FAZER LOGIN私は吉井絢香(よしい あやか)。 香村美咲(こうむら みさき)から、夫を1日だけ「貸してほしい」と電話がかかってきた。これで37回目だった。 美咲の息子、香村勇太(こうむら ゆうた)は、娘の吉井日菜(よしい ひな)と同じ幼稚園に通っていた。 その日は勇太のクラスで保護者参加の行事があり、ほかの子にはみんな父親が来るのに、勇太だけ来てもらえないと笑われるかもしれない。美咲は、そんな思いを勇太にさせたくないと言った。 夫の吉井孝介(よしい こうすけ)は私をちらりと見ただけで上着を手に取り、足早に家を出ていった。 出がけには、いつものように一言だけ言い残した。 「美咲は離婚して、一人で勇太を育ててるんだ。大変なんだから、1日くらい大目に見てくれよ」 でもちょうどその時間、日菜は3か月も前から楽しみにしていた発表会を控えていた。 日菜は衣装を抱えたまま舞台裏でずっと待っていたけれど、発表会が終わっても孝介は姿を見せなかった。 家に帰ると、テレビで流れていた生中継に孝介の姿が映っていた。 孝介は美咲と勇太とおそろいの服を着ていて、美咲に親しげに腕を絡められても、嫌がる様子ひとつなかった。 司会者に結婚して何年になるのかと聞かれても、孝介は否定すらしなかった。それどころか、美咲の頬にかかった髪をそっと直し、優しげな目を向けていた。 勇太まで孝介の腰に抱きつき、大きな声で「パパ!」と呼んだ。 カメラが客席に向くと、拍手に混じって、二人をはやし立てる声があちこちから上がった。 日菜はしばらく黙ったままテレビを見つめていたが、ふいに、抱えていた家族3人を描いた絵を真ん中から破った。 「ママ、パパって、いつも誰かに借りていかれちゃうね。 これからはもう、パパのこと待たなくていいよね?」 真っ赤になった日菜の目を見た瞬間、私の中に残っていた最後の期待も、すっと消えた。 私はスマホを手に取り、弁護士の越谷宗一郎(こしがや そういちろう)にメッセージを送った。 【離婚協議書の準備をお願いします】
Ver mais日菜が母と手をつないで入ってくると、孝介は思わず立ち上がった。日菜は一瞬だけ立ち止まった。それでも今度は震えず、母の後ろに隠れもしなかった。ただ、その場でじっと孝介を見ていた。孝介は目を赤くしながら、ゆっくり日菜の前にしゃがんだ。「日菜、これにサインしたら、今日はもう帰るから」日菜はテーブルの上の離婚協議書を見た。「これから、パパじゃなくなるの?」「そんなことないよ」孝介は少し黙ってから、続けた。「日菜がパパって呼んでくれるなら、これからもずっとパパだよ」日菜は少し考えてから聞いた。「じゃあ、また誰かに借りていかれちゃう?」孝介の目から涙がこぼれた。「もう、日菜を置いていったりしないよ」けれど日菜は首を横に振った。「でも日菜、もうパパのこと待ちたくない」「うん。じゃあ今度は、パパが待ってる」「日菜がずっと会いたくないって言っても?」「それでも待つよ」日菜は返事の代わりに、テーブルに置いてあったあの焼け残った家族の絵を孝介に差し出した。「これ、あげる」孝介は震える手で絵を受け取った。「もう、いらないの?」「先生がね、もう一回描こうって言ってくれたの」日菜は小さな声で続けた。「今度はね、ママと、おじいちゃんと、おばあちゃんと、日菜だけ描くの」孝介が目を閉じると、頬を伝った涙が絵の焦げた縁に落ちた。しばらくして、孝介は床に落ちていたペンを拾い、離婚協議書に名前を書いた。手続きを終え、私たちは正式に離婚した。家は財産分与の対象にはならず、日菜の親権者は私になった。孝介は毎月養育費を払い、日菜との面会は、本人の気持ちを最優先にして決めることになった。その後、孝介は小さなマンションに移った。孝介の母の話では、孝介は毎週のように幼稚園の前まで日菜に会いに来ていたそうだ。日菜が会いたいと言った日は、少しだけ話をした。会いたくないと言った日は、持ってきたものを先生に預け、そのまま帰っていた。許してくれとも、もう言わなかった。一方、美咲の元夫は、定期的に勇太と会えるようになった。美咲も、もう自分の都合で面会を断ることはできず、勇太に孝介を「パパ」と呼ばせることもなくなった。その後、美咲から長い謝罪のメッセージが一度だけ届いた。私
孝介はその動画を、三度も見返した。動画の中では、勇太が美咲にこう聞いていた。「パパって呼んだら、孝介おじさん、うちに来てくれるの?」美咲は笑いながら、勇太におそろいの服を着せていた。「みんなが家族だと思えば、孝介さんだって勇太のこと、放っておけなくなるでしょ」三度目を見終えた孝介は、スマホを握りしめた。手の甲には青筋が浮いていた。「これ、誰からだ?」「美咲さんの元夫です。勇太くんのことで家庭裁判所に出す資料を集めていたときに、園に残っていたこの動画を見つけたそうです」孝介はすぐに美咲へ電話をかけた。「俺が『継父』って、どういうことだ?」美咲はしばらく黙ったあと、泣き出した。「勇太が、ひとり親だからって園で変な目で見られたら嫌だったのよ」「あの動画は?」「勇太がパパがほしいって言うから、ちょっと話を合わせただけよ」「じゃあ、あのとき俺をパパって呼ばせたのも、お前が言わせたのか?」美咲の泣き声が止んだ。次に口を開いたときには、さっきまで泣いていたのが嘘みたいだった。「孝介、今さら私を責めるの?おかしくない?私が電話すれば、毎回来たのはあなたじゃない。おそろいの服だって着たでしょ。私が腕を組んでも嫌がらなかったし、司会の人に夫婦だと思われても訂正しなかったじゃない」孝介の表情がこわばった。「美咲が一人で勇太を育てるのは大変だと思ったから、放っておけなかっただけだ」「言い訳やめてよ」美咲は鼻で笑った。「あなた、頼られるのが好きなのよ。絢香さんは家のことを何でも自分でやって、あなたに頼らない。でも私が泣いて、勇太にパパって呼ばれれば、自分が必要とされてる気になれた。そうでしょ?」「俺を利用してたのか?」「利用してたのは、あなただって同じじゃない。絢香さんに何か言われるたび、私のことを持ち出して言い返してたでしょ」美咲は止まらなかった。「絢香さんが嫌がるたびに、余計に私の肩を持ってたじゃない。絢香さんが気にすればするほど、あなたはこっちに来た。私と絢香さんに取り合われてるみたいで、気分よかったんでしょ。今さら絢香さんに愛想尽かされたからって、私のせいにしないでよ」電話の向こうで、勇太がわっと泣き出した。すぐに、美咲の苛立った声が飛んだ。「もう泣かな
翌日の午前中、孝介からメッセージが届いた。【美咲は低血糖だった。もう大丈夫だ】【昨日は勇太を一人にできなかった。子どもだけ病院に残して帰るわけにもいかなかったんだ】【絢香、今回は仕方なかったんだ】私は3通とも宗一郎に見せた。「これも資料に入れておいて」宗一郎は読み終えると、軽く首を振った。「こういうのを見ると、離婚を決めたのも無理はないですね」離婚調停の日、孝介は30分遅れてきた。シャツはしわだらけで、目の下にはくっきり隈ができていた。調停が始まると、孝介は真っ先に言った。「離婚する気はありません」私は用意していた資料を調停委員に差し出した。美咲から電話があったのは37回。孝介が急に家を出ていったのは21回。日菜の大事な行事を欠席したのは7回。さらに、幼稚園の防犯カメラ映像を削除したときの操作履歴も添えてあった。調停委員が内容を確認していくうちに、孝介の表情がだんだん硬くなっていった。「こんなことまで、ずっと記録してたのか?」「日菜の3歳の誕生日からよ」あの日、孝介は日菜と一緒にケーキのろうそくを吹き消すって約束していた。ところが、美咲から「勇太がお腹痛いって」と電話がかかってくると、孝介はそのまま病院へ行ってしまった。結局、勇太は食べすぎただけだった。それでも孝介が帰ってきたのは、次の日の朝だった。しかも、自分の分のケーキを残しておかなかったと、逆に私に文句まで言ってきた。調停委員は資料に目を通し終えると、孝介に向き直った。「親権を希望されるのであれば、こうした事情は不利に見られる可能性があります」「俺は日菜の親権まで欲しいって言ってるわけじゃありません」孝介はすぐに続けた。「ただ、離婚したくないんです」すると宗一郎が静かに口を挟んだ。「親権を争わないのであれば、話はかなり絞られます。それに、お二人が住んでいた家は、絢香さんが結婚前から持っていたものですから、財産分与の対象にはなりません。大きな借金もありませんし、財産関係も複雑ではありません」孝介が驚いたように私を見た。「家まで返せっていうのか?」「もともと私の家よ」孝介は何も言えなくなった。調停を終えて外に出ると、孝介が後ろから追いかけてきた。「絢香、もう一度だけチ
引っ越して3日目、孝介が段ボールを一つ抱えてやって来た。玄関を開けると、孝介はそれを足元に置いた。「日菜の絵本と服。あと、ベッドの横に置いてたライトも持ってきた」私は中身をざっと確認したが、孝介を家には上げなかった。「ありがとう」淡々と返すと、孝介は少し顔をこわばらせた。「何だよ、そのよそよそしい言い方」「ほかに用は?」孝介はしばらく黙っていた。「美咲には、もう連絡するなって言った」「そう。それはあなたが決めることでしょ」「前はあんなに気にしてただろ」「今はもう、どうでもいいの」家の奥から、日菜と母の話し声が聞こえた。孝介は思わず家の中を見た。「今日の診察、どうだった?」「もう大丈夫だって」「日菜に会ってもいいか?」「聞いたけど、会いたくないって」孝介は段ボールの縁に指をかけたまま、少しかすれた声で言った。「新しい衣装も買ったんだ。先生から、来月また発表会があるって聞いた。今度はちゃんと見に行くから」「もういいわ。日菜、もう出ないって」孝介が顔を上げた。日菜はあのダンスを3か月も練習していた。毎日のように、発表会まであと何日か指折り数えていた。客席で孝介に見てもらえるのを、ずっと楽しみにしていた。それほど楽しみにしていたのに、日菜はもう出ないと決めた。孝介もようやく、あの日見に行かなかったことが、日菜にとってどれだけ大きかったのか気づいたようだった。「先生にもう一度聞いてみる。日菜、あんなに踊るの好きだっただろ」「踊るのが嫌になったわけじゃないの」私は少し間を置いた。「また、来てほしい人が来なかったらって思うと、怖いのよ」そのとき、奥でコップが床に落ちる音がした。私は振り返り、すぐに中へ入った。孝介の姿を見た途端、日菜の顔からさっと血の気が引いた。「ママ、日菜、何も悪いことしてないよ。ドアも閉めてないし、何も取ってないよ」孝介は日菜の前にしゃがんだ。「日菜、大丈夫だよ。パパ、怒ってないから」けれど日菜は、母の後ろに隠れた。「勇太くんのところに行けばいいじゃん。もうパパなんていらない」孝介の目元が赤くなった。「これからは、ずっと日菜と一緒にいるから」「じゃあ、勇太くんが泣いたら?」孝介は口を開いたが、言葉が