

私はその眼差しから目を逸らすことができなかった。

「距離を置くもなにも…私たちは離れすぎています。樹様はもう、私の手が届くような場所にはいませんから」

そう言った瞬間、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。

自分で言った言葉なのに、まるで刃のように心に刺さった。

「昔は手の届く距離にいたのに」

彼の声が、懐かしさと寂しさを含んで響いた。

あの頃の記憶が、ふいに蘇る。

笑いあった日々。

小さな秘密を分け合った時間。

あのときは、確かに隣にいた。

手を伸ばせば、すぐそこにいた。

「今は違います」

私は静かに言った。

その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。

忘れなければいけない。

忘れようとした。

けれど、どうしても忘れられなかった。

樹様といるときだけは、お姉様のことも、この家のことも、全部忘れられた。

あの時間だけが、私にとっての救いだった。

あの頃は、本当に幸せだった。

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  • その魔法が解ける前に   プロローグ

    「口説いてるんだよ」 彼の声は低く、けれどどこか柔らかくて、朝の静けさに溶け込むように響いた。 カーテンの隙間から差し込む光が、彼の輪郭を淡く照らしている。 まるで夢の中のようだった。 「口説く、って……どうして、ですか」 私は思わず問い返していた。 自分の声が少し震えているのが分かった。 けれど、彼の瞳から目を逸らすことができなかった。 「花澄のことが、好きだから」 その言葉は、まるで春の陽だまりのように、私の胸の奥にじんわりと染み込んでいった。 彼は一歩、また一歩と、ゆっくり私の方へ歩み寄ってくる。 足音はほとんど聞こえないのに、彼の存在だけがどんどん大きくなっていくようだった。 心臓が早鐘のように鳴り響き、頬が熱を帯びていくのを感じた。息をするのも忘れそうだった。 私は、ずっと思っていた。 私には人権なんてないのだと。 この先もずっと、父の命令に従い、姉の顔色をうかがいながら生きていくのだと。 自分の意思なんて、望むことすら許されない。 でも、壱馬様が現れてから、私の世界は少しずつ変わっていった。 彼は、私に特別をくれた。 私の名前を、まるで宝物のように呼んでくれて、私の話を最後まで遮らずに聞いてくれた。 彼の優しい言葉と、あたたかな微笑みが、私の冷えきった心を少しずつ溶かしていった。 彼の隣にいると、世界が少しだけ優しく見えた。 これからは…私も幸せになれるんじゃないかって。 そんな希望が、心の奥に小さな灯をともした。 でも、その灯は、風が吹けばすぐに消えてしまいそうで。 怖かった。 私は何も持っていない。 学もない。美しさもない。誰かに誇れるようなものなんて、ひとつもない。 壱馬様のような人が、どうして私なんかを好きになってくれるのか、分からなかった。 もし、彼の気持ちが変わってしまったら。 もし、私が彼の期待に応えられなかったら。 そんな不安が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。 …やっぱり、上手くはいかないみたい。 私が幸せになるなんて、無理だったんだ。

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