ふんっ、なによ!気取っちゃって!陰険メガネ!傲慢男!冷血漢!最低男!大嫌いっ!
雪乃は胸の内で悠一に対する罵詈雑言を叫んでいたが、表面上はただぷんぷんと癇癪を起こしているだけのように見えた。
悠一の母親に子供の頃のようだと言われて恥ずかしかったのと、それを聞いて笑った彼に腹が立ったので身の置きどころがなかった。
虚勢でもいいから張っていないと、地面にめり込んでしまいたくなる。
絶望はしたけれど、嫌いになって別れたわけじゃない。だからどうしてもまだちょっとした事で…例えば笑顔を見せられる、とか…で少しときめいてしまう。
そんな不甲斐ない自分が、情けなくて泣きたくなる。
「まったく、あなたって娘は…」
ため息と共に呆れたように腰に手をやり、今にもお説教を始めそうな雪乃の母親に、悠一は微かに微笑んで言った。
「とりあえず式も無事終わったことですし、帰りましょう」
「そうね。それがいいわ。あなた達、今日はよく話し合いなさい」
「はい、お祖母さん」
「……」
素直な悠一に慣れない…。
前世?では式の間中、悠一は不機嫌だった。
いやいや誓いの言葉を述べ、いやいや指輪をはめ、神父さまの宣誓が終わった途端、ブーケトスも、ライスシャワーも飛ばしてスタスタと教会を出て行ってしまった。
「もっと愛想よくしなさい」とか「雪乃に寄り添っていなさい」とかお祖母さまから色々言われていたけれど、その全てに彼は聞こえないふりをしていた。
それなのに、なんなの???
雪乃の頭の中はクエスチョンマークで埋め尽くされていた。
「雪乃」
呼ばれて顔を上げると悠一は手を伸ばし、彼女の腕を取ろうとした。
「なに?」
「車、こっち」
式の招待客は身内しかいなかった為、悠一は雪乃の藤堂家の人にだけ見送りをして、那須川家の人達には軽く頷くだけで背を向けた。
そして新居へ行く為、自分たちの車に雪乃を案内しようと彼女に声をかけたのだった。
雪乃は「知ってるし…」と思ったがそれを言う訳にもいかず、「うん」と頷いて彼の後をついて行った。
車内。
「奥さま、お疲れではないですか?」
「大丈夫よ。ありがとう」
そう言ってニコリと微笑んだ雪乃に、運転手の立野誠(たちのまこと)はバックミラー越しに頷いた。
優しそうな方だな。美人だし。社長も嬉しそうだ…。
長年那須川家に運転手として勤め、悠一とも彼が幼い頃からの付き合いである立野には、彼が無表情のように見えて実は楽しんでいるのが分かった。
今朝教会に向かう時の不機嫌さと比べるとその差は歴然としており、いったい何があってそんなに機嫌が良いのか不思議だった。
基本、無表情だしな…。
後部座席の新婚夫婦が気になって仕方ない立野だった。
「なんだ?」
だがそれに気が付いた悠一に冷たく問われ、慌ててミラーの角度を調節した。
「なんでもありませんっ。失礼しましたっ」
焦って謝罪すると、悠一は「うん」と言ったきり、また自分の横に座る妻となった雪乃に視線を向けた。
「なによ、さっきから」
「別に。気になる?」
からかうように言われて、雪乃は「全然っ」とそっぽを向いた。
それを見て、悠一は目を細めて楽しそうに微笑った。
デレデレだ…。
珍しいものを見て立野はポカンと口を開けた。
そうしたらすぐに「集中しろ」と注意され、慌てて背筋を伸ばし、ハンドルを握りしめたのだった。
車の中に緊張感と甘さが漂うという変な空気に、雪乃はうんざりしてため息をついた。
「どうした?緊張しているのか?」
「冗談でしょう?ねぇ、悠一…あなた、一体どうしちゃったの?」
そう言うと、一瞬驚いたように目を見開いた悠一が雪乃の手をそっと取り、言った。
「呼びすてにされるの、新鮮でいいな。嬉しいよ」
「あ…ごめんなさい」
そういえば婚約するまで「お兄さん」、婚約してからは「悠一さん」て呼んでたんだった。
そう気づいて謝ると、悠一は握った手を軽く叩き、真剣な目つきで言った。
「謝らなくていい。寧ろそう呼んでもらえて嬉しいよ」
「……」
雪乃はその大きな瞳をパチパチと何度か瞬き、目の前の男を見つめた。
本当にどうしちゃったの!?この人、那須川悠一よね?間違ってないわよね!?
これまでどんなに頑張っても冷たい眼差ししか向けてもらえなかったのに、なんでこんな甘々なの??
訳がわからなくて頭が混乱してきたので、とりあえず考えることを放棄した雪乃だった。
今世で双子と対面して1週間が経った。この間、悠一は驚くほど育児に協力的で、ミルクを作って飲ませ、ゲップをさせて宥めたり、おむつの汚れを確認しては取り替えたり、お風呂に入れてスキンケアをしたり…とかなりのスキルを身につけていた。ただ、なぜか子供たちを外に連れ出すのだけは禁止しており、いくら言っても散歩など連れ出す事はやらず、日光浴が必要だと言えばわざわざ日当たりの良い部屋を改装して大きな窓を設け、十分な日差しが差し込むようにしたのだった。そんな調子だから、検診なんかも邸の方に保健師や医師、看護師を呼び寄せて行った。「このままずっと閉じ込めて育てるつもり?」納得のいかない雪乃が尋ねると、悠一はまたか…というようにため息をついた。「そんなつもりはない。ただ、今は駄目だ」「どうしてよ。いつならいいの?」この質問には眉を顰めるだけで、答えてくれなかった。雪乃は苛ついて、最近よく使う捨て台詞「頑固爺っ」と呟いて悠一の書斎を出て行った。悠一は今日、午後過ぎまでに急ぎの仕事を終え、残りの仕事を持って帰って来たというのにそんな言葉を投げ付けられ、俺、可哀想じゃない?と思い、フッと笑った。悠一を知る者が今の自分たちを見たらきっと、目玉が飛び出るほど驚くに違いない。彼は少し考え、それから携帯で秘書の真木宗太(まきそうた)を呼び出し、指示した。「そうだ。春奈に伝えろ。戻って離婚届にサインするように。断ったら?次に会うのは裁判所になる。それからこれ以上の支援はしない。そう言え。返事を先延ばしにしようとしたら即支援打ち切りだ。3日以内に戻るように伝えろ」『わかりました』通話を切ると、悠一は眼鏡を外して疲れの滲む目元を軽く揉みほぐした。やっと終わりにできる…。悠一は1年前、突然春奈が自分の前に現れてから起こった数々のゴタゴタを思い起こし、今それがやっと解決しそうだと安堵し、はぁ…と息をついた。「雪乃…」その名を呼ぶだけで、胸の中に温かい気持ちが湧き上がる。少年の頃に見失った想いがまた再び蘇ってきたことに、自分でも知らず微笑みを浮かべていた。
白川麻衣の実家STグループは大手の通販会社を経営しており、洋服だけでなくインテリアや生活用品、雑貨小物までありとあらゆる物を販売していた。中でもファッション関係は彼らの強みで、ベビーから年配層まで、カジュアルから正装、礼服、ドレス、部屋着や寝衣、肌着、ランジェリー等々…およそ扱ってない物はないのでは?と言われるほど幅広く扱っていた。しかも自社ブランドも持っていたので価格的にも抑えめで、もちろん高級品の取り扱いもあったので、販売対象も一般家庭から富裕層まで網羅し、希望があればオーダーメイドも受け付ける為、デザイナーまで抱え込んでいた。この最早通販会社とは言えない一大企業を担う白川哲司(しらかわてつじ)は麻衣の父親で、雪乃は彼女を通じて自分のデザインが商売になるのかを見てもらい、そしてその機能性を考慮した高いデザイン性に目をつけた彼に、スカウトを受けていた。「それは駄目よ、お父さん。彼女は自身のブランドを立ち上げたの。で、私とこの子ー」「よろしくお願いします」「友香と雪乃の3人でデザイン事務所を開いたのよ」雪乃と麻衣よりも2歳年下の友香がペコリと頭を下げ、麻衣はフフンと得意気に父親に対して顎を上げた。「私に黙ってそんな事を?資金はどうしたんだ?」白川哲司が娘を心配して眉を寄せるのを、雪乃は微笑ましげに見つめた。「心配ないわ。まだ開いたばっかりで小さな事務所だし、人だって私たち3人だけだから。後のことは稼いでから考えるわ」その無謀とも思える楽観的な計画の無さに呆れたように苦笑する哲司は、雪乃をちらりと見てしばらく考えに沈んだ。そして徐ろに提案した。「どうだろう。うちは縫製事業もしているから、君のデザインをうちに売ってくれないだろうか?もちろんデザインの価格はその都度交渉させてもらうとして、利益還元もきちんとさせてもらうし、それに君にとっては名前を売るチャンスになると思うんだが?」雪乃を始め、麻衣も友香も、その破格の申し出に瞳を輝かせ、特に麻衣はすぐさま父親に飛び付いて喜びを伝えた。「ありがとう、お父さん!大好き!」「いい歳をして、やめなさい」そう言いながらも嬉しそうに目を細める父娘の姿は、雪乃の胸の中に一抹の寂しさと羨ましさを湧き上がらせた。雪乃の両親は格別厳しかったり、冷淡だったりしたわけではない。たぶん世間一般的な、どこにでもいる
とあるマンションの一室。藤堂雪乃は手元のスケッチブックに描いた子供服のデザイン画を見て、「うん」と満足そうに頷いた。前世、子供たちの世話に日々明け暮れ、外に出かけることすら容易にできなかった時、ただなんとなく始めたベビー服のリメイクにいつの間にか楽しみを見出していた。ここ、こういう風になってたら着替えやすいのに…とか襟にはこの生地使った方が柔らかいし、スタイとしても使えるように取り外しとかできると便利よね〜とか。色々考えて、暇を見つけてはチクチク縫ってリメイクしていた。おかげで裁縫の腕も上がって、そのうち子供も大きくなって手が離れたら1からデザインして子供服作るのもいいな…なんて思って、いそいそとデザイン画なんてものまで自分流だけど描いていた。まぁ、結局作れなかったんだけど。雪乃はその頃の事を思い出しながらスケッチブックを埋めていき、その経験が今世で役立つ事を皮肉に思った。「わぁ〜、沢山描いたのね!」声の主は親友の白川麻衣(しらかわまい)で、もう一人、3人で起ち上げたこの小さな事務所の、経理等全般を任せている原友香(はらともか)も驚いて目を見開いていた。2人は雪乃が夢中になってデザインを描いているのを邪魔しないようそっと昼食を買いに出て、たった今戻ったところだった。「どうかな?」買ってきた食事を側のテーブルに置いて広げ始めた2人に、デザイン画を差し出しながら尋ねた。2人は顔を見合わせて、すぐさま彼女の描いた様々な子供服のデザインに目を通した。「いいですね!私、これ好きですっ」友香が満面の笑みで褒め称える。「うん」麻衣も満足そうに頷いた。「明日、早速うちに行こう!これならイケるよ」そう言って、彼女もニコリと笑った。
「さっきから〜なんのぅ話しをぅしてるんですか〜ぁ?」突然背後から割り込んできた声に、悠一も直也も、電話越しの雪乃も黙り込んだ。「廉、大事な話をしてるんだ。あっち行ってろ」「えぇ~?大事な話ってぇ、なんですかぁ?」酔ってるな…。普段チャラけたキャラで場の雰囲気を楽しませる廉だったが、今夜は自分の敬愛する兄貴分である悠一の結婚祝いということで、ずいぶんと酒が過ぎたようだった。「ていうかぁ、な〜んで、呼んでくんなかったんすかぁ?結婚式ぃ〜」「……」「あ、わぁかった〜。したくなかったんでしょ〜?結婚〜」「おい…」いい加減絡まれるのに苛ついてきた悠一が、低い声で威圧した。「死にたいのか…?」ヒッ…ク……その瞬間、並木廉は覚醒したかのように目をパチパチさせてぴっと姿勢を正した。「す、すみませんっしたぁ!!」バッと頭を下げてすぐさま2人から離れた。「…たく。飲み過ぎだ、あいつ…」直也は仕方ないな…とでもいうように苦笑いをして悠一を見た。悠一は切れた雪乃との通話を惜しむように、スマホをじっと見つめていた。「かけ直すか?」「…いや」おそらく出ないだろう…。でもーそして画面に表示された時計を見て、外した眼鏡をかけた。グラスに残った酒をまた一口飲み、唇を潤した。トゥルルルル…「雪乃?」まるでかかってくるのがわかっていたかのような速さでスピーカーボタンを押し、応えた。『早く帰って来て。そろそろお風呂の時間よ』「わかった。今から出る」『うん』通話を終えた悠一がスツールから立ち上がり、2人の会話に驚いて固まっている直也に向かって言った。「先に帰る。後は適当にして」「あ…わかった。……て、待てっ」脱いだ上着に手を通していた悠一が目線を寄越す。「風呂って、子供の?」「そうだ」「お前が入れてるのか?」「そうだ」「……」淡々と答える親友の姿に、直也は言葉を継ぐことができなかった。嘘だろ…。悠一が子供の風呂とか……世話してる??あり得ない………。今も直也が目にする悠一の姿はいつもと同じ、一分の隙もないもので、つい今しがたの会話を聞いていなければとても信じる事ができなかった。だがー「直也、また」片手を上げてそう言い、背を向けた彼の足取りはどこか余裕がなく、そのくせ目元が僅かに緩んでいることに気が付いた直也は内心少し嬉
U市中心部繁華街。ファッションビルが建ち並ぶこの街は昼間若者たちで賑わう活気ある場所だったが、夜になるとその様相をネオン煌めく大人の街へと変える。その中でも『Shangri-La』(シャングリ・ラ)というクラシカルな趣きのバーには2階にVIP個室があり、あらゆる層のお金持ちが夜な夜なお酒を酌み交わし、商談であったり、単に友好を深めたりと利用していた。ただ、同じ階の奥にあるVIP室は特別で、利用できる人間がある程度決まっていた。那須川悠一はその個室を年間で予約しており、彼の招待がなければ誰であろうと使うことが許されなかった。その部屋には専用のバーカウンターがあり、専用のバーテンダーやウエイター、そして接客要員の女性たちがいた。彼らは特に教育が施され、この部屋を利用する特別な人物たちに対応すべく、店側との秘密保持契約まで結ばれていた。つまり、ここであったこと、見たこと、聞いたことは全て"見ざる 言わざる 聞かざる"という事を徹底していた。もし万が一にもリークされるような事があった場合、店もそこにいた者も全てが平穏な人生を送ることができなくなる覚悟がいる…という事だった。それを堅苦しいと思う人間は利用しないし、安心できると思う人間は集ってくる。悠一は元来真面目な性格なので、酒を注いだり話し相手になったりというような女性は必要としなかった。が、必要とする人間もいるということでいつも人数を揃えているが、決して自分に近づけようとはしなかった。それは今夜も同じで、彼の友人が彼の結婚を祝してパーティーを開いてくれていたが、彼自身は親友といえる長谷直也(はせなおや)とずっと静かに酒を飲んでいるだけだった。「那須川悠一さんの結婚を祝して、かんぱ~い!!」弟分を自称する並木廉(なみきれん)の音頭で皆がグラスを合わせ、何度目かの乾杯をする。あちこちから掛けられる「おめでとうございます!」という言葉にグラスを掲げてお礼とし、主役である悠一は一時落ち着かなかったがやがてそれも次第に静まって、皆が思い思いに騒ぎ始めていた。それを見回し、悠一は一つ息をついた。「どうした?」親友の長谷直也に問われて彼は「いや…」と言い、だがその顔には疲れが滲んでいた。悠一は長年、自身の事情についてこの親友以外にはほぼ誰にも語っておらず、今夜も内心の複雑な心境を吐露したいと、そし
「春奈との離婚が成ったら必ず籍を入れる。だから子供たちを俺たちの子供として育ててくれないか?」真剣な顔でそう言われたが、雪乃の返事は決まっていた。「いやよ」「!」まるで「なんでだ!?」と言っているかのように目を見開いて固まる悠一に、雪乃はバッグから出したハンカチで目尻に残った涙を拭いて言った。「離婚の見通しも立ってないのに、口約束でそんなことする訳ないでしょう?」「でも俺だけじゃあ、子供は育てられない」「…中川さんたちがいるじゃない。今までできてたんだから、できるわよ」「雪乃……」指先が白くなるほどきつく握られた悠一の手に、彼は額をつけてため息をついた。「お願いだ…」「いやよ」「雪乃!」「なによ!」2人の睨み合いに周りがオロオロとしていた。「雪乃……頼むよ…」「……」絞り出すような声音で苦しげに言う悠一。小高ですら、こんな彼の姿は初めてだった。悠一は那須川家の後継者として、常に将来人の上に立つ立場になるに相応しい人物となるよう、厳格に育てられた。それ故にそのプライドは山のように高く、こんな風に誰かに懇願する姿など想像したこともなかった。それだけ雪乃を気に入っているということなのだろうが、やり過ぎはよくない。きっと今も胃痛がするほど悔しいに違いない。小高は悠一の青褪めた顔と手の甲に浮く血管に、心配げに眉を顰めた。一方雪乃は、そんな悠一を訝しげに見ていた。なんなの…?前と全然違うんだけど…。まさか、私が前と同じようにしないから??じっと見ていると悠一が言った。「駄目か…?」「…」「雪乃?」「……ずるいわ」ひどいっ。そんな顔で言われたら断りづらいじゃない!いつもは冷たく見下すような視線しか向けてこなかった悠一が、まるで縋るように…そう。まるでご主人にいたずらが見つかって、ごめんなさいのうるうるお目々で見上げてきている"ワンちゃん"みたいで…。はぁぁぁ……雪乃は大きく息を吐いて、渋々頷いた。「わかった」それを聞いて悠一はぱっと顔を輝かせた。「本当か!?」「……仕方ないでしょっ」だって、ほんの数時間前まで2人は10年越しの夫婦だったのだ。いくら10年間ずっと片思いのような関係性だったとはいえ、子供たちは愛情を持って育てたし、夫の悠一から優しい微笑みも言葉も向けられなかったけれど、それでも雪乃は彼を