登入ゴブリンが突然動きを止めた。
その理由を、ヒマリはすぐに理解したわけではない。
ただ、闇の奥で何かが目を覚ました気配だけが、肌を刺した。ガサリ。
複数の足音。
赤い光が、闇に点る。一つ、二つ……十を超える。
腐った息。
低い唸り声。(……来ないで……)
後ずさった背中が瓦礫にぶつかり、逃げ場が消える。
闇から現れたのは、歪な影たちだった。
骨だけの骸骨。 粘液の塊。 腐臭を放つ死体のような魔物。魔王城の最下層に巣食う、最底辺の存在。
「来るなっ!」
反射的に手を突き出した瞬間――
白い光が、ふわりと指先から溢れた。眩しくはない。
けれど、やけに温かい。春の日差しのような光が闇に触れた瞬間、
魔物たちの動きがぴたりと止まった。黒い靄が剥がれ落ち、
腐りかけた皮膚がゆっくりと塞がっていく。がしゃり、と音を立ててゾンビが膝をついた。
続いて、また一体。 また一体。気づけば、全員が地に膝をついていた。
「……おお……」
低くかすれた声が闇に響く。
「我らの魂に絡みついた枷が……ほどけていく……」
「苦しみが……ない……」
その視線が、ゆっくりとヒマリに向けられる。
恐怖ではない。
敵意でもない。そこにあったのは――深い安堵。
「……主」
誰かがそう呼んだ。
ヒマリは息を呑む。
(……え?)
自分の手を見る。
まだ淡く光っている。胸の奥が、ひどく静かだった。
「主様、力を使いすぎです」
「目覚めたばかりでは?」
魔物たちの声は、どこかぎこちない。
けれど、確かに気遣いの色があった。恐怖が引いていく。
代わりに、奇妙な確信が芽生える。魔物たちは逆らわない。
そういう力だ、と。「……あなたたち」
声が思ったより落ち着いていた。
「私の言うこと、聞くの?」
魔物たちは、一斉に頷いた。
祈りのように揃った動きだった。
「主は最下層に捨てられた我らの開放者」
ヒマリは瓦礫に腰を下ろし、深呼吸をした。
腐敗臭が、もう気にならない。制服は汚れているし、髪もぐちゃぐちゃだ。
なのに、不思議と惨めさはなかった。「……じゃあ。まず、ここから出たいんだけど」
魔物の一体が前に出る。
「この先に、かつての魔王城下層がございます」
「昔の……魔王?」
「はい。ノリス様の居城でした」
ヒマリは闇の奥を見る。
果ての見えない通路。「……他にも、魔物はいる?」
「多数。ですが、
――あなたの光があれば、逆らう者はいません」ヒマリは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
(独りで震えて死ぬよりは……ずっといい)
「ここが今の私の居場所」
魔物たちが息を呑む。
「私はあなた達と共に生きる」
立ち上がる。
光の差さないゴミ捨て場。 魔物に囲まれた自分。恐怖は、もうない。
代わりにあるのは、静かな熱。
(私を捨てたなら――)
(私は、私を必要とする世界を作る)
ジギスムント王。
魔王ノリス。 私を笑ったすべての者。勝手に呼び出して、何が役立たずよ。
全部ひっくり返してやる。
静かに、確実に。捨てられた聖女は、まだ知らない。
自分がどれほど危うい力を手にしたのかを。ただ――
白い光を纏い、闇を従えながら、ゆっくりと歩き出した。王都ブリューテ。王城最奥、ジギスムント王の執務室。重厚な机の上には、広げられた一枚の地図。他国の国境線に、赤い矢印が何本も引かれている。「西方ロンデル公国は、抵抗が激しい」ジギスムントは淡々と告げた。「だが、魔王ノリスの軍を先鋒に出せば、一週間で落ちる」周囲に控える貴族たちは、揃って恭しく頷く。その表情の裏にあるのは忠誠ではない。戦後の領地、褒賞、利権――誰もが腹の中で計算していた。「初戦を魔導士の結界ごと吹き飛ばしたとか、 さすがは魔王ノリス様ですな」先月まで若い王に陰口を叩いていた老臣が媚びるように笑う。「かつて大陸を震え上がらせた力。まさに無敵」「当然だ」ジギスムントは薄く笑った。「あれほどの存在を手に入れたのだから」満足げに息を吐く。――召喚の夜から一月。異界から現れた、二人の存在。ひとりは圧倒的な闇を纏う魔王。もうひとりは――(……もう一人、いたような気がするな)一瞬、脳裏に引っかかる。黒髪の少女。怯えた目。「聖女」と呼ばれていた気もする。だが、その像はすぐに霧散した。(役に立たなかった。だから捨てた。 最後に何か言っていただろうか?)「くだらない」ジギスムントは思考を切り捨て、地図へ視線を戻す。「重要なのは、ノリスの力だけだ」その頃。王城の貴賓室では、まったく別の空気が流れていた。魔王ノリスは、ゆったりとソファに身を預け、ワイングラスを傾けている。漆黒のドレスが、燭台の光を妖しく映した。「ねえ、ジギスムント」甘く、粘るような声。「あなた……私を道具だと思っているでしょう?」王子は書類から顔を上げ、柔らかな笑みを作る。「まさか。君は僕の最強のパートナーだ」ノリスは立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めた。指先で、彼の顎を持ち上げる。「なら、証明してちょうだい」赤い瞳が、蛇のように細く光る。「――私を、正妃にするの」一瞬、空気が止まった。「……気が早いな」ジギスムントは静かに手を下ろす。「戦争はまだ始まったばかりだ。 すべてを手中に収めてから――」「嫌よ」ノリスはくすりと笑った。「あなた、魔王である私を信用していないでしょ?」一歩、さらに距離を詰める。「だったら私も、あなたを利用するだけ」耳元に唇を寄せ、囁く。「結婚すれば、私の力は完全にあな
通路は、思っていた以上に広かった。崩れた石壁の向こうへと続く回廊は、かつての城の名残を感じさせる造りで、ところどころに装飾の欠片が残っている。「ここが……魔王城……」ヒマリは、足元を確かめながら歩いた。湿った石床。天井の高い空間には、かつての威厳が微かに残っている。「昔は、もっと栄えておりました」先導するゴブリンが、静かに言った。「魔王クルス様が在りし頃は、この城一帯が闇の都と呼ばれておりました」「……今は?」「主を失い、統制を失い……強き魔物が弱き者を喰らう場所になりました」淡々とした口調だった。だが、その奥には、わずかな苦さが滲んでいる。(つまり、あなた達は弱者なわけね)ヒマリは、歩きながら周囲を見渡した。崩れた扉の奥。(この魔物も私と同じ、追われてゴミ捨て場で身を震わせていた)どこかから、視線を感じる。怯えと、警戒と、渇望が入り混じった気配。「……見てるなら、出てきて」自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。沈黙のあと、壁の陰から痩せた影が現れる。小柄な魔物。半透明のゴースト。ぼろ切れを纏った影のような存在。どれも、戦力とは言いがたい。彼らは一定の距離を保ったまま、怯えた目でヒマリを見つめていた。「……逃げないの?」ヒマリが尋ねる。魔物たちは顔を見合わせ、やがて一体が震える声で答えた。「逃げても……食われるだけです」「強い者に、奪われて……」「ここは、そういう場所です」言葉は拙いが、意味は痛いほど伝わる。ヒマリは、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。(やっぱり……同じだ)さっきまでの自分を見ているようだ。強い側に選ばれなければ、切り捨てられる。役に立たなければ、存在を許されない。「……なら」ヒマリは、一歩前に出た。「私のところに来なよ」魔物たちが、息を呑む。「ここでは、奪われない」小さな魔物達は沈黙したまま動かない。これ以上ひどい目に合わないか恐れているのだ。だが――一匹の小さな影が、恐る恐る前に出た。半透明のゴーストだった。ぷるり、と震えながら、ヒマリの足元に近づく。その瞬間。淡い光が、自然と溢れ出す。ゴーストの体が、穏やかに輝いた。濁りが薄れ、影が澄んでいく一瞬、光に包まれ存在が消える。「……あ」一回り小さくなったゴーストから小さ
ゴブリンが突然動きを止めた。その理由を、ヒマリはすぐに理解したわけではない。ただ、闇の奥で何かが目を覚ました気配だけが、肌を刺した。ガサリ。複数の足音。赤い光が、闇に点る。一つ、二つ……十を超える。腐った息。低い唸り声。(……来ないで……)後ずさった背中が瓦礫にぶつかり、逃げ場が消える。闇から現れたのは、歪な影たちだった。骨だけの骸骨。粘液の塊。腐臭を放つ死体のような魔物。魔王城の最下層に巣食う、最底辺の存在。「来るなっ!」反射的に手を突き出した瞬間――白い光が、ふわりと指先から溢れた。眩しくはない。けれど、やけに温かい。春の日差しのような光が闇に触れた瞬間、魔物たちの動きがぴたりと止まった。黒い靄が剥がれ落ち、腐りかけた皮膚がゆっくりと塞がっていく。がしゃり、と音を立ててゾンビが膝をついた。続いて、また一体。また一体。気づけば、全員が地に膝をついていた。「……おお……」低くかすれた声が闇に響く。「我らの魂に絡みついた枷が……ほどけていく……」「苦しみが……ない……」その視線が、ゆっくりとヒマリに向けられる。恐怖ではない。敵意でもない。そこにあったのは――深い安堵。「……主」誰かがそう呼んだ。ヒマリは息を呑む。(……え?)自分の手を見る。まだ淡く光っている。胸の奥が、ひどく静かだった。「主様、力を使いすぎです」「目覚めたばかりでは?」魔物たちの声は、どこかぎこちない。けれど、確かに気遣いの色があった。恐怖が引いていく。代わりに、奇妙な確信が芽生える。魔物たちは逆らわない。そういう力だ、と。「……あなたたち」声が思ったより落ち着いていた。「私の言うこと、聞くの?」魔物たちは、一斉に頷いた。祈りのように揃った動きだった。「主は最下層に捨てられた我らの開放者」ヒマリは瓦礫に腰を下ろし、深呼吸をした。腐敗臭が、もう気にならない。制服は汚れているし、髪もぐちゃぐちゃだ。なのに、不思議と惨めさはなかった。「……じゃあ。まず、ここから出たいんだけど」魔物の一体が前に出る。「この先に、かつての魔王城下層がございます」「昔の……魔王?」「はい。ノリス様の居城でした」ヒマリは闇の奥を見る。果ての見えない通路。「……他にも、魔物はいる?」「多数。で
眩しい光に包まれ、思わず腕で顔を覆った。(……え?) さっきまで、狭いワンルームのベッドにいたはずだ。 スマホを握ったまま寝落ちし、通知の来ない画面をぼんやり見つめていた。 それなのに、鼻を刺す空気の匂いが違う。 古い石の冷たさ。ざわめく人の気配。「成功だ……!」 誰かの興奮した声が響く。 恐る恐る目を開いた瞬間、心臓が止まりそうになった。 見知らぬ大広間だった。 高い天井。壁一面に刻まれた巨大な魔法陣。 床には淡い光が流れ、豪奢な衣装をまとった人々が並んでいる。 まるでゲームか映画の世界。 けれど――違和感があった。 誰も、私を見ていない。 視線の先は、少し離れた場所。 そこに立っていた人物を見た瞬間、思わず息を呑んだ。 銀髪の女だった。 腰まで流れる髪は月光のように淡く、赤い瞳が妖しく光っている。 美しい。 そう思った直後、背筋に冷たいものが走った。 ただ立っているだけなのに、空気が張り詰めている。 まるで猛獣を前にした時のような、本能的な恐怖。 それなのに、どうしてか目を逸らせなかった。「……ふふ。久しいわね、人間の王宮は」 低く艶のある声が響く。 その瞬間、周囲がざわめいた。「ま、魔王ノリス……!」 ――魔王。 現実味のない言葉が、耳の中で重く響く。(え、魔王? 本当に?) 理解が追いつかない。 混乱する私を置き去りにして、玉座の方から一人の青年が立ち上がった。 整った顔立ちだった。 けれど、その目は驚くほど冷たい。「ようこそ。私の国へ、魔王ノリス」 王族らしい豪奢な衣装。 王だ。 青年は微笑みながら続ける。「君の力が欲しい。私はこの国を、誰も逆らえない完全な国家にしたい」「私が魔王だって分かって言ってるの?」「もちろんだ。美しく、力のあるそなたは妃に相応しい」(……妃?) 思考が止まる。 何それ。 状況が急すぎて理解が追いつかない。 けれど、周囲の反応を見る限り冗談ではないらしい。 大広間は成功の空気に満ちていた。 そして私は、その輪の外側に立っていた。「あ、あの……」 小さく声を出す。 誰も振り向かない。 制服姿の私は、この空間にあまりにも不釣り合いだった。 ようやく一部の魔術師がこちらを見る。 だが、その視線に歓迎はなかった。「……測定