Mag-log inある日、大学の正門前は異様な緊張感に包まれていた。海吏が常軌を逸したほどに盛大なプロポーズの儀式を企てたのだ。正門前は一面の薔薇で敷き詰められ、キャンパス全体を飲み込もうかというほど、目が眩むほどの鮮烈な赤に染まっていた。情報を聞きつけた記者たちも続々と押し寄せ、無数のカメラの砲列を現場に向けながら、珠羽の姿を捉えようと手ぐすねを引いている。海吏はその薔薇の海の中央に立っていた。高級スーツに身を包んでいるものの、その瞳の奥に潜む疲労と絶望の色はもはや隠しきれていない。彼の手には巨大なダイヤモンドリングが握られている。それはかつて彼が珠羽に贈ったものであり、今や彼に残された最後の「すがるべき命綱」となっていた。「珠羽……ここにいるんだろう。絶対に来てくれるって、俺は分かってる」キャンパスに響き渡る海吏の声は微かに震えていた。しかし、珠羽が姿を現すことはなかった。代わりに人垣を割って静かに進み出てきたのは、悠河の弁護士チームだった。彼らは法的手続きの書類を手に、一切の感情を排した無表情のまま海吏へと歩み寄る。弁護士は公衆の面前で、冷徹に書類を読み上げた。「五十嵐氏。貴殿の再三にわたる行為はすでにストーカー行為を構成していると見なします。我々は水瀬様の代理人として、貴殿に接近禁止命令を申し渡します。直ちに一切の不当な行為を停止してください。さもなくば、法的制裁に直面することになります」海吏の顔から一瞬にして血の気が引いた。ダイヤの指輪を握る手がガタガタと震え出したが、彼に逃げ場などどこにもなかった。ほぼ時を同じくして、大学の公式アカウントが一つの声明を発表した。珠羽を断固として支持し、このような学術環境を乱す行為を厳しく非難するものだった。【当校は珠羽さんの学術研究を全面的に支持します。非学術的な手段を用いて学問の自由を脅かそうとするいかなる行為も、断じて容認できません】声明が出されるや否や、現場は騒然となった。メディアの記者たちは一斉に弁護士チームへとターゲットを変え、さらなる情報を引き出そうと群がる。華やかな薔薇の海に取り残された海吏は、今や完全に衆目に晒された哀れなピエロと化していた。時を同じくして、本国からも致命的なニュースが飛び込んできた。海吏が長期にわたりA国に滞在し、精神
A国の街角に立ち尽くす海吏の目に映る景色は、ひどくぼやけていた。彼はたった今、ある重要な商談から出てきたばかりだった。会議室では、彼が提示した提案はどれも無情に却下され、提携の打診も丁重に断られた。彼は必死に冷静さを保ち、時には強硬な姿勢で相手を説得しようと試みた。だが結局のところ、軽蔑の笑みを浮かべて立ち去っていく彼らの背中を、ただ黙って見送ることしかできなかった。海吏は裏で手を回した黒幕を突き止めていた。悠河の一族である。だが、悠河は自ら手を下してすらいなかった。彼の一族の会議の席で、意にも介さない様子でたださらりと、こう口にしただけなのだ。「A国でのビジネスには、当面関与するつもりはない」たったその一言だけで、海吏のあらゆる道は完全に絶たれ、すべての機会が容赦なく握り潰された。納得がいかなかった。一度も正面から矛を交えていない相手に、こんなにもあっけなく惨敗するなど、海吏のプライドが許さなかった。海吏の脳裏に、珠羽の顔が浮かんだ。あの学術晩餐会で、自らの財産譲渡契約書を紙くずのように破り捨てた彼女の姿が。何かを証明したかった。せめて自分自身を納得させるための、何らかの答えが欲しかった。そして彼は、狂ったように彼女を探し当てた。図書館の静かな一角。珠羽は来週の学会発表に向けて、一人で資料の整理に追われていた。シンプルな白のシャツを身にまとい、真剣な眼差しでパソコンの画面を見つめている。突然、重々しい足音とともにドアが押し開けられ、海吏が入ってきた。顔を上げた珠羽は彼の姿を視界に捉えた瞬間、その瞳に一瞬にして冷徹な光を宿した。「珠羽、俺を憎んでいるのは分かってる。でも、俺は本当に変わったんだ」海吏は声を微かに震わせながら彼女の前に歩み寄ると、すがるようにその手首を掴んだ。「ほら、見てくれ!こうしてお前に触れられる!俺の病気はすっかり治ったんだ!」かつて彼女を傷つけた心理的な障害が克服できたこと。この極端な方法で自分の変化を証明すれば、少しでも彼女の同情を引けるのではないかと、彼は必死だった。珠羽は一瞬だけ呆然としたように動きを止めたが、次の瞬間、その手を振り払った。彼女はすぐさま鞄からアルコールの除菌シートを取り出すと、海吏の目の前で、たった今彼に触れられたばかりの手首の皮膚を
A国の晩春。大学の講堂内はまばゆいばかりのシャンデリアの光に包まれていた。国際的な学術晩餐会が催されており、着飾った紳士淑女たちがグラスを片手に優雅な歓談に花を咲かせている。正装に身を包んだ学者たちは、整然と並ぶテーブルの間を行き交いながら、最先端の研究課題や最新の発見について熱心に語り合っていた。珠羽は淡いブルーのロングドレスを身に纏い、会場の片隅に立っていた。片手にシャンパングラスを持ち、隣にいる教授と穏やかな声で言葉を交わしている。突如として、晩餐会の和やかな空気を引き裂くような騒々しい音が響き渡った。人々が一斉にそちらを振り向くと、入り口からひとつの人影が血相を変えて押し入ってくるのが見えた。高価なスーツを着てはいるものの、その姿はひどく憔悴しきっている。目は落ち窪み、顎には青々と無精髭が伸び、この華やかな場にはあまりにも不釣り合いだった。珠羽がふと目を向けた瞬間、その全身が凍りついた。海吏だ。彼は人垣を掻き分け、彼女に向かって一直線に歩いてくる。招待客たちは次々と道を空け、この唐突な乱入者に好奇の目を向けた。海吏は珠羽の目の前で立ち止まると、おもむろに片膝をつき、スーツの内ポケットから一束の書類と巨大なダイヤモンドリングを取り出した。書類は巨額の財産譲渡契約書だった。どのページにも彼のサインがあり、生々しい赤い拇印が押されている。巨大なダイヤは照明を反射してギラギラと輝いていたが、今の珠羽にはただ毒々しく目に刺さるだけだった。「珠羽、俺が悪かった!俺のすべてをお前にやるから、頼む、戻ってきてくれ!」彼の声は涙に震え、まくしたてるような早口で、金と過去の思い出を盾にして彼女を縛り付けようとしていた。珠羽はその場から一歩も動かず、取り乱すことも怯むこともなかった。その瞳は、波ひとつ立たない湖のように凪いでおり、一欠片の動揺すら浮かべていない。彼女はその契約書を受け取ると、中身に一瞥もくれることなく、ゆっくりと真っ二つに引き裂いた。破片がひらひらと舞い落ちる。それは完全に死に絶えた二人の過去のように、音もなく絨毯の上へ散らばっていった。周囲は水を打ったように静まり返り、ただ紙を引き裂く微かな音だけが響いていた。彼女は顔を上げ、凛とした透き通る声で言い放った。「海吏、あ
珠羽と悠河の絆は日を追うごとに深まっていった。悠河の支えもあり、彼女は博士課程の過酷な日々にスムーズに適応しただけでなく、指導教官のもとで初めてとなる重要な論文を発表した。それが国際的な医学誌に掲載されると、珠羽の名は学術界で徐々に知られるようになっていった。彼女が毎日研究室と図書館を往復して研究に没頭する背後には、いつも悠河の静かなサポートがあった。必要な資料を先回りして揃え、彼女とともに実験計画を熱心に議論し、ときには夜を徹して作業に励む彼女の傍らに寄り添いながら、窓の外に広がる星空を二人で静かに見つめることもあった。ある日の夕暮れ時、二人はキャンパス内を散歩していた。手を繋ぎ、湖畔の小道をゆっくりと歩きながら、忙しない日々の合間に訪れた、かけがえのない穏やかな時間を満喫していた。ちょうど桜の木立を通りかかったとき、通りすがりの同郷の留学生がスマートフォンを取り出し、手を繋ぐ二人の姿をこっそりと写真に収めた。そしてその写真は、留学生たちが集まるマイナーなネット掲示板に投稿された。写真の中の珠羽は、まるでひまわりのように眩しい笑顔を浮かべ、悠河はそんな彼女をこれ以上ないほど甘く優しい眼差しで見つめている。二人の間に流れる幸福に満ちた空気感は、言葉にせずとも誰もが羨むほどだった。その写真は掲示板で何度か転載された後、血眼になってネット上を捜索していた海吏の秘書によってついに発見された。秘書はすぐにその写真を海吏へと転送し、メッセージを添えた。【社長、珠羽様がA国で撮られたと思われる写真です。同郷らしき男性と一緒にいるようです】その写真を目にした瞬間、海吏の心臓は鷲掴みにされたようにぎゅっと締め付けられた。写真の中の珠羽を食い入るように見つめる。彼女はあんなにも楽しげに、あんなにも自由な笑顔を浮かべている。まるで、自分という過去の呪縛から完全に解き放たれたかのように。彼は震える手で、秘書から送られてきた電話番号へとダイヤルした。深夜、アパートで実験データの整理をしていた珠羽のスマートフォンが突然震えた。画面に表示された見知らぬ番号に一瞬ためらいを覚えたものの、彼女は静かに通話ボタンを押した。すると電話の向こうから、聞き覚えのある、けれどどこか遠い他人のような男の声が聞こえてきた。ひどく掠れ
A国の年越し。冬特有の澄んだ冷気の中には、これから上がる花火への期待感がふわりと漂っていた。川沿いは行き交う人々で賑わい、歴史ある古い石橋には色鮮やかなイルミネーションが飾り付けられている。それはまるで、新しい年を迎えるために灯された希望の光のようだった。珠羽は橋のたもとに立ち、そのすぐ隣には悠河が寄り添っている。ダークカラーなロングコートのポケットに両手を突っ込んだ彼の視線は、周囲の喧騒には目もくれず、ただ真っ直ぐに彼女だけを捉えていた。夜空に大輪の花火が咲き乱れ、絢爛な光が川面全体を眩く照らし出す。悠河は珠羽の指先をそっと握りしめ、優しくも揺るぎない声で言った。「これでようやく、正式に君を口説かせてもらってもいいかな。珠羽」轟音を立てて弾ける花火の音の中でも、彼のその言葉は驚くほどはっきりと彼女の耳に届いた。珠羽は言葉を返す代わりに、そっと背伸びをして彼の唇に自身の唇を重ねた。その瞬間、夜空を彩る花火の眩しさすらも色褪せてしまったかのように思えた。目を閉じて彼の確かな温もりを感じていると、心の奥底から久しく忘れていた深い安らぎが込み上げてくる。再びゆっくりと目を開けると、悠河の瞳はどこまでも甘く、優しさに満ちていた。異国の夜空に打ち上がる花火の下で、二人は静かに、互いの心を通わせ合った。年が明け、街の空気が少しずつ春の気配を帯び始める頃、珠羽の生活も新たな軌道に乗り始めていた。悠河と過ごす毎日は、ささやかだが充実しきっている。朝は一緒に図書館へと向かい、珠羽が医学の文献に没頭する傍らで、彼もまた自身の研究課題に集中する。午後の穏やかな陽射しが窓越しにデスクを照らす中、ふとした瞬間に目が合って、どちらからともなく小さく微笑み合い、また静かにそれぞれの作業へと戻っていく。息抜きの時間には近くのカフェへ足を運び、ホットラテを注文して、隅の席で熱心に学術的な議論を交わした。悠河はいつも彼女の疑問の核心を的確に掴み取り、的を射たアドバイスをくれた。珠羽もまた、彼独自の知見に耳を傾けるのが好きだった。彼の思考は常に明晰で深く、彼女にいつも新しいインスピレーションをもたらしてくれる。そんな真面目な研究の話をしている時以外でも、彼は珠羽が見せるちょっとしたおどけを心から楽しんでくれた。
A国の冬の訪れは早く、十一月末にはもう雪が舞い始めた。珠羽は降り積もった雪を踏みしめながら、語学センターへと通っていた。クリスマスまでに医療用の語学試験に合格しなければ、春からの入学が延期になってしまうからだ。そのため図書館は彼女の第二の家となり、閉館を告げる音楽が鳴ってようやくパソコンを片付け、アパートに戻ってからもパソコンの画面に表示された専門単語をひたすら頭に叩き込む日々。悠河は彼女に「少しは休め」とは言わなかった。代わりに、もっと実用的なサポートに徹してくれた。毎晩十一時四十五分になると、決まってホットミルクとシクッキーを彼女の手元にそっと置いた。深夜一時には、彼は静かにキッチンに立ち、お出汁の効いた温かいにゅうめんを作ってくれた。それを保温ボウルに入れてキーボードの横へと押しやった。時折、教授が発表したばかりの論文をプリントアウトし、重要な段落に蛍光ペンで線を引き、【この結論は引用に使える】と書かれた付箋を添えてくれることもあった。猛烈な睡魔でまぶたが今にも閉じそうになりながらも、それらを見るたび、珠羽の胸の奥にはじんわりと温かい灯がともるのだった。十二月中旬。語学試験に見事合格した。成績証明書を受け取った彼女は、真っ先に写真を撮り、悠河へメッセージを送った。彼からの返信は、たった一言だった。【今夜からクリスマスマーケットが開幕する。行くか?】画面を見つめ、珠羽はふと、自分が三週間もぶっ通しで気を張っていたことに気がつき、【行く】と返信を打った。夕暮れ時、川沿いの旧市街に幻想的なイルミネーションが灯る。珠羽は濃紺のウールマフラーを首元に巻き、悠河の隣を歩いていた。彼から手渡された温かいホットワインに、そっと口をつける。アルコールと、オレンジピールやクローブの香りが喉を滑り落ち、冷え切った胃の底をじんわりと温めていく。周りからは、意味は分からないものの、どこか楽しげな現地の人々の笑い声が賑やかに聞こえてくる。りんご飴を掲げて走り回る子供たち、野外ステージで伝統舞踊を踊る若者たち。ふと、珠羽は声に出して笑った。それはA国に到着して以来、初めて心の底からこぼれ出た、何の重圧もない純粋な笑い声だった。次第に人波が増し、彼女はドンとぶつかられてよろめいた。振り返った悠河がごく自然な動