緒莉は、病院で起きた出来事を一から十まで美月に話し始めた。院長が京弥に対して見せた態度や、京弥の傲慢な様子――それらは、彼が紗雪を騙していたという重要な証拠だ。紗雪がこの事実を知っているのかどうかは分からない。けれど緒莉は思い出した。以前、京弥は自分たちの前で、一度も「家が金持ちだ」なんて言ったことがなかった。しかも、京弥の実家が何をしているのかも、彼女はずっと聞いたことがない。ひとつひとつの出来事が、緒莉を次第に興奮させていく。これって、京弥の秘密を知っちゃったってことじゃない?緒莉は、普段の京弥の傲慢で尊大な態度を思い浮かべた。今や彼女は、相手の秘密を握っている。これなら、その秘密を利用して相手を操れるのではないか――そう思った。緒莉はさらに言葉を継いだ。「お母さん、この病院、M州ではすごく有名なの。よく考えてみて。あの椎名、きっと私たちに隠してることがあるのよ。そうじゃなきゃ、あの院長が言いなりになるわけないじゃない。きっと後の勢力が原因よ」それを聞いて、美月も確かに一理あると思った。「それで、緒莉はこれからどうするの?」美月は今、心から緒莉が次にどう動くのか気になっていた。こんなにも真剣に娘の話を聞くのは、久しぶりのことだった。これまで美月は、緒莉の身体が弱いからと、あまり期待もしていなかった。だからこそ、今回の緒莉の考えを知りたいと思ったのだ。それに、緒莉はいま海外にいる。つまり、彼女は紗雪の現状を直接知ることができるということではないか。なぜだか美月の胸は、少し高鳴っていた。紗雪を思わないわけではない。けれど、こんなにも長い間、美月自身も心身ともに疲れ切っていた。どうやって心配してやればいいのか、どうやって労わればいいのか――それさえ分からなくなっていたのだ。紗雪はもう大人で、自分なりの考えも持っている。緒莉と比べて、美月は紗雪のほうが安心できると感じていた。たとえ紗雪のほうが年下であっても。それでも、この長い時間の中で、紗雪への愛しさと痛ましさは、確かに増していた。そんな美月に向かって、緒莉は真剣な声で言った。「お母さん、椎名が私を中に入れたがらないってことは......もしかして紗雪をわざと閉じ込めて、私たちの知らな
彼女は軽く咳払いをし、あらかじめ準備していた言葉を口にした。「そんなに焦らないでよ、お母さん。言いたくないわけじゃなくて、どう切り出せばいいか分からなかったの」それを聞いた美月は、思わず背筋を伸ばして身を起こした。語気には、歯を食いしばるような苛立ちが滲む。緒莉は、いったいどういうつもり?こんなに長い間、たった一言さえ言えないなんて。美月の忍耐はとうに切れていた。「言いたくないなら切るわよ」「ちょっと待ってよ、お母さん!」緒莉はタイミングを計り、言葉を続けた。「お母さん、実は......私、紗雪のことがすごく心配で......それで、どうにもならなくて、こっそり国外に来ちゃったの」美月は、その言葉の中にあった矛盾を即座に捉えた。「紗雪がどの国にいるか、どうやって分かったの?」緒莉の胸が「ドキリ」と跳ねた。さすがお母さん、すぐに自分の言葉のほころびを見抜く。そして、瞬時に問い返してくる。だが緒莉も、余裕のある調子で答えた。「今は交通も情報も発達してるでしょう?本気で調べようと思えば、調べられるのよ。それに、私は妹のことが心配なの。こうして一刻も早く見つけられたんだから、それが一番いいじゃない」その言葉を聞いて、美月はそれ以上追及しなかった。彼女は分かっていたのだ。この娘は、まるでタヌキのような子だということを。話をしているうちに、気づけば相手の術中にはまり込んでいる。しかも、はまっていることにすら気づかないのだ。それが、一番恐ろしい。だが今の美月には、そんなことを気にしている余裕はなかった。「じゃあつまり、あなたは紗雪の状況を知ってたのね?」美月の関心は、もはやそれだけだった。それ以外のことに心を割く暇もない。もう長いこと、紗雪の顔を見ていない。この娘への思いは、後悔ばかりだった。緒莉が幼いころから身体が弱く、そのぶん注がれた愛情は多かった。だからこそ、紗雪へのケアはどうしても手薄になってしまった。そのことを、美月自身も分かっている。けれど、どちらも自分の子。緒莉を見捨てられるはずがない。必然的に、健康な紗雪にばかり負担がかかってしまったのだ。もし清那がこの事実を知ったら、きっと黙ってはいないだろう。「どういう意味?」
これは、普段の彼女のやり方とはまるで違っていた。美月はひとつため息をついた。幼い頃から甘やかして育てた子なのだ。ついつい甘えてしまう。だからこそ、電話に出た美月の声はとても柔らかかった。「どうしたの、緒莉?」緒莉はためらいがちに言った。「お母さん......紗雪のこと、聞いたの」美月の胸がドキリとしたが、すぐに心を落ち着けて問い返した。「誰に?」自分は緒莉に何も話していないはずなのに、どうしてこの子は知っているのだろう。それに、知った上で、なぜわざわざ自分に言いに来るのか。どうにも腑に落ちなかった。美月は不審に思いながらも、辛抱強く緒莉の続きを待った。しかし、緒莉はなおも口ごもっていた。「そんなことより、お母さん。今、ひとつわかったことがあるの」「何のこと?」美月の心は、緒莉の声音に合わせて再び緊張した。年齢も重ねた今、こうして翻弄されるのは正直きつい。しかも、相手はわざと焦らしているかのように、言うとも言わず、引き延ばすばかりだ。美月の我慢も限界に近づいていた。「話すならちゃんと話しなさい。そんなふうに言いかけては黙るのはやめて。言いたくないならいいわ。私が自分で調べるから」その声には、少し厳しさが滲んでいた。若い頃、美月はまさに時代を風靡した人間だった。中年になった今でも、小娘に振り回されるつもりなど毛頭ない。緒莉の小賢しい駆け引きなど、まだまだ甘い。若い頃、どれほどの人間を見てきたと思っているのか。緒莉など、彼女にとってはただの子ども。脅威になどならない存在だ。それなのに、このもじもじした態度は、どうにも苛立たしい。自分はこんなふうに娘を育てた覚えはないのに。ふと、美月は以前の紗雪を思い出した。紗雪は彼女の前でも誇り高く、決して頭を下げなかった。一方で、緒莉はただ甘えるばかり。それ以外に思い出せない。そう考えた瞬間、なぜか美月の胸に重苦しさが広がった。ますます、紗雪への思いが募っていく。あんなにも良い娘が、どうしてこんな目に遭わなければならないの。神様は、自分の後半生が順調すぎるのが気に入らなかったのか?そんな思いがよぎり、胸の奥に鈍い痛みが走る。一方の緒莉は、どう切り出していいのか分からなかった。
ただ薬を一回注射するだけ、それほど大変なことではない。二人は以前にも、確かに同じようなことをしたことがある。今回はただ場所が海外に変わっただけだった。緒莉は、辰琉の顔色からわずかな動揺を見抜いた。もちろん彼女も、この手のことが簡単ではないと分かっていたし、万一見つかれば、間違いなく大恥をかくことも知っていた。辰琉を落ち着かせるため、緒莉は彼をホテルに連れて行き、まずは眠らせた。「いい?今辰琉がやるべきことは、リラックスすること。夜になったら、私と一緒に病院に行くわ」辰琉はうなずき、「ああ、君を失望させたりはしないよ」と答えた。緒莉が今取っているのは、徹底した励まし作戦だった。辰琉が少しでも気後れを見せれば、その都度前向きな言葉をかける。時間はあっという間に過ぎ、気づけばもう夜になっていた。辰琉はやはり少し緊張していた。なぜか分からないが、昼間はあまり感じなかったのに、夜になると急に緊張してしまう。特に、相手に気づかれるのではないかという不安が頭をよぎる。もし気づかれたら、その時自分はどうすればいいのか。しかも、緒莉の様子を見ると、まるで何の不安もなく自信満々に見える。そのこともまた、辰琉の不安を掻き立てた。「本当に......これで、大丈夫なのか?」「安心して。後で私が椎名を引きつけておくから、あなたは素早く入ってさっさと済ませて」「わかった......でもできるだけ長く時間を稼いでくれ。俺、注射とかあんまり得意じゃないんだ」辰琉の煮え切らない態度に、緒莉は心の中で少し苛立ちを覚えた。「はいはい、わかってるわよ。大丈夫、ちゃんと見張っててあげるから」緒莉の頭の中では、すでに計画ができあがっていた。どうせ京弥を引き離せばいいだけの話。そのために美月に電話をかけ、美月から京弥に連絡してもらえばいい。今日一日観察していて分かったことがある。京弥は確かに紗雪を気にかけている。彼女が昏睡状態であろうと、何かあれば真っ先に駆けつけるだろう。だから、もし美月から電話が入れば、京弥は高い確率で出て行くはずだ。「先に病院に行きましょう。私、この後チャンスを見てお母さんに電話するわ」辰琉は少し疑問に思った。このタイミングで美月に電話?まさか、今からすぐ駆けつけ
甘い言葉を言えて、素直で、しかも話し上手。この点において、大人で嫌う人なんていないだろう。当時、小さな紗雪もそう思っていた。緒莉が何をしようと、彼女はただ横に立ち、まるで自分が人前に出せない私生児のようだと感じていた。けれど、大人になり、自分の交友関係ができてからは、紗雪も少しは気持ちが楽になったのだった。清那がなぜこれほどまでに知っているのか。それは子供の頃、紗雪が本当にたくさんのことを彼女に話していたからだ。幼い頃から二人はいつも一番の親友同士で、誰かが何か困ったことに遭えば、必ず秘密基地に集まった。そこには、二人だけの思い出が山ほど詰まっていた。清那の感慨深げな表情を見て、日向は心の中で思わず驚いた。松尾さんって、なんでいつも上の空なんだ?集中力がまるで続かないみたいだ。けれど、時々ふと見せるその上の空な表情は、日向の目には可愛らしく映って仕方がなかった。うまく言葉にできないが、清那には邪気がなく、一緒にいて楽な人間のように感じられる。だが今の日向は、心の奥でそんな自分を激しく軽蔑していた。紗雪のことをまだ好きなのに、どうして清那にも好感を抱いているんだ。人として最低じゃないか?そんなことを思うと、日向は理由もなく罪悪感に襲われ、今の紗雪の様子を思い、さらに胸が締めつけられた。もうこんな気持ちでいてはいけない。あまりにも酷すぎる。日向は深く息を吐き、これからは清那と距離を置こうと心に決めた。二人がこんなに近くにいるのは、どう考えても良くない。第一の目的は、紗雪だ。そうやって、日向は自分に言い聞かせた。二人の姿が病院から消えるのを見計らって、緒莉と辰琉はようやく暗がりから姿を現した。外に出る頃には、重装備もすでに外していた。もともと暑い気候の中、あれほど厳重に包んでいたのだ。バカじゃなければ、暑さに耐えられるはずがない。胸を撫で下ろした辰琉は、安堵と恐怖の入り混じった声で言った。「さっきなんで急に立ち止まったんだ?危うくバレるところだったんだよ?」その時、何も言わずとも計画は台無しになり、後のこともすべて水の泡になっていただろう。そう思うと、緒莉の胸にも恐怖が走った。だが、幸い清那は鈍感だった。おかげで、なんとか誤魔化すことができた
しかし、その後、二人が彼らの前に歩み寄り、しかも立ち止まったのだ。清那はとても奇妙に感じた。この二人、まさか自分たちの会話を盗み聞きしていたんじゃないのか?だが緒莉の頭の回転は速く、すぐに手を振り、声が出せないというジェスチャーをした。そして辰琉の腕を引き、足早にその場を去っていった。清那は二人の背中を見送りながら、胸の中の疑念がますます深まっていった。「変な人たち」それ以外にも、この二人の現れ方と去り方、どちらも不自然だった。まるで、すべてが仕組まれているかのように。清那がずっとぼんやりしているのを見て、日向が不思議そうに問いかけた。「どうした?何を見てるんだ?」清那は薄い唇を引き結んだ。「ねえ、さっきの二人、変だと思わない?私が兄さんの正体を言った時、あの二人......盗み聞きしているみたいだった」その言葉を聞いて、日向も少し考え込み、清那の言葉に一理あると感じた。「あの二人を見たことあるのか?それとも、どこかで会った、とか?」日向にそう聞かれ、清那は言葉を詰まらせた。一瞬、頭の中が混乱し、全く思い出せない。「思い出せない。そもそも印象がないの」清那は苦笑しながら言った。「それに、あんなに厳重に包んでたんだよ?見分けられるわけないじゃない」日向は額を軽く叩き、我ながら軽率だったと気づいた。この状況で、何を言ってるんだ自分は。さっきの二人の格好で、普通の人が判別できるわけがない。そんなの、考えてみれば当然だ。それに、今の世の中は何をするにも証拠が必要だ。むやみに決めつけるわけにはいかない。「じゃあ、ホテルに行こうか」日向は問いかけるような口調で清那に言った。清那は頷いた。「うん、とりあえず荷物を置きに行こう。他のことは後で考えればいい。片付けが終わったら、また紗雪の様子を見に来よう」日向も同意した。自分もそう思っていたのだ。ここで散々騒ぎを見物したが、結局何の結論も出なかった。彼の胸にはまだ納得できない気持ちが残っていた。それに、紗雪の容態も本当に心配だ。いったいどんな病気なんだ。こんなに長い間、まだ目を覚まさないなんて。一体どうなっているんだ?日向は大きくため息をつき、その心には紗雪への不安しかなかった