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夫を貸した37回目、娘はもう待たなかった

夫を貸した37回目、娘はもう待たなかった

Por:  森と島と夏Completo
Idioma: Japanese
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私は吉井絢香(よしい あやか)。 香村美咲(こうむら みさき)から、夫を1日だけ「貸してほしい」と電話がかかってきた。これで37回目だった。 美咲の息子、香村勇太(こうむら ゆうた)は、娘の吉井日菜(よしい ひな)と同じ幼稚園に通っていた。 その日は勇太のクラスで保護者参加の行事があり、ほかの子にはみんな父親が来るのに、勇太だけ来てもらえないと笑われるかもしれない。美咲は、そんな思いを勇太にさせたくないと言った。 夫の吉井孝介(よしい こうすけ)は私をちらりと見ただけで上着を手に取り、足早に家を出ていった。 出がけには、いつものように一言だけ言い残した。 「美咲は離婚して、一人で勇太を育ててるんだ。大変なんだから、1日くらい大目に見てくれよ」 でもちょうどその時間、日菜は3か月も前から楽しみにしていた発表会を控えていた。 日菜は衣装を抱えたまま舞台裏でずっと待っていたけれど、発表会が終わっても孝介は姿を見せなかった。 家に帰ると、テレビで流れていた生中継に孝介の姿が映っていた。 孝介は美咲と勇太とおそろいの服を着ていて、美咲に親しげに腕を絡められても、嫌がる様子ひとつなかった。 司会者に結婚して何年になるのかと聞かれても、孝介は否定すらしなかった。それどころか、美咲の頬にかかった髪をそっと直し、優しげな目を向けていた。 勇太まで孝介の腰に抱きつき、大きな声で「パパ!」と呼んだ。 カメラが客席に向くと、拍手に混じって、二人をはやし立てる声があちこちから上がった。 日菜はしばらく黙ったままテレビを見つめていたが、ふいに、抱えていた家族3人を描いた絵を真ん中から破った。 「ママ、パパって、いつも誰かに借りていかれちゃうね。 これからはもう、パパのこと待たなくていいよね?」 真っ赤になった日菜の目を見た瞬間、私の中に残っていた最後の期待も、すっと消えた。 私はスマホを手に取り、弁護士の越谷宗一郎(こしがや そういちろう)にメッセージを送った。 【離婚協議書の準備をお願いします】

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Capítulo 1

第1話

宗一郎からは、すぐに返事が来た。

【離婚協議書は今夜中に作成できます。日菜さんの親権を希望するのであれば、今のうちから準備しておきましょう。まずは、これまでのメッセージのやり取りを整理しておいてください】

これまでのやり取りのスクショを一通り保存し終えたところで、玄関のドアが開き、孝介が帰ってきた。

孝介はテレビで見たのと同じライトブルーのおそろいの服をまだ着ていて、袖口にはクリームが少しついていた。その後ろには、勇太の手を引いた美咲もいた。

「何か食べるものない?勇太、行事が終わってからずっとお腹すいたって言ってるの」

孝介は上着を椅子の背に掛けると、いつもの調子で私に言った。

「うどんでも作ってくれ。ネギは少なめにな。勇太、あんまり好きじゃないから」

私は返事もせず、その場を動かなかった。

すると、破れた絵を胸に抱えた日菜が、私の後ろからそっと顔をのぞかせた。

「パパ、どうして日菜のダンス、見に来てくれなかったの?」

そこでようやく、孝介は日菜がまだ発表会の衣装を着たままだと気づいた。

孝介は一瞬黙ったあと、腰をかがめて日菜の頭を撫でようとした。

「今日は急に用事ができちゃってさ。今度はちゃんと見に行くから」

日菜はすっと身を引いた。

「先生、今日が最後の発表会だって言ってたよ」

「じゃあ、ママに撮ってもらえばよかっただろ。あとで俺が動画を見れば同じだろ」

孝介はそうあっさり言うと、ポケットから金色のメダルを取り出した。

「ほら、日菜にお土産」

日菜の目が一瞬ぱっと輝いたが、メダルを受け取った途端、その笑顔は消えた。

裏には、はっきりと「勇太」の二文字が刻まれていた。

それを見た美咲が、慌てて口元を押さえた。

「あっ、孝介、それ違うよ。それ、勇太が今日の親子行事でもらったメダル」

孝介は眉をひそめると、日菜の手からメダルを取り上げた。

「勇太のだったのか。じゃあ、これは返そうな。日菜はいい子だもんな。今度、新しいメダルを買ってあげるから」

日菜はしばらく両手を差し出したまま固まっていたが、やがてそっと手を引っ込めた。

「でもパパ、前に言ってたよね。メダルは自分で取るものだって。買ったものじゃ意味ないって」

孝介の表情が一瞬こわばった。

勇太はメダルをさっと取って首にかけると、日菜を見上げて、べーっと舌を出した。

「今日ね、孝介パパと一緒に走ったんだよ。僕たちが一番だったんだ!」

日菜はうつむいたまま、破れた絵をくしゃくしゃになるほど握りしめた。

私はそんな日菜をかばうように、一歩前に出た。

「食べるものはないよ。外で食べてきて」

その言葉に、孝介の顔がさっと険しくなった。

「絢香、日菜も勇太もいるんだぞ。そんな態度取ることないだろ」

美咲が慌てて孝介の腕をつかんだ。

「もういいよ。絢香さん、まだ怒ってるみたいだし。私、勇太と帰るね。うち今、水が止まってるけど、一晩くらいなら何とかなるから」

「水も出ないのに、無理して帰ることないだろ」

孝介は眉間を押さえた。

「客間、空いてるだろ。今夜はここに泊まっていけばいい」

私は孝介を見た。

「泊めるのは無理」

「何でだよ。客間なら空いてるだろ」

孝介は日菜を見ると、少しだけ声を和らげた。

「発表会に行かなかったのは悪かったよ。あとで日菜と遊ぶから。美咲たちは一晩泊まるだけなんだし、それくらいいいだろ」

そのとき、日菜がそっと私の服の裾を引いた。

「ママ、もう寝たい」

私は日菜の手を取り、そのまま部屋へ向かった。

すると、後ろにいた勇太が日菜のベッド脇に置いてあった小さなティアラに目を留め、美咲の手を振りほどいて、そのまま日菜の部屋へ駆け込んだ。

「これ、かわいい!僕、これつけたい!」

それは発表会のあと、先生が子どもたち一人ひとりにくれた記念品だった。

日菜は慌てて手を伸ばした。

「それ、日菜のだよ!」

勇太はティアラをさっと背中に隠した。

「孝介パパが言ってたもん。いいものはみんなで分けっこするんだって」

二人で引っ張り合っているうちに、ティアラが真ん中で折れた。

日菜はその場で固まった。

孝介はすぐに二人のそばへ来ると、真っ先に勇太を自分の後ろにかばった。

「こんなの安物なんだから、また買えばいいだろ」

日菜が顔を上げると、その目には今にもこぼれそうな涙がたまっていた。

「パパ……今日、日菜のもの、勇太くんにあげちゃうの、これで2回目だよ」

孝介は何も言えず、そのまま黙っていた。

日菜はうつむいたまま、破れた家族3人の絵を胸に抱きしめた。

まるでその絵だけが、孝介もかつては私と日菜の家族だったことを示す、唯一の証のようだった。

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第1話
宗一郎からは、すぐに返事が来た。【離婚協議書は今夜中に作成できます。日菜さんの親権を希望するのであれば、今のうちから準備しておきましょう。まずは、これまでのメッセージのやり取りを整理しておいてください】これまでのやり取りのスクショを一通り保存し終えたところで、玄関のドアが開き、孝介が帰ってきた。孝介はテレビで見たのと同じライトブルーのおそろいの服をまだ着ていて、袖口にはクリームが少しついていた。その後ろには、勇太の手を引いた美咲もいた。「何か食べるものない?勇太、行事が終わってからずっとお腹すいたって言ってるの」孝介は上着を椅子の背に掛けると、いつもの調子で私に言った。「うどんでも作ってくれ。ネギは少なめにな。勇太、あんまり好きじゃないから」私は返事もせず、その場を動かなかった。すると、破れた絵を胸に抱えた日菜が、私の後ろからそっと顔をのぞかせた。「パパ、どうして日菜のダンス、見に来てくれなかったの?」そこでようやく、孝介は日菜がまだ発表会の衣装を着たままだと気づいた。孝介は一瞬黙ったあと、腰をかがめて日菜の頭を撫でようとした。「今日は急に用事ができちゃってさ。今度はちゃんと見に行くから」日菜はすっと身を引いた。「先生、今日が最後の発表会だって言ってたよ」「じゃあ、ママに撮ってもらえばよかっただろ。あとで俺が動画を見れば同じだろ」孝介はそうあっさり言うと、ポケットから金色のメダルを取り出した。「ほら、日菜にお土産」日菜の目が一瞬ぱっと輝いたが、メダルを受け取った途端、その笑顔は消えた。裏には、はっきりと「勇太」の二文字が刻まれていた。それを見た美咲が、慌てて口元を押さえた。「あっ、孝介、それ違うよ。それ、勇太が今日の親子行事でもらったメダル」孝介は眉をひそめると、日菜の手からメダルを取り上げた。「勇太のだったのか。じゃあ、これは返そうな。日菜はいい子だもんな。今度、新しいメダルを買ってあげるから」日菜はしばらく両手を差し出したまま固まっていたが、やがてそっと手を引っ込めた。「でもパパ、前に言ってたよね。メダルは自分で取るものだって。買ったものじゃ意味ないって」孝介の表情が一瞬こわばった。勇太はメダルをさっと取って首にかけると、日菜を見上げて、べーっと舌を出した
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第2話
それを見た美咲は、慌てて日菜のそばにしゃがみ込んだ。「日菜ちゃん、泣かないで。ティアラはまた買えるよ。この絵も、テープでくっつけてあげようか?」そう言って、美咲は日菜が抱えていた絵を手に取った。日菜は慌てて取り返そうとした。けれど、その拍子に美咲の手から絵が落ち、テーブル脇でまだ灯っていたアロマキャンドルに触れてしまった。紙の端に火が燃え移り、私はとっさに素手で叩き消した。立ち上った煙にむせて、日菜が激しく咳き込んだ。日菜は気管支が弱く、軽い喘息もある。こんな煙を吸えば、すぐに咳き込んでしまう。火はすぐに消えたけれど、絵に描かれていた3人のうち、1人はもう焼けて見えなくなっていた。それを見た日菜は、とうとう堪えきれずに泣き出した。「ママ……パパ、いなくなっちゃった」美咲は慌ててティッシュを差し出した。「ごめんね、日菜ちゃん。本当にわざとじゃないの。また新しく描けばいいよ。ね?」私はその手を払いのけた。「出てって」孝介は勇太を美咲に任せると、声を落とした。「先に勇太と客間に行っててくれ。絢香には俺から話す」美咲たちが出ていくと、孝介は私の手首をつかんだ。「もういいだろ。美咲だって謝ったんだから」私はその手を振りほどいた。「日菜が泣いてるの、見えないの?」「子どもが泣くなんて、よくあることだろ」孝介はさらに声を落とした。「美咲は離婚してからずっと不安定なんだ。勇太の前であんなふうに追い返して、また傷つけたらどうするんだよ」私は孝介を見た。「じゃあ、日菜は?」「日菜には俺たちがいるだろ。今までだって、何ひとつ不自由させたことはないじゃないか」孝介は少し間を置いて、続けた。「お前がいちいち大ごとにするから、日菜まで気にするんだろ。絵が破れた、ティアラが壊れたって、そのたびに泣いてたら、これから先どうするんだよ」そのとき、寝室から聞こえていた日菜の泣き声がふっと途切れた。振り向くと、日菜がドアの陰に立っていた。うつむいたまま焼け残った絵を小さく折りたたみ、発表会の衣装のポケットにしまった。「パパ、もう気にしないよ」孝介は少し気まずそうに、日菜を抱こうと手を伸ばした。けれど日菜はその手を避けるように一歩下がり、そのままドアを閉めた。翌日、幼稚園の先生か
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第3話
孝介は先生たちの前で、迷いなく答えた。「明日は勇太と参加します」孝介の服の裾をつかんでいた日菜の手が、ゆっくり離れた。「前に日菜に言ったよね。父親参観では、一緒に凧を作ろうって」「凧なら、また今度一緒に作れるだろ」孝介はあっさり答えた。「勇太はさっき、俺のことをパパって呼んだせいで、クラスの子にいろいろ言われたんだ。明日俺が一緒に参加しなかったら、また何か言われるだろ」「だからって、日菜がみんなに笑われてもいいの?」孝介は周りを見た。「ここで言い合うなよ。みんな見てるだろ」美咲は目を赤くしたまま、私に言った。「絢香さん、私から孝介に、明日は日菜ちゃんと一緒に参加してって頼むよ。でも勇太のカウンセラーから、今はこれ以上、見捨てられたような思いをさせないほうがいいって言われてて……」私は美咲をじっと見た。「日菜は昨夜、何度も悪夢を見たの」「でも、日菜ちゃんには絢香さんがいるじゃない」言ってからまずかったと思ったのか、美咲はすぐに言い直した。「違うの、そういう意味じゃなくて……日菜ちゃんのほうが、勇太より恵まれてるって言いたかったの」日菜がふいに顔を上げ、美咲を見た。「パパのこと、勇太くんに1日だけなら貸してあげてもいいよ」そう言うと、日菜は指を折りながら数え始めた。「でも、もう何回も貸してるの。お誕生日も、運動会も、病院のときも、親子行事も……今度は父親参観まで。パパのこと、いつ返してくれるの?」誰も答えなかった。家に帰ると、日菜は棚から凧を取り出した。前に日菜と孝介が一緒に作った凧だった。ツバメの形をしていて、左右の羽はいびつに曲がり、そこには家族3人の名前が書かれていた。日菜は凧を抱えて、孝介のいるリビングへ向かった。「パパ、今日だけ一緒にやってくれない?明日は日菜、一人でできるから」孝介は、明日の父親参観で勇太が使う模型を組み立てながら、顔も上げずに答えた。「パパ今、手が離せないんだ。ママに教えてもらいな」「でも先生、パパに教えてもらってねって言ってたよ」「先生がそう言ったからって、そこまで言うこと聞かなくてもいいだろ」孝介は苛立ったまま接着剤に手を伸ばし、その拍子に腕が凧に当たった。凧が床に落ち、そこへ勇太が靴のまま乗った。ぱきっと音が
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第4話
父親参観の日、日菜は教室に入ろうとせず、直したばかりの凧を抱えて廊下の突き当たりに座り込んでいた。先生から電話をもらったときも、日菜は「今日はパパ、日菜のパパじゃないから」と繰り返すだけだった。私が幼稚園に着くと、美咲が孝介と勇太にスマホを向けていた。二人は親子で作った作品の前に並び、孝介は勇太の襟元をそっと直していた。そんな孝介を見つけると、日菜は駆け寄っていった。「パパ」孝介は振り返ると、少し眉を寄せた。「まだ教室に入ってなかったのか?」「先生がね、自分のパパに手伝ってもらってって」日菜は凧を差し出した。「ちょっと持っててくれるだけでいいの。すぐ終わるから」すると勇太が孝介の脚にしがみついた。「だめ。今日は僕のパパだもん」美咲が小声でたしなめた。「勇太、そんなこと言わないの。孝介おじさんは日菜ちゃんのパパでしょ」勇太は唇を尖らせた。「でも昨日、僕がいい子にしてたら、孝介パパ、ずっと僕たちと一緒にいてくれるって言ったじゃん」美咲の顔色がさっと変わった。「勇太が勝手に言ってるだけだから、気にしないで」私は孝介を見た。「今の、聞いた?」孝介は私と目を合わせなかった。「美咲も勇太をなだめるために言っただけだろ。そんな一言くらいで、いちいち責めるなよ」日菜はもう一度、凧を差し出した。「1分だけでいいから」孝介がようやく受け取ると、日菜の顔がぱっと明るくなった。けれど勇太がいきなり凧の尾をつかみ、強く引っ張った。「これ、僕の!」凧はびりっと音を立てて、真ん中から裂けた。日菜は何も言わず、その場にしゃがみ込み、破れた紙を一枚ずつ拾い始めた。美咲はすぐに勇太の腕をつかんだ。「勇太、ちゃんと謝りなさい」けれど勇太はその手を振りほどき、凧を抱えたまま階段脇の用具室へ走っていった。「やだ。これ、隠しちゃうもん」日菜もあとを追った。数分たって、制作が始まっても日菜は戻ってこなかった。私はすぐに教室を飛び出した。「日菜?」呼んでも返事はなかった。先生が防犯カメラの映像を確認すると、勇太が日菜を用具室に押し込み、ドアを外から閉めるところが映っていた。さらに、ドアの前には子ども用の椅子まで置いていた。美咲は口元を押さえた。「勇太は
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第5話
何度かハンマーを振り下ろすうちに、ようやく錠が壊れた。私は中へ飛び込み、倒れていた幕をどけた。日菜は部屋の隅で小さく丸まり、顔は真っ青だった。「日菜、ママだよ。分かる?」日菜は目も開けられないまま、私の指を弱く握り返した。救急車が着くと、救急隊員がすぐに酸素マスクをつけた。孝介も乗り込もうとしたが、私は前に出て止めた。「触らないで」「絢香、今は意地張ってる場合じゃないだろ」「日菜があの中でどうなってたかも分からないのに、よく映像なんて消せたね」孝介の顔からさっと血の気が引いた。そこへ美咲が勇太を抱いて走ってきた。「孝介、まだ行かないで。園長先生が警察に連絡するって。勇太はまだ5歳なの。こんなことで警察沙汰になったら……」孝介の視線が、救急車から美咲へ移った。それを見て、私は救急車のドアを閉めた。病院に着いて酸素を吸っているうちに、日菜の呼吸は少しずつ落ち着いた。しばらくして目を開けた日菜は、ぽつりと聞いた。「ママ……パパ、日菜のこと、誰にも見つけてほしくなかったの?」私は日菜の冷たい手を握った。「大丈夫。ママがちゃんと見つけたからね」「でも、パパは日菜を探しに来なかったよ」喉の奥が詰まり、何も言えなかった。日菜は枕に顔を埋め、それきり何も聞かなかった。30分ほどして、孝介と美咲が勇太を連れて病室へやって来た。孝介は日菜の好きなケーキを手に、声を落として言った。「来るの遅くなってごめんね」けれど孝介の姿を見た途端、日菜の呼吸が乱れ、モニターのアラームが鳴った。すぐに看護師が入ってきた。「いったん外でお待ちください。今は少し落ち着かせますから」孝介は何も言えず、その場に立っていた。私は孝介たちを廊下に出し、病室のドアを閉めた。「これから日菜に会うときは、先に私に連絡して。勝手に会うのはやめて」孝介の顔が険しくなった。「俺は日菜の父親だ」「父親なら、どうして日菜を助けるより先に映像を消したの?」孝介は何も言えなかった。そこへ宗一郎がやって来て、孝介に書類を差し出した。「こちらが離婚協議書と、別居についての通知書です。それから、防犯カメラの映像はクラウドにも残っています。削除した履歴も、操作に使われたアカウントも確認できます」美
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第6話
私の手首をつかんでいた孝介の手が、ゆっくり離れた。孝介は病室の外に立ったまま、私の胸に顔を埋める日菜を見ていた。「パパ、入ってこないで」日菜は震える声で続けた。「ママ、ドア閉めて」私はそのまま病室のドアを閉めた。ガラス越しに、孝介がまだそこに立っているのが見えた。午後、孝介の母が病院に駆けつけ、私の顔を見るなり言った。「美咲さんから電話があったんだけど……本当に警察にまで話すつもりなの?」私は日菜の布団をそっと掛け直した。「勇太くんは日菜を用具室に閉じ込めたんです。謝って、それで終わりにはできません。二度と同じことをしないように、ちゃんと教える必要があります」孝介の母は声を落とした。「まだ5歳なのよ。閉じ込めたらどうなるかなんて、分かるわけないでしょう。それに、日菜ちゃんはもう大丈夫なんでしょ?」私は孝介の母を見た。「誰が大丈夫だと言ったんですか?」「孝介よ。ちょっと怖い思いをしただけで、酸素を吸えば落ち着くって」ちょうどそこへ医師が入ってきた。「日菜ちゃんは喘息発作を起こしています。低酸素の状態がもう少し続いていたら、どうなっていたか分かりません。決して軽く見ていい状態ではありませんよ」孝介の母は気まずそうに口をつぐんだ。医師が出ていくと、今度は少し声をやわらげた。「映像を消したのは、確かにまずかったと思うわ。でも孝介だって、美咲さんが勇太くんまで取られるかもしれないって聞いて、焦ったんでしょう。放っておけなかったのよ」布団の下で、日菜の体が小さく震えた。私はスマホを手に取り、録音を始めた。「じゃあお義母さんも、日菜を助けるより先に勇太くんをかばったのは仕方ないって言うんですか?」孝介の母は答えなかった。「家族なんだから、そんな簡単に離婚なんて決めるものじゃないわ。もう離婚の話はやめなさい。日菜ちゃんにだって、お父さんは必要でしょう」そのとき、日菜がぽつりと言った。「おばあちゃん、パパがいても、いないのと同じだよ」孝介の母は言葉を失った。日菜は寝返りを打ち、私たちに背を向けた。「だって、パパはいつも誰かに借りていかれちゃうもん」それきり、孝介の母は何も言わなかった。退院の日、病院を出ると孝介が車で待っていた。チャイルドシートはきれいに
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第7話
引っ越して3日目、孝介が段ボールを一つ抱えてやって来た。玄関を開けると、孝介はそれを足元に置いた。「日菜の絵本と服。あと、ベッドの横に置いてたライトも持ってきた」私は中身をざっと確認したが、孝介を家には上げなかった。「ありがとう」淡々と返すと、孝介は少し顔をこわばらせた。「何だよ、そのよそよそしい言い方」「ほかに用は?」孝介はしばらく黙っていた。「美咲には、もう連絡するなって言った」「そう。それはあなたが決めることでしょ」「前はあんなに気にしてただろ」「今はもう、どうでもいいの」家の奥から、日菜と母の話し声が聞こえた。孝介は思わず家の中を見た。「今日の診察、どうだった?」「もう大丈夫だって」「日菜に会ってもいいか?」「聞いたけど、会いたくないって」孝介は段ボールの縁に指をかけたまま、少しかすれた声で言った。「新しい衣装も買ったんだ。先生から、来月また発表会があるって聞いた。今度はちゃんと見に行くから」「もういいわ。日菜、もう出ないって」孝介が顔を上げた。日菜はあのダンスを3か月も練習していた。毎日のように、発表会まであと何日か指折り数えていた。客席で孝介に見てもらえるのを、ずっと楽しみにしていた。それほど楽しみにしていたのに、日菜はもう出ないと決めた。孝介もようやく、あの日見に行かなかったことが、日菜にとってどれだけ大きかったのか気づいたようだった。「先生にもう一度聞いてみる。日菜、あんなに踊るの好きだっただろ」「踊るのが嫌になったわけじゃないの」私は少し間を置いた。「また、来てほしい人が来なかったらって思うと、怖いのよ」そのとき、奥でコップが床に落ちる音がした。私は振り返り、すぐに中へ入った。孝介の姿を見た途端、日菜の顔からさっと血の気が引いた。「ママ、日菜、何も悪いことしてないよ。ドアも閉めてないし、何も取ってないよ」孝介は日菜の前にしゃがんだ。「日菜、大丈夫だよ。パパ、怒ってないから」けれど日菜は、母の後ろに隠れた。「勇太くんのところに行けばいいじゃん。もうパパなんていらない」孝介の目元が赤くなった。「これからは、ずっと日菜と一緒にいるから」「じゃあ、勇太くんが泣いたら?」孝介は口を開いたが、言葉が
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第8話
翌日の午前中、孝介からメッセージが届いた。【美咲は低血糖だった。もう大丈夫だ】【昨日は勇太を一人にできなかった。子どもだけ病院に残して帰るわけにもいかなかったんだ】【絢香、今回は仕方なかったんだ】私は3通とも宗一郎に見せた。「これも資料に入れておいて」宗一郎は読み終えると、軽く首を振った。「こういうのを見ると、離婚を決めたのも無理はないですね」離婚調停の日、孝介は30分遅れてきた。シャツはしわだらけで、目の下にはくっきり隈ができていた。調停が始まると、孝介は真っ先に言った。「離婚する気はありません」私は用意していた資料を調停委員に差し出した。美咲から電話があったのは37回。孝介が急に家を出ていったのは21回。日菜の大事な行事を欠席したのは7回。さらに、幼稚園の防犯カメラ映像を削除したときの操作履歴も添えてあった。調停委員が内容を確認していくうちに、孝介の表情がだんだん硬くなっていった。「こんなことまで、ずっと記録してたのか?」「日菜の3歳の誕生日からよ」あの日、孝介は日菜と一緒にケーキのろうそくを吹き消すって約束していた。ところが、美咲から「勇太がお腹痛いって」と電話がかかってくると、孝介はそのまま病院へ行ってしまった。結局、勇太は食べすぎただけだった。それでも孝介が帰ってきたのは、次の日の朝だった。しかも、自分の分のケーキを残しておかなかったと、逆に私に文句まで言ってきた。調停委員は資料に目を通し終えると、孝介に向き直った。「親権を希望されるのであれば、こうした事情は不利に見られる可能性があります」「俺は日菜の親権まで欲しいって言ってるわけじゃありません」孝介はすぐに続けた。「ただ、離婚したくないんです」すると宗一郎が静かに口を挟んだ。「親権を争わないのであれば、話はかなり絞られます。それに、お二人が住んでいた家は、絢香さんが結婚前から持っていたものですから、財産分与の対象にはなりません。大きな借金もありませんし、財産関係も複雑ではありません」孝介が驚いたように私を見た。「家まで返せっていうのか?」「もともと私の家よ」孝介は何も言えなくなった。調停を終えて外に出ると、孝介が後ろから追いかけてきた。「絢香、もう一度だけチ
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第9話
孝介はその動画を、三度も見返した。動画の中では、勇太が美咲にこう聞いていた。「パパって呼んだら、孝介おじさん、うちに来てくれるの?」美咲は笑いながら、勇太におそろいの服を着せていた。「みんなが家族だと思えば、孝介さんだって勇太のこと、放っておけなくなるでしょ」三度目を見終えた孝介は、スマホを握りしめた。手の甲には青筋が浮いていた。「これ、誰からだ?」「美咲さんの元夫です。勇太くんのことで家庭裁判所に出す資料を集めていたときに、園に残っていたこの動画を見つけたそうです」孝介はすぐに美咲へ電話をかけた。「俺が『継父』って、どういうことだ?」美咲はしばらく黙ったあと、泣き出した。「勇太が、ひとり親だからって園で変な目で見られたら嫌だったのよ」「あの動画は?」「勇太がパパがほしいって言うから、ちょっと話を合わせただけよ」「じゃあ、あのとき俺をパパって呼ばせたのも、お前が言わせたのか?」美咲の泣き声が止んだ。次に口を開いたときには、さっきまで泣いていたのが嘘みたいだった。「孝介、今さら私を責めるの?おかしくない?私が電話すれば、毎回来たのはあなたじゃない。おそろいの服だって着たでしょ。私が腕を組んでも嫌がらなかったし、司会の人に夫婦だと思われても訂正しなかったじゃない」孝介の表情がこわばった。「美咲が一人で勇太を育てるのは大変だと思ったから、放っておけなかっただけだ」「言い訳やめてよ」美咲は鼻で笑った。「あなた、頼られるのが好きなのよ。絢香さんは家のことを何でも自分でやって、あなたに頼らない。でも私が泣いて、勇太にパパって呼ばれれば、自分が必要とされてる気になれた。そうでしょ?」「俺を利用してたのか?」「利用してたのは、あなただって同じじゃない。絢香さんに何か言われるたび、私のことを持ち出して言い返してたでしょ」美咲は止まらなかった。「絢香さんが嫌がるたびに、余計に私の肩を持ってたじゃない。絢香さんが気にすればするほど、あなたはこっちに来た。私と絢香さんに取り合われてるみたいで、気分よかったんでしょ。今さら絢香さんに愛想尽かされたからって、私のせいにしないでよ」電話の向こうで、勇太がわっと泣き出した。すぐに、美咲の苛立った声が飛んだ。「もう泣かな
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第10話
日菜が母と手をつないで入ってくると、孝介は思わず立ち上がった。日菜は一瞬だけ立ち止まった。それでも今度は震えず、母の後ろに隠れもしなかった。ただ、その場でじっと孝介を見ていた。孝介は目を赤くしながら、ゆっくり日菜の前にしゃがんだ。「日菜、これにサインしたら、今日はもう帰るから」日菜はテーブルの上の離婚協議書を見た。「これから、パパじゃなくなるの?」「そんなことないよ」孝介は少し黙ってから、続けた。「日菜がパパって呼んでくれるなら、これからもずっとパパだよ」日菜は少し考えてから聞いた。「じゃあ、また誰かに借りていかれちゃう?」孝介の目から涙がこぼれた。「もう、日菜を置いていったりしないよ」けれど日菜は首を横に振った。「でも日菜、もうパパのこと待ちたくない」「うん。じゃあ今度は、パパが待ってる」「日菜がずっと会いたくないって言っても?」「それでも待つよ」日菜は返事の代わりに、テーブルに置いてあったあの焼け残った家族の絵を孝介に差し出した。「これ、あげる」孝介は震える手で絵を受け取った。「もう、いらないの?」「先生がね、もう一回描こうって言ってくれたの」日菜は小さな声で続けた。「今度はね、ママと、おじいちゃんと、おばあちゃんと、日菜だけ描くの」孝介が目を閉じると、頬を伝った涙が絵の焦げた縁に落ちた。しばらくして、孝介は床に落ちていたペンを拾い、離婚協議書に名前を書いた。手続きを終え、私たちは正式に離婚した。家は財産分与の対象にはならず、日菜の親権者は私になった。孝介は毎月養育費を払い、日菜との面会は、本人の気持ちを最優先にして決めることになった。その後、孝介は小さなマンションに移った。孝介の母の話では、孝介は毎週のように幼稚園の前まで日菜に会いに来ていたそうだ。日菜が会いたいと言った日は、少しだけ話をした。会いたくないと言った日は、持ってきたものを先生に預け、そのまま帰っていた。許してくれとも、もう言わなかった。一方、美咲の元夫は、定期的に勇太と会えるようになった。美咲も、もう自分の都合で面会を断ることはできず、勇太に孝介を「パパ」と呼ばせることもなくなった。その後、美咲から長い謝罪のメッセージが一度だけ届いた。私
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