LOGIN「紅、今度の休みはコンペイトンホテルでエステでもしてきたら?」「……金平糖ホテルですか?」「ちがう……コンペイトン。女子を癒し、女子が憧れるラグジュアリーホテルってコンセプトで、最近建てられたホテルだよ」外科病棟の医局。神楽の部屋で与えられた仕事をこなす紅は、パソコンの前で手を動かしながらわかりやすくため息をついた。「なんだよ……また『勉強不足ですね』とか言う気かよ」「……残念ながら、そうですね」「じゃあ、紅の希望する休日ってどんなものか、聞かせてみて?」神楽の言葉に、ふと手が止まる。このところ父の行動やトオキ屋本社の不審な金の動きばかり追っていて、正直神経がすり減っていた……「そうですね……私は、ラグジュアリーでスタイリッシュ、なんて元々苦手です。田舎のおばあちゃんの家に遊びに行ったみたいな、素朴であったかいところで……優しい動物たちと森の温泉に入って癒されたいです」神楽の顔を見ると、なぜか勝ち誇ったような笑顔になっている。……なに?コンペイトンホテルで負けたくせに。「本当はこっちだよ」「……え、本当に存在するんですか?」神楽は1枚のビラを掲げている。それは「金平糖旅館」で癒やされる1泊2日の旅行を!という内容のチラシだった。「東北の秘境温泉地?すごい……」「このチラシのツアーに申し込んだんじゃないぞ?紅には羽田からファーストクラスで行かせてやる……そして」「あの……1人で、ですか?」「え……」神楽の声が、少し低くなった。「俺と一緒が、いいの?」「いえ、そうじゃなくて!」……わかりやすくコケる神楽。「1人で飛行機は怖いから、新幹線がいいなぁって」「そういうことね?どっちも取ってあるから、飛行機はキャンセルしとく。……うん」紅はここが職場だと理解ながら、ドアに向かう神楽の手を取った。「ありがとうございます。……神楽さん」そっとウエストから手を差し入れ、後ろから抱きつき、背中に頬を寄せる紅。「え、神楽さん?」背中側から激しい心音が聞こえて、ふと心配になって横顔を覗き込んだ。その瞬間、ウエストに回した手を取られ、素早く振り向いた神楽が紅の唇を奪った。2回、3回とついばむ唇……抱きつかれて動揺してキスをしてくる神楽が単純に愛しくなり、紅から舌を差し入れる。「は……紅、」いつの間にか後頭部を支えられ、前のめ
紅はその後、数日かけて美沙に渡された書類を確認した。「この借用書の日付、父が後継者として社長に就任した頃と一致しますね」しかも額が数千万と……尋常ではない高額だ。「もしかしたら相続でもしたんじゃないのか?知らない土地を祖父母が持っていて、それがめぐりめぐってお義母さんのところに来たとか」「……私の記憶では、母にそんな話があったなんて聞いたことないんですよね。私には何でも話してくれる母だったのに」通帳のコピーから読み取れるのは、母の実家からまとまった金額が何度も入金され、その直後にトオキ屋や関連会社へ送金されているということ。しかも、借用書ではすべて「咲子から会社への貸付」という形になっている。「……お母さんのお金じゃない。実家のお金を、お母さんの名義で会社に入れてたってことですよね」「そうだな……」さすがに神楽も眉間にシワを寄せ、難しい表情になっている。「母方の実家は、それなりに裕福だったようです……でも、嫁に出した母に対しては冷たかったと思います」お金の苦労をにじませた母を思い出してそう話してから、ふとあることを思い出した。「母が歴史あるトオキ屋の跡取りと結婚したことは、親戚や近所に自慢だったかもしれません」「そういう土地柄だったのか?」「そうですね。京都の田舎の方で、子供の頃は何度か遊びに行きました」夕食を終え、皿をシンクへ運ぶのを手伝う神楽。紅はお茶を準備する。「……紅の子供の頃ってどんなだったの?」「私……ですか?」「遊びに行った京都の田舎では、野山を駆け回るお転婆少女だったとか?」綺麗な緑色の緑茶がカップのなかで揺らめいているのを見ながら、紅は当時の自分を思い出した。「いいえ。笑わない……人形みたいな子供でした」「へぇ、おとなしい女の子だったんだ」「縁側に座って、庭の向こうで揺れる稲穂をいつまでも眺めてるような子供だったんです。夏の稲穂はまだ緑色で、この緑茶みたいな色でした」話していると、当時のことを思い出して苦しくなった。いつも大人の顔色を伺って感情表現が苦手で、田舎では可愛くないと言われたこともあった。「そんなおとなしい女の子がこんなに強くなるなんてな?」「……そんなに強くないですよ?」「わかってる」守るような視線を向けられて、思わず口元が緩むのを隠し、話をもとに戻した。さらに数日が過ぎて、従
「なんだ、これ……」 帰宅後、紅は神楽と封筒を開けた。 中には、古い通帳のコピーやトオキ屋の株主構成がわかる資料、そして…… 「芹沢専務……それからさつきさんとも、」 にこやかに肩を組んで笑う芹沢の表情は完全にビジネス向きのそれだ。秘書をしていたからわかる。 でも…… 「この写真、まだ新しいな。あの別荘で写したものだと思うが……」 「この夏、あの別荘に来たんですね」 海外進出を決めたことを祝って?……いいえ、お互いにとって得だと判断しなければそもそも手を組んだりしない。そして手を組んだら、これまでの苦労を労い合ってお祝いの席を設けるなんてこと…… この2人がするとは思えなかった。 だとしたら、 「どうして芹沢専務があの別荘に?」 父はあの海辺の別荘に、家族か家族に準ずるものしか入れたがらない。 だから今回、プールサイド社員が集まっていたのを見て珍しいと思ったのだ。 「……それに、これもな」 さつきと父の濡れ場の写真だった。 「明らかな不倫の証拠。これだけでも離婚の理由にはなりますね」 写真はどれも、アングルから隠し撮りしたと思われる。 父のそばには必ず美沙がいたことから、これは彼女が撮ったものだと思うのが自然。 けれど、美沙がなぜ…… 長年片桐家の家政婦で、父の信頼はさつきに対するものより高かったかもしれない。 大人しく、見ざる言わざるを貫けば、絶大な信用に値する退職金を支払われ、平和に余生を過ごすこともできたのに。 「紅、もうひとつ封筒が入ってるぞ」 封筒のなかに、さらに封筒? ひと回り小さいそれの封を開けてみると、そこに意外な書類を見つけた…… 「……何を考えてる?」 「神楽さんのこと……」 「……嘘ばっか!」 美沙に渡された封筒を確認して、難しい顔をする紅から封筒を奪った神楽。 一旦終わりにして食事にし、入浴を済ませてベッドに横になったところだ。 神楽がバスルームに行ったあと、紅はもう一度封筒を確かめ、美沙からの小さなメモ書きが一緒に入っていたことに気づいた。 「奥様を助けてください。旦那様は昔から、奥様の名前を勝手に使っています」 その証拠が、同封されていたあの書類? 開いた書類の一番上には母の名前があった。……債権者、片桐咲子
夏の終わり……日が暮れるのが早くなってきたのか、西の空が茜色に染まり始めている。義母に見送られ、もう一度海辺の別荘へとやってきた。「……来たのか」今度は家政婦の美沙に玄関を開けてもらった。父はデッキチェアに寝そべりながら、まだ海を見ていたらしい。さつきの肩を抱きながら。「……もう、その人でいいんじゃないですか?」何が母を海外へ連れて行くだ。全員帰ったあともこうして隣に置くあたり、さつきは完全に愛人だろう。父はさっきと変わらない薄ら笑いを紅に向けるだけ……腹立たしい。「縁を切りたいです。あなたと」「それは無理だ。お前は俺のたった1人の娘だからな」「若い愛人に産ませたらいいんじゃないですか?」もうどうでもいい。母の病気を理解させることなど、はじめから無理な話だった。「海外に行くならもう帰ってこなければいい。こっちのトオキ屋は早々に譲って……」「光世にか?あいつにトオキ屋はやらんぞ」「何を言い出すかと思えば……呆れて物が言えない」トオキ屋は代々、長男の息子が後を継いできた。けれど父に息子は生まれなかったので、弟の息子、片桐光世が後継者の予定だ。今の父の言葉を聞いて、叔父や光世がどれほど怒るか……それとも。「さつきさん、もしかしたら父の子供を産んでます?それとも、妊娠中?」正面から問いただす紅に、さつきは驚いた顔をしてみせた。「……無理ね、年齢的にも。あなたに父の子供なんて産めやしない」失礼は重々承知だった。けれど父の言いなりになっているこの人に、子供を産むような愛情はない。あるとすれば、それは当然お金への欲だろう。「いいか紅、俺は咲子と離婚しない。海外へも同行させる。……なぜなら、あいつほど和服が似合うしとやかな美人はいないからな?」海外進出のために母を利用するつもりだと理解した。……冗談じゃない。そんなこと、絶対にさせない。「最後に聞いておきます。あなたはお母さんをそこまでしてそばに置きたいのに、どうしてもっと優しくしてやらなかったの?」子供の頃から何度も見てきた父の暴力、そして冷たい言葉……「……それが俺の愛し方だからだ。咲子は俺の妻になった。なら、俺の愛し方を受け入れるべきだろ?」「そんな歪んだ愛し方をされたせいで、心を壊したとしても?」意外にも、父は薄ら笑いをやめた。「心の病気なんて信じないって言うけど、
「近く、日本を発つんだよ」無視して行きかける自分たちの関心を引くように、父は大きな声で言う。「本社から数名と、咲子を連れて行く」「……は?」どこまで身勝手なのだろう。……母は心の病だと言っているのに。「母を海外に同行させて……また身勝手なイラ立ちのサンドバッグにでもなさるつもり?」「サンドバッグか……!うまいこと言うなぁ」おかしそうに笑う父を見て、さつきも遠巻きに話を聞いている役員たちも薄ら笑う。……その時、思いがけず母が振り向き、能面のような表情で一同をぐるりと見た。父はそんな母を気にすることなく続ける。「芹沢さんに言われてるんだよ。海外にトオキ屋を浸透させるために、しばらく腰を据えて滞在した方がいいって」芹沢からの紹介で、海外事業を成功させるためのコンサルまで雇ったという。「長く滞在するのに妻を連れていかないのはおかしいだろう」「主治医の意見も聞かずに……ましてや母本人の意向も確認せず、ですか?呆れますね」京香先生はこんな渡航を許すはずない。紅はそれでも続く父の話を無視して、母と一緒に別荘を出た。「良かった……片桐さん、すぐに戻ってこれて」病院では、京香が母を待ち構えていた。病室で診察をして異常がないのを確かめると、後を看護師に任せ、紅の腕を引く。「夕方から、院長と颯真、それから私も出席して……記者会見をする予定よ。院長とお義母さまには私からすべて話しておいたけど、あとで連絡が入ると思う」「大変なことになってしまって……京香先生、お忙しいのに」「いいえ。紅さんには本当に心痛をかけて申し訳なかったと思ってる」京香は改めて紅に頭を下げ、神楽を交えてセキュリティについて改善する案をまとめると話した。……そしてわずかに声をひそめる。「お父さまの側近の木下さん、交番に出頭したみたい」父の言葉通りの情報に、紅はふと目を上げた。「実行犯としてだけじゃなく、すべての罪をかぶる気でしょうね」木下はきっと、父の名前もトオキ屋の名前も出さないだろう。長年側近として仕える彼に犯罪まがいのことをさせて、簡単に首を斬る父の冷酷さに、紅は身震いがした。次は誰を使ってどんな方法で母に近づくつもりなのか……紅はもう一度父を訪ねる決心を固め、京香に挨拶して病院を出た。「紅です。先ほどはどうも」義母に訪問すると連絡をしてタクシーに乗り込み
「そう言うと思ったけどな」「正解でしたね。今夜帰ったらご褒美をあげます」「え……どんな?」口からの出任せで、具体的に考えてやしない……!「私のことは置いといて、神楽さんはお父さんのことをちゃんとやってあげてください」「わかった。……それと、君の休暇を伝えておく。まぁ、承認印押すのは俺だけどな」「あ……忘れてました。助かります」互いの成果は夜に話そうと約束して、着信を切った。わずかに、いや……本当はかなり気持ちがほぐれたことを感じる。耳障りのいい声だから?……いや、神楽はすでに紅の心の安定剤になっていた。ずっとふわふわしていた足に、やっと力が入った気がして、紅は海辺の別荘へ行くための支度を始めた。都内から電車で2時間。さらにタクシーで15分ほど乗って見えてきた、父が所有する海辺の別荘には、明らかに人が集まっているようだ。屋根のない駐車場に停まる数台の車は来客の数を表している。……そんな賑やかな中に母が?体調を崩していないか心配が込み上げた。「紅さま、いつの間においでに……?」「たった今よ。いつもご苦労さま、美沙さん」呼び鈴は押さず、虹彩認証で入ったので、最初に出くわした家政婦の美沙を驚かせた。「お母さん、来てるわね?」「え……あの、」余計なことを言うと父にどやされるのだろう。ここまで来て隠しても仕方ないのに。紅はにぎやかな声が響くデッキへと足を向けた。「皆さんお久しぶりです」デッキと隣接する庭、プールサイドは、水着姿の大人たちで賑わっている。紅を見て頭を下げる人たちはトオキ屋の社員だ。……知らない顔もある。「……紅、」やはり母はここにいた。隣には父……そして反対側の隣には、信じられない人もいる。「お母さん、大丈夫?迎えに来たの。病院に帰ろう」「……ちょっと待てよ」父にはわざと声をかけなかった。それも気に入らなかったのだろう……素直に立ち上がりかけた手を掴まれ、母は瞬間的にビクッとした。「……離してください。母は治療中なんです。病院に戻らないと」「心療……なんとかって、あれか?」唇を歪めて笑う父……反対側の隣にいる女も同じような笑みを浮かべる。「さつきさんも来てたんですね、本店の営業は大丈夫なのかしら?」急に声をかけられて驚いたようだ。トオキ屋本店の責任者であり、多分父の愛人であるさつき……。「私は……社
「契約期間は1年。親への挨拶はしなくていい。新築した家が都内にあるから引っ越してきてくれ。契約結婚にかかわるすべての経費はこちらで持つ」車の中で行われた話はとてもスムーズで、簡潔だった。「仕事関係者や交友関係に君を紹介することはない。ただ、結婚した事実だけが欲しい。婚姻届は出し、同居することで、実態を伴った結婚だったと後になって周りが認めればいい」「……わかりました。私も両親とは距離を置いていますので、挨拶などの心配はいりません。ひとりっ子ですし」「それは助かる。……あの料亭で働けるということは、それなりに信用のおける人物だと理解しているが、一応身分証を見せてくれるか」求められるま
「今夜の料理も美味いな」「本当ですか?嬉し……」「玉ねぎが入ってなきゃね。言わなかったっけ?俺、玉ねぎが苦手だって」ピリっと張りつめる空気……とても仲良し夫婦の夕食風景には見えない。射抜くように向けられた視線から逃れたくて、反射的に下を向いた。ガラスのダイニングテーブルは透明で……夫が足を組み替えたのが見える。「そうでしたね。……ごめんなさい」「いやいいよ。普通の男なら満足する味だ。……普通の男ならね?」頬杖をついて私に向ける視線は……確実に不愉快だと伝えている。「明日は必ず……満足していただけるように頑張ります。私、料理は得意なので、今度こそ」リベンジを誓う私を見つめ返
「英語は大丈夫だけど……」『じゃあ歌ってみる?ラバークラブMiAってガールズバーなんだけど』「うん。期間は?」『まずは一晩、2回ステージ。バラードを歌ってほしいみたいよ』亮子はクラブやBARの起ち上げやプロデュースをする仕事をしている。その関係で、こういうバイトの情報が早い。亮子が関わった店なら大丈夫だろう……その日の夕方、紹介された店に行ってみた。「亮子さんに聞いてます!まずは一曲、聞かせてもらえますか?」面接は歌のみ。難なく合格をもらった。手渡された衣装はシルバーグレーのシンプルなドレス。ヘアメイクはプロが入ってやってくれた。呼ばれるまで待機するよう言われ、若い女の子た
「紅か……?」神楽との契約結婚を終え、まず向かったのは実家だった。「……お久しぶりです」手を止めず、顔も向けずに返事を返す娘に、父はわかりやすくイラ立つ。「はんっ!久しぶりに来たと思えば……なんだ?泥棒のマネごとか?」「お母さんの服を取りに来ました。そろそろ暑くなるので」「お前は、口を開けば母さんのことしか言わないな?」……あんたが口にしないからだ。今日も、ギリギリのところで言葉を飲み込む。父と言い争ってスッキリした事など一度もない。むしろ逆……怒りと悲しみ、そして絶望。父は昔から、私にそんな感情しか教えなかった。「……多分、今回持ち出せば、この家からお母さんの私物はなく







