تسجيل الدخول「今日は突然お誘いしてごめんなさいね。神楽に話を聞いて、私からもちゃんと話をしておかなくちゃいけないと思って」先に来て待っていた紅のテーブルに到着するやいなや、京香は早速しゃべり出した。ここは病院近くの和風創作料理の居酒屋。……一本裏の路地を入ったところにあるからか、見知った顔はない。「神楽さんに、何か聞いたんですか?」「ええ。紅さんにプロポーズをしたって!」……あれは、本当にプロポーズだったのだろうか。「……冗談、かもしれません」「まさか!さすがの神楽もそんなことしないわよ!」「もしかして、まさかの契約結婚2度目のお誘いとか……」ちゃんと結婚しないか?という言葉はあまりにも自分たちにぴったりだと思った。ちゃんとしてない結婚をして、ちゃんと離婚したけど、ちゃんとした結婚は初めてで……何がなんだがわからなくなる。『そんなのすぐに無理っ!』あの突然の神楽の言葉に、とっさに飛び出した自分の答えがあまりにも正直で、カッと全身が熱くなった。「返事は保留にされてるって聞いたわ。……でね?私のことがネックになってたらいけないと思って、ちゃんと話しに来たの」「ネックだなんて……そんな」神楽には気の置けない幼なじみだと聞いていたが、確かに京香からの話も聞きたいと思ったことがあった。「神楽との結婚を言い出したのは院長。颯真が帰ってきて、その結婚話が具体的に進むかと思って覚悟したわ。でもね、実は私……先日院長を訪ねたの」「颯真さんと、ですか?」「あれ……神楽に聞いてる?やだ、恥ずかしい」手でパタパタと顔に風を送る京香。……いや、何も聞いていない。なぜなら突然のプロポーズから5日……意識してまともに顔さえ見れない状態が続いているから。「それで、院長はなんて?」聞かなくても話し合いがどうなったのか、京香の表情が伝えている。「結婚するのは……神楽じゃなくて颯真になったの。あっさり認めてくれたから驚いちゃった」「……それは!おめでとうございます!」「ありがとう。……紅さんのおかげよ。颯真、あなたの話を聞いて、いろいろ考えさせられたみたいだから」いつかの医局での話が頭に浮かび、苦笑いを浮かべる紅。「変な言い方だけど、自分が幸せになるとね、神楽のことが心配になるの。知ってるから言うけど、あの人今まで本当にクズだったから、本気のプロポーズをしたチ
颯真の言い方には、妙な信憑性があった。 院長は二階堂家でもこの病院でも絶対的な存在で、口にしたことは必ず実行するというが……神楽がそんな存在に屈するとか、ちょっと考えられない。 「2人が結婚したら、本院である二階堂総合病院とは完全に切り離して、神楽を分院の院長に置くらしい。……副院長は京香だ」 「……でも、外科はこっちにありますけど」 「神楽は経営に専念させる気だろ。実質的にメスを奪う気だ。……わが父親ながら、底意地の悪さが胸糞悪い」 院長がそこまで考えていることを、神楽は知っているのだろうか…… もし知っているとしたら、絶対に抵抗するはずだ。 「神楽は知らないよ。院長の思惑を」 「颯真先生はどうやって知ったんですか?院長が内密に打ち明けたということですか?」 「いや、神楽の母親……俺にとっての継母と話してるのを聞いた」 帰国して、颯真は両親が暮らす実家に身を寄せているという。そこで2人が話す会話を偶然耳にしたらしい。 ……そういうことなら十分考えられる。 「でも、まだまだ若いのに。……志を持って医者になったと思います。それなのにメスを取り上げられるなんて」 患者に接する神楽を見てきて、ひとつだけ確信を持ったことがある。 それは、たとえ女性関係はクズだったとしても、医者としての神楽は患者を思い、真剣に救おうとする信頼できる人だと。 「今回はさすがに、神楽もどうしようもないだろうな。……まぁ、京香が一緒にこの病院を背負ってくれるなら頼もしいし、それでいいと思う」 颯真の考えを聞いて、紅は深くため息をついた。 院長がどんな人なのか知らないが、30を過ぎた大の男が父親に歯向かえないなんて、情けないと素直に思った。 「それじゃ、京香さんは神楽先生のものになっていいんですね?」 「は……?それは、わざわざ言わないでくれるかなぁ」 「だってそういうことでしょ?神楽先生は百戦錬磨の遊び人だから、きっと京香先生は苦労しますね」 「君は、それでいいの?」 ……そう来ると思った。 紅は強い視線を颯真に向け、口を開く。……よく聞いとけ、と思いながら。 「すべては、神楽先生次第です。院長の意向に従って京香先生と結婚して、メスを置いて病院経営に回るというのなら……それだけの人だったということですよね」 「それ、嫌味?」 「別に、そう取っ
「おふたり、何かあったみたいですけど……颯真先生!話も聞いてやらずに拒否するんですか?それって絶対やっちゃいけないことですよ?」つい京香の肩を持ってしまう紅に、颯真はなかなか言い返せず、ツンッとした顔を向けるのみ。お互い腕を組み、がっつり向き合って睨み合いの状況だ。「あ、の……また出直すから、2人とも……」ふたりの間の見えない火花に、京香はなだめるように間に入ろうとした。「……あ、片桐ここにいたのか?!」ドアが開いて入ってきたのは神楽だ。「オペが終わるまでにカルテのデータ整理って言ったろ。……なぁに油売ってんだ?」「……いえ、あの……それはこのあとやろうと思ってて」「ダメっ!……颯真、片桐はもらうぞ」紅を連れ出しながら、神楽はそれとなく京香と目配せしあった。それに気づいた紅は、部屋にふたりにすることが目的だったのかもしれないと気づく。「私も、2人にしようと思ったんですよ?」「気づいてたのか」「タイミングが難しくて出ていけないでいたら、颯真先生のクソガキぶりに腹が立って……」言い方が面白かったのか、神楽はクスッと笑った。そして医局に入ると、紅の頭に手をやる。「クソガキ!……颯真はホント、そういうところあるんだよ。それにしても……後先考えずに喧嘩を売るのは君らしくていいな!」喧嘩してきた子供を笑うように、ポンポンと頭を軽く撫でていく大きな手。そんな手に、妙に意識が向く。「カルテ整理、はじめますね」「あぁ。まずはこの、中島太郎さんからはじめてくれ。来週オペを控えていて、経過を家族にも説明したい」パソコンの前に座る紅の後ろから、神楽は覆い被さるように一緒に画面を覗く。伸びてくる手がマウスを掴み、スクロールして該当する患者の名前をクリックした。……別にそんなことまでやってくれなくても自分でできるし。何なら後ろからの威圧感が不気味で集中できないんですけど。「……OK?」「か、かしこまりました」顔が赤くなってるのがわかる。……肩のあたりがガチガチに固まってる。あぁ……早くどっか行ってくれないかな。「神楽先生、長谷川さんが目を覚ましました」そこへ看護師が呼びに来た。「わかった。……痛みを訴えてる?」「はい。少しつらそうです」「それじゃもうひとつ痛み止めを落とそうか……」神楽は自分のデスクのパソコンを開き、患者のデータ
不審な目を向ける芹沢に、紅は視線である人の存在に気づかせる。「ハナファル商事の社長令嬢です。……今立ち上がったら絶対にバレますよ」「げっ!なんであのお嬢がこんなとこに……!」専務秘書時代、芹沢は取引先であるハナファル商事の社長に娘を紹介され、義理で見合いをしたことがあった。穏便に断った芹沢だったが、娘にとても好かれてしまい、長い間つきまとわれたのだ。数年前のことなので、特に心配はないと思ったが、ここで帰ってもらっては困る。芹沢は驚いて紅の影に隠れ、紅はうまく体をずらし、問題の人物からは見えない位置に芹沢を隠してやった。そこへやってきた亮子とハイタッチして、席を立つ紅。意味のない謝罪と言い訳を聞いた後は、亮子に芹沢を任せるのが彼女との約束だ。店のドアを開けながら、置いてきた2人を振り返ると、亮子が早速芹沢の鼻先を、指先でチョンっと突いていた。……今回亮子は、どんな風に芹沢を落とす気だろう。プライドが高くてズルい男である芹沢に近づく親友を、どうして止めないかというと……亮子は、冷静に男を見極め、美味しいところだけを持っていく天才だから。狙った男は絶対に手に入れる強い女……そして傷つけられたりする脇の甘さは一切ないと、私はよく知っているのだ。「……芹沢専務、お気をつけください?」紅は笑顔を置いて店を出て、神楽の待つ家へと帰った。「昨日は亮子ちゃんと飲んでたんだ?呼んでくれたら俺も行ったのに!」「颯真先生、こちらの患者さんの手術記録ですが……」「それとも女同士の秘密の会合だった?……恋バナ弾んだ?」試験に一発合格し、ドクターズクラークとなった紅は、颯真の事務的な仕事もサポートすることになった。そこで指示された作業を進めているのだが、なぜか本人に邪魔をされてしまう……「昨日は前職の上司も一緒で、一連の出来事について謝罪されました。でも別に謝ってもらうような関係ではないので……私はもうひとつの目的を叶えに行っただけなんです」「もうひとつの目的?」「はい。亮子に繋ぐことです」颯真の様子を見て仕事の質問を諦め、聞きたがっていることを教えてやった。「聞くのも怖い気がするけど、つないで……どうするの?」「まぁ、美味しいところだけをもらうんじゃないでしょうか?」「美味しい……ところ」そこへドアがノックされ、珍しい人が顔を出した。
「……芹沢?」「はい、何か話したい事があるようなので。……帰宅は遅くなると思います」「それは、行くべき約束なのか?」専属クラークとして神楽に指示された仕事をこなしながら、退勤時間が近づいてきた紅は、神楽にこの後の予定を伝えた。「行くべきかどうかはあまり考えてませんけど。話があるなら聞こうかなと、思うだけです」「ふん、面白くないね」パソコンの前に座る紅の背後から手を伸ばし、指示した内容で文章が作れているか確認しながら、神楽は横目で紅を見る。そんな神楽と至近距離で目を合わせながら、紅は思った。早速私のことを自分のものだと誤解し始めていると……「雨の中に出ていくほど、そばにいたくないと思わせた相手なんだろ?」「え……」「洋平に偶然会った夜のことだよ。あの時、直前まで一緒にいたのは芹沢だって言ってよな?」所有物化しての発言ではなかったことが意外で、言葉が出ない。「どんな話があって泣いたのか知らないが、そんな思いをさせた奴に、わざわざ時間を作ってやる必要があるのか」「それは……」ひと通り確認が終わり、パソコンは神楽によって閉じられる。「気にしてません。泣いたっていっても、別に芹沢専務のことで泣いたわけじゃないし。……それに、ちょっと頼まれてることもあって」紅の言葉に、神楽は改めて視線を向けた。「紅、この前は本当に、情けないところを見せてしまって……」食事もできるというカフェバーを指定され、先にテーブルについていた紅。芹沢は早速彼女を見つけ、開口一番謝罪した。「いいえそんな……イイとこだったのに、邪魔しちゃって!」わざと明るく、笑顔で言ってやる。相手が迫田香織だったことは本当に驚いたが、考えてみれば2人は上司と部下。私が在籍している時から関係していたとしても不思議はない。「気にしていると思ったが……」「いいえまったく!彼女とのお見合いは?うまいことすすんでます?」「それは……さすがに、」断られたのか断ったのか。本当か嘘かはわからないが、追及するつもりはない。注文した赤ワインがやってきて、芹沢はグラスを置いたままの紅のグラスにカチン、と合わせる。あっという間に飲み干し、料理を何品かオーダーした後、芹沢は言いにくそうに言葉を紡ぐ。「……その、騙すつもりじゃなかった。いろいろと」「私にプロポーズしたくせに、社長からの見合い
「ご飯とおみそ汁です」差し出されたものを呆然と見つめ、キスをされた頬に手を当てた神楽は、ぼんやりと紅を見上げた。「召し上がれ?」「……いただきます」何か言い返そうとしたようだが、言葉を失ったかのように、素直に箸を取る。たかが頬のキスだけで、遊び慣れているはずの神楽もこんな顔をするのだと新鮮な気持ちになった。「実家へ行ったんですか?」「あぁ。トオキ屋本社で社長らしき人と少し言葉を交わして、紅の育った環境がどんなところだったのか気になってな」朝食を食べ終わった神楽をもう一度寝室に押し込め、ゆっくり休んでもらってから、写真の真相を聞くことになった。「父と、話したんですか」「あぁ。客がいるのに大名行列みたいにスタッフが一斉に並び始めて、まだ閉店時間じゃないのに追い出されそうになったからちょっとゴネてやった」「あの人に向かっていったんですか?」ギョロリとした冷酷な目、身長が高くて威圧感のあるあんな男、関わりたくないと思う人が大半だろうに。「もの好きですね……」「紅の父親じゃないとしたら、俺だって近づかないよ」さっきからなんだろう……私の育った環境とか私の父親とか。まるで私に関心があるように聞こえてしまう。「悪いが、感じは良くなかった。……だからこそ、君の幼少時代が心配になったというか」「まぁ、取り繕っても仕方ないですよね。……私の子供の頃は、父の執拗な母への暴言と暴力、それに必死で耐えながら私を守って働きづめの母と、何もできない弱い自分……恐怖と嫌悪と不安と、自分自身の不甲斐なさで埋め尽くされてました」告白を聞いて、神楽の手がこちらに向かって伸びてきたように見えた。でもそれは、紅に触れることなく下に下ろされる。「家政婦らしき人がこの写真を捨てたのを見て、拾ってきた。……あちこちに飾ったのは、その、」「そうなんですよ。どうして部屋のあちこちに貼ったりしたんですか?私の子供時代なんて神楽さんにはまったく……」「可愛いから」言い終わらないうちにそんなひと言を言われたら……どうしたらいいの?「子供時代は皆、可愛いですよね。小さくて……」「いや、紅だから可愛いと思った」「……なに言ってるんですか?神楽さんらしくないですよ?」昨夜から、本当に神楽らしくない。全部は脱いでないけど、お互いにシャツを脱いで抱き合って、優しく抱きしめるだ
「英語は大丈夫だけど……」『じゃあ歌ってみる?ラバークラブMiAってガールズバーなんだけど』「うん。期間は?」『まずは一晩、2回ステージ。バラードを歌ってほしいみたいよ』亮子はクラブやBARの起ち上げやプロデュースをする仕事をしている。その関係で、こういうバイトの情報が早い。亮子が関わった店なら大丈夫だろう……その日の夕方、紹介された店に行ってみた。「亮子さんに聞いてます!まずは一曲、聞かせてもらえますか?」面接は歌のみ。難なく合格をもらった。手渡された衣装はシルバーグレーのシンプルなドレス。ヘアメイクはプロが入ってやってくれた。呼ばれるまで待機するよう言われ、若い女の子た
「紅か……?」神楽との契約結婚を終え、まず向かったのは実家だった。「……お久しぶりです」手を止めず、顔も向けずに返事を返す娘に、父はわかりやすくイラ立つ。「はんっ!久しぶりに来たと思えば……なんだ?泥棒のマネごとか?」「お母さんの服を取りに来ました。そろそろ暑くなるので」「お前は、口を開けば母さんのことしか言わないな?」……あんたが口にしないからだ。今日も、ギリギリのところで言葉を飲み込む。父と言い争ってスッキリした事など一度もない。むしろ逆……怒りと悲しみ、そして絶望。父は昔から、私にそんな感情しか教えなかった。「……多分、今回持ち出せば、この家からお母さんの私物はなく
「契約期間は1年。親への挨拶はしなくていい。新築した家が都内にあるから引っ越してきてくれ。契約結婚にかかわるすべての経費はこちらで持つ」車の中で行われた話はとてもスムーズで、簡潔だった。「仕事関係者や交友関係に君を紹介することはない。ただ、結婚した事実だけが欲しい。婚姻届は出し、同居することで、実態を伴った結婚だったと後になって周りが認めればいい」「……わかりました。私も両親とは距離を置いていますので、挨拶などの心配はいりません。ひとりっ子ですし」「それは助かる。……あの料亭で働けるということは、それなりに信用のおける人物だと理解しているが、一応身分証を見せてくれるか」求められるま
「今夜の料理も美味いな」「本当ですか?嬉し……」「玉ねぎが入ってなきゃね。言わなかったっけ?俺、玉ねぎが苦手だって」ピリっと張りつめる空気……とても仲良し夫婦の夕食風景には見えない。射抜くように向けられた視線から逃れたくて、反射的に下を向いた。ガラスのダイニングテーブルは透明で……夫が足を組み替えたのが見える。「そうでしたね。……ごめんなさい」「いやいいよ。普通の男なら満足する味だ。……普通の男ならね?」頬杖をついて私に向ける視線は……確実に不愉快だと伝えている。「明日は必ず……満足していただけるように頑張ります。私、料理は得意なので、今度こそ」リベンジを誓う私を見つめ返







