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……その日から、私は智也に会っていなかった。後になって結衣から聞いたんだけど、彼女はある場所を通りかかったとき、ゴミ箱のそばで縮こまっている智也を見かけたらしい。その話を聞いて、私の心はざわついた。何年も一緒にいたんだから、さすがに放っておけなかった。私は結衣に場所を教えてもらった。数日会わないうちに、智也はもっと痩せたみたい。寒さのせいか、まっすぐだったはずの背中もずっと丸まっていた。薄っぺらい服を着て、ゴミ箱の裏の風よけになる場所に隠れながら、何度も白い息を吐いていた。その姿を見て、私はため息をつきながら上着を差し出した。智也は体をこわばらせた。そして上着を受け取ると、俯いて私の顔を見ようとしなかった。しばらくして、彼は口を開いた。「こんなに落ちぶれた姿、すごくみっともないだろ?ごめん、最後に良い印象を残せなくて」私は智也をじろりと睨んで、温かい飲み物を渡した。「どうしてまだ帰国しないの?」彼は少し間を置いて、小さな声で言った。「パスポートをなくして、スマホも盗まれたんだ。それに、F国語もあまり得意じゃないし……」智也の声は、どんどん小さくなっていった。私は彼をホテルに泊まらせて、大使館に連絡してあげた。必要な手配を終えると、私はホテルを後にした。やれることは全部やった。離婚した後、私たちはもう、一生会うこともない。智也が帰国するまでまだ少し日があった。その間、彼は毎日会社の送り迎えをしてくれて、まるで昔に戻ったかのようだった。でも、これが全部うわべだけだってことは、私たちはわかっていた。なにもかもが変わってしまった。私たちはもう、昔には戻れない。智也が帰国する日、私は空港へ見送りには行かなかった。夜、仕事から帰ると、テーブルの上に指輪が置いてあった。この指輪は、前に私の誕生日の時、彼がくれたもの。もともとペアリングで、私たちの永遠の愛のしるしだった。だから、二人で一つずつ持っていたのに。まさか、二つとも私の手元に戻ってくるなんて。私は自分の指輪を探し出し、智也の指輪と一緒に、マンションの庭の奥深くに埋めた。数か月後、私は一度帰国し、智也との離婚手続きを終えた。そして、また平穏な生活に戻ることができた。毎日仕事に没頭して、暇なときは結衣と買い物
結衣はF国に何年か住んでいたので、こちらにも友達がたくさんいた。今夜集まってくれたのは、みんな彼女の女友達だった。私たちは思いっきり飲んで、お互いのことをたくさん話した。おかげで気分は本当にすっきりした。いつの間にか、お店の客もまばらになって、結衣はもうぐでんぐでんに酔っぱらっていた。彼女の様子を見て、私はこっそり悠斗に電話をかけた。「悠斗さん、私たちを迎えに来てくれない?今夜はみんな、かなり飲んじゃって」電話の向こうの悠斗の声は落ち着いてたけど、すごくイライラしてるのが伝わってきた。「わかった」彼が来るまでまだ時間があったから、私は個室を出て少し風にあたった。すると、向かいから来た外国人の男性とぶつかった。その人はひどく酔っぱらっていて、いやらしい目で私をじろじろ見てきた。「おや、かわいいお姉ちゃん。見かけない顔だね。こっちに来てキスさせておくれよ。他の女と一緒かどうか、確かめてあげるからさ」言い終わると、男は私に近づこうとしてきた。私は顔をしかめて、とっさに足元にあった空き瓶を拾い上げた。海外に来てから、私も少し護身術を習っていたんだ。でも、私が何かする前に、その男性は細身の人影に蹴り倒された。その人は夢中で彼を殴りつけていて、一発一発がすごく重そうだった。最初は必死に謝っていたけど、そのうち外国人の男性は意識を失ってしまった。でも、上に乗っかっている男は殴るのをやめようとしない。このままだと死んじゃうかもしれないと思って、私は勇気を出して近づいた。「あの、さっきは助けてくれてありがとうございます。彼はもう気を失ってますよ」そう言った瞬間、私は固まってしまった。智也のやつれた顔が、目に飛び込んできたから。どうりで、後ろ姿に見覚えがあると思ったんだ。智也だとわかっても、私は足を止めずに、ゆっくりと彼を支え起こした。だって、さっき智也がいなかったら、私がどうなっていたかわからないから。私は彼にハンカチを渡した。「拭いて、手が血だらけだよ」智也は黙ってそれを受け取ると、複雑で、ためらうような目で私を見た。彼がなにか言いたそうにしているのがわかったから、私から聞いてみた。「なにを言いたい?」私がそう聞くと、智也の黒い瞳が揺れて、信じられないくらいかすれ
智也は唇を震わせ、どもりながら言った。「由理恵、許してくれないか?俺たちの15年間を、そんな簡単に捨てられるはずがないだろ?あんなにたくさんの辛いことを乗り越えて、やっと一緒になれたんだ。それなのに、今になって俺と本当に別れたいっていうのか?子供を作ろうって言ったじゃないか。一緒に旅行へも行こうって。大雪の日に愛を告白し合う約束もした。できることはまだたくさんあるんだ。約束をまだ果たせていないのに、俺から離れていくつもりなのか?!」彼はほとんど叫ぶように言いながら、体は震え続けていた。この15年、私は智也がこんな風にヒステリックになるのを見たことがなかった。記憶の中の彼は、いつも物腰が柔らかくて紳士的だった。誰にでも気さくに接していたし、特に私にはすごく優しくて、怒ったことなんて一度もなかったのに。愛って、本当に人を変えてしまうんだな。もし以前、こんな智也の姿を見ていたら、私は心が揺らいでいたかもしれない。でも今となっては、彼への気持ちはとっくに消え去ってしまっていた。私は智也の打ちひしがれた目を見つめて、一言一言、区切るように言った。「智也、私たちはもう終わったの。終わったんだから、きれいさっぱり別れよう。もう付きまとわないで。心変わりはどんな形であっても許せないの。私が欲しかったのは、一途な愛だけ。私はあなたにそうしてきたし、あなたにもそうしてほしかった。あなたが昔どんなに優しくても、心変わりしたのは事実でしょ。その優しさを、二人にあげていたじゃない。あなたが小林さんを愛していたかはどうでもいい。あなたの気持ちが揺らいだ、その瞬間に私たちは終わったの。ずっと私だけを愛していたって言うけど、もし本当にそうなら、彼女のことなんて気にもしなかったはずよ」私が一言口にするたびに、智也の顔は青ざめていき、最後には血の気が完全に引いていた。彼はまるで力が抜けたようにその場に座り込み、瞳から光がゆっくりと消えていった。私はその落ち込んだ様子を気にせず、言いたい話を言い捨てて結衣の手を引いてその場を離れた。……マンションに戻ると、結衣が心配そうに私を見つめ、何か言いたげに口をもじもじさせていた。彼女の言いたいことは分かっていたので、私は苦笑いしながら言った。「聞いていいよ」私の許可が出ると、結衣
これまでの十数年、私の生活は智也中心だった。仕事も勉強もそっちのけで、人生がすっかり止まっちゃってたんだ。ずいぶん長く止まっていたけど、そろそろ再スタートしなきゃ。食事はとっても楽しかった。食事中、結衣がずっと料理を取り分けてくれて。彼女がいると、その場がぜんぜん気まずくならないんだ。私たち、すぐに意気投合しちゃった。食事の後、私は二人について会社へ行って、正式にSYグループの一員になった。悠斗が用意してくれたオフィスは、広くて日当たりも良く。隣は結衣のオフィスだった。私たちは仕事が終わると、よく会社のビルの下のレストランでごはんを食べたり、近くの居酒屋でちょっと飲んだりした。話が盛り上がった時には、近くの別のバーでもっと羽目を外しちゃったりもした。でも、バーに入る前によく悠斗に見つかって、止められていた。そんなとき、結衣はいつもぷんぷん怒っていた。「由理恵さんが一緒なんだから、心配いらないでしょ?!私が浮気なんてするわけないじゃない!」そして、悠斗は片方の手で結衣のおでこをツンツンした。「あんな場所は危ない連中もいるから、君たちだけで行くのは心配なんだ。だから、俺が一緒じゃない時は、行かないでくれ」そんな二人のやりとりを見てると、私はつい笑っちゃうんだ。彼らのことを見てるだけで、幸せな気分になる。私と智也との関係とは、まったく違った。このまま穏やかな毎日が続くんだろうなって思ってた矢先に、智也がやって来た。……私が国内を離れてから1ヶ月ほど経って、仕事も少しずつ落ち着いてきた。いつものように結衣と息抜きに会社のロビーへ降りたら、見慣れた人影が目に飛び込んできた。その人の顔をちゃんと見るより先に、彼が突然駆け寄ってきて、私をぎゅっと強く抱きしめた。肌に触れる体は驚くほど冷たく、震えが止まる様子がない。まるで、一度失くした宝物をようやく見つけ出したかのような、そんな切実な強さで彼は私を抱きしめていた。「由理恵、やっと会えた。話を聞いてくれ!俺と楓は、君が思ってるような関係じゃないんだ!確かに、彼女とは一時付き合っていた時期があった。でも、俺の心の中に彼女の居場所なんて少しもないんだ!愛してるのは君だけなんだ!ほんの一時、楓に誘惑されて、体の関係に溺れてしまっただけなんだ……
そしてすぐにSIMカードを取り出すと、ぱきっと折ってゴミ箱に捨てた。空港に着くと、悠斗はもう待っててくれた。彼は私の姿を見つけると、手に持っていたユリの花束を軽く掲げてみせた。「由理恵、こっち!」悠斗の声が聞こえて、私は笑顔で視線を合わせた。何年も会わないうちに、彼はもっと大人びた感じになっていた。私も手を振って、挨拶を返す。悠斗は親しげに、私の手からスーツケースを受け取ってくれた。「俺たち、最後に会ったのって、もう何年前になるっけ?」彼の言葉に、昔のことがだんだんと思い出されてきた。私と悠斗は高校の同級生で、大学でも同じ服飾デザインを専攻した。高校の時は席が隣でいつも助け合ってたし、大学ではみんなが認める最高のパートナーだった。私がデザインに込めた工夫は悠斗には全部伝わったし、彼のデザインの考え方も私とぴったりだった。私たちは、本当に気の合う仲間だったんだ。あの頃は悠斗とすごく仲が良かったから、友達によく二人の関係をからかわれた。でも、当時の私は智也に夢中で、悠斗の気持ちには、全然気づかなかった。大学を卒業してからは別々の道に進んだ。悠斗は海外へ留学し、すぐにデザイナーとして国内外で有名になった。その後、自分のアパレル会社を立ち上げて、手が届くくらいの高級ブランドが幅広い層に人気で、業績もすごくいいって聞いてる。彼の事業が軌道に乗った頃、「一緒にやらないか」って誘ってくれたことがあった。高校からずっと最高のパートナーだったから、その誘いはすごく嬉しかったし、正直、心が揺らいだ。でも、その頃はもう智也と結婚して何年も経ってた。彼は私が仕事で苦労するのが嫌だからって、働くこと自体に反対だった。「俺が養ってあげるから、それでいいじゃないか」って。だから私はほとんど考えることもなく、悠斗の誘いを断ってしまった。今になって思えば、本当に馬鹿なことをしたな。昔のことがありありと思い浮かんでくる。私は空港を行き交う人たちを眺めながら、ふっと笑みをこぼした。「あっという間に、こんなに時間が経っちゃったんだね」それを聞いて、悠斗も楽しそうに笑った。「ほんと、時間は待ってくれないもんだね」久しぶりに会ったせいか、昔よりなんでも気楽に話せる気がした。私たちはいろんな話をした。
体に積もった雪のことなんて、ふたりとも気にもしなかった。私は、まだ待っていた。昔、私は智也と約束したことがある。こうして一緒に雪景色を見るたびに、お互いへの想いを伝えあおうって。でも、今、目の前で雪景色に見とれている男を見て、昔の約束などすっかり忘れているのだろうと、私たちはもう一緒にはいられないのだと、改めて思い知らされた。遠くから何かが近づいてくる音がして、胸にいやな予感がこみあげてきた。思わず顔を上げると、大きな岩がまっすぐ私めがけて転がり落ちてくるところだった。頭が真っ白になった。次の瞬間、ドンッという衝撃。まるでトラックにでも轢かれたみたいだった。「うっ――」胸をおさえて、あまりの痛さに息をのんだ。額には、じっとりと冷や汗がにじみ出ている。「由理恵!」智也の声は驚きで裏返っていた。その目はみるみるうちに真っ赤に充血して、熱い涙が頬を伝っていく。「由理恵!大丈夫か?今すぐ病院に連れて行くからな!」恐怖に歪んだ彼の顔を見て、私は鼻で笑った。さっきまで智也は私のすぐ近くにいた。私を安全な場所に引っ張る時間なんて、いくらでもあったはずだ。それなのに彼は、スマホに夢中だったせいで、岩が転がり落ちてくる音さえ聞こえなかったんだ。私は智也のスマホに目を落とした。まだ画面が消えていなくて、トーク画面の名前が見えた。【楓ちゃん】ずいぶん親しそうに呼ぶものね。智也はもう救急車を呼んでいた。もうすぐ着くらしい。その時、私のスマホにメッセージが何件か届いた。開いてみると、相手は楓だった。【智也さんから聞きました。今、思い出の場所に行っているんですって?】【今日は彼の誕生日でしょう?あなたの誕生日のときは智也さんは私といたけど、今回はどうでしょう?また私のために、あなたを置いてきちゃうかもしれませんね?】私はざっと目を通すと、スマホの画面を閉じた。今の智也がどうしようと、もう私には関係ない。もうすぐ、私の新しい生活が始まる。そこには智也も、楓もいない。私を悩ませるものは、何もないんだ。特別設定の通知音が鳴って、智也の顔がこわばった。そして、おそるおそる私の顔色をうかがう。私が平然としているのを見て、彼はやっと気づかれないようにそっと息を吐いた。私は彼の、まるで誰も気づかないと