最寄り駅前の銀行ATMで、泉川咲月は通帳を片手に茫然と立ち尽くしていた。今まさに記帳したばかりの自分名義の銀行口座。その残高の数字が、予定していたよりも全然少ないのだ。
――え、え、えっ?! なんで、なんでぇ……⁉
後ろに並ぶ老婦人から急かすように咳き込まれて、慌ててATMの機械前から離れる。人の列の邪魔にならないよう壁際に移動して、もう一度通帳をこっそり開いて確認する。
――バイト代が、振り込まれてないっ⁉ え、今日って26日だよね……⁉
毎月二十五日に支払われるはずのアルバイト料。今月は日曜だったから、前倒しで二十三日の金曜には振り込まれているはずだった。確認する為にスマホのホーム画面を覗いてみるが、間違いなく今日の日付は二十六日の月曜日と表示されている。
週末は手持ちがまだあったからと、余裕を見たつもりで銀行を訪れてきた。なのにまだ、バイト代が入っていないのは何故だ?
入っていると思っていたはずのものは無いけれど、光熱費もスマホ料金もちゃっかりと引き落としは済んでいる。出る一方で入金はゼロだ。おかげで口座内に残されている預金残高は完全にスズメの涙。これから飲みに行くなんて調子に乗ったことをしたら、来月には消費者金融のお世話になってもおかしくはない。
大学生活四年目。去年まではそれなりにバイトを頑張って貯金していたつもりだった。別にブランド物には興味は無いし、旅行も海外よりも国内のパワースポット巡りの方が性に合う。
自他共に認める安上がりな女。なのに、どうしてここまでギリギリでやっているのかは、いつまで経っても終わらなかった就職活動のせい。おかげでシフトに入れる日数が極端に減ってしまっていた。この一年は少ない稼ぎと貯金を切り崩して頑張ってきたつもりだった。
勿論、実家からの仕送りはあるにはあるけれど、それは家賃と光熱費できれいさっぱり消えてしまう。それ以外の生活費くらい自分で何とかするよと啖呵切ってしまった過去の自分が恨めしい。半ば諦めモードになりつつも、銀行の建物の外に出てから、咲月はスマホに登録しているバイト先の電話番号を呼び出す。
「お電話ありがとうございます、パテル東町店です」
咲月も聞き慣れている、おっとりとした中年女性の声。古参のパート勤務の中谷で、小学生の男の子二人のママだ。平日のバイトリーダー的存在でもあり、入ったばかりの咲月に仕事を教えてくれたのが彼女だ。
「お疲れ様です。泉川です」
「あ、泉川さん、お疲れ様ー」 「……中谷さん、あの……今月のバイト代が振り込まれてなかったんですけど――」 「あー……そうらしいのよね。今月のは少し遅れるって本社から連絡あったんだけど、これってどうなるのかしらね? 振込はちゃんとされるとは思うんだけど……」 「えー、それってヤバくないですか?」 「うん、ねぇ……」電話の向こうで中谷が呆れ笑いを浮かべているのが容易に想像できる。でも、穏やかな雰囲気を持つ彼女だけれど、意外と言う時ははっきりと言うタイプだ。
「泉川さん、最近は入ってなかったから知らないかもだけど、ここんとこ売上金は閉店後に営業さんが回収に来てたのよ。配送も業者さんじゃなく、工場の人が直接運んで来てたりね」
工場での一括製造により、この辺りの店の中では断トツの安さが売りのケーキ屋”パテル”。種類によってはコンビニスイーツよりもお手頃価格だと、それなりにリピーターも多いチェーン店。味はまあ、値段相応。
咲月が働いている東町店は駅前ということもあり、一年を通してそれなりに売上もあったから、まさか会社全体ではそんな危うい状況になっているとは思いもしなかった。従来は口座へと入金しに行っていた売上金を銀行を通さず回収しているということは、相当ヤバイんじゃないだろうか。
「まさか、潰れたりはしないですよね……?」
「んー、どうだろう?」 「ええーっ、私、四月から社員にしてもらえるって――」「あぁ……」と中谷も困り切った声を漏らしている。あまりにも悲惨過ぎて、同情の言葉も思いつかないのか、電話の向こうからも深い溜め息が返ってくる。
「今月の振り込みは遅くても一週間以内には何とかするって店長も言ってたし、もう少しだけ待ってあげて。さすがに未払いとかは無いだろうけど」
中谷自身もパート代が支払われていない状態なはずだが、咲月ほど焦っているようには思えない。きっと、会社員の夫の給与で生活には不自由していないのだろう。
咲月と話している内に店に来客があったらしく、中谷が慌て気味に「きっと大丈夫よ」とだけ言い残して通話を切る。その大丈夫はバイト代の振り込みのことだけを指すのか、それとも咲月の四月からの就職のことなのかは分からない。
「また、かなぁ……?」
働いていたバイト先の倒産は、実は今回が初めてではない。これまで短期のものも含めていろんなところでアルバイトを経験してきたが、なぜか咲月と関わった店は全て潰れて無くなってしまっている。別に売り上げの悪そうなところを選んでいるつもりもないし、働いている内はそれなりに仕事量もあって忙しかった記憶がある。なのに不思議なことに、咲月が辞めてかかわりが無くなった後、風の便りで潰れたことを聞く羽目になる。
ただ、今までは辞めて縁が無くなった後ばかりだったし、今回みたいに業績の悪化の影響をモロに受けたのは初めてだ。
「それって、咲月の倒産パワーが増したってことなんじゃない? 完全にパワーアップだね!」
「勘弁してよー。こっちは就活のやり直しの危機なんだから……」先週末に入っているはずのバイト料をアテにして飲みに行くはずが、ファストフード店の二階席でハンバーガーセットを頬張る羽目になった。急に予定変更をお願いしてきた咲月のことを、同じゼミの藤岡美奈は大笑いしながらからかってくる。
倒産パワー、そんな縁起でもない力は冗談でも要らない。辞めた後とは言っても、一度でも働いたことがある場所が無くなっているのを見るのは寂しい。久しぶりに顔を出そうと訪れて、全く別の店の看板が上がっているのに気付くのは辛いものがある。
さすがに美奈も今回の深刻さは分かってくれているのか、それ以上は言っては来ない。二人揃って、二階席の窓から駅前の景色を無言で眺める。既に冷え切ったポテトにナゲットのソースを付けて口の中へ放り込んでから、咲月はタクシー乗り場の方に視線を送る。取引相手でも見送っているのか、タクシーのドアに向かって頭を下げているスーツ姿の男性。車が動き出した後もしばらくは頭を下げ続け、完全にロータリーから離れたのを見送った後、ふぅっと肩で息をしているのが見えた。
「就活、もう一回やり直しかぁ……」
「ふぁいと」人並みに頑張ってこなしたつもりの就職活動。三年生の後半には情報収集を始めて、それなりの数の説明会にも参加した。中には最終に近いところまで残れた会社もあったが、結局は全てからお断りされてしまった。そんな愚痴をケーキ屋のバイト中に店長へ聞いて貰っていたら、「本社の事務を募集してるし、推薦してあげるよ」と。その後はとんとん拍子に本社で社長と面接してもらい、「現場の経験があると助かるよ」という言葉と共に内定をもらった。 ――はずだった。
事務とは言っても、隣でシェイクを啜っている美奈のように、外資系の証券会社みたいな華やかさも無ければ、給料だってバイトよりもちょっとマシくらいだろう。それでも何とか縁があり正社員として雇って貰えると安堵していた。だけど、今日の店との電話からすると、先行きには不安しかない。
大通りを一本入ってから角を曲がり、しばらく歩いているとオフィスのあるマンションが見えてくる。その建物の前にあるテナント用駐車場に見慣れた車が停まっているのに気付いて、咲月は胸の鼓動が一気に早まるのを感じた。 ――今日は直行の予定だったはずなのに……? 昨日の退勤時点では、羽柴の翌日の予定は朝からクライアントを数件訪問することになっていた。なのに入り口扉は開錠され、オフィス内は照明が全て点けられていて明るい。中へ入るといつもの珈琲の香りが室内にふんわりと漂っていた。 センサーが咲月の出勤に反応して『いらっしゃいませ』と鳴ると、奥の簡易キッチンから羽柴がマグカップを手に顔を覗かせる。 ライトグレーのシャツに黒のベストスーツで、ネクタイはせず首元のボタンを外したリラックスした格好だけれど、この後から出掛ける予定なのは明らか。「おはよう、咲月ちゃん」 普段と何も変わらない笑顔で羽柴の方から声をかけてくる。咲月も「おはようございます」と挨拶を返してみるが、昨晩のことを忘れたわけじゃない。でも羽柴があまりにもいつも通りだったから、あれは夢だったんだろうかと疑ってしまう。 薄暗い車内での出来事は、この明るいオフィスでは別世界で起こったことのように思えてくる。 もしかして、昨日のことはあまり触れない方がいいんだろうか? 自分のデスクに荷物を置いて、咲月は平静を装いながら壁面の棚を開き、朝の掃除をするためにハンディモップを中から取り出す。そして、何気なく振り返る。 すると、いつの間に傍に来ていたのだろうか、咲月の真後ろに羽柴が立っていて、カップを持っていない片方の腕で咲月の身体を抱き寄せてきた。「えっ⁉」と驚き顔で顔を上げて羽柴のことを確かめる咲月。 コトンと傍の棚の上へ珈琲の入ったカップを置いて、羽柴は改めて両腕を使って咲月のことをキュッと抱き締める。愛おしいとでも言うような甘い吐息が咲月の耳元で聞こえた。 下から見上げる咲月のことを、羽柴は熱を帯びた熱い瞳で見つめ返してくる。何も言ってはこないけれど、愛情に溢れたその眼に咲月はハンディモップを持った手を彼の背中へと回した。 彼は直接的な言葉はあまり口にしない。けれど、こうやって触れ合っていればそこから十分過ぎるくらいの想いを伝えてくれる。咲月の背を抱く手の平から感じる体温。それは昨晩ずっと離さず
車の中、羽柴に抱き締められながら咲月は自分が嗚咽を漏らしていることに気付いた。自分にこれっぽっちも自信のない咲月に、彼はそのままでいいと言ってくれる。そして、我が儘だって全て受け止めると。それが咲月にとってどれだけ嬉しいことなのか、きっと彼自身は気付いていないだろう。 幼い子供にするように優しく背中を擦られていると、少しだけ落ち着いてくる。急に溢れ出て来た涙に、自分が思っていた以上に羽柴智樹という人に惹かれていたことを自覚する。「なんだろうな、咲月ちゃんはいつも俺に違う色彩を見せてくれる」「色彩、ですか……?」 それはきっと、以前の手作りマスコットのことを言っているんだと、咲月は少ししょげた。あの時は色合いが斬新だと褒めてもらえたけれど、たまたま余っていたフェルト生地があの色だったからで……咲月が意図して組み合わせたわけじゃない。ただの偶然の産物だ。「ああ、別に具体的なカラーがって意味じゃないよ。君の考えていること、見ているもの全てが俺に全く別の世界を与えてくれるってことだから」 イマイチ理解できていない表情の咲月に、羽柴は「例えばそうだな……」と咲月がオフィスへ来るようになってから印象に残っていることを教えてくれる。「あの場所にオフィスを構えてからかなり経つのに、俺は裏庭に桜の木が植わっていることを知らなかった。俺の部屋からは見えないっていうのもあるけど……」 今は休憩室兼資料室になっている部屋の窓から見える桜の木。建物が建った時から植えられているはずなのに、ずっと閉ざしていた窓を開けた記憶はなかったという。「仕事終わりに川上さんと休憩室で飲んだことがあるんだけど、二人で夜桜を眺めながら『ああ、うちのオフィスに違う風が吹き始めたな』って思った。彼とは長い付き合いだけど、向こうから誘ってくれることはそれまで一度もなかったからね」 一旦退勤したと思った川上がコンビニ袋を抱えて戻ってきて、ささやかな花見を提案してきた。それまでの彼には考えられないお誘いだ。「特に何かを話したわけじゃないけ
咲月に向けてふっと小さい笑みを漏らした後、羽柴は前を向いて再び車を走らせる。信号が青へと変わる早さに咲月は寂しさを覚えた。もっとずっとこうしていたい。そんな想いはこの繋がれたままの手からちゃんと伝わっているだろうか。 回り道をすることなく咲月のマンションの近くに着くと、ハザードランプを点滅させて路肩へと停車する。以前に送ってもらった時よりは自宅から少し離れた住宅街の一角。児童公園の真横のそこはたまに近所の人が車を停めっ放しにしていることがある。 咲月はここで降りるべきかと確かめるように、運転席の羽柴の顔を見上げる。繋いだ手も咲月の方から離そうとすれば、きっとすぐに指を解かれてしまうんだろう。彼は咲月に対して繋ぎ止めるようなことは何も言ってはくれない。二人の年齢差もあるし、何と言っても咲月は彼のオフィスのスタッフの一人。彼の方から踏み込んでくれるのは期待できない。 咲月は何も言ってはくれない羽柴から視線を逸らし、膝の上に置いた手を見下ろす。彼の表情からはこのまま咲月がお礼だけ言ってさっさと車を降りてしまっても平気そうに見えた。なのに、咲月のことを握り返している左手はさっきよりもずっと強く力を込められている。 きゅっと握り返せば、すぐに同じように力を入れて握ってくれる。言葉は何もないけれど、それが彼の本心だと感じた。 ――社長が何も言ってくれないつもりなんだったら…… 咲月はちょっとだけ意地悪を思いつく。もう一度、運転席側へと顔を上げて、わざと真剣な表情を作ってから口を開く。「実は私、ある人から告白されて、どう返事しようか悩んでるんです」 咲月のいきなりの暴露に、羽柴は一瞬だけ目をぱちくりさせていたが、そこまで驚いてはいなさそうだった。その相手が誰だかの予想はついているのかもしれない。じっと咲月の次の言葉を待つように、一度だけ静かに頷き返してくる。「その人のことは別に嫌いじゃないんですよ。とてもいい方なので」「……なら、付き合ってもいいって考えてるってことかな?」「社長は、嫌いじゃなければ誰とでも付き合えるんですか?」 質問を質問
運転に集中しているフリをして、羽柴は前を向いたまま何も言ってこない。対向車のヘッドライトの明かりに照らされた男の横顔は、やっぱり昼間に見るよりもずっと大人で、咲月はまたからかわれただけだと落ち込んだ。曖昧な言葉に簡単に期待して振り回されてしまう自分が嫌になる。 ――羽柴社長にしてみたら、十歳も年下の私なんて子供だもんね。 笠井のようにお酒にも強くはないし、ワインの知識もない。飲みに行っても食べることがメインのお子様なんて、彼の隣に立つには相応しくないし釣り合わない。どうせ小動物なんかを愛でるような感覚で面白がられているだけなんだ。大事にされて気を使って貰えているのは、敦子の姪っこだから。 咲月は羽柴に気付かれないよう、助手席側の窓に向けて小さく溜め息をつく。自分だけが彼の言葉や挙動に過剰に反応していて、何だかバカバカしくなってくる。 目の前の信号が赤へと変わり、静かに車が停止線で止まる。歩道を歩いていく人達を何とはなしに眺めていると、右隣から伸びてきた手が咲月の頭にポンと乗せられる。驚いて羽柴の方を振り返って見ると、信号へと視線を送ったままハンドルを握っている。羽柴の左手は咲月の髪を頭頂部からゆっくりと下に向かって撫でてきて、少しくすぐったい。小さな子供を宥めるようなその仕草はちっとも嫌じゃない。 でも、咲月は拗ねたように口を尖らせてから羽柴に向かって言った。もうこれ以上、勘違いはさせないで欲しい。「社長、私のこと完全に子供だと思ってますよね?」 咲月の言葉にも羽柴は髪を撫でる手を止めずに、前を向いたまま小さく笑みを漏らしただけだ。それは揶揄い甲斐のある小さな子供がムキになって反抗してきたのを、ただ面白がっているだけみたいに見えた。車は信号が変わったと同時にまた咲月の自宅のある方向へと走り始める。 ちょっとムッとして、咲月は髪に触れている羽柴の手を右手で掴む。そして、頭から引き剥がしたその手を、自分の胸の前で指を絡めて握った。咲月がきゅっと力を込めると、開いていたはずの羽柴の長い指も咲月の手を握り返してくる。 片手だけでハンドルを操作している羽柴からは何も言ってはこない。彼の横顔をこっそりと覗き見しながら、咲月は指を絡めたま
川上の営業先での奇行を面白おかしく話す笠井と、それを困惑顔で黙って聞いている川上。それでも笠井にお喋りのネタにされるのは意外と平気らしく、オーダーした料理が運ばれてくる度に黙々と食事を続けていた。なんだか長年連れ添った夫婦を見ているような感覚がするのは気のせいだろうか?「あ、そろそろデザートを頼んでいいかしら? ここのレモンシャーベットが美味しいのよね、確か?」 そう聞いて来た笠井へと、川上が「ああ」と短く頷いてみせる。どうやら笠井も川上からこの店のことを先に聞いていたらしい。外回り中にはこういったお店のことを二人で話すことがあるのかと、ちょっと意外だ。オフィス内では二人が仕事以外のことを話しているのを見た覚えはほとんどないけれど、外では結構いろんなことをお喋りしているのかもしれない。 平沼もメニューのデザートのページを見ていたが、まだドリンクが残っているからと注文しなかった。甘い物があまり得意じゃないからだろう。咲月は笠井と同じレモンシャーベットを頼んでから、スマホの画面をのぞき込む。時刻はもうすぐ二十一時になろうとしていた。何だかんだと三時間もここで食べ続けていたが、結局ドリンクは最後までウーロン茶しか頼まなかった。 こんな頭が混乱しそうな時にお酒なんて飲んだら、何を喋り出すか自分でも自信がない。 ――平沼さん、さっきのは本気なんだよね……? 返事は別にいらないみたいだけれど、一方的に気持ちを伝えられて本当にそのままにしちゃっていいんだろうか? 咲月は向かいの席に座る同僚のことをちらりと覗き見る。ドリンクメニューのワインのページを見ながら川上と葡萄の産地について真剣に話しているが、飲み過ぎたのか顔が真っ赤だ。 でも急に大変なことを思い出したと、ハッと顔を上げる。「あー、俺、オフィスに自転車を置きに行かないと……飲酒運転になるし、押して帰るのも辛い」「鍵を開けて、中へ入れておいた方がいいわよ。自転車の窃盗、多いらしいし」「うっす。そうします……今日は歩きで来れば良かった……」 来る時には帰
咲月のウーロン茶に合わせてか、平沼もウーロンハイを頼んでから、前回食べて美味しかったという料理をいくつか注文してくれる。初めて来た店だと何を頼んだらいいか迷うと言ったら、それならと率先して決めてくれるところはさすがに年上という感じだ。ただちょっと調子に乗り過ぎたらしく、二人では食べ切れない量をオーダーしてしまったみたいで、後から笠井達も合流するからいいかと笑って誤魔化していた。「この店を教えてくれたの、川上さんなんだ」「え、意外……」「だろ? でもあの人、結構一人で食べ歩きとかしてるらしくて、めちゃくちゃ詳しいよ。料理の盛り付けとか色合いとか、そういうのからインスピレーションを受けることもあるって」 平沼がそう話している途中で運ばれて来たサラダは、確かに色とりどりで鮮やか。彼のデザインは色彩豊かなのにどこか落ち着いているのは、こういった自然界の色が原点だからだろうか。デザイナーの発想の元になるものは人それぞれだ。そういえば咲月のマスコットを見て、羽柴もロゴデザインを閃いていた。 川上の話になった流れから、最近の川上がすごく変わったと思っていたのは咲月だけじゃなかったと知る。ほぼペアを組んでいる状態の笠井の影響の大きさに、平沼も驚きつつ楽しんでいるみたいだった。「笠井さんと一緒に独立って話も出たらしいけど、あの人断ったらしいんだよな。勿体ないとは思うけど、川上さんらしいっていうか……」「え、そうなんですか?」 いつも一番先に退勤してしまう咲月には、初めて聞く話だ。「独立なんてガラじゃないし、リスクは背負いたくない」というのが川上の言い分らしく、彼らしいと言えばそうかもしれない。「そういうのって、社長が勧めるんですか?」「独立のこと? まあ、自分から言い出す人の方が多いみたいだけど、川上さんの場合はキャリアもあるからって羽柴社長が提案したみたいだね」 川上と笠井がオフィスを出るようなことになれば、H.D.Oにとっては大きな痛手になるはずなのに、羽柴自らが優秀な人材を手放すような提案をするとはと咲月は驚く。それだけ羽柴にとって川上は大事な存在でもあるん