背後から成子に促されて鼻を手で抑えながら無理矢理進む。暗闇に慣れて視界に映るものをはっきり認知できるようになった。黒いマッシュルームのようだった物体を間近で見た。一瞬目にしてすぐに視線を逸らしてその場からダッシュで逃げ出した。我慢できなかった。視覚と嗅覚が異常を感知して由樹に逃げるように指示した。どこまで走ったのだろうか、不意に立ち止まったところにある一本の木の根に向かって嘔吐した。鳥肌が立つ。震えが止まらない。網膜が剥がれ落ちそうだ。先程見たものを一生忘れられそうになかった。首から上を晒し、溶けかかったような人間の頭が、アッアッ、という声のような音を崩れた口のような穴ぼこから発していた。清江の言っていることは間違いではなかった。腐りかけている人の首が土から生えていた。清江の旦那の皮膚は頭のてっぺんでボロボロになって地面にずり落ちていた。顔の肉はところどころなくなって骨が剥き出しだった。眼窩は潰れてなくなり、目元は垂れた皮膚で埋まっていた。口は口角が下がり、虫に食われたのか唇が全部なくなっていた。毛はすべて抜け落ちて地面に落ちていた。一瞬見ただけで無残な有様が眼裏に焼き付いた。これからあの首だったものに対して清江の肉で作った団子を食べさせていくのだろう。そんなこと耐えられない。もしあの場に残り、団子を食べさせていた場合のシーンを由樹は想像した。肉団子を一個摘まんで、清江の旦那の方に向かう。「愛しの愛しの清江団子だぞお。これを食べて清江さんの愛を受け止めるんだぞ」想像だけでも寒気が走るような台詞を述べる。アッアッ、と音を出しながら旦那は首を逸らして拒否しようとする。そうはさせまいと無理矢理腐った口の中に人肉団子を突っ込む。相当臭かったのだろうか、旦那はその場で吐き出した。「お前の女の肉だぞ。全部食えよ」由樹は新しい肉団子を持って旦那の口に入れた。今度は吐き出さないように、清江の旦那の口元を手で抑えた。すると手で触れた彼の顔の下半分の肉が崩れた。赤茶色の液体がドヨドヨ流れ出て桃色と茶色の肉が落ちた。液体と腐って柔らかくなった肉が由樹の白い手を蔽う。「食えたじゃねえか」満足した表情を作る。成子に連れて来られた明美は埋まっている清江の旦那の前に来た。「明美さんも」由樹も
清江の解体作業は由樹とアンジェラと明美の三人で行うことになった。由樹たちは清江の死体を見下ろした。全裸で眠り、古木のような皮膚が痛々しい。解体を始める際、頭と胴体を切り離すところから始まった。全て成子の指示通り行われた。三人交代でノコギリを引いて清江の首を切り離した。ノコギリを少しでも動かすと、すぐに肉の繊維に引っかかって、首を切るだけでも三時間もかかった。朱色と白が混じった肉が首の断面からニョロニョロ伸びて床のフローリングの上に広がっていた。次に明美が小さめの包丁で顔を切り、そこの切り込みから残りの二人で皮膚を剝がした。皮膚と肉の間から赤い液体と茶色い液体を垂れ流し、顔が溶けていくみたいだった。剝がした皮膚はみじん切りをするように包丁で細かく切った。全身に皮膚を三人は協力して夜通し何時間もかけて剝ぎ取った。皮膚を剥いだ肉は関節のところで切り離して小さくして鍋で柔らかくなるまで煮込んだ。長ネギの青いところと生姜を入れて臭いがなるべく出ないように工夫した。取り出した内臓は強火で液体になるまで煮込んだ。鍋の中の液体は近くの乾涸びた畑の中に流し込んで処分した。柔らかくなった肉と骨はミキサーで細かく刻み、卵や片栗粉で一口大の肉団子を作った。居間に敷いたブルーシートの上には、元々清江だった肉団子が大量にでき上がって陳列されていた。どんな気持ちになれば良いのか。余りにも非現実的な解体生活を送っていたため、通常の人間の感覚を失ったように思えた。世間ではすっかり冬になり、畑に捨てに行く際に雪が降っている日もあった。由樹は乾燥し切った自分の顔を触ってみた。成子の自宅に来てから、鏡を見ることが全くなくなった。自分が今、どんな顔をしているのか分からない。分かりたくもない。浩司と清江、二人の死に関係した。自分の精神が穢れたことで自分自身の外見も穢れたことは何となく察せられた。危機に瀕していることは十分に理解しているつもりだ。だが、どんどん汚水が溜まっていくように、体が重くなり行動ができにくくなっている。逃げようと思っても逃げる自信もなくてタイミングも掴めない。これが慣れの一種なのかと疑えるほど、現状からの脱出が難しく思える。「綺麗にできたじゃないの」成子は居間に入って来るなり感心した。明美は
何重にも毛布を巻き付けて浴槽の湯の中に沈んだ清江は、天井を凝視している。鼻や口から正体不明の液体がゆらゆらと立ち昇っていた。震えが止まらない。頭も内側から鎖分銅で幾度も殴られているような鈍くて重たい痛みが走る。目の奥が灼熱で焼かれたような鋭い痛みを感じて視界もぼやける。鈍い痛みと鋭い痛みが交わり、体が痛みへの耐久が難しくなり、気分が悪くなる。清江を殺した。 彼女と最後にした会話を思い出す。浴槽に寝かせてシャワーで湯を入れている時、彼女はこちらを凝視していた。しっかりした目だった。独り言を発して狂ったふりをしている時とは大違いだった。「清江さん」何度もシャワーを止めようか迷った。正気を保ったまま殺すことに対して尋常ではない抵抗を抱いた。だが清江は首を横に振って湯を止めないように伝えて来た。「清江さん、どうしてですか。今、こんな形で死んでしまって良いのですか。夫の保険金を手にしたら悩みは晴れるんですよね。だったらこんなところで諦めないで下さい」由樹は静かに涙を流しながら呟くように言った。「由樹さん。もう良いの。死ぬことは自業自得だって自分で分かったから」切実な想いを吐き出していた。いつもより喋り方もしっかりしていた。人は最期を目前にすると、人生の価値が上がり必然的に発言の重みも増すようだ。「私の五十七年の生涯、辛いことばかりだった。楽しかったのは息子が生まれてから小学生くらいまでの間だけ。他は地獄だった」重大なことを喋るように言った。「実はね、明美さんの旦那が死ぬまでハチミツ牛乳を飲ませたり、ハチミツを塗ったりしていたの、私なんだ。明美さんが逃げてから二週間くらいやっていたの」信じられなかった。明美の逃亡から二週間も浩司は生きていたというのか。「初めて行った時点で、もう腐り始めていて原型はとどめていないけどね。でも、喋ることくらいはできたの。明美さんのこと沢山聞いちゃった」清江は自嘲気味に笑って話を続けた。「明美さんと旦那さんとの昔のことを話しているとね、昔の自分たちの生活のことも思い出しちゃったの。目の前にいる肉が腐りかけている旦那さんを見ていたのに、昔の夫と知り合った時のことを思い出したの。お見合いの時のスーツ姿が浮かんで来ちゃったのよ」何となく分かる
車がアパートの前で停車した。明美と成子の旦那と黒縁のデブが清江の旦那を捕まえに行って帰って来たところだ。夜も更けて鈴虫とコオロギがチョロチョロ言う時間帯だ。いつの間にか秋も終わる時期になっており外はかなり寒い。虫の声だけではなく浴室から初老の女のむせび泣く声が聞こえる。清江が泣きじゃくっている。今日は夫婦揃って死ぬ運命だ。狂ったふりをした清江も何となく自分も殺されることに気付き始めたようだ。馬鹿な女だ。車の助手席から明美が降りて来た。彼女のことを待ち侘びていたのか、成子が両腕を広げて彼女の体を包み込んだ。「お帰りなさい、明美さん。どうでした。清江の旦那さんは捕まえて来れましたか」「トランクの中にいます」明美の姿は逃げ出した時と雲泥の差だった。何故か姿勢が良くて生命力に溢れているように見えた。成子からの期待が彼女の生活する上での糧になっているのか。すっかり成子との生活に馴染んでいるように見えた。成子は明美に示されたトランクを開けて中を確認した。トランクの蓋が開いた瞬間、中から人が暴れる音が聞こえた。「由樹さん、アンジェラさん、見て下さいよ」手招きされたので二人で見に行くことにした。見なくても大体想像ができた。予想通り、トランクの中には小太りで初老の全裸にされたオジサンが手足を縛られて布を口に当てられ、体を丸めていた。毛深い足や胸元が生命力を感じさせ、彼の今の状況との対比が酷くて見ていられないほど気持ち悪かった。「アンジェラさん、この前お頼みしたこと、覚えていますよね」ヒッと言う声が横にいるアンジェラの喉元から聞こえた。彼女の顔を見ると、白目がなくなって目が真っ黒になっているように見えた。「清江さんをよろしくお願いしますね」アンジェラの肩をパンと叩いてから成子は車の後部座席に乗り込んだ。「由樹さんも行きましょう。この男を浩司さんのように埋めに行きましょう」なかなか逃げるタイミングが見付からない。由樹は仕方なしに車に乗り込んだ。窓から外を見た。アンジェラの背中が見えた。夢遊病者のように部屋の中に入って行っていた。翌朝、由樹は浴室の中で清江を浴槽に沈めて殺害する。清江の旦那を埋めに行った日、アンジェラは清江を殺害できなかったようだ。成子が戻って来た時、清江が眠っている
「実はうちの旦那、借金していたの」拍子抜けした。何か突飛な告白があるのかと思っていた。借金など驚くに値しない。「しかも利息が膨らんで、今は四百万にまで、なっているみたいなの。しかも、その原因が投資で失敗したとか、私にはよく分からないこと言っててさ」話を聞く限り清江の旦那は株の値打ちが下がり始めた際に、素早く損切りできなかったようだ。そのために莫大な損失が出て、その損を挽回するために再び別の株に逃げるように投資して同じ過ちを繰り返したようだ。泥沼に嵌って行って消費者金融だけでなく、町金からも借りていたようだ。ありがちな話だが、清江のような間抜けな女の旦那なのだから相当鈍臭いのだろうと見た。家族の気持ちと物事の流れを読めない鈍磨は株なんかに手を出すべきではない。冷え切った家庭の父親が人の考えていることなんか読める訳がないので全く向いていない。「じゃあ旦那に働いてもらわないと。金融屋の取り立てがキツイなら、体を売ってどこか遠くの過酷な現場にでも行かせれば良いじゃないの。なおさら殺すべきじゃないね」この世には誰もやりたがらない高額の給与が支払われる仕事がある。死体の清掃の仕事や原発清掃員がその類だ。「そうなんだけどさ、保険金、があるじゃないの」人は楽な方に流れて行くと由樹は実感した。「四百万くらいなら返せるでしょうけど」「それにさ、息子の借金もあったの」「息子さんは家から出て行ったんじゃないの」清江の息子は高校を卒業してすぐに家から出て行ったという話だった。「息子は、いないんだけどさ。代わりに、闇金の取り立てが、ウチに来たの」呆れた。清江の家族は三人揃って頭が悪い。行動力のある馬鹿ほど厄介な者はいない。「それで旦那さんの死亡保険で、息子さんの借金も返しちゃおうって言いたいの」清江は馬鹿みたいに頭を横に振った。「そんなんじゃ、とても足らないの」「幾らだったの、息子さんの方は」「一千万。元々幾ら借りていたのか知らないけどさ。闇金は十日三割利息で貸し付けていたみたいで。それで息子は契約の際に、実家の住所を記入しちゃった、みたいで」もう聞いていられなかった。聞いていて気分が悪くなる。「それでね、続きが、あるんだけどさ。その話を、成子さんに話す機会が、たまた
「え、それは、ちょっと」彼女は自分の命が狙われていることを知らないからか、暢気にためらっている。清江はアンジェラに助け船を求めているようで、彼女の顔を見詰めていた。「アンジェラさんに聞いてるんじゃなくて、清江さんに聞いているの」はっきり言ってやって逃げ道を封じた。「うーん」なぜ自分がここまで酷い目に遭っていながら逃げることに躊躇するのか分からない。自分なら何が何でも逃げるだろう。彩花の顔を思い出して体の奥底から力と勇気を振り絞ってこの部屋から飛び出すだろう。「うーん、じゃないのよ。今日この場で誓ってもらうから」「もう由樹さんを襲わせません」何を頓珍漢なことを言っているのか。苛立ちが爆発寸前までになった。懸命に声の大きさを抑えて言った。「そのことじゃないでしょ。この部屋から三人で脱することでしょ」あと少しで声を荒らげそうだ。清江は黙りこくって、首を左右にゆったり振っていた。「何か言ってよ」まだ旦那への殺意を捨てていないのかと気が付いた。浩司が殺される現場を見て、まだ憎しみを消すことができないとなれば相当な怒りを抱いているのだろうか。「今日はね、謝ることが、もちろん一番の目的だったんだけどさ。由樹さんに、私たちの計画に、しっかり向き合ってほしいって、お願いしようとも、考えていたの」急に何を言っているのか。深夜の静けさの密度と重量が気持ち悪い。自分の激しくなる鼓動の音がはっきり聞こえる。清江は自分のことしか考えていないのだろう。だから平気で由樹を悲惨な現場に引き摺り込むような発言できるのだろう。「嫌に決まっているでしょ。この前の明美さんの旦那さんの死に様見たでしょ。貴方も酷い目に遭っているじゃないの。普通、もう手を引こうってなるでしょ。それなのにどうして心変わりしないの。貴方、人じゃないわよ」小さい声を出すことを意識しながらも語気を強めた。これくらい言わないと清江は変わらないだろう。彼女のためでもある。殺してからじゃ遅い。「そうなんだけどさ。由樹さんの、言っていることも、分かるんだけどさ」下唇を前歯で噛んでいる。何かを隠しており、言おうか言うまいか迷っているのか。「何か隠しているでしょ」「別に、隠していることなんか、ないけどさ」「人に頼み事