LOGIN通路は、思っていた以上に広かった。
崩れた石壁の向こうへと続く回廊は、
かつての城の名残を感じさせる造りで、 ところどころに装飾の欠片が残っている。「ここが……魔王城……」
ヒマリは、足元を確かめながら歩いた。
湿った石床。
天井の高い空間には、かつての威厳が微かに残っている。「昔は、もっと栄えておりました」
先導するゴブリンが、静かに言った。
「魔王クルス様が在りし頃は、
この城一帯が闇の都と呼ばれておりました」「……今は?」
「主を失い、統制を失い
……強き魔物が弱き者を喰らう場所になりました」淡々とした口調だった。
だが、その奥には、わずかな苦さが滲んでいる。
(つまり、あなた達は弱者なわけね)
ヒマリは、歩きながら周囲を見渡した。
崩れた扉の奥。
(この魔物も私と同じ、追われてゴミ捨て場で身を震わせていた)
どこかから、視線を感じる。
怯えと、警戒と、渇望が入り混じった気配。「……見てるなら、出てきて」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
沈黙のあと、壁の陰から痩せた影が現れる。
小柄な魔物。
半透明のゴースト。 ぼろ切れを纏った影のような存在。どれも、戦力とは言いがたい。
彼らは一定の距離を保ったまま、
怯えた目でヒマリを見つめていた。「……逃げないの?」
ヒマリが尋ねる。
魔物たちは顔を見合わせ、やがて一体が震える声で答えた。
「逃げても……食われるだけです」
「強い者に、奪われて……」
「ここは、そういう場所です」
言葉は拙いが、意味は痛いほど伝わる。
ヒマリは、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
(やっぱり……同じだ)
さっきまでの自分を見ているようだ。
強い側に選ばれなければ、切り捨てられる。
役に立たなければ、存在を許されない。
「……なら」
ヒマリは、一歩前に出た。
「私のところに来なよ」
魔物たちが、息を呑む。
「ここでは、奪われない」
小さな魔物達は沈黙したまま動かない。
これ以上ひどい目に合わないか恐れているのだ。
だが――
一匹の小さな影が、恐る恐る前に出た。
半透明のゴーストだった。
ぷるり、と震えながら、ヒマリの足元に近づく。その瞬間。
淡い光が、自然と溢れ出す。
ゴーストの体が、穏やかに輝いた。
濁りが薄れ、影が澄んでいく
一瞬、光に包まれ存在が消える。「……あ」
一回り小さくなったゴーストから小さな声が漏れる。
「……こわく、ない」
周囲がざわめく。
ヒマリは息を呑んだ。
自分が何かを「しよう」としなくても、
浄化の光は勝手に働いている。体の力が抜けていく。
それが、少し怖かった。けれど。
「まだ……大丈夫。
浄化を続けるわ」そう言って、しゃがみこむ。
「私も……奪われたのよ」
その言葉に、空気が揺れた。
魔物たちの視線が、ゆっくりと和らいでいく。一体、また一体と、膝をつく。
「主……」
「主さま……」呼び名が、自然に揃っていく。
ヒマリは、胸の奥が少しだけ痛んだ。
(この呼び方、重い……)
「ヒマリでいいよ」
「ヒマリ様?」
「まあ、いいや……城を案内して」
「下層でよろしければ…」
魔物たちは頷いた。
城の奥へ進むにつれ、空気はさらに冷たく、重くなっていった。
壁には、古い紋章が刻まれている。
黒い月を背にした、角ある影。「それは……?」
ヒマリが指差す。
「先ほど話した先代魔王、クルス様の紋章です」
「女の、魔王?」
「はい。慈悲と支配を併せ持つお方でした。
現魔王ノリス様との戦いに敗れた後、この城に封じられ、
魔力供給装置となっております」その言葉に、ヒマリの胸がわずかにざわつく。
慈悲と支配。
相反するはずの二つが、並んで語られる違和感。
どちらか一方だけなら、
きっと、ここまで歪まなかった。「……どんな最期だったの?」
魔物たちは、少し黙ったあと、低く答えた。
「裏切られました」
「人間との戦いの最中、ノリス様に裏切られたのです」
「封じられ、名を奪われ、忘れ去られました」
ヒマリは、無意識に拳を握る。
(また……)
頭に浮かぶのは、あの王の笑顔。
使えないと分かった瞬間に、切り捨てた目。
「……そう」
それ以上、言葉は続かなかった。
やがて、一行は広い空間に辿り着く。
天井の高い、玉座の間。崩れかけではあるが、中央には立派な玉座が残っていた。
黒く冷たい空気に、燭台の光が揺れる。
魔物たちは、その場で一斉に跪く。
「ヒマリ様」
「ここが、かつての王の座です」
ヒマリは、玉座を見つめる。
魔物達の視線が痛い。
胸の奥が疼いた。(……座れって、ことだよね)
ゆっくりと近づき、触れた瞬間、空気が変わった。
玉座が淡く光を帯び、城全体が息を吹き返すように震く。
「……え?」
「新たな主の誕生だ……」
誰かが、震える声で呟いた。
ヒマリは、そっと腰を下ろした。
不思議と、拒絶はなかった。
むしろ――しっくり来る。
(失った魔力が何かで補われていく)
「……変なの」
小さく呟く。
でも、胸の奥に確かな感覚が芽生えていた。
ここが、自分の居場所だ。
奪われ、捨てられた先で見つけた、歪な居場所。
ヒマリは、玉座に座ったまま、静かに前を見据える。
(まだ、分からないことだらけだけど)
(ここで私は求められている)
光が、ふわりと強まる。
城の奥深くで、眠っていた何かが、微かに目を覚ました。
それは、まだ名も持たない力。
そして同時に――
遠く離れた王都で。
「……今のは……?」
ジギスムント王は、ふと胸元を押さえる。
説明のつかない、不快な予感。自分が切り捨てた何かが、動き出した感触。
だが、切り捨てたものが多すぎて、心当たりがない。捨てられた聖女は、静かに忘れられた玉座に座り。
闇の城は、新たな主を迎え入れた。ついに拠点となる魔王城へ。 王都にも異変の兆しが生まれました。
城壁の上。 ヒマリは、崩れた防壁の向こうを見つめていた。 黒い流れが、王都へ入り込んでいる。 無数の黒い蟻の群れ。 それは生き物の群れというより、 巨大な意思を持った災害のようだった。「ヒマリ、蟻とは言え魔物であれば、浄化は有効ではないか?」 フェルマーが問いかける。 ヒマリは錫杖を握ったまま答えた。「やっている。でも……おかしい」 白い光が広がる。 蟻の群れへ触れた瞬間、何匹かが霧のように消滅した。 しかし、消えた数よりも、増える数の方が圧倒的に多い。「蟻でしょう? 本来なら単純な生物のはずなのに……」 ヒマリは眉を寄せた。「欲望が、絞れない」「あの一匹ごとに自分の意思があるとでも?」「信じられないけど――」 白い光の中で、黒い蟻の群れが蠢いている。「飢え、恐怖、逃げたいという本能 ……いくつもの感情が絡み合っている」 一瞬、ヒマリは言葉を失った。「まるで……人間みたい」「厄介ですね」 フェルマーの魔導眼鏡に、複雑な術式が流れていく。「ですが、一定の効果はあります」 彼は蟻の群れを見つめた。「弱った個体は、結界に触れることで消滅しています」「追い出せる?」「一匹ずつなら可能でしょう」 フェルマーは間を置いた。 そして、城壁の下を見る。 黒い波が、石畳を覆っていた。「ですが……問題は数です」 ヒマリは錫杖を握り直した。 再び浄化術式を展開する。 白い光が壁となり、蟻の群れを押し戻した。 しかし、光の外側では別の群れが進み続けている。 終わりが見えない。「クルス」『見えている』「どうすれば止まる?」 返事はすぐには来なかった。 わずかな沈黙。 どこか遠くで悲鳴が上がった。『……魔王城のコアへ直接干渉するしかない』「コアは、私が取り込んだはずじゃないの?」『その後の問題だ』 クルスの声が低くなる。『ヒマリが取り込んだ部分とは別に、魔王城に残されたシステムがある……。 それが今、完全自律稼働している』 一拍。『僕の演算すら、押されている』 ヒマリは遠くを見る。 夜空の向こう。 黒い外壁を持つ魔王城。 一斉砲撃を終えた無数の砲塔が、今も静かに動いている。(次は、どこを撃つ?) 城壁か。 市街地か。 それとも――。「ヒマリ様!」 兵士が駆け寄ってき
城壁が、悲鳴を上げた。 夜の王都に、巨大な破砕音が響き渡る。 ガゴォォォォン――。 魔王城の砲塔から放たれた重射撃が、 王都西区画の結界を正面から打ち砕いた。 白い防壁が大きく揺らぎ、その直後。 積み上げられていた石造りの城壁が、耐えきれずに崩れ落ちた。 粉塵が夜空へ舞い上がる。 砕けた石が雨のように降り注ぎ、 城壁上にいた兵士たちが叫び声を上げる。「城壁が――!」「崩れるぞ! 退け! 退けぇ!!」 長い年月をかけて築かれた王都の防壁が、 わずか一撃で穴を開けられる。 ヒマリは、とっさに身を伏せた。 爆風が吹き抜ける。 耳鳴りが響き、粉塵で視界が白く染まった。 それでも、彼女はすぐに立ち上がった。「クルス……もっと射角をずらして。城壁への被害が大きすぎる」『無茶を言うな! 砲門がいくつあると思っている!?』 クルスの声にも焦りが混じっていた。『こちらの干渉を防ぐために、魔王城は一斉射撃へ切り替えている。 攻撃予測そのものを再演算する必要がある』「つまり……一度射角をずらしただけで 魔王城が対応しているってこと?」 ヒマリの表情が険しくなる。 ただ暴走しているだけではない。 こちらの行動に合わせて、変化している。「フェルマー!」「ああ、無事だ」 すぐに返事が返ってきた。「王都全体に広げたとはいえ、私の結界が一撃で破られるとは――」 ヒマリは周囲を確認する。 崩れた城壁からは煙が立ち上り、 その向こうには、ぽっかりと夜の闇が広がっていた。(城壁が……抜けた) 胸の奥が冷たくなる。 それは単なる防壁の破壊ではない。 王都へ続く道が、開いたということだった。 ◆ その穴を、影が抜けた。 十一人。 全員が黒い外套に身を包み、気配を極限まで消している。 城壁崩壊による混乱と、舞い上がる粉塵。 逃げ惑う兵士たち。 暗殺者たちにとって、侵入するにはこれ以上ない好機だった。「今だ」 先頭の男が、低く呟く。「ヒマリは城壁上にいる。混乱に乗じて接近する」 影たちは一斉に動いた。 無駄のない足運び。 互いの距離を完璧に保った連携。 彼らは訓練された暗殺者だった。 ジギスムントが最後に残した切り札。 北部都市群での失敗し、最後機会を狙っていた。 全員が理解していた。
サンドランド王宮の空気は、張り詰めていた。 誰一人として声を荒げない。 それなのに――沈黙そのものが怒鳴っているようだった。 長机の上に広げられた地図。 北部都市群。 王都ブリュード。 そして、赤く引かれた海路図。 老いたサンドランド王サムールは、机に置かれた報告書を見下ろしていた。 その目はまだ砂漠の王のものだった。「……失敗したか」 低い声。 側近たちが息を呑む。 北部都市群との独占契約交渉。 ロンデル公子擁立工作。 すべて――失敗。 都市群はヒマリ女王を支持。 油田の権益を明け渡し、海路は確保とあるが、 本来の成果とは程遠い。 さらに、ロンデル公子アレクシスがそのまま王都へ合流。 すべてがジギスムントの報告と異なる。「ジギスムントは?」 側近が言い淀む。「……戦争継続の構えです。 すでに第一軍を従え、王都に進軍中」 空気が重くなる。 老王は静かに目を閉じた。「止まれぬか」 誰に向けた言葉でもなかった。 王だからこそ分かる。 一度、前に進むしかない王になった者は。 止まれない。 壊れるまで。 その時だった、扉が乱暴に開く。 伝令が飛び込んできた。「陛下!!」 顔色が悪い。 息も荒い。「申し上げます!!」 伝令は、震える声で告げた。「北部都市でのヒマリ女王暗殺――失敗!!」「……何だと?」老王の声が初めて揺れた。「そんな命は出しておらん」 場が凍った。 誰も言葉を発しなかった。 老王だけが、静かに立ち上がる。「……呼び戻せ」「陛下?」「進軍中のジギスムントを呼び戻すのだ!」 声は低い。 だが、怒りが滲んでいた。「今すぐ行け」「は、はい!」 側近たちが慌ただしく動き出す。 だが。 その時。 別の伝令が飛び込んできた。「陛下!! 北部都市群ネリィ副主席より抗議通達が!!」 巻物を差し出す。 老王が目を通す。 一行。 二行。 その顔から、感情が消えた。 静かに巻物を閉じる。「女王暗殺未遂の証拠を握られ、 飛行魔物による船団焼き討ちまで匂わせてきている…… 白々しく、開かれた貿易などと」 誰かが、ごくりと息を呑む。「陛下……?」 老王はゆっくりと言った。「サンドランドは、本日をもって政治中立を宣言する」 ざわめき。「へ、陛下!?
王都の空気は、重かった。 秋の風は吹き抜ける、だが冷たいだけではない。 何か、湿ったものが混じっている。 王都ブリュード西区画。 城壁の上に立つヒマリは、ゆっくりと遠眼鏡を下ろした。 嫌な感じがする。 昨日より確実に――魔王城が、近い。 もちろん距離が変わるはずはない。 けれど、そう思ってしまうほど、存在感が増していた。 黒い外壁。 空へ突き出した無数の砲塔。 沈黙した巨大建造物。 今はヒマリの制御下にある――はずだった。「……また動いてる」 小さく呟く。 魔王城外壁の砲塔が、ゆっくり角度を変えていた。 ギギ……ギギギ…… 鈍い音。 誰も操作していない。 命令も出していない。 まるで、何かを探しているみたいに。「昨日より稼働数が増えている」 隣でフェルマーが言った。 銀縁眼鏡の奥で、魔法術式が高速回転している。 だが、その顔色は悪い。「砲台に魔物反応は?」「ありません」 即答。 そして。「……それが、一番おかしい」 ヒマリは眉を寄せた。「魔王城内部の魔力流が変質しています」「変質?」「本来、魔王城はヒマリの浄化魔力を基準に最適化されている」「今は、クルスが代わってくれているけど」「内部で別系統の演算処理の痕跡が見える」 嫌な沈黙。「人間の感情波形に酷似した魔力反応です」 ヒマリの胸が、小さくざわついた。「……感情?」「痛み。憎悪。恐怖」 フェルマーは低く続ける。「特に、救済を求める感情への異常執着が見える」 その瞬間。 胸の奥で声がした。『ヒマリ』「クルス?」 静かな声。 魔王城コアを司るヒマリとの融合体。『君が救った人たちを覚えてる?』 ヒマリは目を瞬いた。 戦災孤児。 遺体を抱き、泣いていた母親。 家族を失った兵士。 ロンデルの助けを求めた人々。 全部、覚えている。『浄化した穢れは、本当に消えていたと思う?』 呼吸が止まった。「……どういう意味?」『人間の感情は複雑すぎる』 クルスの声が重くなる。『苦痛を取り除いても、苦しんだ記憶までは消えない』 ヒマリは魔王城を見た。 巨大な黒い城。 おかしなくらい、魔物の気配が感じられない。(まさか……)『魔王城が、学習している』 ぞわり、と背筋が冷える。『救済されなかった痛みを』 そ
王都ブリュード 黄昏時。 王都ブリュードの上空へ、ドラムの影がゆっくりと差しかかった。 戦場の危機を救って以来、 飛行魔物は民衆の味方だと認知されつつあった。 城門の兵士たちが驚いたように夕闇に染まる空を見上げる。「ヒマリ様だ!」「お戻りになられた!」 歓声が広がる。 ドラムは王城の中庭へ静かに降り立った。 翼をたたむと、ヒマリたちはゆっくりと地面へ降りる。 そのまま王城の執務室へ向かった。 ◆ 侍女が扉を軽く叩く。「どうぞ」 フェルマーの落ち着いた声が返ってくる。 扉が開かれると、 机へ向かっていたフェルマーが、ゆっくり顔を上げる。 ヒマリ。 ノリス。 そして、アレクシス。 三人の姿を見た瞬間、その表情がわずかに和らいだ。「……無事で何よりだ」 静かな一言だった。 だが、その言葉には本心からの安堵が込められていた。「ただいま」 ヒマリが笑う。「それから――」 胸に抱えていた黒い木箱を差し出した。「早速だけど、これ。 アレクシスの義眼と義手、作れる?」 フェルマーは両手で受け取ると、すぐには蓋を開けなかった。 重さを確かめるように静かに持ち上げ、魔力の流れへ意識を向ける。 やがて、小さく頷いた。「……保存処理は完璧だな」 木箱へ優しく手を添える。「これなら魔術的な再接合も十分可能でしょう」 ヒマリの表情がぱっと明るくなる。「本当?」「ええ」 フェルマーは穏やかに微笑んだ。「アレクシス公子ほどの魔力量があれば、 義眼も義手も限りなく本来の身体に近づけられます」 アレクシスは思わず息をのむ。 失ったものを取り戻せるかもしれない。 その希望だけで胸が熱くなった。「……よろしくお願いします」 深々と頭を下げた。 するとフェルマーの眼差しが静かに鋭さを帯びた。「礼は女王陛下に言いなさい」 一拍置いて続ける。「私は、あなたのことを亡国の公子としか思っていません。 ジギスムントに捕らわれたままであったら、 廃嫡して別の王を立てる道もあった」 その口調は厳しかったが アレクシスが無事に戻ったからこそ出て来る言葉でもあった。「ヒマリ女王には、言葉では言い尽くせない感謝があります」 そして真っ直ぐフェルマーを見つめる。「その恩に報いるため
翌週の正午。 北部都市群の中央医療院へ戻ったペトラは、 そのまま執務室へ向かった。 部屋には、すでにヒマリとノリスが待っていた。 窓の外では港が活気づき、荷役の掛け声が潮風に乗って響いている。 ペトラは二人の前まで歩くと、何も言わず黒塗りの木箱を机へ置いた。 鈍い音が室内に響く。「……これは」「約束の品だ」 ペトラは短く答えた。「ジギスムントは交渉に応じた」 ヒマリは静かに木箱へ手を添える。 重い。 その重さが、この箱に収められたものの意味を物語っていた。(これが……) アレクシス公子の右腕と右目。 ジギスムントが最後まで切り札として握り続けていたもの。 ヒマリは蓋へ手をかけかけて、そっと手を離した。 ここで確かめるものではない。 フェルマーへ託すべきものだ。「私が行っても、ジギスムントは会ってくれなかったでしょう。 ……ありがとう」 自然と頭が下がる。 だがペトラは苦笑して首を振った。「礼を言われることじゃない」 一拍置いて続ける。「北部都市群の信用を守っただけだ」 その言葉に、ヒマリは小さく笑った。 商人らしい答えだった。 ペトラは椅子へ腰を下ろし、改めてヒマリを見る。「一つ聞く」「うん」「海路開放。本当に実行するつもりか」 真剣な問いだった。「もちろん」 ヒマリは迷わず頷く。「短期的には損をする」「分かってる」「空路の利用料も減り、サンドランドは再び力をつけるだろう」「それも分かってる」 それでも表情は変わらない。 窓の外では、船が港を埋め、人々が忙しく荷を運んでいる。「でもね」 静かな声で続けた。「富は独占するより循環した方が、最後はもっと大きくなると思う」 ペトラは黙って耳を傾ける。「一つの港だけが栄えるより、町と町が繋がった方がいい。 物流が増えれば、人も技術も文化も動く」「その結果、誰か一人じゃなく、みんなが豊かになれる」 ネリィなら数字で証明してくれるだろう。 ヒマリは、その未来の景色を信じていた。「戦争で奪うより、交易で増やした方がいい」 その一言に、ペトラは静かに息を吐く。「……商人としては反論できん。――儲かる話だからな」 苦笑が漏れる。 ヒマリも笑った。「これから王都に戻って、正式な交渉団を派遣するわ。 一度に送れる飛
王都ブリュード、王城最上階。 重厚な扉の向こう、執務室には静かな緊張が満ちていた。 机いっぱいに広げられた地図。 その前に座る男は、 まるで大理石から削り出された彫像のようだった。 長い睫毛の影が白い頬に落ち、 整いすぎた輪郭は感情を拒む刃のように鋭い。 淡い銀の髪が光を受け、静かに揺れる。「……遅いな」 ぽつりと漏れた声には、苛立ちが滲んでいる。 本来なら、とっくに報告が届いているはずだった。 ゴミ捨て場――処分したはずの異世界人の痕跡について。「フェルマーめ……」 蒼い瞳がゆるやかに細まる。 あの男は有能だ。 天才で、合理的で、感情に左右されない。
魔王城の玉座は、今も空いている。 かつて、この場所に座っていた者の名は ――前魔王クルス。 中層から撤退したヒマリに魔物達の失望が広がる。 クルスの治世は冷酷で無慈悲だったが、 均衡は保たれ、争いは最小限に抑えられていた。「……あの方なら、こうはならなかった」 誰かの呟きが、静まり返った広間に溶ける。 その言葉は祈りであり、同時に今を否定する呪いでもあった。 だが、玉座の前に立つ少女 ――ヒマリは、その名に縛られない。「知らないよ。その魔王がどれだけ立派だったかなんて」 そう言って、ヒマリは小さく息を吸い、一歩だけ前へ出た。 玉座に落ちた影が、ゆっく
魔王城の最下層を制したヒマリは、 浄化された魔物たちを率いて、さらに上を目指していた。 ゴブリンたちが先行して索敵し、骸骨兵が重い扉を押し開く。 ゴーストたちは地図を広げ、進路や危険箇所を静かに分析していた。「ヒマリ様。中層はこれまでと違います」 一体の骸骨兵が告げる。「ここには、現魔王ノリス様に仕えている 上位の配下が出てまいります。 悪魔族と呼ばれるサキュバスや、デーモンたち…」 ヒマリは小さく頷いた。「これまで通り下層で配下を集めた方がよろしいのでは?」「後戻りは出来ないのよ」 魔物達には言えてないが、ここでの食事は劣悪だ。 ゴミ捨て場からゴーストが拾
王都ブリューテ。 王城最奥、ジギスムント王の執務室。 重厚な机の上には、広げられた一枚の地図。 他国の国境線に、赤い矢印が何本も引かれている。「西方ロンデル公国は、抵抗が激しい」 ジギスムントは淡々と告げた。「だが、魔王ノリスの軍を先鋒に出せば、一週間で落ちる」 周囲に控える貴族たちは、揃って恭しく頷く。 その表情の裏にあるのは忠誠ではない。 戦後の領地、褒賞、利権―― 誰もが腹の中で計算していた。「初戦を魔導士の結界ごと吹き飛ばしたとか、 さすがは魔王ノリス様ですな」 先月まで若い王に陰口を叩いていた 老臣が媚びるように笑う。「かつて大陸を震え上が







