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第21話
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めかし込んだのは、あなたとさよならするために 第23話
病室のカーテンが半分開け放たれ、朝陽が斜めに差し込んでいる。蒼真は静かに横たわり、呼吸に合わせて胸がわずかに上下し、長い睫毛が目の下に淡い影を落としていた。遥はベッドの脇に腰掛け、温かいタオルで彼の手の指を一本一本優しく拭っていた。大きく節くれだったその掌は、かつて無数の書類に署名し、彼女の手を力強く握りしめていたものだ。だが今は力なく開かれ、ぴくりとも動かない。「今日、グループの四半期決算が出たわ。前期比で12％も伸びてたの」遥は低い声で語りかける。その表情は愛情に満ち、まるで仕事の話ではなく愛を囁いているかのようだ。「高橋取締役が昨日また会議で難癖をつけてきたけど、思い通りにはさせなかったわ」遥は言葉を切り、指先で彼の手相をなぞりながら、その穏やかな横顔に視線を落とした。蒼真の呼吸は安定しているが、目を開けることも、彼女の絶え間ない語りかけに応えることもない。ついに遥は蒼真の手を握りしめ、その胸に顔を埋めてすすり泣いた。「蒼真、早く目を覚まして……もう耐えられない……」昨日、妊娠がわかった。蒼真は事故から二ヶ月も昏睡状態で、目覚める兆しは一向にない。つわりが酷く、何を食べても戻してしまう。それでも気力を振り絞り、彼が残した事業を守らなければならない。彼が心血を注いだ会社を、目覚めた時に失わせるわけにはいかなかった。けれど、本当に疲れた。心から、蒼真が恋しい。「蒼真、早く戻ってきて。私もこの子も、あなたを待ってるの……」病室のドアが静かに開き、手土産の果物を提げた奏人が立っていた。その複雑な眼差しが遥に向けられる。彼女はもう二ヶ月もここに詰め切っている。蒼真が事故で昏睡状態に陥ってからというもの、彼女は病院を離れず、昼は会社の仕事をこなし、夜は病室に泊まり込む日々を繰り返していた。奏人は喉が詰まるのを感じながら、意を決して足を踏み入れた。「遥」彼は低い声で呼びかけ、果物をサイドテーブルに置く。「少し休んだほうがいい」遥は顔も上げず、軽く「ええ」と返事をしただけで、アシスタントが届けた書類に目を通し続けた。奏人は彼女の憔悴しきった横顔を見て、胸が締め付けられる思いだった。彼は深く息を吸い、勇気を振り絞って口を開く。「一人じゃ……辛すぎるだろう」遥の指が止まったが、すぐ
めかし込んだのは、あなたとさよならするために 第22話
薄暗い廃倉庫の中、遥は椅子に縛り付けられていた。口端から血を流し、顔色は蒼白だ。結奈はナイフを弄び、その側面で遥の頬を軽く叩きながら、獰猛な笑みを浮かべた。「奏人はあなたのためなら命も惜しまないそうね。遥、大した手腕だこと」遥は弱々しく目を開け、掠れた声で告げた。「黒木さん……恨む相手を間違えてる……あなたを傷つけたのは……私じゃない……」「黙りなさい！」結奈は腕を振り上げ、彼女の頬を張り飛ばした。「あなたが居なければ、私がこんな惨めな思いをすることはなかった！」彼女は遥を骨の髄まで憎んでいた。遥が奏人をたぶらかして夢中にさせなければ、彼女は今も華やかな「神崎夫人」のままでいられたはずだ。田舎に戻され、知的障害を持つ男と結婚させられることなどなかった。村長一家を焼き殺して逃亡し、執念で彩浜市へ舞い戻った目的はただ一つ、遥への復讐だ。彼女は女癖の悪い陽翔に取り入り、兄への復讐を唆した。そして陽翔の力を利用して遥を拉致し、自分と同じように生き地獄を味わわせようとしたのだ。彼女はナイフを振り上げ、遥の両目に切っ先を向けた。「まずはその男を惑わす目玉をえぐり出してやるわ。それでも男を誘惑できるかしら！」「やめろ！」乱暴にドアが開き、陽翔が飛び込んでくると、彼女の手首を掴んだ。「俺がこいつを拉致したのは、兄貴に桐山グループを渡させるためだ。人殺しになるつもりはない！」遥は陽翔と結奈を見比べ、ようやく事態を飲み込んだ。これは蒼真を狙った罠なのだ。蒼真が直面する危機を思うと、心臓が早鐘を打った。彼をこの窮地に陥れたくない一心で、彼女は叫ぶように言った。「私と蒼真の結婚は偽装だったの。それに昨日、離婚協議書にも署名したわ。私を捕まえても無駄よ、解放して！」陽翔は鼻で笑った。「義姉さん、兄貴への愛は本物みたいだな。だが、何を言っても無駄だ。兄貴はもうこちらに向かっている」三十分後、蒼真はたった一人で約束の場所に現れた。彼は陽翔が差し出した株式譲渡契約書に目も通さず、即座にサインした。サインした書類を陽翔の顔に叩きつけ、短く告げる。「彼女を放せ」その眼光の鋭さに、陽翔は背筋が凍る思いがした。陽翔の目には、兄はずっと病弱で穏やかな人間に映っていた。会社から追い出されたあの日でさえ、これほど強い殺気を放ってはい
めかし込んだのは、あなたとさよならするために 第21話
夜明け前、遥はそっとベッドを抜け出した。身支度を整え、まだ熟睡している蒼真を振り返ると、静かにドアを閉めた。病院では、奏人がベッドに背を預けて座っていた。彼は笑って言った。「今日は随分早いな」遥は彼の視線を避けた。「話があるの」遥は無意識に首筋へ触れた。そこには蒼真が残したキスマークがあり、微かに熱を持っている気がした。思い出すだけで、頬が火照る。彼女は顔を上げ、奏人を真っ直ぐに見つめて真剣に告げた。「神崎さん、お見舞いに来るのはこれで最後にするわ。あなたは私を十年間裏切ったけれど、私の命を救ってくれた。これで貸し借りなし。これからは、互いに借りも貸しもない関係になりましょ」奏人は呆然とし、遥が何を言ったのか理解するのにしばらく時間を要した。「本気……なのか？」「本気よ。私、蒼真と……うまくいってるの。彼は……私のことが好きみたい。私も、彼と向き合ってみたいの」その言葉を聞いて、奏人はようやく理解した。心が砕ける音というのは、これほどまでに轟くものなのかと。まるで幾千もの時間が咆哮を上げて通り過ぎ、何一つ掴めないまま、自分だけが置き去りにされたかのように。心が砕ける音は、無音でもあった。知らぬ間に心が死に絶え、この世の喜びを何一つ感じられなくなってしまったかのようだ。全力を尽くしたが、それでも彼女を留めることはできなかった。遥は晴れやかに微笑み、新鮮な百合の花束を奏人の枕元に置いた。「神崎さん、私、今とても幸せなの。あなたも幸せになってね」遥の笑顔を見て、奏人は悟った。彼女は本当に、完全に過去を吹っ切ったのだと。自分だけがその場に取り残され、檻の中の獣のように同じ場所を回り続け、抜け出せずにいるのだ。遥は花の香りを残し、曲がり角へと消えていった。一度も振り返ることはなかった。遥が家に帰ると、蒼真が待っていた。彼はスーツを着込み、髪をきっちりと撫でつけ、遥が入ってくると座る姿勢を正した。まるで何か厳粛な儀式でも行うかのようだ。「何してるの？」遥は不審に思った。彼は無表情で離婚協議書をテーブルに置き、淡々と言った。「サインしてくれ」離婚という二文字を見て、遥は頭を殴られたような衝撃を受け、意識が白く飛んだ。「どう……いう意味？」「文字通りの意味さ。離婚しよう。僕たちの
めかし込んだのは、あなたとさよならするために 第20話
陽翔の就任後、わずか三日で桐山グループの株価は15%暴落し、五人の主要役員が辞表を提出、大口の取引先も次々と提携を凍結した。それなのに陽翔は、知り合ったばかりのインフルエンサー風の女を連れてモルディブで休暇を楽しみ、インスタに【デカい仕事が決まったから、ちょっとリラックス〜】と投稿して悦に入っていた。その頃、蒼真は遥の病室にいた。リンゴを剥きながら、パソコン画面に映る桐山グループの株価チャートを眺め、口元をわずかに歪めて笑っていた。彼のアシスタントがノックをして入ってきた。「社長、また三名の株主から譲渡の申し出がありました」「すべて買い取れ」蒼真は淡々とした口調で命じ、小さく切ったリンゴを遥の口に運んだ。遥は彼の冷酷なまでの決断力を目の当たりにして、どこか他人のような距離感を覚えた。この男は半月前まで、いつ死んでもおかしくないほど病弱に見えたはずなのに。「蒼真、演技が本当に上手なのね」彼は目元を緩めた。「仕方ないさ、生きるためだ。君はゆっくり養生して、特等席でとびきりのショーを楽しんでくれ」陽翔が泥酔してクラブから出てきたところを記者に囲まれ、会社の危機について追及されていた頃、蒼真はすでに水面下で桐山グループの株式の32%を取得し終えていた。母が残してくれた15%の株式と、数名の古参役員の支持を加え、彼は圧倒的な優位性を持って取締役会に帰還した。「ありえない！」陽翔は株主総会で机を叩いて立ち上がった。「俺こそが桐山グループの後継者だぞ！」株主たちは冷ややかな目で彼を見つめ、鼻で笑う者さえいた。女遊びと車の暴走しか能のないこの放蕩息子に、財務諸表すら読めない人間に、取締役会会長の資格などあるわけがない。蒼真は上座に座り、仕立ての良いスーツに身を包んで冷淡な表情を浮かべていた。「桐山陽翔。君を解任する」「貴様！」陽翔はなおも抗弁しようとしたが、警備員に両脇を抱えられ、外へと引きずり出された。彼は桐山グループの本社ビルの前に立ち、かつて我が物顔で振る舞っていた場所を見上げた。今や入館することさえできず、悔しさに歯ぎしりした。「桐山蒼真……覚えてろよ！」……蒼真の完全勝利のニュースが病院に届いた頃、遥の傷は癒え、退院していた。一方、奏人の怪我は深刻だった。肋骨骨折、脾臓破裂、脳震盪
めかし込んだのは、あなたとさよならするために 第19話
車は制御不能な速度で、郊外へと暴走を続ける。ナビの表示によれば、前方は荒涼とした山道で、その先は断崖絶壁だ。奏人は素早く周囲を見回し、衝撃を和らげられそうな障害物を探した。「遥」彼は不意に口を開いた。その声は低く、だが力強かった。「シートベルトをしっかり締めてくれ」遥は自分のベルトを確認し、アシストグリップを強く握りしめた。「何をするつもり？」奏人は答えず、ただ深く彼女を一瞥した。その瞳には、彼女が見たこともないほどの決意と深い愛が宿っていた。「遥。俺がこの人生で一番後悔しているのは、君を手放してしまったことだ。もし来世があるなら、もう二度と君を離さない。ずっと添い遂げたい」次の瞬間、彼はハンドルを急激に切り、車を路肩の大木へと激突させた。「ドーン！」凄まじい衝撃音と共にエアバッグが展開し、遥の視界は暗転した。耳元には鋭い耳鳴りだけが響いている。事故現場には、黒煙がもうもうと立ち込めていた。遥は短い昏睡から目覚めた。額にかすり傷を負い、腕を軽く骨折していたが、意識ははっきりしている。彼女はひしゃげたドアから這い出し、運転席を振り返った。そこには、ステアリングとエアバッグの間に挟まれ、押し潰された奏人の姿があった。半身が変形した金属フレームに貫かれ、ドアの隙間からは鮮血が滴り落ちている。「奏人！」遥は震える声で叫び、奏人の呼吸を確かめようと手を伸ばした。よかった、微弱だが、まだ息はある。彼女は震える手で携帯を取り出し、119番に通報した。救急車がサイレンを鳴らして到着し、隊員たちが迅速に彼をストレッチャーに乗せた。遥はふらつく足取りでその後を追った。「出血多量、肝臓と脾臓の破裂、頭部外傷……危険な状態です」という隊員たちの緊迫した声が聞こえてくる。虫の息となった彼を目の当たりにし、彼女は全身が凍りつくような感覚に襲われた。奏人はわざとやったのだ。彼女側の側面を木にぶつけることもできたはずなのに、あえて方向を変え、自分側の側面ですべての衝撃を受け止めたのだ。なぜ？あれほど酷く彼女を裏切っておきながら、なぜ今になって、これほど強烈な方法で、彼女の人生に消えない楔を打ち込もうとするのか？愛憎、恩讐。どう計算すればいい？どうやって返せばいいというの？……奏人が重傷を負い昏睡
めかし込んだのは、あなたとさよならするために 第18話
まさかこんなに早く情報が漏れるとは思わなかった。奏人が車を降りる気配がないのを見て、遥は助手席に滑り込んだ。この機会に、はっきりさせておくのも悪くない。「私と蒼真は夫婦よ。妊娠して何がおかしいの？」彼女は眉をひそめ、冷ややかな声で言った。「神崎さん、もう私の家のことに口を出さないでくれない？」奏人は鼻から信じていなかった。執拗に彼女を見つめ、少し掠れた声で迫る。「嘘だろ？ 蒼真を助けるための方便だろ？」「嘘じゃないわ」彼女は平然と嘘をついた。ただ彼を振り払いたかったのだ。「私と蒼真は愛し合ってるの。彼に病気なんてないし、普通の男よ。私たちはとっくに……」奏人は耐えきれず、錯乱したように叫んで彼女の言葉を遮った。「ありえない！お前は俺の女だ。どうして他の男の子供なんて産めるんだ！」そう言うと、彼はハンドルを握る指に力を込め、猛然とアクセルを踏み込んだ。車は矢のように飛び出した。遥は慌ててシートベルトを締めながら叫んだ。「何するの？どこへ連れて行く気？」「うちの系列病院だ。本当にお前が妊娠してるのか、確かめてやる」「神崎、あなた狂ってるわ！」「ああ、狂ってるさ！」奏人はハンドルを切り、目を血走らせて叫んだ。「お前が毎日、他の男と同じベッドで寝てるかと思うと、気が狂いそうなんだよ！なんで他の奴と結婚なんてしたんだ？なんで他の男の子供なんて！遥、お前は俺のものだ！」「私はあなたのものなんかじゃない！」遥も怒りを爆発させ、火花が散るような勢いで言い返した。「神崎、私は一度だってあなたのものだったことなんてない！私は人間よ、生身の人間なの！あなたに十年の青春を捧げたのは私が馬鹿だったからよ。でも、だからってあなたの言いなりになんかならない！」「お前が俺に十年を捧げたって言うなら、俺だってお前に十年を費やしてきたんだぞ？あの十年は、お前だけのものじゃないだろ！」「私だけのものじゃないでしょうね。でもそのせいで、私は八年近くも苦しんだのよ！キャリアを捨ててあなたのために息子を産んで、大きなお腹を抱えてあなたの理想のために走り回って、死にかけたことだってある。プライドを捨ててプロポーズまでした……でも何が残った？あなたは私を拒絶して、侮辱して、無視しただけじゃない！」遥は深く息を吸い込んだが、涙が
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