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第2話 皇貴妃になる

last update publish date: 2026-06-08 21:04:35

鳥が額にぶつかって、気を失った私──まったく、そんな偶然が起きるものなのか?

いたって平凡で、それまでは変わったことなど何も起きなかった私。

正月に縁起がいいモノと言えば、一富士、二たか、三なすび。

あの鳥は鷹。そうではなく、もっと小さかった。

小さいけれど、鋭い加速だった。私を獲物と勘違いしたみたいに、まっしぐらに飛んできた。

うん。ぶつかる前のことをちゃんと覚えている。

私は、何もかもを失ったわけではない。

記憶がしっかりしてる。

ちゃんと命もある。体も五体満足で、手足も動くし、顔も首も、上下、左右に動く。

恐る恐る、手を額に持って行く。

ちゃんと、額はあった。

ちゃんとあるし、穴も開いてない。凸凹がないのが、本当によかった。

ぶつかった形跡は今のところなさそうだ。詳しいことは鏡を見ないと分からないが、傷はないような触り心地だ。

よかったぁ。整形外科に通わなくて済む。

でも、ちょっと待ってよ──私はここにいていいのだろうか。

知らない場所に、いきなり来てしまった。

お邪魔……ではないのなら、ま、いっか。

自身の記憶はしっかりと頭に残っている。

私は普通のマンションに暮らす、平凡な主婦で梅本うめもと香里かおり

運悪く、高い階に住んでいた。

それでなのか、大空から鳥が飛んで来た。鳥がぶつかった一瞬で、世界が変わった。

どうしてこんな場所にいるのだろうか。

どのように聞かれても、私には説明がつかない。

夢でも見ているのか。そこははっきりした色と形から成る、独立した世界だ。

たいへん、たいへん、たいへんよ。

私はまったく知らない世界にいた。

そこは王宮だった。

私は王宮の建物の中にいた。

そこは、明らかに、きれいな王宮だった。

きれい? いや、いや。もっとすごい。

きらびやかなとは行かないまでも、壁は朱塗りの壁であり、柱は太くて頑丈そう。

天井に灯りはないが、部屋の四隅に行灯あんどんが配されている。

昔の中国風の王宮であり、なんとなく何かの映画で見た風景である。

そして、現世では高級な中華料理店でしか流れないような、優雅な音色の笛と弦楽器がどこかで奏でられている。

仕切りのないこの部屋にゆったりした音色が、風に乗って運ばれる。

「女子十二楽坊の音楽だわ」

その程度の理解でも充分すぎるほどの、とても優雅な音の世界。

そんな中、私は天蓋てんがいベッドに横たわっていた。

だれもいないのをいいことに、なんとなく背中を丸め、足をくの字に曲げてみる。

もし携帯があれば、このポーズを写真に撮りたいのだが、便利な文明の利器は私のそばにはなかった。

ルネサンスの裸婦画のモデルみたいなポーズは、自分でも恥ずかしいけど、やってみたかった。

便利なものは近くにない。

けれど、なんとなくいい気分だ。

だれも、ここから出て行けと言ってこない。言わないから、こうしてゆっくりできる。

なんて、いい身分なのだろう。ジャングルや海中でなくて、本当によかった。

人間のままでよかった。

浦島太郎の最後のように年を取った老人でなくてよかったし、はたまた、別の物語のように赤ん坊や子どもに戻らなくてよかった。犬や猫、ネズミやヘビ、昆虫でなくてよかった。

とりあえず、自身の性格や動作に関して、あれやこれやと悩まなくていいのは楽であり、助かった。

それにつけても、服はユニクロのパーカーではない。薄くて緑の絹の着物。じつに高級で上等品だ。

「え? 私、裕福な貴族かしら?」

自分の羽織る着物の袖をつまみ、改めて呟いた。

しばらくこうして、悦に入った。

元の世界では、買い物をして料理を作った。

食器を洗い、ゴミ箱にゴミを捨てる。

汚れた服を洗い、洗濯物を干す。

掃除をしてきれいにし、疲れて休むと、また同じ食事の時間。

そんな日々が続き、多忙と疲労に忙殺されてきた。

自分が楽しむ時間は限られ、やりたいことが一部しかできない。

そして、どういうわけか別の世界に来ている。

ここでは、うまく行けば自由を手に入れられそうだ。

私の時間。私の自由。自分ひとりの、だれにも邪魔されない時間。

ああ、のびのびする。

空気がおいしい。

「憧れが現実になるって、なんていいものなんだろう」

私の呟きに対して、答えをくれる声がした。

男の声だ。

そんなに大きくない声。高い声。

「そうさ。君は優雅な貴族さ。王宮に住まう貴婦人だね」

声を発したのは、皇太子のかぶるような黄色の帽子をかぶる子どもだった。

なんだ、子どもか。

まだガキなのに、大人の言葉を使っている。

あと、ちょっと生意気に見えた。

「あなた、だれ?」

「僕は、皇帝の息子さ。白虎びゃっこ王子だ」

彼はそう名乗った。王子は黄色い服を身に着け、こちらを見て笑っている。まだ無邪気な子どものくせに。

王宮に時計はない。

その代わり、私のお腹がグーと鳴り、静寂な部屋に響き渡った。

は、は、恥ずかしい。

私は赤面した。天蓋ベッドで寝そべって王子に尻を向けて。

王子は笑った。

「もうお腹が空いたのか? 呆れたな」

王子は私の方を指さし、おかしそうに体を揺らしている。

「いま、いつなの?」

「いまは昼過ぎさ。それ以上のことは、僕に聞いてもムダさ」

「私の名、知ってる?」

「だいぶ、冗談がキツいね。寝ぼけてるの? 今日のバイヒは、ずいぶんととぼけたことを言うなぁ」

「バイヒ? もしかして」

「家来が言うには、梅の妃らしいけどね。妃ってなんなのか、知らないよ」

梅の妃。それで、梅妃、か。この世界では、梅本香里ではなく、梅妃ばいひ。そうか。そんな風に名乗ろう。

と、そこへ、「失礼します」の声。

今度は、大人の男の声だ。

王子は後ろに手を組み、向こうへ歩き去った。

「なんじゃ」

位の高そうな女の台詞。初めて使ってみた。少し面映いけれど、ちょっと偉そうに装って。

「梅皇貴妃におかれましては、詩歌はいかがなされましたか」

「へ? 詩歌とはなんぞや」

「詩歌と言えば、昔の漢詩にございます。皇貴妃は午後から、七海館しちかいかんにおいて白楽天の漢詩を勉強される予定ではなかったのですか」

「あ、ああ、そうね。予定を変えたのよ」

本当に適当な、それでいて、女だから気も変わるように言いくるめてみた。

「それでは、他の妃にもそのように申しておきましょうか」

「そうしてくれるか。悪いのう」

「では、失礼いたします」

男は召使だろう。一礼して出て行った。両手を反対の袖に通し、下げた頭と同じ高さにするところが、中国っぽい。

難しいことは避けて通りたい。梅皇貴妃か。ずいぶんと位が高そうだ。

私が梅皇貴妃に乗り移ったのか? 乗り移る前までは、漢詩を詠める教養があったらしい。どうせなら、今の私にもその素養があれば助かるのに。

ここが正真正銘の昔の中国と仮定するとして、漢字ばかりの国にやって来て書物を読め、なんていうのはただの苦行でしかない。

それはそうとして、皇后でなく、妃でもないのか。

楊貴妃という美女は知っている。楊貴妃よりも偉いのかしら? 同じくらいか?

いろいろ知りたくて、でもすべてを知りたいとは思わない。

少しずつ、他のだれかに教えてもらえればいい。

できれば、素敵なパートナーが現れて……。

そもそも、ここにいつまでいられるか、分かったもんじゃない。

また、鳥がぶつかったら、おじゃんになりそうで、恐い。

勝手な妄想が、ゆるやかな弦の調べに乗って、私の頭の中で踊りを舞っている。

黒い八分音符が隣の音符と手を組み、楽しそうに踊っている。

天衣 琴音

皇貴妃は、中国の明および清の時代に存在した、皇帝の后妃(妻や側室)における最高位の称号のこと。側室のトップであり、皇后 > 皇貴妃 > 貴妃 > 妃 > 嬪 の順に偉い。事実上の「副皇后」とも言える。 楊貴妃は「楊」+「貴妃」であり、この文章の梅皇貴妃は、「梅」+「皇貴妃」なので、楊貴妃よりも上の位である。

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