このプロジェクトのために、彼女は長い時間をかけて準備してきた。椎名グループのデザイン理念にも最も適した内容であり、完璧な計画だった。何度も確認したのは、万が一のミスすら許さないためだ。それを、加津也のような男が数言で揺さぶれるはずがない。紗雪は席に戻り、加津也が投票書を箱に入れるのを静かに見届けた。その後、彼が自分の席へ戻る姿も目に入る。しかし、彼の口元に浮かぶ、意味ありげな笑みが、どうにも気にかかる。紗雪はもう一度、プロジェクトの流れと自分の投票書を慎重に思い返した。どこにも問題はない。だからこそ、余計なことは考えず、ただ結果を待てばいい。加津也など、ただの道化にすぎない。気にするだけ時間の無駄だ。投票がすべて終わるまでには、十数分が経過した。責任者が壇上で口を開く。「では、これより投票箱を控え室へ運びます。幹部たちが集計し、最終的に社長が確認します」「結果発表まで、もうしばらくお待ちください」その言葉に、紗雪はそっと唇を引き結んだ。指先が無意識に強く握りしめられる。これまで準備してきたすべてが、今、試されるのだ。加津也は、そんな彼女の様子を観察していた。強張った表情、緊張した仕草。それを見て、笑い出しそうになる。どれだけ不安になろうと、結果は変わらない。このプロジェクトは、絶対にお前のものにはならない。あの男が、しっかりと動いてくれているはずだ。......一方、会議室では。「二川グループの投票書は?」京弥が、最終選考に残った十通の投票書を前に、冷静な声で問いかける。壇上で進行を務めていた責任者が、怯えたように答えた。「私にもさっぱり......これらはすべて、幹部から集めたものです。それ以外の詳細は把握しておりません......」京弥の切れ長の目が、冷たく鋭く光る。「調べろ」この状況は明らかにおかしい。さっちゃんがどれほどこのプロジェクトに尽力してきたか、自分が一番よく知っている。どう考えても、最後の選考に残らないはずがない。それに、二川グループの提案内容も熟知している。さっちゃんのデザイン理念は、並みのものではない。京弥がさらに口を開く前に、匠がすばやく動いた。「すぐに調査いたします」責任者は額の
紗雪は疑念を抱きつつも、じっと耐えて結果を待っていた。一方で、加津也は初芽を連れて彼女の前に立ちはだかった。「まだ待ってるのか?俺からの忠告だが、さっさと帰ったほうがいいぞ。どうせ結果は見えてるからな」「......どういう意味?」紗雪は眉をひそめた。今日の加津也は、やけに妙だった。まるで、彼女がこのプロジェクトを絶対に取れないと確信しているかのような態度だ。しかし、このプロジェクトの決定権は加津也にはない。なのに、なぜそこまで自信満々なのか?初芽はその言葉を聞いて、すぐに察した。なるほど、そういうことか。彼は、何か裏で手を回しているに違いない。二人が潰し合うのなら、それは彼女にとっても好都合だった。紗雪のあの顔つきが、昔から気に入らなかったのだ。加津也は誇らしげに顎を上げた。「俺の言うことなんて気にしなくていいさ。だが、一つだけ確かなことがある――お前は、このプロジェクトを絶対に取れない」「まあ、せいぜい覚えておけよ。今日のことは、前の恨みと一緒に清算させてもらうからな」「あんた、何をした」紗雪の声には、珍しく焦りが混じっていた。先ほどの責任者の発言、そして目の前の加津也の自信。どう考えても、ただの偶然ではない。悪い予感が頭をよぎる。しかし、加津也はその問いには答えなかった。「俺を敵に回した時点で、こうなることくらい覚悟しておくべきだったんだよ」そう言い残し、初芽を伴ってその場を去る。その背中からは、余裕と勝ち誇った空気が滲み出ていた。紗雪の胸の奥に、不安がじわじわと広がる。彼女の投票書に不備はなかった。何度も確認し、完璧な状態で提出した。ならば、一体どこで問題が起きたというのか?彼女が思案に沈んでいると、責任者が戻ってきた。その顔には、明らかに安堵の色が浮かんでいる。マイクを通し、会場に響き渡る声で告げた。「皆さま、大変お待たせしました」その言葉を聞いた瞬間、全員の視線が一斉に彼の手元へと向けられた。彼の持つ紙には、結果が記されているのだろう。会場は水を打ったように静まり返る。空気が張り詰めていた。「お待たせしました。では、結果を発表いたします」責任者の明瞭な態度に、場内の誰もが好感を抱いた。すでに長く待
「ないなら、それが一番」紗雪はゆるりと眉を上げ、「なら、西山さんは大人しく座って、私のスピーチでも聞いていればいいわ」加津也は紗雪の得意げな顔を睨みつけながら、拳を静かに握り締めた。クソ女、覚えてろよ。紗雪は微塵も怯むことなく、その視線を真正面から受け止めた。そんな二人の間の空気を感じ取った初芽が、加津也の腕を引いた。彼は渋々ながらも席に戻るしかなかった。その様子に、紗雪の唇はわずかに弧を描く。せっかく自ら道化役を買って出るのなら、こっちも付き合ってあげようじゃない。彼女は優雅に踵を返し、責任者の元へと向かった。そして、しっかりと書類を受け取る。「おめでとうございます、二川さん。我々椎名グループも、二川グループとの良い協力関係を築けることを願っています」「もちろんです」紗雪は落ち着いた笑みを浮かべながら答えた。そして、視線をパーティー会場にいる人々へ向ける。そこには、悔しさを隠せない加津也の姿もあった。彼女は優雅に息を吐き、自然な流れで感謝の言葉を述べる。その姿は、気品と自信に満ち溢れていた。この瞬間だけは、加津也も認めざるを得なかった。紗雪は、美しかった。かつての清楚なイメージは、彼女の本来の魅力を抑え込んでいただけだったのだ。本来の彼女は、野心を持ち、堂々と自分を貫く存在なのだ。結果はすでに決まった。加津也がどれほど怒ろうとも、もうこのプロジェクトを覆すことはできない。彼は悔しさを噛み締めながらスマホを取り出し、上層部にメッセージを送った。しかし、「相手があなたをブロックしました」画面に表示されたその通知を見た瞬間、加津也の表情は凍りつく。「使えねえな。貧乏学生も始末できないとは、前田と同レベルの無能か」二階から会場の様子を見下ろしていた京弥は、その一部始終を静かに見届けていた。隣に立つ匠が、腕を組んでぼそりと呟く。「どうやら、投票書をすり替えた黒幕は西山加津也で間違いなさそうですね」「でも、以前西山加津也って二川さんと付き合ってましたよね?相手にこんな手を使うなんて、下劣すぎません?」匠は思わず眉をひそめる。もし今回の件を京弥が事前に察知していなければ、紗雪の投票書は闇に葬られ、プロジェクトが二川グループに渡ることもな
紗雪は終始微笑を湛えながら、その場に立っていた。今回ばかりは、ようやく肩の力を抜くことができる。美月の試練を乗り越えた。だが、これからが真の挑戦だ。社員たちの興奮がようやく落ち着くと、美月は柔らかな笑みを浮かべながら紗雪を見つめた。「紗雪、ちょっと私のオフィスに来なさい」紗雪は少し驚いたが、ただ「はい」とだけ返事をし、美月の後についていく。「会長は絶対、二川さんに何かご褒美をあげるつもりね」「昇進じゃないかな?」「それ、あり得るな。二川さんの実力は、誰の目にも明らかだし」「そうそう。このプロジェクトを取れたのも、二川さんが大活躍したもんな」部署の皆は、それぞれ思い思いに話しながらも、誰も疑いや妬みを抱くことはなかった。全員が心から紗雪の成功を祝福していた。紗雪は美月とともにオフィスへと入り、心の中で、これは「賭けの清算」の時間だと悟る。だが、あの一件以来、彼女の心には、どうしても拭えない棘が残っていた。「会長、私に何かご用ですか?」紗雪はドアを閉めると、表情を崩さずに美月を見つめる。美月はゆっくりと振り返り、目の奥に満足の色を滲ませた。「今回は、本当によくやったわ。椎名グループのプロジェクトを手に入れたことで、二川グループはさらに大きく成長できる」「次のプロジェクト進行も、気を抜かないようにね」「そのつもりです」紗雪の冷静な返答に、美月の満足感はさらに深まる。まさか本当にこのプロジェクトを勝ち取るとは。彼女には、若き日の自分の姿が重なって見えた。「このプロジェクトの成功を機に、商業パーティーを開こうと思っているの」「うちがこの案件を手にしたことを、取引先にしっかり伝えるためよ」紗雪が口を開こうとした瞬間、美月が続けて言葉を紡ぐ。「紗雪が何を考えているのか、分かっているわ。二川グループに入りたいのでしょう?」「賭けは賭けです。私はただ、母に約束を守ってほしいだけです」その言葉に、美月は思わずクスッと笑う。「本当に昔の私によく似てるわ」そして、美月の表情が少し引き締まる。「安心して、紗雪。このパーティーで、もう一つ発表することがあるの」「『二川家の次女』としての正式な身分を、公表するつもりよ」紗雪は少し驚いた。まさか、母がこんなにもあっ
この言葉が発せられるや否や、周囲はざわめきに包まれた。「本当に?」疑う者もいる。「いやいや、椎名グループの社長がこんなパーティーに出席するわけがないだろ?普段から彼の素顔を見たことがある人すらほとんどいないんだぞ」「俺も噂で聞いただけだ。真偽のほどは分からない」「だが、もし本当に彼が来るなら、二川グループの地位は一気に跳ね上がるぞ」皆、一様に頷いた。誰もが知っている。あの男が鳴り城で振るう手腕を。椎名グループの名は、この街では絶対的な権力の象徴なのだ。二階。緒莉はその光景を見下ろし、表情が歪む。美しい顔に、嫉妬と怒りが滲み出ていた。彼女には分かっていた。このパーティーが何のために開かれたのか。だが、なぜ?同じ二川家の娘であるはずなのに、なぜ母はあの女ばかりを贔屓するのか?緒莉の胸の中で、不満が溢れ出しそうになる。そのとき、ふと視線の先に並ぶ扉が目に入った。「更衣室」と書かれたプレートを見つけると、彼女の目が細められる。いいことを思いついた。「紗雪、主役の座がそんなに好きなら、鳴り城中の人間にしっかり覚えてもらうといいわ」そう呟くと、緒莉は更衣室へ向かい、静かに扉を押し開けた。......紗雪はメイクを終え、着替えるために更衣室へ向かった。そこに用意されていたのは、淡いブルーのビスチェ風マーメイドドレス。その裾には、なんと繊細なダイヤモンドが散りばめられていた。紗雪の瞳が、一瞬だけ驚きに染まる。母の本気度が分かる。このドレスからも、どれほど今回のパーティーに力を入れているかが伝わってきた。相当な大金をかけたことは間違いない。紗雪はドレスを身に纏い、無言で背中のファスナーを引き上げる。そして、静かに更衣室の扉を開けた。ゆるく巻いた髪を無造作に後ろへ流し、その姿は洗練された優雅さとダボダボ感を兼ね備えていた。ビスチェデザインのドレスは、彼女の美しい鎖骨を際立たせ、一つ一つの仕草が、どこか艶やかで魅惑的だった。その頃、パーティー会場に現れた加津也は、期待に胸を躍らせていた。彼は今日のために、わざわざヘアスタイルまで整え、念入りに準備をしてきたのだ。二川家の次女は来るのだろうか?そんなことを考えながら、彼はワイングラスを手に、会場
「ご次女様」という言葉を耳にした瞬間、加津也は呆然と立ち尽くした。まるで思考が止まったかのように、しばらく反応できない。目を見開き、口を半開きにしたまま、ひどく間抜けな顔で叫ぶ。「お前が......二川家の次女?」紗雪は眉を軽く上げ、当然のように頷いた。「それがどうした?そんなに驚くこと?」こうしてみると、なんとも滑稽な話だ。三年間も付き合っていながら、目の前の相手が誰なのかすら知らなかったなんて。パーティー会場のマネージャーも、怪訝な顔で加津也を見た。そこまで驚くこと?彼のあまりに大げさな反応が、周囲の注目を集める。小さな騒動の中心が、ここにできあがった。加津也の頭の中には、過去の記憶が一気に駆け巡る。三年間、彼女はいつも地味な服装だった。住んでいた部屋も質素な賃貸で、あまりにみすぼらしく見えたため、見かねた自分が「一緒に住め」と言ったのだ。そんな女が、噂の二川家の次女だと?ありえない。ようやく状況を理解した途端、彼の表情は驚愕から嫌悪へと変わった。「苗字が二川だからって、適当なエキストラを雇って俺を騙せるとでも思ったのか?」「バカバカしい。三年間も一緒にいた俺が、お前の正体を知らないとでも?」紗雪は呆れ顔で、肩をすくめる。「三年間も一緒にいたからこそ、西山さんがどれだけ見る目がないかよく分かったよ」「クソ女が......!二川家の次女を騙るとは、よっぽどの命知らずだな?」加津也は正義を振りかざすような口調で言い放った。「お前みたいなパトロン頼みの女が、あの品のある次女に敵うと思うなよ」紗雪とマネージャーは、一瞬視線を交わした。どちらの目にも、「こいつ、何を言ってるんだ?」という疑問が浮かんでいる。「目が悪いなら病院に行けば?西山さんみたいのを付き合う暇はないの」彼女が立ち去ろうとすると、加津也はますます得意げな顔をした。「おやおや、俺が二川家の次女を知ってると分かって怖気づいたか?」「当然だよな。彼女は俺に好意を持ってるし、俺が二川グループで働くお前なんか、たった一言でクビにできるんだからな」彼は顎を少し持ち上げ、傲慢に言い放つ。「紗雪、今すぐ真剣に謝るなら、許してやってもいいぜ?」「......頭おかしいのか?」紗雪は
紗雪は軽く頷き、部屋へ向かい美月と対面した。美月は、目の前の紗雪を見つめ、心の奥底まで驚嘆の色を浮かべた。彼女の洗練された顔立ちは、少し手を加えただけでまるで人間離れした美しさを放っている。それを見て、美月はますます満足げに微笑んだ。「今夜は緊張しなくていいわ。オープニングダンスでは、しっかりと自分をアピールしなさい」紗雪は頷いた。開幕のダンスは、彼女が社交界の目にさらされる第一歩なのだから。「そうだ、椎名さんは来たのかしら?」紗雪は、先ほど京弥から届いたメッセージを思い出しながら答えた。「もうすぐ着くって。今、移動中みたい」「ならいいわ」美月は満足げに頷く。「二川グループの規則は分かっているでしょう?そうでなければ、あなたが二川グループに入ることもなかった」紗雪は理解していると伝え、美月と共にパーティー会場へと向かった。二人がホールに入ると、すでにほとんどの招待客が到着していた。美月は心の中で密かに喜びと誇りを感じていた。二川グループが椎名のプロジェクトを獲得したことで、集まった人々がどんな思惑を抱いているかなど、すべてお見通しだ。美月の姿が見えるや否や、客たちは次々に近寄り、笑顔で挨拶を交わす。口々に祝福の言葉を並べているが、彼らの本音は明白だった。二川グループに取り入るための絶好の機会。このパーティーで、少しでも良好な関係を築いておきたい。誰もがそんな思惑を抱えていた。紗雪は、それを見ても特に気に留めることなく、一歩引いた位置で様子を伺う。美月は微笑みながら言った。「皆さん、お祝いの言葉ありがとうございます。パーティーもそろそろ始まりますので、私は司会を務めに行きます。また後ほど」そう言い、美月は舞台へと向かった。彼女の纏うドレスは、普段の強気な印象を和らげ、より優雅で洗練された雰囲気を演出している。壇上に立つと、美月は今夜のプログラムを発表した。「本日は、お忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。このように多くの方々が足を運んでくださり、心より感謝申し上げます。それでは、前置きはこれくらいにして――さっそくパーティーを始めましょう」その言葉と共に、舞踏会の幕が開けた。オープニングダンスには、紗雪、緒莉、そして二川グループと親
しかし、緒莉は計画が失敗に終わったことに納得がいかず、簡単に紗雪を見逃すつもりはなかった。彼女はしつこく追いかけ、紗雪のドレスの背中のジッパーを掴もうとしながら、表向きは心配そうな声をかける。「紗雪、やっぱり私が手伝うわ。一緒に行きましょう?」「このパーティー会場は広いし、二人でいた方が安心でしょ?」そう言いながら、自然な動作で紗雪の隣に寄り、右手をそっと伸ばす。しかし、紗雪はその意図を見抜き、すぐさま身をかわす。目にわずかな苛立ちを滲ませながら、きっぱりと言った。「必要ないって。自分でできるから」彼女が向かった更衣室には、すでに準備を整えたスタッフが待機していた。ドレスを着替えながら、紗雪は違和感を覚える。しかし、それも予想の範囲内だった。彼女は最初から、緒莉が何か細工をしているかどうか確かめるつもりだったのだ。そして、今こうして緒莉が焦っている様子を見れば、答えは明白だった。舞踏会はまだ続いているが、二人の小競り合いはすでに周囲の視線を集めていた。紗雪は周囲の視線を察し、これ以上この場で争うことを避けようとした。ちょうどその時――会場の入り口が騒がしくなり、人々のざわめきが広がる。「ちょっと、あの人誰!?」「今まで見たことないほど気品のある男性だわ!」「いや、気品なんてどうでもいい!あの顔......芸能界にいたらトップクラスじゃない!?」数人の女性は頬を紅潮させながら言った。「さっき私の方を見たの!もう、心臓がもたない......!」「どこの御曹司なの?なんで今まで見たことなかったの?」この言葉をきっかけに、周囲の人々はさらに好奇心を募らせる。「待って、この男......たしか、二川家の次女の旦那さんじゃなかったっけ?」「言われてみれば、そんな気がする......でも、こうして見るとまるで別人ね」紗雪も視線を向けた。人混みを逆光の中、真っ直ぐに歩いてくるのは――京弥だった。深みのあるネイビーのスーツを纏い、その姿は紗雪のドレスと見事に調和している。元々、彼の顔立ちはどこか妖艶な美しさを持っていたが、今日はさらにセットされた髪型と洗練された装いが加わり、一層際立っていた。まるで人間界に迷い込んだ冷徹な神のような佇まい。紗雪の視線は、自然と京
彼女は何度もうなずいた。「安心してよ、兄さん。私は絶対に紗雪を裏切ったりしないから!」清那は車を降りると、スキップしながら去っていった。彼女がいなくなると、車内は一気に静まり返った。二人きりの空間、それに加えて最近の微妙な空気もあって、どうにも息苦しくて気まずい。京弥は無理に話題を振ろうとした。「あー、その......後部座席、もう誰もいないし、こっちの助手席に座ったらどう?」「いい。後ろの方がいい」紗雪はきっぱりと断った。一切の迷いも見せなかった。あの日、京弥が伊澄と同じ部屋にいたのを見て以来、紗雪の中の感情は複雑に絡み合っていた。彼の顔を見るだけで、自然と伊澄のことが頭に浮かぶ。まるで、自分のほうが第三者であるかのような感覚に襲われるのだ。その事実を思い出すたびに、紗雪は自分でも可笑しくなってくる。京弥はハンドルを握りしめ、低くセクシーな声で言った。「助手席から見える景色の方が、後ろよりずっと綺麗だよ」その意図は分かっていたが、紗雪は淡々と返した。「でも、後部座席よりもずっと危ない」たった一言で、京弥の言いたいことを完全に封じ込めた。紗雪は会話ができないわけじゃない。ただ、彼と話す気がないだけだった。そんな彼女のつれない態度に、京弥も最後は何も言わず、無言のまま二人は家に帰った。家に着いたとき、ちょうど伊澄が二人の姿を見て、ドキッと胸が跳ねた。まさか二人一緒に帰ってきたなんて......もしかして、もう仲直りでもした?伊澄は探るように聞いた。「お義姉さん、こんな時間に......京弥兄とどこへ?」「私たちの行動を、いちいちあなたに報告しなきゃいけないわけ?」紗雪は伊澄の目に宿る好奇心を見て、可笑しくなった。そうか、京弥はこの初恋に、堂々と自分たちの生活を覗かせてるんだね?伊澄は口を開きかけて、戸惑った表情で京弥に説明を求めた。「京弥兄、私はそういうつもりじゃないの。ただ......こんな遅くまで帰ってこなかったから、心配で......」「こんなにきつく当たるなんて......京弥兄、お義姉さんにちゃんと言ってよ、私、別に悪気があるわけじゃないんだから......」伊澄の目に涙がにじみ、まるで酷い仕打ちを受けたような悲しそうな顔をしていた
やっぱり正直に言うしかない。紗雪は視線の端で清那の様子を見て、彼女が何を考えているのかすぐに察した。内心で「本当に情けない」と舌打ちする。最初から清那がスパイだと分かっていたら、絶対に呼ばなかったのに。紗雪は今、そのことばかりを後悔していた。二人が車に乗り込んでからというもの、三人の間には沈黙が流れ、紗雪は未だにどうやって京弥に説明すべきか決めかねていた。そんな時、清那が口を開く。「兄さん、私を先に家まで送ってくれない?」京弥が口を開こうとした瞬間、清那は両手を合わせて懇願するような表情を見せた。「お願いだよ、兄さん。父さんと母さんには絶対に言わないで」「今後は、何でも言うこと聞くから。一生のお願い!」以前、両親に「またバーに行ったら足の骨を折るからな、二度と小遣いはやらん!」とまで言われていた彼女。今回バレたら、本当に小遣いは絶たれてしまう。そんなの、死ぬより怖い。京弥は何気なく紗雪に目をやり、わざとらしくぼそりと呟く。「誰がバーに行っていいと言った?」「自分一人で行くならまだしも、紗雪まで巻き込むとは......きっちり罰を与えなきゃな」その言葉を聞いて、清那は目を大きく見開いた。すぐに京弥の意図を悟る。彼女はすかさず紗雪の腕をつかみ、ゆさゆさと揺さぶりながら懇願する。「ねえ、紗雪も知ってるでしょ?私、本当は今日は行きたくなかったって。親友のために、自分を犠牲にしただけ!」「お願い、紗雪!兄さんに言ってあげて?」紗雪はため息をついた。京弥の探るような目と期待がこもった視線に出くわし、そして清那の潤んだ赤い目を見て、最後には観念して口を開く。「もう清那をからかわないで。ご両親にも言わないであげて。今回が最後なんだから」京弥は眉を一つ上げて、機嫌よさげに問い返す。「でも、こういうことって誰が保証してくれるんだ?なんといっても、こいつは松尾家の一人娘なんだよ?もし何かあったら、俺も責任問われるよ」そう言われて、清那はますますうつむいた。それこそが、彼女が家族にバーへ行くことを一度も言わなかった理由だった。家族は過保護すぎるほどで、危険なものからは徹底的に遠ざけられてきた。だが、清那は子供の頃からスリルのあることが大好きだった。それが、紗雪と馬が合
この光景を目にした途端、京弥の顔色は一気に険しくなった。もともと清那からメッセージを受け取っても、彼はまだ迷っていた。ここ数日、紗雪と彼は口論が絶えず、互いの関係が曖昧なままで、彼自身もまだ整理しきれていなかったのだ。だが今、酔いつぶれた二人が舞台の中央で男たちの視線を一身に浴びて楽しんでいる様子を目にし、京弥は猛烈に後悔した。どうしてもっと早く来なかったのかと。そう思った瞬間、彼の顔はますます暗くなり、舞台中央に歩み寄ると、片手ずつで二人をがっしりと連れ出した。最初、清那は明らかに不満そうだった。「誰よ、いったい!この私のテンションをぶち壊して!」紗雪もその言葉を聞いてスイッチが入った。誰だ、彼女の大事な親友をいじめたやつは!絶っ対許さない!その目が一瞬にして覚醒し、体を捻って抵抗し始める。「真っ昼間に何するのよ、早く離しなさいって......」だが、紗雪がその顔をしっかりと認識した瞬間、声は一気に小さくなった。清那はまだ騒いでいて、目を閉じたままだった。「やっぱりさっちゃんって私のこと本当に大好きみたいだね......感動したよ!」「安心して、私は絶対にこの男にさっちゃんを渡さない、絶対に守るから!」紗雪の頭は酒でふらふらしていて、清那の言葉が波のように何度も押し寄せる。もはや目の前にいるのが本当に京弥なのか、幻なのかさえ分からなくなっていた。周囲の人々もひそひそと話し始める。「あれ?あの男は誰だ?」「美女二人と楽しくやってたのに、なんで急に入ってきたんだよ」「もしかして悪いやつか?今どきの悪党ってそんなに堂々としてんの?」「いや、どっちかっていうとヤバい世界の人間っぽくね?あのオーラ、普通じゃないぞ」「......」周りの声が耳に入るたびに、京弥の顔はどんどん黒ずんでいった。何を言ってるのか分からなければまだしも、しっかり聞こえてしまったから、今にも誰かを殴りそうな勢いだった。「そこをどけ」その低く冷たい声に、周囲の人々も、そして暴れていた清那までも、一瞬で静まり返った。特に清那は、目が少しだけ澄んだものになり、呆然と紗雪に尋ねた。「紗雪......私なんか今、兄さんの声が聞こえた気がするんだけど?」紗雪は彼女に何も返さなかった。だが
セクシーな服を着た清那がその場に立っているのを見て、紗雪はすぐに駆け寄って抱きついた。「うちのかわいいさっちゃんじゃないか!」清那はぎゅっと紗雪を抱きしめながら言った。「どうしたの?誰かにいじめられた?今日はやけに甘えん坊じゃん」清那の顔には笑顔が溢れていた。紗雪に対して、彼女はもともと好感を持っていた。だが今、清那は紗雪の様子がどこかおかしいことにすぐ気づいた。いったい今回は、何があったのか。紗雪は内面の安定した人間だ。よっぽどのことがない限り、ここまで情緒が乱れることはないはずだった。「察してるでしょ。また、うちの母親」紗雪は清那の首元に顔をすり寄せながら、柔らかくていい香りのする親友の腕を引いて、一緒に座って酒を飲み始めた。「またおばさんが?やっぱりまたさっちゃんにだけ冷たい感じ?」紗雪は苦笑いを浮かべて、事の経緯を清那に話して聞かせた。今の彼女には、清那しか話せる相手がいなかった。「いつも通りだよ。会社で、緒莉の前でもあんな風に扱われた」清那は紗雪を見て、胸が痛んだ。「その場に私がいたら、絶対あんな屈辱は受けさせなかったのに!」「しかもさ、あのプロジェクトは元々さっちゃんが取ってきたんだよ?おばさん、今回は本当にやりすぎよ!」紗雪は首を横に振った。「分からないの。でも、重要なのはそこじゃない。言わなくても分かってると思うけど、あのプロジェクトに、私は多くの時間と労力をかけたんだ」彼女はまた小さく首を振る。「......つまり彼女は、全部分かった上で、わざとやったってこと」そう言ってから、紗雪はまた一杯、強い酒をぐいっと飲み干した。それを見た清那は、思わず身震いした。今の紗雪の飲み方は、以前と同じく制御が効かない。「紗雪、なんか昔の自分に戻ってない?」「え?」紗雪は眉をひそめて清那に顔を近づけた。「何て言った?」「なーんでもない」清那はそんな彼女を見ながら、胸が締めつけられるような気持ちと、どこか喝采を送りたいような気持ちが入り混じっていた。「さっちゃん、おばさんのことはもう気にしないでよ」清那は紗雪の肩を抱き、自分の胸元にもたれさせる。けれど、紗雪は何も言わなかった。黙ったまま、ただ目の前の酒をまた口に運んだ。清那はため
緒莉はわざとそこで言葉を止めた。誰が見ても、言いたいことは明白だった。美月は不満げに鼻を鳴らし、紗雪を睨みつける。「言いたいことは分かる。紗雪の企画が未熟だったって言いたいの?」心の中で、彼女の天秤は揺れていた。どちらに傾けるべきか、決めかねていた。「もういい」紗雪が口を開いた。「犯したミスは、自分で責任を取る」「だから?」美月は証拠を彼女の目の前に突きつけた。「もう何度もミスをしてるでしょ?この数社のメディア、業界内でもそれなりの地位があるの。彼らが報道したことについて、どう対応するつもり?」続けて、緒莉がためらいながら口を開く。「会社の評判にもう影響が出てるの。今後、会社全体を引きずるかもしれない......」怯えたように美月を見つめながら、あたかも本気で心配しているかのような口ぶりだった。緒莉の言葉を聞いて、美月は目を細めた。確かに、言っていることには一理ある。会社の利益はすべてに優先する。彼女は感情で決めるような人間ではない。美月は黙っている紗雪を見ていた。そして静かに、緒莉に視線を移す。この瞬間、美月自身も、どう感じているのか言葉にできなかった。「もういいわ。今日はこのへんにしておきましょう」美月は手を振って示す。「とにかく、この問題、早急に解決しなさい。これ以上のネガティブなニュースを見たくないの」「はい」紗雪はそう一言だけ答えると、そのまま何も言わずに部屋を出ていった。何を感じているのか、自分でも分からなかった。でも、この結末は......最初から分かっていたんじゃないか。緒莉は彼女の背中を見送りながら、口元に得意げな笑みを浮かべた。紗雪、これからが本番よ。一歩一歩、母の紗雪への信頼を崩してみせる。そうすれば、会社の地位を、いずれ手に入るんだから。緒莉は美月を振り返り、優しく声をかける。「お母さん、もう怒らないで。紗雪はまだまだ子供だから、お母さんの苦労を分かってないだけよ」「大丈夫よ。彼女の理解なんていらないわ」美月はため息をついた。「会社が正常に回ってくれさえすれば、私はそれでいい。誰かに分かってもらおうなんて思ってない」緒莉は微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。......紗雪は部
「お母さんは知らないだろうけど、毎日お母さんが苦労してる姿を見るたびに、心が痛くなるの。自分のふがいなさが本当に憎いよ......」緒莉の言葉に、美月の目には深い憐れみが浮かんでいた。「それは緒莉のせいじゃないわ。身体のことなんて、自分でどうこうできるものじゃないのよ」「ただ......」そう言いかけて、美月はふと口をつぐみ、立ったままの紗雪に視線をよこす。そのあとで意を決したように言葉を続けた。「権限というのは、能力のある人間に与えるべきもの。今後、慎重に考えさせてもらうわ」「なんでよ!」紗雪が思わず声を上げる。美月が緒莉をえこひいきしているのは昔からわかっていたが、まさか今回はここまで露骨にするとは思ってもみなかった。ここまであからさまになると、さすがに怒りを抑えきれない。「理由なんて必要?実力がある人間の方が選ばれる。それだけよ。あんたがやったことを見て、私がこの会社を安心して任せられると思う?」美月の口調も厳しくなり、紗雪の強情さに苛立ちを覚えていた。一方で、緒莉は「会社を任せる」という言葉に内心ぎくりとし、目を見開いた。まさか......この母は、この機に会社を紗雪に渡すつもりだった?それなら自分はどうなるの?滑稽なピエロってこと?緒莉は拳をぎゅっと握る。だめだ、絶対にそんなこと許せない。会社は彼女のものになるべきだ。最悪でも、紗雪と半分ずつでなければ。紗雪は唇を噛みしめ、内心の苦さを押し殺して言った。「じゃあ......今回のことで、社長は私に失望したってことですか?」「私を踏み台にして、今さら捨てるってこと?」「......!」美月は思わず机を叩いて立ち上がる。紗雪の反抗的な態度に血圧が一気に上がった気がした。今まで気づかなかったが、まさか彼女がここまで強情な子だったなんて。怒りに任せて口を開こうとした瞬間、緒莉が遮った。「何その言い方」緒莉はまるで紗雪の発言を心から否定するような顔をしていた。「相手はうちのお母さんなのに、会長なんて呼び方......そんなに他人行儀に分け隔てる必要ある?」「踏み台にしたなんて、聞いてて悲しくなるよ......」まるで本当に美月のためを思っているかのような、正義感にあふれた表情だった。美月
その言葉を聞いた瞬間、美月は怒りで顔を赤らめた。緒莉の言っていることが筋が通っていると感じたのだ。「やっぱり緒莉は気が利くわね。言う通りだわ」美月は眉をひそめ、紗雪に鋭い視線を向けた。「あんたが起こした騒ぎよ。自分で責任を取ってちょうだい」「今のあんたを見てるとね、椎名のプロジェクトを任せたのが正しい判断だったかどうか、疑問に思えてくるわ」「会長、この一件だけで、私のこれまでの努力すべてを否定しようとするなんて......それはおかしいです」紗雪は手をぎゅっと握りしめた。心の中は、不満と悔しさでいっぱいだった。この何日もの努力が、緒莉のたった数言で帳消しになるなんて......そんなの、絶対に納得できない。椎名のプロジェクトは、最初から最後まで、彼女一人の手で進めてきたものなのだ。美月は、そんな彼女の負けん気に満ちた表情にますます不快感を募らせた。「あんたがしたことを見てごらん。緒莉の方がまだマシよ。少なくとも私の気持ちを考えてくれる。それに、このプロジェクトだって、もし緒莉に任せていたら、こんな事態にはならなかったかもしれないわ」「今のあんたの力量を見てると、本当にこのまま任せていいのか、不安になるのよ」その言葉に、紗雪は思わず二歩、後ずさった。呆然とした表情で美月の顔を見つめる。ふだんは多少厳しくても、それでも母親なのだと信じていた。理解できると思っていた。だけど今の美月からは、母親としての愛情ではなく、冷たさと厳しさしか感じられなかった。「忘れないでください。このプロジェクトを勝ち取ったのは、私です」紗雪ははっきりと告げた。これは、美月が功労者を切り捨てようとしていることへの、遠回しな警告でもあった。自分が進めてきたプロジェクトを、今さら緒莉に譲るなんて。それは、自分の成果を目の前で奪い取られるということに他ならない。彼女がそれを受け入れるわけがない。絶対に、許せることではない。だが、美月は冷たく言い放つ。「今のあんたは、何の立場で私にそんな口をきくの?」「そういうつもりではありません。ただ、事実を申し上げているだけです。この件を忘れないでほしいだけです」「ふん、忘れるわけがないでしょ」美月は冷笑を浮かべた。何もかも与えてやったはずな
その言葉を聞いた瞬間、紗雪の心臓が「ドクン」と大きく鳴った。彼女は勢いよく顔を上げて美月を見つめる。瞳には信じられないという色が浮かんでいた。つまり、もう彼女のことを見限ったということ?自分はもう役に立たないと思われた?美月は、紗雪のそんな反応を完全に無視した。今の紗雪は、会社のイメージと名誉に深刻な脅威を与えている。たとえ彼女が甘く対応したところで、いずれは株主たちから弾劾されるに違いない。それならいっそ、自分が悪役を買って出ようというだけのことだ。「会長......今のお言葉は......どういう意味でしょうか?」紗雪の声は少し震えていた。感情の揺れがはっきりと伝わってくる。一方で緒莉は、隣でその様子を見ながら、思わず笑いそうになっていた。まさか、あの紗雪がこんな目に遭う日が来るなんてね。これまで母親に可愛がられて、いい気になっていたのはどこの誰だかしら?今さら同情なんてするわけない。もし状況が違えば、本当に声を上げて笑ってしまったかもしれない。美月は冷たい表情のまま言った。「私がこのポジションを与えたのは、会社のために尽くすためよ。好き勝手していいなんて、一言も言ってない」「そんなつもりはありません、会長。あの件も、私は何も知らなかったんです。普段だって彼とはまったく連絡を取っていません......」だが美月は、かつてのように彼女をかばうことはなかった。「それはあなた個人の事情でしょう。でも会社に影響が出た以上、私は口を出すしかない」「でも......」紗雪が言いかけたところで、緒莉がそれを遮った。「もういいでしょ、紗雪。お母さんとそんなに張り合わないで」緒莉は歩み寄って美月の背中をさすりながら、心配そうな表情で言った。「お母さんだって最近ずっと体調が悪いんだから。あまり怒らせないでくれる?」「それに、お母さんの言ってることって、全部正論だと思うよ。一人でここまで会社を引っ張ってきたんだよ?疲れるのは当然だよ」紗雪は険しい顔をして言った。「そんなこと、言われなくても分かってるわ」緒莉が今になって、こんなことを言い出す理由くらい、彼女にも分かっていた。所詮は、母親との間を引き裂こうという策略に過ぎない。だが、今は逆らっても得がない。
これは明らかにたくらみがある狙い撃ちだ。母親がこの件をどう受け止めるのか......紗雪には想像もつかなかった。彼女がオフィスに着くと、なんと緒莉までが美月のそばに立っていた。美月は額に手を当て、机の上の資料を無力そうに見つめている。一方の緒莉は、まるで理想的な娘のように美月の肩を優しく揉みながら、時折ねぎらいの言葉をかけていた。その光景を見た瞬間、紗雪は拳をぎゅっと握りしめ、繊細で美しい顔に皮肉めいた笑みを浮かべた。まるで絵に描いたような「母娘」だ。わざわざ自分を呼び出して、この理想的な親子関係を見せつけるつもりなのか?それなら来るまでもなかった。そんなもの、日頃から嫌というほど見せつけられてきたのだから。窓の外を眺めながら、どれほど心の準備をしたかわからない。ようやく覚悟を決めて、オフィスの扉をノックした。ほどなくして、中から声が聞こえる。「入って」心臓がひどく脈打つ。今日のような事態で、母親がどう出るのか、まるで予想がつかない。「......会長」紗雪は視線を伏せ、美月や緒莉を見ようともしなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、今最も大切なのは、感情を抑えて冷静を保つことだった。美月は「うん」と短く応じ、手を上げて緒莉に肩揉みをやめるよう合図した。緒莉はすぐに従い、椅子に腰掛けると、余裕のある様子で立ち尽くす紗雪を見つめた。この時点で、二人の立場の差は明らかだった。やがて、美月の厳しい声が響く。「なぜ呼び出されたか、分かる?」紗雪は拳を握りしめ、背筋を少し伸ばして答える。「分かりません。会長のお言葉を頂戴したく思います」「そう......」その傲慢さに、美月は内心ますます怒りを募らせていた。「ネットの騒ぎ、どう対処するつもりなの?」口調はさらに厳しくなる。「業界の競争がどれほど熾烈か、あなたも分かっているでしょう?少しの油断が命取りになる。そんな時期に、なぜこんなミスを犯した?」「状況は会長が思っているような単純なものではありません。あまりにも展開が早すぎる。きっと背後に黒幕がいます」紗雪は自分なりの分析を伝え、母親にも人員を動員して調査を進めてほしいと頼んだ。二人で動けば、一人で手探りするよりもずっと効果的なはずだった。だが、美月は「