Masuk王都ブリューテ。
王城最奥、ジギスムント王の執務室。重厚な机の上には、広げられた一枚の地図。
他国の国境線に、赤い矢印が何本も引かれている。「西方ロンデル公国は、抵抗が激しい」
ジギスムントは淡々と告げた。
「だが、魔王ノリスの軍を先鋒に出せば、一週間で落ちる」
周囲に控える貴族たちは、揃って恭しく頷く。
その表情の裏にあるのは忠誠ではない。戦後の領地、褒賞、利権――
誰もが腹の中で計算していた。「初戦を魔導士の結界ごと吹き飛ばしたとか、
さすがは魔王ノリス様ですな」先月まで若い王に陰口を叩いていた
老臣が媚びるように笑う。「かつて大陸を震え上がらせた力。まさに無敵」
「当然だ」
ジギスムントは薄く笑った。
「あれほどの存在を手に入れたのだから」
満足げに息を吐く。
――召喚の夜から一月。
異界から現れた、二人の存在。
ひとりは圧倒的な闇を纏う魔王。 もうひとりは――(……もう一人、いたような気がするな)
一瞬、脳裏に引っかかる。
黒髪の少女。
怯えた目。 「聖女」と呼ばれていた気もする。だが、その像はすぐに霧散した。
(役に立たなかった。だから捨てた。
最後に何か言っていただろうか?)「くだらない」
ジギスムントは思考を切り捨て、地図へ視線を戻す。
「重要なのは、ノリスの力だけだ」
その頃。
王城の貴賓室では、まったく別の空気が流れていた。
魔王ノリスは、ゆったりとソファに身を預け、
ワイングラスを傾けている。漆黒のドレスが、燭台の光を妖しく映した。
「ねえ、ジギスムント」
甘く、粘るような声。
「あなた……私を道具だと思っているでしょう?」
王子は書類から顔を上げ、柔らかな笑みを作る。
「まさか。君は僕の最強のパートナーだ」
ノリスは立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めた。
指先で、彼の顎を持ち上げる。
「なら、証明してちょうだい」
赤い瞳が、蛇のように細く光る。
「――私を、正妃にするの」
一瞬、空気が止まった。
「……気が早いな」
ジギスムントは静かに手を下ろす。
「戦争はまだ始まったばかりだ。
すべてを手中に収めてから――」「嫌よ」
ノリスはくすりと笑った。
「あなた、魔王である私を信用していないでしょ?」
一歩、さらに距離を詰める。
「だったら私も、あなたを利用するだけ」
耳元に唇を寄せ、囁く。
「結婚すれば、私の力は完全にあなたのもの。
でも拒めば……他の国に寝返ることだってできるわ」室内の空気が凍りつく。
側近たちは息を殺し、視線を伏せた。
沈黙ののち、ジギスムントはノリスの手を取る。
「……分かった」
低く、冷静な声。
「ロンデル公国が一段落したら、正式に婚儀を挙げよう」
ノリスは満足そうに微笑んだ。
「約束よ、王様」
側近たちは、気づかなかった。
王城の地下深く。
ゴミ捨て場と呼ばれた場所から、 一人の少女が消えたことを。そこは、もう瓦礫の山ではなかった。
崩れた床は整えられ、
空気は澄み、淡い光が満ちている。ヒマリは、かつて前魔王クルスが座していた玉座の前に立っていた。
足元には、整列する魔物たち。
浄化されたゴブリンたちは武具を磨き、
骸骨兵は、すでに中層で交戦を始めていた。ゴーストたちは静かに魔法陣を再構築している。
もはや、混沌ではない。
「……時間との勝負よ」
ヒマリは中層に目を向けていた。
「気づかれる前にすべてを掌握しなくては」
(魔物の前で弱みは見せられない。
この力が本当に私のものかもわからない…)ヒマリの周りには指示を待つ魔物が控える。
彼女はもうただの女子高生では無くなっていた。
捨てられた恐怖を思い出す内、心が冷え切っていたのだ。「中層の攻略は簡単じゃない。
魔物は最初から知性を持って、すでに警戒されているわ」「骸骨兵も返り討ちに合ってしまいました」
ゴーストが申し訳なさそうにゆらゆらと揺れる。ゆっくりと振り返る。
「みんな、聞いて」
魔物たちが一斉に膝をつく。
ヒマリは小さく微笑んだ。
「戦いはこれから
――まずはあなた達が居場所を取り戻すのよ!」「おおっ!」
魔物達の歓声と
白い光が、玉座の間を満たす。崇拝の視線に、背筋がぞくりと震える。
その震えが、喜びなのか、恐怖なのか――ヒマリには、まだ分からなかった。
忘れられた聖女と、甘く囁く魔王。 次回は地下の戦いが本格化する予定です。
ジギスムントと別れ、 回廊の角を曲がった瞬間、足が止まった。 息がうまくできない。 胸が、まだ熱い。 その時―― 「王女様っ……! さっきの……!」 「きゃあ……!あの距離、あの腕っ……!」 後ろから、ネイを始めとする侍女たちが小声で騒ぎながら追いついてきた。 アリシアは、ぴたりと振り返った。「……あなたたち」 ネイはビクリと肩を震わせた。「回廊で跳ね回るなんて、はしたないわ。 王宮の者としての自覚を持ちなさい」 叱責の声は静かだったが、芯があった。 侍女たちは一斉に頭を下げた。「も、申し訳ありません……!」 「つい、嬉しくて……!」 アリシアはため息をつきかけて―― ふと、ネイの手元に目を落とした。 指先に、衣装の残布がまだ少しだけ付いていた。 昨夜、灯りが消えなかった理由を思い出す。 針を持つ手。 小声で相談し合う声。 自分が眠った後も、続いていたはずの時間。(……この衣装を、私のために) 胸の奥が、じんわりと温かくなった。 さっきとは違う種類の温かさだった。「……でも」 アリシアは、少しだけ声を和らげた。 「この衣装、とても綺麗よ。 あなたたちが丁寧に仕立ててくれたのが分かるわ」 ネイは顔を上げ、目を丸くした。「お、お気に召しましたか……?」 「ええ。 ジギスムント陛下も……綺麗だと、言ってくれて……」 言いかけて、アリシアは慌てて視線を逸らした。「と、とにかく……ありがとう。 あなたたちの仕事は、ちゃんと伝わったわ」 侍女たちは、今度は静かに、深く頭を下げた。「王女様のお言葉……励みになります」 「次は、もっと素敵な衣装をお作りします」 アリシアは小さく頷いた。「期待しているわ。 でも、回廊ではしゃぐのは……本当にやめてね」「は、はいっ……!」 侍女たちはネイに纏められ、頬を赤らめながら散っていった。 ◆ 一人になった。 アリシアは、そっと壁に背を預けた。 石壁の冷たさが、火照った体にゆっくり染み込んでいく。 さっきまで、ジギスムントの腕の中にいた。 冷たい指が顎を持ち上げ、 逃げられない距離で落とされた口づけ。 逃げようと思えば、逃げられた。(逃げなかっ
冷たい指と、砂漠の花砂。 サンドランド王国・王宮離宮の回廊は、 灼熱の陽光を白い布で柔らかく遮り、 甘い香木の煙がゆるやかに立ち上っていた。 アリシアは、自分の鼓動が うるさいほど高鳴っているのを隠せなかった。 ジギスムントの隣を歩くだけで、胸の奥が熱を持つ。 淡い黄金色の衣装が風に揺れ、 砂漠の花を模した銀糸が陽光を弾いていた。 首元と袖口の薄いヴェールが風に揺れ、 薄橙色の髪を優しく包んでいる。 侍女たちが昨夜遅くまでかけてあつらえた衣装だ。 (……この人が、気に入ってくれるといいのに) ジギスムントは彼女の肩にそっと腕を回してくる。「おお、シュルンベルゲラのような可憐な美しさだ」 低く、甘く囁く。「私の為にあつらえてくれたのか?」 アリシアの頰が、熱を帯びた。 心臓が、早鐘のように鳴り響く。 恐怖と、どこか甘い疼きが混じり合って、 胸の奥をざわめかせていた。「……そうではありませんが ……婚礼までお会いできなくなると聞きましたので」 声が少し上ずる。後ろで控える侍女たちが、 ぴょんぴょんと小さく飛び跳ねながら、 嬉しそうに手を握り合っているのが気配で分かった。(やだ……みんな、はしゃぎすぎ) ジギスムントは満足げに微笑んだ。「不安なら、証を残しておこう」 その言葉が終わらないうちに、彼はアリシアの顎を優しく ――しかし逃げられない力で持ち上げた。 一瞬の沈黙。冷たくも甘い口づけが落ちる。 唇が触れた瞬間、アリシアの背筋に電流のような震えが走った。 キスは優しかったが、そこに温もりはほとんどなかった。 ただ、所有の証。 それでも、アリシアの胸は熱く高鳴っていた。 唇が離れた後も、 アリシアは、すぐに呼吸を整えられなかった。 まるで、 自分の感情の一部を、 彼の指先で掴まれたままのようだ。(誰も知らない顔を、私だけに見せてくれた……) この完璧すぎる男の冷たさに、 なぜか惹かれてしまう自分が怖かった。「……どうして、私なんですか」 彼女は息を詰め、すぐに顔を背けた。 頰が熱い。「余計、不安になってしまいます……」声が上ずる。(この人が私を妻にするのは、政略のため ……でも、こんなに近くにいると、鼓動が
魔王城・コアルーム。 制御室の空気が、わずかに震えた。 クルスは、演算を止めた。 外界の魔力流が、 いつもと違う揺れを帯びている。「……ノリス」 名を呼ぶ声は、誰にも届かない。 だが、魔王城のコアで同期していたことのある クルスには分かった。 ノリスが、何かを決め 守るべきものを、捨てた。 代わりに、別の何かを掴んだ。 その波が、魔王城の深層まで届いていた。(ヒマリに、知らせるべきか) クルスは、指を止めた。 演算は、答えを出している。 ――知らせるべきではない。 ヒマリは今、ロンデルとの婚姻交渉の渦中にある。 心拍は安定している。 判断も、揺らいでいない。 だが。(……揺らぐ要因は、増えた) スクリーンに映るヒマリの心拍が、 ほんのわずかに跳ねた。 クルスは、目を細めた。「……ノリス。 君は、また選ばれなかったと感じたのか」 その感情の揺れは、 魔王城のコアにとってはノイズだ。 だが、クルスにとっては――(利用できる) そう、演算は告げていた。 だが、クルス自身は、 その結論をすぐには採用しなかった。 ヒマリの心拍が、 ロンデルの夜空の下で、静かに上下している。(……ヒマリ) クルスは、スクリーンに触れた。 ノリスが動いた。 ジギスムントが動いた。 世界が、またヒマリを中心に回り始めた。 だが――(君は、まだ知らない) 世界が、 君を奪い合うために動いていることを。 君を壊すために、 君を守るために、 君を利用するために。 それぞれが、勝手に動き始めている。「……知らせるのは、まだ早い」 クルスは、演算を再開した。 ノリスの魔力波形を追跡し、 ジギスムントの動きを予測し、 ロンデルの感情曲線を解析する。 そのすべての中心に、ヒマリの心拍がある。 ◆同じ頃 ロンデル公宮・客室 ヒマリは、眠れなかった。 窓の外、エルドラの夜は静かで、 星が多くて、風の音すら優しい。 なのに、胸の奥がざわついていた。(……何か、変だ) 理由は分からない。 アレクシスと話したせいかもしれない。 クルスの投影を見たせいかもしれない。 ロナ王妃の目が、まだ胸に残っているせいかもしれない。 でも―
砂嵐の夜。 サンドランド郊外、砂の神殿跡。 風が唸り、砂が舞う。 だが、石造りの回廊の中だけは、 ジギスムントの周囲に張られた結界が、外界の音を遮断していた。 燭台の炎が、静かに揺れている。 黒い霧が、滲み出した。 音もなく、壁から湧くように。 ノリスが、姿を現した。 魔王城の制御権を失った今、かつての威圧はない。 だが、その眼差しだけは、 なお鋭かった。「ふふ……ずいぶん早い逃げ足だったわね、王様」「逃げではない。再編だ」「同じ言葉を、昔のあなたは撤退と呼んだわ」 沈黙。 ジギスムントは、地図から視線を上げない。 玉座を失っても、背筋だけは崩さなかった。「……まさか、あなたから呼び出すなんてね」「お前が応じることは、最初から分かっていた」 二人の間に、かつての婚姻の記憶が沈殿する。 ノリスは、それを踏みにじるように、 一歩前に出た。「あなた、負けかけてる」 「……」 「第四軍を失い、第二軍も失い、 王都はヒマリに握られた。 ロンデルも、いずれ離反する」 ジギスムントの指がわずかに動いた。 「それで?」 ノリスの唇が、ゆっくりと歪んだ。 「私は――あなたを憎んでいる」 「分かっている」 「捨てられたからじゃない」 ノリスは、ジギスムントをまっすぐに見据えた。「選ばれなかったからよ」 空気が、張り詰めた。 「ヒマリは、フェルマーを選び、 シュルツを選び、女王の未来を選んだ」 「でも、あなたは、私を道具として使って捨てた」 ジギスムントは、ようやく面を上げた。「でも、お前はここに来た」 ノリスは、カッと頬を赤らめた。「お前の言うように、私に以前のような余裕はない」 ジギスムントは、ノリスを見た。 その目に、計算の光があった。 ノリスには分かった。 この男は今、自分の言葉の裏を読んでいる。(好きに読めばいい―― どうせ、あなたに私のことなど分からない)「条件を出そう」 「条件?」「お前は、自分が主役の戦争を望んでいる」 ノリスの眉が、わずかに動いた。「……何を言っているの」 「どこに行っても、お前は結局、道具として使われる ヒマリも以前は格下相手の遊びだ
ロンデル公宮で与えられた部屋は、静かだった。 アレクシスとの会談を終えて、ヒマリは一息つく。 窓の外に、エルドラの夜が広がっている。 北方より、星が多い。 空気が乾いているから、よく見える。 ヒマリは、椅子に座ったまま、 何もしていなかった。 珍しいことだった。 いつも何かを考えているのに、 今夜は、頭が空白に近い。(アレクシス) 名前を思い浮かべた。 それだけで、朝の庭が戻ってきた。 銀髪。 青い目。 あの、計算のない笑顔。(やめよう) その時、部屋の空気が、変わった。 音はなく、光もない。 ただ、密度が変わった。 ヒマリの正面に、魔力で編まれた像が、浮かんだ。 人の形をしていた。 クルスだった。 ヒマリは、目を瞬いた。 「……実体化できるの?」 『投影だ』 クルスの声が、外から聞こえた。 いつもは内側から聞こえる声が、 今夜は、外にある。 『君から学習し、この程度の投影なら可能となった』 ヒマリは、クルスを見た。 覚えている形と、違った。 以前は、女性の形をしていた。 今は―― 背が高い。 肩幅がある。 黒に近い髪が、静かに垂れている。 左右対称の、整いすぎた顔立ち。 紫の瞳が、ヒマリを見ていた。(変わった、魔王城コアで見た時と―― 姿も、性別も)「……いつから、その形に?」 『少しずつ、変わっていた』 クルスは、静かに言った。『気づいていなかったか』 「……気づいていなかった」 ヒマリは、正直に答えた。(……こんな顔、好きに決まってる。 でも、褒めたくない) ずっと思い描いてた、理想の男性像。 見ているだけで、鼓動が高まる。(なんで)『話がある』 クルスは、言った。「重要な話なの?」 『場合によっては、 だから、今夜は君を見ながら話したい』 ヒマリは、クルスを見た。「珍しいわね」 『そうだ」 クルスは、わずかに目を細めた。 『珍しいことを、言っている』『まずは確認だ。 僕たちは、もう離れられない』 静かな声だった。 報告のような、淡々とした声だった。 なのに、その言葉が、部屋の空気を変えた。「……知っ
ロンデルの午後 「今日、少し時間はありますか? ヒマリさんと、外を歩きたいんです」 朝食の席で、アレクシスが言った。 ヒマリは、書類から顔を上げた。 「フェルマーに確認する」 フェルマーへの通信を開くと、 即座に返ってきた。「今日の午後は、予定がない。 むしろ、少し休め」 「……あなたが、そんなことを言うの」 「言う。 疲弊した主は、判断が鈍る」 ヒマリは、通信を切った。 アレクシスを見た。 「時間、あるって」 公子は、あの笑顔で頷いた。 エルドラの街は、 朝の光の中にあった。 砂岩で作られた建物が、 日差しを受けて白く輝いている。 路地は細く、入り組んでいる。 北方の王都とは、何もかもが違った。「どこへ行くの」 「少し歩きます」 アレクシスは、先に立って歩いた。 人混みの中でも、 自然に道を空けながら進む。 威圧しているわけではない。 ただ、丁寧に歩いているだけなのに、 人が自然に道を開ける。(不思議な人だ) ヒマリは、その後ろを歩きながら思った。 最初に連れて行かれたのは、 市場だった。 色とりどりの布。 乾燥した果物。 香辛料の匂いが、充満している。 市場に入った瞬間、 アレクシスが振り返った。 「何か気になるものがあれば、 遠慮なく言ってください」 逆光だった。 砂岩の白い壁に、午後の光が反射して、 アレクシスの銀髪が、白く輝いていた。 その中で、青い目が、 ヒマリをまっすぐに見ていた。(……眩しい) 光のせいだと、 ヒマリは思うことにした。「……何か、珍しいものを教えて」 声が、わずかに平板になった。 いつものやつだ、と 自分で気づいた。「これ、何?」 ヒマリは、見たことのない果物を指した。 丸くて、赤い。 表面に、細かい棘がある。「砂棗(ヤナギバグミ)です。 ロンデルにしかない果物で」 アレクシスは、一つ買って、 ヒマリに渡した。「食べ方は?」 「こうやって」 アレクシスは、果物の頂点を指で押した。 すると、花びらのように開いた。「わ」 ヒマリは、思わず声を
王都ブリュード、王城最上階。 重厚な扉の向こう、執務室には静かな緊張が満ちていた。 机いっぱいに広げられた地図。 その前に座る男は、 まるで大理石から削り出された彫像のようだった。 長い睫毛の影が白い頬に落ち、 整いすぎた輪郭は感情を拒む刃のように鋭い。 淡い銀の髪が光を受け、静かに揺れる。「……遅いな」 ぽつりと漏れた声には、苛立ちが滲んでいる。 本来なら、とっくに報告が届いているはずだった。 ゴミ捨て場――処分したはずの異世界人の痕跡について。「フェルマーめ……」 蒼い瞳がゆるやかに細まる。 あの男は有能だ。 天才で、合理的で、感情に左右されない。
魔王城の玉座は、今も空いている。 かつて、この場所に座っていた者の名は ――前魔王クルス。 中層から撤退したヒマリに魔物達の失望が広がる。 クルスの治世は冷酷で無慈悲だったが、 均衡は保たれ、争いは最小限に抑えられていた。「……あの方なら、こうはならなかった」 誰かの呟きが、静まり返った広間に溶ける。 その言葉は祈りであり、同時に今を否定する呪いでもあった。 だが、玉座の前に立つ少女 ――ヒマリは、その名に縛られない。「知らないよ。その魔王がどれだけ立派だったかなんて」 そう言って、ヒマリは小さく息を吸い、一歩だけ前へ出た。 玉座に落ちた影が、ゆっく
魔王城の最下層を制したヒマリは、 浄化された魔物たちを率いて、さらに上を目指していた。 ゴブリンたちが先行して索敵し、骸骨兵が重い扉を押し開く。 ゴーストたちは地図を広げ、進路や危険箇所を静かに分析していた。「ヒマリ様。中層はこれまでと違います」 一体の骸骨兵が告げる。「ここには、現魔王ノリス様に仕えている 上位の配下が出てまいります。 悪魔族と呼ばれるサキュバスや、デーモンたち…」 ヒマリは小さく頷いた。「これまで通り下層で配下を集めた方がよろしいのでは?」「後戻りは出来ないのよ」 魔物達には言えてないが、ここでの食事は劣悪だ。 ゴミ捨て場からゴーストが拾
通路は、思っていた以上に広かった。 崩れた石壁の向こうへと続く回廊は、 かつての城の名残を感じさせる造りで、 ところどころに装飾の欠片が残っている。「ここが……魔王城……」 ヒマリは、足元を確かめながら歩いた。 湿った石床。 天井の高い空間には、かつての威厳が微かに残っている。「昔は、もっと栄えておりました」 先導するゴブリンが、静かに言った。「魔王クルス様が在りし頃は、 この城一帯が闇の都と呼ばれておりました」「……今は?」「主を失い、統制を失い ……強き魔物が弱き者を喰らう場所になりました」 淡々とした口調だった。 だが、その奥には、わずかな苦さ







