LOGIN「……芹沢専務」紅は神楽を見上げたまま口を開いた。それは神楽が父にとって都合のいい後継ぎがいるのでは、と口にしたとき瞬間的に思い浮かんだ名前だった。「芹沢を後継ぎ候補にしてるってこと?」「いやいや、それはないだろ。トオキ屋は代々、後継者の長男が後を継いできた。娘しか生まれなかった場合、兄弟の息子が後を継ぐ。そうやって100年以上家業を守ってきたのに、今さらそんな……」光世は笑顔を交えて否定した。……が、何か思いついたようだ。「海外進出に関する会議には、必ず芹沢を同席させている。外部のアドバイザーとして協力してもらってる……とか言ってたけど、あの人、今も別会社の専務だろ? それにしてはうちの経営に入り込みすぎてると思ってた」さらに光世は思い出したように続ける。「そういえばこの前、銀行との打ち合わせにも芹沢さんだけ連れて行ったらしい。銀行から確認の電話を受けて初めて知ったよ」父は光世に詳細を知らせないまま動くことも多くなり、対立するようになったと話した。「海外進出に関しては、芹沢を利用するのは不自然じゃない。でも銀行にまで連れて行くのはやりすぎだと思う。もし本当に後継者まで変えようとしているなら……何か理由があるはずだ」神楽の難しい表情に、紅はある人の名前が浮かぶ。「……さつきさん」「あぁ、家政婦に渡された封筒に入っていた写真か。芹沢とさつきさんって人が一緒に写った……」怪訝な表情でこちらを見る光世に、紅は家政婦の美沙に渡された写真を差し出した。「なんだこれ、おじさんの別荘だろ?懇親会なら、俺たち役員だって呼ぶべきだ」「そういう類の集まりじゃなかったってことよ。だってこれ……家政婦さんの隠し撮りだもの」「……そういうことか」美沙は以前から母と母の実家からのお金が不当に使われていることに気づいていた。けれど使用人の立場で面と向かって異議を唱えることはできず、紅に託した。芹沢とさつき。父とさつき。海外進出。母・咲子から会社へ流れた多額の金。これらが全部、別々の話ではなく、一本につながっているとしたら……すると光世が、思いがけない情報を口にした。「実は、海外進出用に新会社を作るって話が出てる」「新会社?今のトオキ屋の中で、海外展開はそんなに大きなことなの?」「リスク分散とか言ってるけど、新会社なんか作られたらいいようにされてしま
「初めまして。二階堂神楽と申します」約束の日、紅は神楽と共に光世の家を訪ねた。挨拶をする神楽に、わかりやすく興味津々な目を向ける光世。「片桐光世です。……いやいや、驚いたなぁ」「みっくん……いいから!」変なことを言い出しそうな光世が危険だと察した紅は、妻の芙美に彼を引き渡してから部屋に上がった。「なんだよ!あんまりイケメンだからさ、紅はやっぱり面喰いだったって言いたいだけじゃん」「もうさ、それが余計!」腰に手を当て、向かってくる紅のおでこにデコピンを食らわし、光世はその隙に神楽の前へ躍り出る。「あのね神楽さん、紅ってこれまで、告白したい男が列を作って待ってるような、すごいモテる子だったわけ。俺の知る限り、神楽さんくらいのイケメンもいたんだよ?なのになぜか誰一人相手にしなくてさ。さすがに俺、言ったわけよ。とりあえず付き合わないと、男の良さはわかんないぞって!」前のめりになって話を聞く神楽……紅はこっそりため息をつき、芙美に話しかけた。「みっくん、私たちが来る前にお酒でも飲んでる?」「飲んでないわよ!……紅ちゃんが婚約者を連れてくるって昨夜から楽しみで寝れなかったみたい。よっぽど嬉しかったのね!」芙美は料理を仕上げるからとキッチンへ向かい、紅も手伝おうとあとに続く。その間も神楽と光世の話は続いた。「俺は何回もそうアドバイスしたのに、結局誰とも付き合わなくてさぁ……で?連れてきたのが神楽さんでしょ?面喰いすぎて今までの男に心惹かれなかったのかって理解したわけ!」「みっくん!……もういい加減にしないと帰るよっ!」「……ん?ちょっと待てよ」何か考え始めた光世を見て、芙美はもう笑い出している……ヤバい。あの黒歴史を思い出したのだろうか。「……そうだ!高校の時、紅が号泣して落ち込んで、再起不能になったことがあったんだよ。確か好きだった先輩に弁当をどうとかって……」「ぁ……それ、僕です」「やっぱりっ……!」小さく手を挙げる神楽に、手を叩く光世。やって来た奥さまとハイタッチした。「そうかそうか……良かったなぁ。あの時フラレた先輩と奇跡の再会を果たして結婚かぁ……初恋が叶ったってことじゃん!」「今は、僕が彼女に翻弄されっぱなしで……完全に手のひらで転がされてます」紅は顔から火が出る思いだ。……光世はそんな神楽を冷やかすような横目で見つめ、
「まるで……生まれ変わったみたいな朝だわ!」思いのほか早くに眠ってしまい、久しぶりに朝の陽射しで目覚めた。地方の山奥は、秋の訪れも早いのだろう。少し寒く感じながら、紅は半袖短パンで旅館の外へ出る。「寒ければ……走ろう!」ポケットで揺れる携帯を取り出し、時々立ち止まって景色を撮った。……昨夜のうちに大量に神楽から連絡が来ていて頬が緩む。「もしもし神楽さん?!紅ですよぅ〜」「……は、紅?」「はい!もう起きましたか?紅のモーニングコールです!」寝ぼけているようだが、呆れた声が笑いに変わる。「迷惑だ〜……おやすみの電話の方が良かったなぁ」「あ、無駄に早く起こしちゃいました?ごめんなさい……切ります!」「いや、ちょっと……っ」紅はビデオ通話に切り替え、すまして言ってやる。「電話が嬉しいなら素直に喜べばいいのに!」雄大な景色が映るよう、背景を気にする紅を、神楽が笑う。「嬉しいよ。昨夜は紅がいなくて寂しくて寝つけなかった」「あ……」画面の神楽は寝起きでぼんやりしていて妙に色っぽい……上裸なのもあって少し恥ずかしくなった。「ひ、1人なら……ちゃんとTシャツを着て寝てください。地震とかあったらどうするんですか?」「あ?そんなの、大丈夫だよ」「私が嫌なんです!神楽さんの胸板は私だけが見れて私だけが触れるんだから」山奥の自然が私を素直にさせてしまった……紅は赤くなったであろう顔を少し下に向ける。「あぁ……今すぐ帰って来いよ……」視線を戻せば、髪をかきむしる神楽。紅は唐突にビデオ通話をブチっと切ってランニングを続ける。神楽に、ものすごく会いたくなってしまった……ドキドキする胸元に手を当てながら走る紅は気づかない。ブチ切られた画面の向こうで神楽がショックを受け、膝から崩れ落ちたことを……『あ……紅?俺、光世だけど』金平糖旅館をチェックアウトし、いくつかの観光地を巡っているタクシーの中で、光世からの着信をつないだ。「みっくん、どうかした?」『いや、この間の紅からの連絡が気になってさ。トオキ屋について何か知りたいみたいだったから』「うん、実はね……」調べてわかったことを、今携帯で話すわけにはいかない。地方の山奥とはいえ、トオキ屋の名前は全国に知れ渡っている。……どこで誰が聞いているかもわからないのだ。「詳しくは帰ったら話すよ」
「紅、今度の休みはコンペイトンホテルでエステでもしてきたら?」「……金平糖ホテルですか?」「ちがう……コンペイトン。女子を癒し、女子が憧れるラグジュアリーホテルってコンセプトで、最近建てられたホテルだよ」外科病棟の医局。神楽の部屋で与えられた仕事をこなす紅は、パソコンの前で手を動かしながらわかりやすくため息をついた。「なんだよ……また『勉強不足ですね』とか言う気かよ」「……残念ながら、そうですね」「じゃあ、紅の希望する休日ってどんなものか、聞かせてみて?」神楽の言葉に、ふと手が止まる。このところ父の行動やトオキ屋本社の不審な金の動きばかり追っていて、正直神経がすり減っていた……「そうですね……私は、ラグジュアリーでスタイリッシュ、なんて元々苦手です。田舎のおばあちゃんの家に遊びに行ったみたいな、素朴であったかいところで……優しい動物たちと森の温泉に入って癒されたいです」神楽の顔を見ると、なぜか勝ち誇ったような笑顔になっている。……なに?コンペイトンホテルで負けたくせに。「本当はこっちだよ」「……え、本当に存在するんですか?」神楽は1枚のビラを掲げている。それは「金平糖旅館」で癒やされる1泊2日の旅行を!という内容のチラシだった。「東北の秘境温泉地?すごい……」「このチラシのツアーに申し込んだんじゃないぞ?紅には羽田からファーストクラスで行かせてやる……そして」「あの……1人で、ですか?」「え……」神楽の声が、少し低くなった。「俺と一緒が、いいの?」「いえ、そうじゃなくて!」……わかりやすくコケる神楽。「1人で飛行機は怖いから、新幹線がいいなぁって」「そういうことね?どっちも取ってあるから、飛行機はキャンセルしとく。……うん」紅はここが職場だと理解ながら、ドアに向かう神楽の手を取った。「ありがとうございます。……神楽さん」そっとウエストから手を差し入れ、後ろから抱きつき、背中に頬を寄せる紅。「え、神楽さん?」背中側から激しい心音が聞こえて、ふと心配になって横顔を覗き込んだ。その瞬間、ウエストに回した手を取られ、素早く振り向いた神楽が紅の唇を奪った。2回、3回とついばむ唇……抱きつかれて動揺してキスをしてくる神楽が単純に愛しくなり、紅から舌を差し入れる。「は……紅、」いつの間にか後頭部を支えられ、前のめ
紅はその後、数日かけて美沙に渡された書類を確認した。「この借用書の日付、父が後継者として社長に就任した頃と一致しますね」しかも額が数千万と……尋常ではない高額だ。「もしかしたら相続でもしたんじゃないのか?知らない土地を祖父母が持っていて、それがめぐりめぐってお義母さんのところに来たとか」「……私の記憶では、母にそんな話があったなんて聞いたことないんですよね。私には何でも話してくれる母だったのに」通帳のコピーから読み取れるのは、母の実家からまとまった金額が何度も入金され、その直後にトオキ屋や関連会社へ送金されているということ。しかも、借用書ではすべて「咲子から会社への貸付」という形になっている。「……お母さんのお金じゃない。実家のお金を、お母さんの名義で会社に入れてたってことですよね」「そうだな……」さすがに神楽も眉間にシワを寄せ、難しい表情になっている。「母方の実家は、それなりに裕福だったようです……でも、嫁に出した母に対しては冷たかったと思います」お金の苦労をにじませた母を思い出してそう話してから、ふとあることを思い出した。「母が歴史あるトオキ屋の跡取りと結婚したことは、親戚や近所に自慢だったかもしれません」「そういう土地柄だったのか?」「そうですね。京都の田舎の方で、子供の頃は何度か遊びに行きました」夕食を終え、皿をシンクへ運ぶのを手伝う神楽。紅はお茶を準備する。「……紅の子供の頃ってどんなだったの?」「私……ですか?」「遊びに行った京都の田舎では、野山を駆け回るお転婆少女だったとか?」綺麗な緑色の緑茶がカップのなかで揺らめいているのを見ながら、紅は当時の自分を思い出した。「いいえ。笑わない……人形みたいな子供でした」「へぇ、おとなしい女の子だったんだ」「縁側に座って、庭の向こうで揺れる稲穂をいつまでも眺めてるような子供だったんです。夏の稲穂はまだ緑色で、この緑茶みたいな色でした」話していると、当時のことを思い出して苦しくなった。いつも大人の顔色を伺って感情表現が苦手で、田舎では可愛くないと言われたこともあった。「そんなおとなしい女の子がこんなに強くなるなんてな?」「……そんなに強くないですよ?」「わかってる」守るような視線を向けられて、思わず口元が緩むのを隠し、話をもとに戻した。さらに数日が過ぎて、従
「なんだ、これ……」 帰宅後、紅は神楽と封筒を開けた。 中には、古い通帳のコピーやトオキ屋の株主構成がわかる資料、そして…… 「芹沢専務……それからさつきさんとも、」 にこやかに肩を組んで笑う芹沢の表情は完全にビジネス向きのそれだ。秘書をしていたからわかる。 でも…… 「この写真、まだ新しいな。あの別荘で写したものだと思うが……」 「この夏、あの別荘に来たんですね」 海外進出を決めたことを祝って?……いいえ、お互いにとって得だと判断しなければそもそも手を組んだりしない。そして手を組んだら、これまでの苦労を労い合ってお祝いの席を設けるなんてこと…… この2人がするとは思えなかった。 だとしたら、 「どうして芹沢専務があの別荘に?」 父はあの海辺の別荘に、家族か家族に準ずるものしか入れたがらない。 だから今回、プールサイド社員が集まっていたのを見て珍しいと思ったのだ。 「……それに、これもな」 さつきと父の濡れ場の写真だった。 「明らかな不倫の証拠。これだけでも離婚の理由にはなりますね」 写真はどれも、アングルから隠し撮りしたと思われる。 父のそばには必ず美沙がいたことから、これは彼女が撮ったものだと思うのが自然。 けれど、美沙がなぜ…… 長年片桐家の家政婦で、父の信頼はさつきに対するものより高かったかもしれない。 大人しく、見ざる言わざるを貫けば、絶大な信用に値する退職金を支払われ、平和に余生を過ごすこともできたのに。 「紅、もうひとつ封筒が入ってるぞ」 封筒のなかに、さらに封筒? ひと回り小さいそれの封を開けてみると、そこに意外な書類を見つけた…… 「……何を考えてる?」 「神楽さんのこと……」 「……嘘ばっか!」 美沙に渡された封筒を確認して、難しい顔をする紅から封筒を奪った神楽。 一旦終わりにして食事にし、入浴を済ませてベッドに横になったところだ。 神楽がバスルームに行ったあと、紅はもう一度封筒を確かめ、美沙からの小さなメモ書きが一緒に入っていたことに気づいた。 「奥様を助けてください。旦那様は昔から、奥様の名前を勝手に使っています」 その証拠が、同封されていたあの書類? 開いた書類の一番上には母の名前があった。……債権者、片桐咲子
「英語は大丈夫だけど……」『じゃあ歌ってみる?ラバークラブMiAってガールズバーなんだけど』「うん。期間は?」『まずは一晩、2回ステージ。バラードを歌ってほしいみたいよ』亮子はクラブやBARの起ち上げやプロデュースをする仕事をしている。その関係で、こういうバイトの情報が早い。亮子が関わった店なら大丈夫だろう……その日の夕方、紹介された店に行ってみた。「亮子さんに聞いてます!まずは一曲、聞かせてもらえますか?」面接は歌のみ。難なく合格をもらった。手渡された衣装はシルバーグレーのシンプルなドレス。ヘアメイクはプロが入ってやってくれた。呼ばれるまで待機するよう言われ、若い女の子た
「紅か……?」神楽との契約結婚を終え、まず向かったのは実家だった。「……お久しぶりです」手を止めず、顔も向けずに返事を返す娘に、父はわかりやすくイラ立つ。「はんっ!久しぶりに来たと思えば……なんだ?泥棒のマネごとか?」「お母さんの服を取りに来ました。そろそろ暑くなるので」「お前は、口を開けば母さんのことしか言わないな?」……あんたが口にしないからだ。今日も、ギリギリのところで言葉を飲み込む。父と言い争ってスッキリした事など一度もない。むしろ逆……怒りと悲しみ、そして絶望。父は昔から、私にそんな感情しか教えなかった。「……多分、今回持ち出せば、この家からお母さんの私物はなく
「君が契約結婚を引き受けたのは、俺への復讐か?香織と同僚だったってことは、当時から俺の話を聞いていた?」「香織さんは、別れた夫とセフレ関係になってつらいって言ってました。だから契約結婚を終えてからの相談ですね」「俺と出会ったのは偶然?……それとも探し出して、」ずいぶん話が意外な方向へ行くので……らしくもなく、動揺していた。それにまさか、梨沙子のことも知っているとは。「香織さん、夫の名前は伏せてましたよ。でもある日酔った勢いで「神楽」って名前と医者だって漏らして。あの料亭で出会ったのは偶然です。めずらしい名前だったからピンと来たんですよね」紅はソファから立ち上がり、携帯に表示される
「荷物、それだけだったか?」やがて、契約満了の日。見せつけるようにスーツケースを転がし、神楽の目の前に置く。「はい。このお宅にはすべてそろっていたので、ありがたく使わせていただきました」枕、毛布、シーツ、バスタオル、バスローブ……「引っ越し先の住所を教えてくれたら送るよ?使い慣れたものは手放したくないだろ?」「……あなたはそうかもね」使い慣れた契約妻を、今も時々美味しくいただいてる。「……え?」「……使わせてもらった枕、抱きしめて寝てくれません?私のことを思い出して」不思議そうな顔に作り笑いを返した紅に、今度は驚いた顔をするので、本気で吹き出してしまった。「冗談ですよ!