Masuk第1次審査の緊張感からようやく解放され、まだ少し足元がおぼつかないまま、私は人気のない薄暗い廊下を歩いていた。
自動販売機で冷たい水でも買おうと思った矢先、突如として強い力で右腕を乱暴に引っ張られた。 ヒールのバランスを崩し、無防備な体が強引に暗がりへと引きずり込まれる。 「やめてくださっ……!」 恐怖と混乱が全身を駆け巡り、私は反射的に悲鳴を上げようとした。けれど、その必死の抵抗は、強引に押し当てられた大きく少し冷たい手のひらによって、くぐもった音へと変えられてしまう。 「……静かにしろ」 その声のには、冷え切った鋭さと、有無を言わさぬ威圧感があった。 けれど、私にとってその声色は、恐怖以上に別の衝撃をもたらした。 口を塞がれていた手がゆっくりと離される。 非常灯の緑色の光に照らされたその横顔は、少年時代の無邪気さを失い、すっかり大人の男の冷たさを纏っていたが、見間違えるはずなんてなかった。 「悠……?」 私の震える呼びかけに対し、悠は眉間に深い皺を刻んだまま、冷ややかな視線を私に突き刺してきた。 彼はゆっくりと一歩私に近づくと、周囲に誰かいないかを確認するように鋭い視線を巡らせ、再び私を睨みつける。 「なんでお前がここにいる」 再会を喜ぶどころか、まるで私の存在そのものを否定するような口ぶりに、私は息を呑んだ。 オーディション会場にいるのだから、理由は明確なはずなのに。 「なんでって、このオーディションを受けに来たからに決まってるじゃない」 そう言うと、彼は大きくため息をつき、ひどく馬鹿げた冗談でも聞いたかのように呆れたように首を振る。その仕草一つ一つが、私の自尊心を少しずつ削り取っていくようだった。 「今すぐ帰れ」 予想だにしなかった言葉に、私は目の前が真っ暗になるような感覚に陥った。 言葉の意味を脳が理解するのを拒絶している。 「え……?」 ここまで来るのにどれだけの涙を流し、どれほどの物を犠牲にしてきたのか。彼はそんな私の二年間を、たった一言で切り捨てようとしている。 悠はイラついた様子で髪を乱暴に掻き上げると、容赦なく私を追い詰めるように言葉を続ける。 「どうせお前には無理だ。時間の無駄だ」 その突き放すような言葉に、ようやく私の中でくすぶっていた感情が怒りへと変わった。 誰もが憧れる華やかな世界。その中心にいる彼から見れば、何の実績もない底辺でもがいている私など、取るに足らない滑稽な存在でしかないのだろう。 けれど、さっきの審査で私は持てる力のすべてを出し切った。そして、監督の目にも確かに留まったはず。 それなのに、彼は私の何を見て「無理だ」と断言するのだろう。 「さっきの私の演技が、そんなに酷かったって言うの!?」 私の剣幕にも、悠の態度は全く動じる気配がない。それどころか、冷淡な眼差しのまま淡々と事実だけを並べ立てるように口を開いた。 「もっと自分の身の丈に合った選択をしろと言ってるんだ」 彼の言葉は、私の演技力を批判しているというよりは、もっと根本的な、私という人間の生き方そのものを否定しているように聞こえた。 夢を見るな。現実を見ろ。お前のいるべき場所はここではない。 それは、何の才能もない一般人が、芸能界という輝かしい世界に足を踏み入れようとすることへの、最大の侮蔑に聞こえた。 理解不能な怒りと、彼に対する果てしない失望感が入り混じり、私はワナワナと肩を震わせた。 「……なによ、それ」 もう、昔の優しい彼はどこにもいない。 目の前にいるのは、私の心をえぐる言葉を平然と吐き捨てる、冷酷で見知らぬ男なのだ。 私の絞り出すような呟きを聞き届けると、悠はこれ以上話すことは何もないと言わんばかりに、無造作にきびすを返した。 その迷いのない背中が、私との間にある決定的な断絶を物語っているようで、胸が締め付けられるように痛む。 このまま彼を逃がしてしまえば、私たちは二度と理解し合えないまま、完全に赤の他人になってしまう。そんな恐怖が、怒りで震えていた私の背中を強く押した。 「ちょっと待ってよ! 自分の言いたいことだけ言って、逃げるつもり!?」 私の鋭い声に、悠の足がピタリと止まる。けれど、彼は振り向こうとはしない。 ここで泣き寝入りして地元に帰るような弱虫なら、最初からこのオーディションに応募などしていない。彼に何を言われようと、誰に笑われようと、私が選んだこの道を引き返すつもりはなかった。 「私、絶対にやめたりしないから!」 強い口調で言い切ったものの、悠は依然として背中を向けたまま、ピクリとも動かない。 彼が何を考えているのか、なぜ私をここまで頑なに拒絶するのか分からない。 相手役のトップ俳優としてこの場にいる彼と、まだ何者でもない私。その圧倒的な格差を見せつけられているようで惨めな気持ちになるけれど、私は引くわけにはいかなかった。 「どうして偉そうにしてるのか分からないけど…!」 言葉を重ねるごとに、自分の中で高まる感情の熱で声が微かに震える。 客観的に見れば、彼の言う通りだということは痛いほど分かっている。私には実績もなければ、圧倒的な才能があるわけでもない。ただの無謀な挑戦だと笑う人間は、この会場にいくらでもいるだろう。 でも、だからといって、彼にだけは絶対に笑われたくなかった。 「確かに、私はまだ一度もドラマに出たことがない、女優にもなれていないただの素人よ! でも、だからってあなたが私を鼻で笑う権利なんてないはずよ!」 二年という歳月は、人をここまで変えてしまうのだろうか。かつては、私が泣いていると必ず傍に来て慰めてくれた彼が、今では私を一番傷つける存在になっている。その残酷な現実に、どうしても納得がいかなかった。 「それに、二年ぶりに再会した幼なじみに対して、もっとマシな態度取れないの?あの日、会いに行けなかったのは悪いと思ってるけど、私にも事情が─────」 私の悲痛な叫びが薄暗い廊下にこだました直後だった。 背を向けていた悠が、弾かれたように猛然と振り返り、大股で私との距離を詰めてきた。 あまりの剣幕に私は息を呑み、本能的に後退ろうとしたが、背中はすでに硬い壁にぴったりと張り付いていた。 逃げ場を失った私を見下ろすように、彼は私の顔のすぐ横の壁に、ドンッ!と鼓膜が破れそうなほどの凄まじい音を立てて力強く拳を叩きつけた。 壁の振動が直接背中に伝わり、私は肩をビクンと震わせて身をすくめる。 目の前にある彼の顔は、怒りとも悲しみともつかない激しい感情で歪んでいて、その瞳の奥には私が今まで見たこともないような深い闇と絶望が渦巻いているように見えた。 「俺は……っ、お前になんか、二度と会いたくなかったんだよ!!」 壁に叩きつけられた拳と同じくらい、その悲痛な怒声は私の心臓を激しく殴りつけた。 彼のその言葉には、単なる嫌悪感だけではない、もっとドロドロとした感情がこびりついているように聞こえた。 壁についた手を荒々しく下ろすと、彼は私を一瞥することもなく、踵を返した。今度こそ立ち止まることなく、スタスタと足音を響かせ、非常階段の重い扉を開けて暗闇の中へと消えていく。 その扉がバタンと冷たい音を立てて閉まるまで、私はその場にへたり込むこともできず、ただ呼吸することすら忘れたまま彼が消えた空間を虚ろな目で見つめ続けていた。あれから1週間。 私の身体には、未だに悠に力強く抱き寄せられた時のあの熱が、べっとりと張り付いたままだった。 ふと思い出すだけで、心臓の奥がドクンと音を立てる。 事務所の長机で、黒いまま沈黙を保つスマホの画面を見つめながら、私はぽつりとこぼした。 「今日までに電話が来なければ、落ちたってことなんですよね」 「そう不安がるな。上手くいったんだろ?」 向かいの席に座るマネージャーが、コーヒーカップを置きながらおおらかに笑う。 「でも、私よりも演技が上手い人は沢山いるから……」 「俺は、美羽よりも上手い人は見たことないけどな」 「え?」 予想外の言葉に顔を上げると、マネージャーはまっすぐな眼差しで私を見ていた。 「演技が上手いと言うより、役柄本人そのもの。美羽は完全に憑依型だもんな。……あの人と同じで」 「ちゃんと演技しようって、思ってるんですけどね」 私は少しだけ苦笑いを浮かべて返した。 天才と称され、どんな役にも完璧に染まりきるあの人の顔が脳裏をよぎる。 「はぁ…」 第2次審査の即興劇が終わって深くお辞儀をした直後、私はふらりと倒れそうになった。 極限まで張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れたとか、泣きじゃくったせいで酸欠になっていたとか、そんな身体的な理由じゃない。 役が、抜けきらなかったから。 「どうした」 「いえ」 与えられた設定と自分が完全にリンクしてしまい、本心と芝居の境界線が完全に消え失せてしまう。 だから、監督から「カット」の声がかかっても、私はあの痛切な感情の濁流から現実へと戻ってくるのが遅れてしまった。 今回に限ったことじゃない。レッスンを受けていた頃もそう。 私の沈黙をどう受け取ったのか、マネージャーは少しだけ声のトーンを落とし、そして力強く告げた。 「使いこなせたら、きっと武器になる」 マネージャーの真っ直ぐな言葉に、私は膝の上でギュッと両手を握りしめた。 「……でも、怖いんです」 ぽつりと、自分でも驚くほど震えた弱音がこぼれ落ちた。 「怖い?」 「はい。役の感情に飲み込まれている時、自分自身がどこにいるのか、本当に分からなくなるんです」 私は俯いたまま、あの審査でのヒリヒリとした感覚を思い返していた。 「あの即興劇の時もそうでした。自分が抱えている本当の過去の痛み
「は……?」 あまりにも拍子抜けする私の返答に、悠は完全に虚を突かれたような顔をした。 「……ふざけんな」 数秒の空白の後、彼の茶色い瞳に、先ほどよりもさらに激しい怒りの炎が揺らめいた。 「あんな風に俺を突き放して急に姿を消したくせに、よくそんな平気な顔ができるな!」 「そうね。あなたから見れば、私はただの裏切り者よ。最低な女だわ」 私は自嘲するように小さく笑い、その痛みをすべて飲み込んで肯定した。 「なんで今更現れるんだよ! あの時…っ、俺は、お前さえいれば他には何もいらなかったのに!」 絞り出すような彼の叫び。 「だからよ……!」 私は一歩、彼に向かって強く踏み出した。もう、はにかむような笑顔は作れなかった。 「あなたが私を選んで、自分の可能性を捨てようとするから……っ! あなたの夢を一番近くで見ていたのは私よ。誰よりも才能があって、誰よりも必死に努力していた。それなのに、私と一緒にいることでチャンスを潰していくのを、黙って見ていられるわけないじゃない!」 静まり返ったスタジオに、私の叫びが響き渡る。 悠の肩が、ビクンと小さく跳ねた。 私を睨みつけていた瞳から鋭い憎悪が薄れ、代わりに強烈な戸惑いと、今まで知らなかった真実に対する激しい動揺が浮かび上がる。 「だから、私があなたを裏切ったように見せかけるしかなかったじゃない……っ!」 私は彼を見捨てたわけじゃない。 彼の輝かしい未来の足手まといにならないために、あえて自ら泥を被り、彼を遠ざけた。 「本当は…私だって、ずっと隣にいたかった。でも、私がいたら、あなたは……」 とめどなく溢れそうになる涙をギリギリで堪え、私はただ真っ直ぐに彼を見つめた。 静まり返ったスタジオの中、私の震える声だけが吸い込まれていった。 やがて彼は、ふっと短く息を吐き出し、自嘲するように目を伏せた。 「……馬鹿だな」 静かな、ひどく掠れた声だった。 「馬鹿って……何よ」 私が震える唇で言い返すと、彼は再びゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめ返した。その目には、もう隠しきれないほどの熱と痛みが滲んでいる。 「俺は、お前さえいれば……それだけで良かったのに」 飾り気のない、痛いほどの本音。 その切実な響きに、私は息を呑み、言葉を
第2次審査の会場となる広々としたスタジオで、付箋と書き込みでボロボロになった台本をきつく握りしめていた。 今日のために、セリフの一言一句から相手の間の取り方まで、すべてを完璧に頭に叩き込んできた。 けれど、参加者たちがスタジオの中央に一列に並べられると、張り詰めた空気を切り裂くように監督の低い声が響いた。 「さて。さっそくだが、君たちが握りしめているその台本をすべて回収させてもらう」 スタッフが素早く動き出し、有無を言わさぬ手つきで参加者たちから次々と台本を没収していく。 「え……?」 「この台本を使った演技は、通過者のみで行う次回の第3次審査で行う。」 監督の言葉に、周囲から戸惑いのざわめきが起こる。 私も思わず息を呑んだ。 「なぜ、わざわざ課題台本を事前に渡し、今日まで徹夜して読み込ませたのか。それは、君たちが頭で作ってきた芝居を、ここで一度全て空にするためだ」 容赦のない言葉に、スタジオの空気が凍りつく。 「実際の現場では、直前の台本変更や想定外のトラブルなど日常茶飯事だ。完璧に準備したものを突如奪われた時、役者の本性が顔を出す。僕たちが見たいのは、予定調和の綺麗なセリフじゃない。追い詰められ、計算が狂った時にこそ剥き出しになる、感情の反射神経だ」 監督は手元のバインダーをパタンと閉じ、私たちに向かって告げた。 「つまり、今から君たちには即興芝居をやってもらう。テーマは、数年ぶりに再会した幼なじみと、解けない誤解」 ドクン。 心臓が、痛いほどの音を立てて跳ねた。 数年ぶりに再会した幼なじみ。 それは…。 震える視線を、審査員席へと向ける。 そこに冷静に参加者たちを観察していた悠と、ふいに視線が交差した。 この即興芝居で言葉を紡げば、果たしてどこまでが演技で、どこからが真実の感情になってしまうのだろうか。 「公平性を期すために審査は1人ずつ行います。桜田美羽さん以外は、一旦別室の待合室へ移動して待機してください」 スタッフの事務的な声が、凍りついたスタジオの空気を動かす。 私の名前が呼ばれ、肩が跳ねた。 心の準備をする時間すら与えられないまま、1番手という重圧が容赦なくのしかかる。 けれど、不思議と足の震えはなかった。 ざわめきが遠ざかり、スタジオの中が
オートロックの扉が重い音を立てて閉まると、部屋の中は完全な静寂に包まれた。 壁際のデスクに向かって椅子を引き、どさりと腰を下ろす。 小さく息を吐き出してから、先ほど手渡されたばかり台本をデスクの上に広げた。 台本に描かれていたのは、誰もが平伏すような富と権力を持つ財閥の御曹司と、ごく普通の家庭で育った平凡なヒロインの美しい身分違いの恋だった。 人前では決して隙を見せず、冷たい男の仮面を被って生きる彼。けれど、その裏にある不器用で深い優しさに、ヒロインだけが少しずつ気づいていく。 住む世界の違いや、一族からの容赦ない反対。周囲からの冷たい悪意に晒されながらも、ふたりは決して手を離さず、過酷な茨の道を歩みながら愛を育んでいく。 ページをめくるごとに、彼女が背負っている過去や、表面的な明るさの裏に隠された複雑な感情が浮き彫りになっていく。理不尽な運命に翻弄されながらも、決して自分を見失わず、逆境に立ち向かっていく姿。 「……芯が強い女性、って感じかな」 資料の余白にペンを走らせながら、ぽつりと呟く。 ただ守られるだけのひ弱なヒロインじゃない。 自らの足で立ち、運命を切り開く泥臭い強さを持っている。 今の私が抱えている意地や反骨心を重ね合わせれば、きっと血の通った演技ができるはず。 全体像を掴んだところで、明日の審査で使われるシーンのページを開く。 明日は今日のようなグループ演技ではない。相手役との、一対一のセリフの掛け合い。 この量のセリフを、明日の朝までに完全に自分のものにし、さらに感情の乗せ方を何パターンも用意しておかなければならない。 台本に視線を落とし、ヒロインのセリフと交互に書かれている、相手役のト書きとセリフを目でなぞる。 これを声に出して読むのは、あの人なのだ。 「悠と、演技を……」 無意識にその言葉を口にした瞬間、声が微かに震えた。 彼と同じ世界に立ち、カメラの前で、同じ作品の登場人物として言葉を交わすこと。それは私にとって、血の滲むような努力の末にようやく辿り着いた究極の夢であり、最高に嬉しい出来事のはずだった。 それなのに。 あの氷のように冷たく、激しい憎悪を含んだ声が台本の文字の向こう側にちらつく。 明日、彼とは台本上の愛に溢れた言葉や切ない視線を交わ
重苦しい沈黙が支配する短い休憩が終わり、私たちは再びスタジオの中央へと集められた。 いよいよ、第1次審査の結果発表。 整列した25名の間に、先ほどまでの熱気とは打って変わって、息の詰まるような緊張感が漂っている。 祈るように両手を握りしめる者、ただうつむいて震える者。 誰もが自分の運命の瞬間を待ちわびていた。 「それでは、結果を発表します。名前を呼ばれた方は一歩前へ出てください」 クリップボードを持った進行役のスタッフが、無機質な声で告げた。スタジオの空気がさらに一段階、冷たく張り詰める。 カメラの赤いランプが、私たちの強張った表情を容赦なく捉え続けていた。 「一人目……」 淡々と読み上げられていく合格者の名前。 呼ばれた者は弾かれたように顔を上げて前へ踏み出し、呼ばれない者は祈るように強く目を閉じる。 次々と枠が埋まっていく中、私の名前はなかなか呼ばれなかった。 焦りが心臓を鷲掴みにし、喉がひどく渇く。 先ほど廊下であれほど悠に見得を切っておいて、ここで落ちるわけにはいかないのに。 「─────そして、最後。桜田美羽さん」 その瞬間、頭の芯が真っ白になり、ふっと全身の力が抜けそうになった。 「はいっ!」 張り詰めた沈黙を破り、私は少し上ずった声で返事をした。震える足に必死で力を込め、バミリが残る中央のスペースへと一歩前へ踏み出す。 「以上の方は、第2次審査にお進みください。残念ながら名前を呼ばれなかった方は、ここで終了となります。お疲れ様でした」 前に並んだのは、私を含めて15名。 半分近くの人が、この数時間で荷物をまとめて帰ることになった。 名前を呼ばれなかった少女たちは、呆然と立ち尽くしたり、両手で顔を覆って泣き崩れたりしている。 これが、サバイバルオーディションの現実。 勝者と敗者が、カメラの前で明確に線引きされる世界。 私は安堵で膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、前だけを見据えた。 敗者たちがスタジオから去ると、スタッフが分厚い紙の束を配り始めた。 「明日からは、皆様にはこのドラマのヒロインそのものになりきって演技をしていただきます」 手渡された資料の表紙には、ヒロインの名前が印字されていた。 ページをめくると、彼女の生い立ち、性格、細かな癖、さらには誰にも言えない過去のトラウマに至る
第1次審査の緊張感からようやく解放され、まだ少し足元がおぼつかないまま、私は人気のない薄暗い廊下を歩いていた。 自動販売機で冷たい水でも買おうと思った矢先、突如として強い力で右腕を乱暴に引っ張られた。 ヒールのバランスを崩し、無防備な体が強引に暗がりへと引きずり込まれる。 「やめてくださっ……!」 恐怖と混乱が全身を駆け巡り、私は反射的に悲鳴を上げようとした。けれど、その必死の抵抗は、強引に押し当てられた大きく少し冷たい手のひらによって、くぐもった音へと変えられてしまう。 「……静かにしろ」 その声のには、冷え切った鋭さと、有無を言わさぬ威圧感があった。 けれど、私にとってその声色は、恐怖以上に別の衝撃をもたらした。 口を塞がれていた手がゆっくりと離される。 非常灯の緑色の光に照らされたその横顔は、少年時代の無邪気さを失い、すっかり大人の男の冷たさを纏っていたが、見間違えるはずなんてなかった。 「悠……?」 私の震える呼びかけに対し、悠は眉間に深い皺を刻んだまま、冷ややかな視線を私に突き刺してきた。 彼はゆっくりと一歩私に近づくと、周囲に誰かいないかを確認するように鋭い視線を巡らせ、再び私を睨みつける。 「なんでお前がここにいる」 再会を喜ぶどころか、まるで私の存在そのものを否定するような口ぶりに、私は息を呑んだ。 オーディション会場にいるのだから、理由は明確なはずなのに。 「なんでって、このオーディションを受けに来たからに決まってるじゃない」 そう言うと、彼は大きくため息をつき、ひどく馬鹿げた冗談でも聞いたかのように呆れたように首を振る。その仕草一つ一つが、私の自尊心を少しずつ削り取っていくようだった。 「今すぐ帰れ」 予想だにしなかった言葉に、私は目の前が真っ暗になるような感覚に陥った。 言葉の意味を脳が理解するのを拒絶している。 「え……?」 ここまで来るのにどれだけの涙を流し、どれほどの物を犠牲にしてきたのか。彼はそんな私の二年間を、たった一言で切り捨てようとしている。 悠はイラついた様子で髪を乱暴に掻き上げると、容赦なく私を追い詰めるように言葉を続ける。 「どうせお前には無理だ。時間の無駄だ」 その突き放すような言葉に、ようやく私の中でくすぶっていた感情が







