紗雪はまだ少し不安げだった。京弥が返事をする前に、彼女は勝手に言い出した。「やっぱりいいよ。自分でなんとかする」京弥は何か言おうとしたが、紗雪がまだ完全に自分を信じ切っていないことに気づき、言葉を飲み込んだ。大丈夫だ。時間が経てば、きっと自分のことを理解してもらえる。ゆっくりでいい。今の京弥には、十分な忍耐力があった。何より、以前に比べて紗雪は大きく変わっていた。今は心を開いて、こんな話までしてくれるようになったのだ。もし昔だったら、きっとこの話を彼にすることすらなかったはず。それを思うと、京弥は嬉しくてたまらなかった。自然と口元の笑みがこぼれてしまう。京弥はもう一度口を開いた。「何かあったら、すぐに俺に言ってくれ。君のためなら、いつでもどこでも助けに行くから。俺は、ずっと君の味方だよ」その言葉に、紗雪の胸の奥がじんわりと温かくなった。「うん。必要なときは、遠慮なく頼るから。もう変に気を使ったりしない」あの日の出来事をきっかけに、紗雪は京弥が本当に自分に対して誠実だということを実感していた。そして伊澄のことも、もうすっかり吹っ切れていた。もともと彼女と京弥の間に感情はなかったし、自分がそれを気にする必要なんてなかったのだ。自分が正妻なのに、変に悩んでいたら逆に愛人のような態度じゃないか。今の紗雪は、心の中でしっかりと割り切れていた。広い心を持つことは、自分自身への優しさでもあるのだと。そう思った彼女は、腕に力を込めて京弥をぎゅっと抱きしめた。京弥はそんな紗雪の積極的な態度に、胸が熱くなった。彼もまた、しっかりと彼女を抱き返す。ふたりは寄り添い、心を通わせながら、静かで穏やかな時間に包まれていた。だが、一方で。伊澄のいる部屋では、まったく違う空気が漂っていた。部屋に入るや否や、彼女の表情は一変し、声を押し殺してバスルームで物を荒々しく投げ始めた。今の彼女は、この家で尻尾を巻いて大人しくしていなければならなかった。以前のように傲慢に振る舞うことは許されない。紗雪との間にあれだけの約束を交わした以上、彼女の前に軽々しく顔を出すこともできない。今は大人しくしておくしかない。でなければ、あの紗雪、本気で自分を追い出しかねない。伊澄は唇を噛
「さあ?前世で徳を積んだとか?」ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。昨日きちんと話し合ってからというもの、ふたりの間にあった隔たりはぐっと少なくなったと、京弥は感じていた。今の紗雪は、彼に会っても避けるどころか、むしろ自分から近づいてきてくれる。そのことを思い出すだけで、京弥の心は嬉しさでいっぱいになった。彼のさっちゃんを、もう二度と手放すわけにはいかない。「そうだ、さっき俺が玄関にいた時、君たち何を話してたの?」さっき伊澄が言ったことを思い出すと、京弥は今すぐにでも彼女を追い出してしまいたい気持ちになった。ただ、なぜか伊吹とはいまだに連絡がつかないのが不思議だった。こんなに時間が経っても、まるで妹の存在をすっかり忘れているみたいだった。伊吹、まったく、どれだけ能天気なんだか。京弥はため息をついた。彼とは連絡が取れない以上、無理に伊澄を帰らせるわけにもいかない。長年の縁もあるし、無下にはできなかった。紗雪は、さっきの会話を思い出すと、どうしても母親のことで受けた傷も一緒に蘇ってきた。本当はあの話をちゃんと京弥に話そうと、気持ちも整理していたのに、伊澄の登場で空気が一変してしまい、うまく切り出せなくなっていた。少し間を置いてから、彼女は意を決して京弥にすべてを話した。「つまり......三日以内にネット上の噂を否定しなければ、母親に職を奪われるってこと?」紗雪は無言で頷いた。それが答えだった。「うん。もう終わったと思ってたのに。パーティーも済んだし、これで一区切りだと。まさか誰かがまた蒸し返してくるなんて思ってなかった」紗雪は額に手を当ててため息をついた。正直、今はどうすればいいのかわからなかった。そんな彼女を見て、京弥は何か助けになりたいと思った。「大丈夫。パーティーの時みたいに、俺たちが一緒にいることをちゃんと公表すればいいんだ。君が既婚者だって周りに知らしめれば、どんなに騒ぎ立てても、もう君に泥をかけようなんてできないはずだ」紗雪は、その言葉を聞いて考え直した。たしかに一理ある。京弥はさらに言葉を続けた。「他の問題については、俺に任せておいて。必ずなんとかするから」紗雪は驚いたように京弥を見つめた。なぜだかわからないけど、彼が以前とは何か違うように思えた。
京弥は首を振り、低い声で言った。「違うんだ。ただ、君を一人でここまで我慢させたことが、つらくて......」その言葉を聞いて、紗雪は呆然と立ち尽くした。どう返事をしていいかわからなかった。てっきり、京弥はこの件を受け入れられないと思っていた。でも今の様子を見る限り、完全に自分の勘違いだった。京弥は心配してくれていたのだ。紗雪も、この件で京弥に怒るつもりはなかった。何しろ、伊澄がそんな人間だと、彼は知らなかったのだから。彼の記憶の中では、きっと伊澄はまだ世間知らずの少女で、自分の後ろについて「お兄ちゃん」と呼んでいた可愛い子供のままだったのだろう。紗雪は手を伸ばして京弥の背中を軽く叩きながら、優しく慰めるように言った。「京弥さんのせいじゃないわ」紗雪はもともと人を慰めるのが得意ではなかった。そんな彼女から見ても、今の京弥の姿は心が痛むものだった。でも、少なくとも今回の件について、彼を責める気持ちは一切なかった。もし本当に怒っていたのなら、今ここでこうして慰めたり、話しかけたりなんてしない。京弥は元々、申し訳なさそうにしていた。傷ついたのは紗雪の方なのに、今こうして彼女が逆に慰めてくれている。そのことに思い至り、京弥はますます胸が苦しくなった。「......ごめん」その三文字を聞いた紗雪は、すぐには反応できなかった。なにしろ彼女の中での京弥は、常に高慢で、すべてを掌握しているような人間だったから。こんなふうに弱い姿を見せ、素直に謝る彼を見るのは、これが初めてだった。紗雪は、今のふたりの姿を見て、どこか不思議な気持ちになった。もともと彼女は、京弥からの慰めを求めていたはずだった。なのに、どうして今こうして男を抱きしめて泣いて、慰めているのは自分なんだろう?でも、本当に京弥を受け入れた今になって、彼も実は案外脆い一面を持っていたことに気づいた。「明日には、彼女を出ていかせるよ」突然の京弥の言葉に、紗雪は一瞬驚いた。「もう決めたの?でも、私さっきあの子に、ここに残っていいって言っちゃったよ?」京弥は首を横に振り、気にするなというように答えた。「大丈夫。彼女の兄に連絡して、引き取りに来てもらう」紗雪は少し迷った。今の自分の立場でこれ以上
もし彼がさっき外でこの一部始終を聞いていなかったら、紗雪は一体いつまでいじめられ続けていたのだろうか?言い換えるなら、自分はいつまで隠されたままだったのだろうか?その場面を思い浮かべるだけで、京弥は胸が苦しくなった。何しろ伊澄は彼についてきて、幼い頃から共に育った存在だった。ずっと「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と呼びながら後ろをついてきていた。彼にとっても、彼女は本当に妹のような存在で、可愛がってきた。だが、いつからか、その感情は歪み始めていた。あるいは、変わってしまったのは自分だけではないのかもしれない。京弥は眉をひそめ、その表情はますます険しくなっていった。その様子が視界の端に映った伊澄は、心の底から恐怖を覚えた。伊澄は思わず手を伸ばし、紗雪の服の裾を掴もうとしたが、紗雪は素早く身を引いた。紗雪は一切の迷いなく、目の前の伊澄を蔑む目で見つめた。「なに、今さら怖くなったの?」伊澄は涙を流しながら首を振った。「違うます、お義姉さん!さっきのことは誤解です!本当に......本当に冗談のつもりだったんです。言ってたことも、全然知りません!もう京弥兄とお義姉さんの邪魔なんてしないから......お願い、ここにいさせて......」そんなふうに泣きながら懇願する伊澄の姿を見て、紗雪は少しばかり意外に思った。一体どれだけ強い執着があれば、ここまで食い下がることができるのか。紗雪は少し興味が湧いてきた。このまま彼女を置いておいたら、次はどんなことをしでかすのだろう。彼女は問題の種を見えない場所に隠しておくのは好きではなかった。それならいっそ、自分の目の届くところに置いておいた方がいい。そう考えた紗雪は、最後には譲歩した。「そんなに残りたいなら、残ればいい。ただし、私のいるところに、あんたの姿は見たくない」その言葉を聞いた伊澄は、涙をぽろぽろ流しながら感謝の言葉を口にした。「ありがとうございます、お義姉さん!そう言ってもらえただけで十分です。もう絶対にお義姉さんの前には現れません。あなたがいる限り、私は部屋にこもります。視界に入ることは絶対にしませんから」紗雪は「ええ」とだけ応えた。それ以上言葉はなかったが、その目には明らかに「まだここにいるの?」という無言の圧が込められていた。
「へえ。じゃあ見せてもらおうか、君がどうやって彼女を困らせるっていうのかを」いつの間にか、京弥が玄関に立っていた。そして先ほどの会話を、最初から最後まで、すべて聞いていた。紗雪と伊澄は同時にそちらを振り向き、顔に驚きの色を浮かべる。まさか、このタイミングで京弥が家に戻ってくるなんて。最初に反応したのは、伊澄だった。彼女は慌てて京弥のもとへ駆け寄り、取り繕うように話しかけた。「京弥兄、違う、違うの!さっきのは......紗雪姉とちょっとふざけてただけなの!」紗雪もゆっくり立ち上がり、面白そうに微笑みながら言う。「そう?それが冗談っていうなら、私も伊澄に冗談でも言ってみようかしら」伊澄は顔を引きつらせ、言葉を選ぶように笑みを作る。「紗雪姉、なに言ってるの......?全然意味がわかんないよ?さっきのはほんとに、ただの冗談だったの。謝るから、もう許してよ」そして再び、京弥に向き直って必死に説明を続ける。「ほんとよ、京弥兄、信じて!私はただ、ふざけてただけなの。深い意味はなかったの!」紗雪は一言も返さず、まるで滑稽な芝居でも眺めるかのように、黙ってその様子を見ていた。一方の京弥は、無表情で冷ややかな顔をしていて、何を考えているのか一切読み取れない。ただその漆黒の瞳で、じっと伊澄を見据えていた。彼女の言葉に、どこまで真実が含まれているのか見極めるように。その視線にさらされ、さすがの伊澄も動揺を隠せない。京弥が何を思っているのか、まったくわからなかった。「京弥兄......な、なんか言ってよ......そんな顔で見ないで......こわいよ......」視線の圧に怯え、言葉さえ詰まる。その様子を後ろで見ていた紗雪は、思わず笑いをこらえた。さっきまであんなに強気で威圧的だったのに、京弥を前にしたら、急に怯え出すなんて。まるで人が変わったかのような変わり身に、滑稽ささえ感じた。紗雪は腕を組みながら、黙って成り行きを見守る。もう真実は目の前に晒されている。あとは、京弥がどう判断するかだけ。すると、京弥は一切の迷いも見せず、手早く伊澄の腕を振り払った。動きは鋭く、まるで情けの余地もない。「紗雪を苦しめたいと思っているのなら、君にこの家にいる資格はない」伊澄は目を見
彼女は、こんなにも長いあいだ京弥と知り合いでいながら、結局は何者にもなれなかった。後から現れた紗雪が二人の関係を壊したというのに、どうしてこれほど堂々と自分に文句をつけられるのか。「あんたが京弥兄に、一体どんな『おまじない』をかけたのか見に来ただけよ」伊澄が吐き捨てる。「ふーん。今日は彼がいないから、もう猫かぶりはやめるってわけ?」紗雪は肩をすくめ、興味なさそうに返す。伊澄は、その余裕ある態度を見るだけで憎しみを募らせた。「このバカ女ッ!どうして京弥兄はあんたに夢中なの?あんたのどこがそんなにいいわけ?」紗雪は腕を組み、気だるげに笑う。「私が彼の妻だからよ。あなたは所詮妹。最初から可能性なんてなかったの」そして彼女は、軽蔑するように伊澄を上から下まで眺めた。「鏡でも見たら?少なくとも私は、他人を平気で罵ったりしない。あなたは品位ってものが欠けてるわ」言葉を返され、伊澄はさらに激昂する。「全部あんたのせいよ!あんたさえいなければ、京弥兄は私を選んでいたはずなのに!この、泥棒猫!」握り締めた拳で今にも殴りかかりそうな勢い。もし今がそんなことを許される場面であれば、彼女は本気で紗雪のその顔にナイフで二筋ほど傷をつけてやりたいと思っていた。こんなにも整った顔立ちを見るたびに、心の底から嫉妬と劣等感が湧き上がってくるのだった。彼女は生まれつき家族のよくない遺伝を受け、美貌では紗雪に及ばない。その劣等感がなおさら彼女を京弥の顔に引き寄せられる。「でもね、あんたは第三者なのよ。長年そばにいたのは私よ。あんたなんか、椎名家にふさわしくない!」嫉妬と怒りで頬を紅潮させながら叫ぶ。紗雪は思わず吹き出した。なんて可笑しい。「それで?今日私にそんなことを言いに来ただけ?」伊澄は氷のような笑みを浮かべた。「忠告してあげるわ。会社を守りたいなら、京弥兄から手を引くことね。でなければ、今度はもっとひどい目に遭うわよ」「ひどい目?」紗雪は片眉を上げ、問い返す。「それはどういう意味かしら?」「察しがつくでしょう?」伊澄は薄笑いを浮かべ、ゆっくりと歩み寄る。「ここ最近あんたの身に起きた災難こそ、いいお手本じゃない?」その一言で紗雪は悟った。LC社が突然値を吊り上げた裏に、彼女