LOGIN「こんな不味いご飯は食べられないわ!」
甲高く響いた声が、食卓の空気を一瞬で凍らせた。 お姉様の手が振り下ろされ、陶器の皿がテーブルから弾け飛ぶ。 カラン、と乾いた音を立てて床に落ちた皿は、無惨に割れ、炊きたてのご飯が畳の上に散らばった。 味噌汁の椀も倒れ、汁がじわりと染み広がっていく。 私は反射的に膝をつき、こぼれた食べ物を拾い集め始めた。 指先が熱い汁に触れても、痛みを感じる余裕はなかった。 ただ、これ以上怒らせてはいけないという思いだけが、私の体を動かしていた。 「申し訳ございません…」 声はかすれていた。 喉の奥がひりつくほど乾いていたけれど、なんとか言葉を絞り出した。 床に散らばったご飯を、一粒ずつ、指先で拾い上げる。 誰にも必要とされていない私が、それでもここにいるという証を、必死に掻き集めるように。 「味が濃いと前にも言ったでしょ!?この役立たず!」 お姉様の怒声が、背中に突き刺さる。 前は味が薄いと怒られた。だから、少しでも美味しくなるようにと、調味料を増やした。 それが、また裏目に出た。 「はい。すみません」 それ以上、何も言えなかった。 言い返す言葉なんて、とうに持ち合わせていない。 反論すれば、もっとひどい言葉が返ってくるだけだと知っているから。 それに、どこかで自分が悪いのかもしれないと、思ってしまう自分がいる。 そのことが、何よりも情けなくて、やるせなかった。 「分かったならさっさと作り直してきなさい」 お姉様は私の方を一瞥することもなく、冷たく言い放った。 その言葉には、感情のかけらもなかった。 「はい」 私は立ち上がり、配膳を抱えて部屋を出た。 背筋を伸ばして歩こうとするけれど、足元がふらつく。 それでも、泣くわけにはいかない。 この家では、私に人権なんてものはないのだから。 この家は、お姉様がすべてだった。 父も母も、いつだってお姉様の味方だった。 私は、ただの影。 いてもいなくても変わらない存在。 いや、むしろ邪魔者として扱われていた。 お姉様は何でもできる。 美しくて、頭が良くて、誰からも愛される。 一方の私は、料理ひとつまともに作れない。 比べられるたびに、私はどんどん小さくなっていった。 どれだけ理不尽に怒鳴られても、どれだけ傷つけられても、両親は見て見ぬふりをするだけだった。 廊下に出たそのとき、不意に背後から声がした。 「花澄」 その声に、私は思わず立ち止まった。 背後から聞こえたその響きは、どこまでも優しくて、けれど胸の奥を鋭く突くようだった。 振り返ると、廊下の向こうに樹様が立っていた。 「樹様…」 彼はゆっくりと歩み寄り、私の手元にある配膳に目を落とした。 ぐちゃぐちゃになった料理、割れた器、こぼれた汁の染み。 それを見ても、彼は眉ひとつ動かさず、ただ静かに言った。 「また美咲が嫌がらせを?」 その言葉には、怒りというよりも、深いため息のような響きがあった。 状況そのものに対する諦めと、苛立ちが滲んでいた。 「私の出来が悪くて…」 そう言って、私は苦笑いを浮かべた。 けれど、それは笑顔とは程遠いものだった。 唇の端だけを引き上げたその表情は、自分でも見たくないほど歪んでいたと思う。 樹様は、私の言葉に眉をひそめた。 その表情が、胸に刺さる。 私のために怒ってくれる人なんて、彼しかいない。 「ちょっと待ってて、俺が一言言ってくるから」 そう言って、彼は踵を返そうとした。 私は慌てて手を伸ばし、彼の袖を掴んだ。 「私なら大丈夫です」 声が震えていた。 止めなければ。彼が動けば、またお姉様の怒りを買ってしまう。 その矛先が彼に向かうことはないと分かっていても、私のせいで彼が嫌な思いをするのが、何よりも怖かった。 樹様は立ち止まり、私の方を振り返った。 そして、何も言わずに、私の手元の配膳に視線を落とすと、 ぐちゃぐちゃになった料理の中から一口、手でつまんで口に運んだ。 「俺は美味しいと思うけど…」 その一言に、胸がぎゅっと締めつけられた。 「汚いですから、食べないでください」 ようやく絞り出した声は、かすれていた。 「汚くなんてないよ。それ貸して」 そう言って、彼は私の手から配膳をそっと受け取った。 そのとき、彼の指先が私の手に触れた。 ほんの一瞬だったのに、その温もりが、心の奥まで染み込んでくるようだった。 「樹様、私が…」 慌てて言いかけた私に、彼は微笑みながら首を振った。 その笑顔は、昔と変わらない。 けれど、今の私には、まぶしすぎた。 「いいから」 その一言に、私は何も言えなくなった。 彼の手の中で、配膳が静かに揺れていた。 「いえ、私が怒られてしまいますので」 私は彼を見上げた。 けれど、彼の表情は変わらなかった。 「いいよ。俺が持ちたくて持ってるだけだから。誰も怒らないよ」 こんなふうにされると、期待してしまいそうになる。 ありもしない未来を、夢見てしまいそうになる。 「樹様…そんなに優しくしないでください」 声が震えた。 優しくされるたびに、心が軋む。 届かないと分かっているのに、手を伸ばしたくなってしまうから。 「…そうやって呼ばないでよ。距離を置かれてるみたいで嫌なんだ」 彼の声は、少しだけ拗ねたような響きを帯びていた。 けれど、その奥には、確かな真剣さがあった。 私はその眼差しから目を逸らすことができなかった。 「距離を置くもなにも…私たちは離れすぎています。樹様はもう、私の手が届くような場所にはいませんから」 そう言った瞬間、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。 自分で言った言葉なのに、まるで刃のように心に刺さった。 「昔は手の届く距離にいたのに」 彼の声が、懐かしさと寂しさを含んで響いた。 あの頃の記憶が、ふいに蘇る。 笑いあった日々。 小さな秘密を分け合った時間。 あのときは、確かに隣にいた。 手を伸ばせば、すぐそこにいた。 「今は違います」 私は静かに言った。 その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。 忘れなければいけない。 忘れようとした。 けれど、どうしても忘れられなかった。 樹様といるときだけは、お姉様のことも、この家のことも、全部忘れられた。 あの時間だけが、私にとっての救いだった。 あの頃は、本当に幸せだった。「そうみたいって、そんな人と結婚させられるかもしれないんだよ?」 樹様の声が、少しだけ強くなった。 その怒りは、私のためのものだった。 彼の優しさが、私を縛る。 逃げたいのに、逃げられない。 彼の言葉に応えたい気持ちと、応えてはいけないという理性が、胸の中でせめぎ合っていた。 「覚悟は…していたので」 私は小さく息を吐きながら、そう答えた。 いつか、いつかこんな日が来ると。 覚悟していたはずなのに、心はまだ抗おうとしていた。 ほんのわずかでも、奇跡を信じていた自分がいたことに気づいて、私はそっと唇を噛んだ。 痛みで、余計な感情を押し込めるように。 「そんなのダメだよ。破談にするべきだって俺が──」 彼の言葉が、私の心を大きく揺さぶった。 その真っ直ぐな想いが、私の胸に突き刺さる。 けれど、私はそれを受け止めることができなかった。 彼が動けば動くほど、彼が傷つく。 もう、終わったことなのに。 私のために、これ以上、傷つかないで。 「それはいけません」 私は、思わず彼の言葉を遮っていた。 自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。 私の中にある最後の理性が、彼を守ろうとした結果だった。 これ以上、彼に踏み込ませてはいけない。 私のために、彼が傷つくのはもう見たくなかった。 彼が声を上げれば上げるほど、この家の怒りは彼に向かう。 それが、どれほど危ういことか、私は誰よりもよく知っていた。 「どうして…」 樹様の声が、かすかに震えていた。 その響きに、胸が締めつけられる。 彼の目が、まっすぐに私を見ていた。 「頼んでみたところで何も変わりません。それどころか父を刺激すると、樹様がここにはいられなくなってしまいます」 私は、できるだけ冷静に言葉
「花澄、お前に縁談がきている」お父様の言葉に、私は心が凍りついた。まるで、冬の朝に薄く張った氷の上を、突然誰かに踏み抜かれたような感覚だった。胸の奥が、ひやりと冷たくなる。息を吸うのも忘れて、私はただその言葉を反芻した。縁談。その二文字が、私の未来を一瞬で塗り替えていく。まさか、こんなふうに、何の前触れもなく、運命が決まってしまうなんて。…どこかで分かっていたのかもしれない。それでも、どこかで願っていた。せめて、もう少しだけ自由でいられたらと。せめて、自分の気持ちに正直でいられる時間が、あと少しだけでもあったならと。でも、そんな願いは、やはり甘えだったのだろう。「あら、良かったじゃない」お姉様の声が、わざとらしく明るく響いた。その笑みは、口元だけが動いていて、目はまったく笑っていなかった。むしろ、冷たい光を宿したその瞳は、私の反応を楽しんでいるようにさえ見えた。お姉様はいつもそうだった。私が困っているときほど、よく笑う。もう慣れていた。この家で生きるには、痛みにも慣れなければならない。「そうですか」私は感情を押し殺して答えた。声が震えないように、喉の奥に力を込める。目を伏せ、まつげの影に表情を隠す。拒絶を口にしたところで、何も変わらない。「嫁ぎ先は東条家の所だ」お父様の言葉に、私は思わず顔を上げてしまった。東条家といえば、名家ではあるけれど、どこか得体の知れない噂が絶えない家。その家に、私が嫁ぐ?なぜ、私が…そんな疑問が頭の中をぐるぐると
「俺のせいだよな。俺は花澄と別れたこと、後悔してるよ」ずっと閉じ込めていた感情が、ふいに呼び起こされる。あのとき、何も言えなかった自分を思い出す。別れを告げたのは私だった。でも、それは私の意思ではなかった。彼を、守りたかった。「これ以上、二人きりでいるのはよくありません」声を潜めながらも、必死に冷静を装った。けれど、心の中では警鐘が鳴り響いていた。こんな話がお姉様の耳に入ったら…。「正直、今でもやり直せると思ってる。いっそのこと、二人で駆け落ちしようよ」その言葉に、息が止まりそうになった。夢のような響きだった。誰にも邪魔されず、彼とふたりで生きていける世界。そんな未来を、何度も想像したことがある。けれど、それは夢でしかない。現実は、そんなに優しくない。逃げたところで、きっとすぐに見つかる。お姉様は、そういう人だ。どんな手を使ってでも、私たちを引き裂こうとする。その執念深さを、私は誰よりも知っている。「樹様…」名前を呼ぶ声が、かすかに震えた。心の奥では、彼の言葉に応えたい気持ちが渦巻いていた。でも、現実を知っているからこそ、踏み出せない。夢を見てはいけない。希望を抱けば抱くほど、失ったときの痛みは深くなる。私はそれを、もう何度も味わってきた。「樹様なんて言わないで、前みたいに樹って呼んでよ」彼の声が、どこか寂しげだった。私だって、そう呼びたい。昔のように名前を呼んで、手を繋いで歩きたい。でも、今の私は、あの頃の私じゃない。彼の隣に立つ資格なんて、もうない。「すみません…」それが、私にできる精一杯の返事だった。彼の視線が、まっすぐに私を見つめていた。その眼差しが、心の奥を揺さぶる。「俺は、まだ花澄のことが──」その声が、かすかに震えていた。彼の想いが言葉になる前に、空気が凍りついた。「あら、二人でコソコソ、何のお話をしているのかしら」冷たい声が、私たちの間に割り込んできた。その声を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。振り返ると、そこにはお姉様が立っていた。その視線は氷のように冷たく、私たちを射抜いていた。「…お姉様」声がうわずった。心臓が、早鐘のように打ち始める。手のひらが汗ばみ、足元がふらつく。逃げ場は、どこにもなかった。「まさか浮気でもしてるんじゃないでしょうね」その場
「こんな不味いご飯は食べられないわ!」甲高く響いた声が、食卓の空気を一瞬で凍らせた。お姉様の手が振り下ろされ、陶器の皿がテーブルから弾け飛ぶ。カラン、と乾いた音を立てて床に落ちた皿は、無惨に割れ、炊きたてのご飯が畳の上に散らばった。味噌汁の椀も倒れ、汁がじわりと染み広がっていく。私は反射的に膝をつき、こぼれた食べ物を拾い集め始めた。指先が熱い汁に触れても、痛みを感じる余裕はなかった。ただ、これ以上怒らせてはいけないという思いだけが、私の体を動かしていた。「申し訳ございません…」声はかすれていた。喉の奥がひりつくほど乾いていたけれど、なんとか言葉を絞り出した。床に散らばったご飯を、一粒ずつ、指先で拾い上げる。誰にも必要とされていない私が、それでもここにいるという証を、必死に掻き集めるように。「味が濃いと前にも言ったでしょ!?この役立たず!」お姉様の怒声が、背中に突き刺さる。前は味が薄いと怒られた。だから、少しでも美味しくなるようにと、調味料を増やした。それが、また裏目に出た。「はい。すみません」それ以上、何も言えなかった。言い返す言葉なんて、とうに持ち合わせていない。反論すれば、もっとひどい言葉が返ってくるだけだと知っているから。それに、どこかで自分が悪いのかもしれないと、思ってしまう自分がいる。そのことが、何よりも情けなくて、やるせなかった。「分かったならさっさと作り直してきなさい」お姉様は私の方を一瞥することもなく、冷たく言い放った。その言葉には、感情のかけらもなかった。「はい」私は立ち上がり、配膳を抱えて部屋を出た。背筋を伸ばして歩こうとするけれど、足元がふらつく。それでも、泣くわけにはいかない。この家では、私に人権なんてものはないのだから。この家は、お姉様がすべてだった。父も母も、いつだってお姉様の味方だった。私は、ただの影。いてもいなくても変わらない存在。いや、むしろ邪魔者として扱われていた。お姉様は何でもできる。美しくて、頭が良くて、誰からも愛される。一方の私は、料理ひとつまともに作れない。比べられるたびに、私はどんどん小さくなっていった。どれだけ理不尽に怒鳴られても、どれだけ傷つけられても、両親は見て見ぬふりをするだけだった。廊下に出たそのとき、不意に背後から声がした。
「口説いてるんだよ」 彼の声は低く、けれどどこか柔らかくて、朝の静けさに溶け込むように響いた。 カーテンの隙間から差し込む光が、彼の輪郭を淡く照らしている。 まるで夢の中のようだった。 「口説く、って……どうして、ですか」 私は思わず問い返していた。 自分の声が少し震えているのが分かった。 けれど、彼の瞳から目を逸らすことができなかった。 「花澄のことが、好きだから」 その言葉は、まるで春の陽だまりのように、私の胸の奥にじんわりと染み込んでいった。 彼は一歩、また一歩と、ゆっくり私の方へ歩み寄ってくる。 足音はほとんど聞こえないのに、彼の存在だけがどんどん大きくなっていくようだった。 心臓が早鐘のように鳴り響き、頬が熱を帯びていくのを感じた。息をするのも忘れそうだった。 私は、ずっと思っていた。 私には人権なんてないのだと。 この先もずっと、父の命令に従い、姉の顔色をうかがいながら生きていくのだと。 自分の意思なんて、望むことすら許されない。 でも、壱馬様が現れてから、私の世界は少しずつ変わっていった。 彼は、私に特別をくれた。 私の名前を、まるで宝物のように呼んでくれて、私の話を最後まで遮らずに聞いてくれた。 彼の優しい言葉と、あたたかな微笑みが、私の冷えきった心を少しずつ溶かしていった。 彼の隣にいると、世界が少しだけ優しく見えた。 これからは…私も幸せになれるんじゃないかって。 そんな希望が、心の奥に小さな灯をともした。 でも、その灯は、風が吹けばすぐに消えてしまいそうで。 怖かった。 私は何も持っていない。 学もない。美しさもない。誰かに誇れるようなものなんて、ひとつもない。 壱馬様のような人が、どうして私なんかを好きになってくれるのか、分からなかった。 もし、彼の気持ちが変わってしまったら。 もし、私が彼の期待に応えられなかったら。 そんな不安が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。 …やっぱり、上手くはいかないみたい。 私が幸せになるなんて、無理だったんだ。







