تسجيل الدخول充電の少ないスマホが、着信を伝えた。
相手は、幼馴染の塔矢奏多だ。 沙織が思わず電話した相手だ。 塔矢フレグラスの社長であり、沙織が結婚してからは一度も連絡をとっていなかった。 「沙織、着いたぞ」 奏多の久しぶりの声は、昔と変わらず少しそっけない。 雨がひどく降っている。 沙織はスマホを握りしめて庇の下にうずくまっていたが、黒いメルセデスが静かに路肩に停まり、ドアが押し開けられて、黒い傘を差した人影が早足で近づいてくるのが見えた。 濃いグレーのスーツに、シャープな肩のライン。 奏多は彼女の前に立つと、多くを語らず、まず自分の上着を脱いで彼女の肩にかけた。上着にはまだ彼の体温が残っていて、落ち着いたウッディな香りがふわりと包み込み、雨の夜の冷たさをさえぎってくれた。 「乗って」 彼は傘を差し掛けて車まで送ったが、傘の面はほとんど彼女のほうに傾けられ、自分の左肩のスーツには雨が降りかかってびしょ濡れになっていた。 それでもまるで気にした様子もなく、沙織のためにドアを開け、彼女が座るのを待ってから運転席に回った。 ――自分が濡れちゃうのに。 そういう不器用なやさしさが、沙織には温かい。 沙織は鼻をほんの少し動かし、無意識に口を開いた。 「今日の奏多の香水……シダーウッド、サンダルウッド、ナチュラルウード、シダーウッド、ラブダナム、ベチバー、バーチ……『ウードの祭典』をつけているのね」 「……相変わらずだな。香水のベースノートを全部あててる」 走り出した車は、雨を蹴散らしていく。 ワイパーが、降り注ぐ雨を遮断する。 車内には、雨の音だけが静かに流れた。 「沙織、俺のところに来い。部屋なら余ってる」 奏多の声には、幼馴染だけが分かるぬくもりがあった。 「いい、迷惑でしょう。どこかホテルで一晩しのいで、明日には部屋を探すから」 沙織の指先は上着の裾をもじもじといじっている。 彼女が電話をかけたのは、ただ誰か話を聞いてくれる人がほしかっただけで、彼に頼ろうと思ったことなど一度もなかった。 ましてや、いまの彼女の持ち合わせはほぼゼロ。 預金はすべて隼人に押さえられ、ホテル代さえ計算しながら使わねばならないのだ。 「迷惑じゃない」 奏多の口調は穏やかだが、有無を言わせぬ確かさがあった。 彼に連絡をとったのは、奏多が社長だからではない。 ただ、沙織をよく知る幼馴染として声が聴きたかっただけだ。 沙織の今後を助けてもらおうなどという気持ちは、おこがましい気がする。 運転しながら、奏多はちらりと体をこわばらせた沙織を見た。 「お前が残したレシピで、会社は四倍になった。あれはお前の金だ。俺はただ、預かってただけだ」 沙織は言葉を失った。 たしかに結婚前に、彼女は自分の調合した香料のレシピをすべて奏多に託した。 奏多の自由にしていいと言って。 それが、まさか塔矢フレグラスという大きな会社が四倍にまでなるとは思ってもみなかったことだった。 黒のメルセデスベンツは、ある高層マンションの駐車場で止まった。 マンションの上階につくまで、沙織は奏多に問われるまま今日起きたことをとつとつと話す。 義母に怒鳴られたところや、離婚届を投げられたところまで、奏多の肩が静かに怒りに震えた。 彼女の口調はひどく落ち着いていて、まるで他人事のようだった。 隣に立つ奏多は、脇に垂らした手をゆっくりと握りしめ、指の節が白くなっている。 エレベーターの鏡には、彼の目の奥に深い怒りが沈んでいるのが映っていたが、彼はひと言も彼女を遮らなかった。 奏多の部屋につくと、奏多は部屋に隠してあった金庫を開け始めた。 沙織は、そっとソファーに座る。 おそらくはデザイナーが手掛けたのだろうが、クールで知的な奏多のイメージに合う家具ばかりだ。 照明すら、ゴージャスで高価な光を放っている。 「毎年の配当を全部ここに入れてある。四年分、一度も確認してないんだろう。それなりの額のはずだ」 奏多は、ファイルと一枚のカードを差し出した。 カードは、銀行のものだった。 「暗証番号はおまえの好きな数字で登録してある、開けてみろ」 沙織は、そっとスマホに銀行のアプリを入れる。 その際に、隼人との口座のアプリも見つけて即座に消した。 「奏多……これって」 数字が表示された瞬間、手が震えた。「それなり」どころではない。十憶を越える、大金だった。 「『雪中白梅』は今、アジアで一番売れてるウィメンズフレグランスだ。お前が手放した香りは、お前を見捨てなかった」 奏多は、カーテンを開けて高層マンションの下から見える、地上の明かりを見つけている。 沙織は、すぐには返事ができなかった。 つい先ほどまで、沙織にはなにもなかった。 それが、今は巨万の富が手の中にある。 隼人がローンで買った家が、何個買えるだろう。 奏多が振り返り、真剣な顔で言う。 「戻ってくるか?お前の席は、ずっと空けてある」 沙織は、考え込んでいる。 奏多は、その横顔を静かに見つめていた。 瞳だけが、愛おしいものを見つめるように、ぐっと細められて。 「使い道はゆっくり考えるといい。俺はただ、沙織の金を預かっていただけだ」「……やらかしたか? まあいいか」塔矢奏多は、業務の合間に独り言を呟いた。先代の塔矢フレグラスの社長である父と、電話で散々もめたあとだ。ストレスのあまり、ブランド通販サイトで沙織に着せたい服を買いあさってしまった。靴、アクセサリー、時計から部屋着まで買ってしまったのは、やりすぎた感がある。 「社長、園村エリカが面会のアポをと……」「仕事に関係するか、内容を確認してから慎重に取り次げ。万が一関係ない内容なら、取り次いだおまえの給料を下げる」怒りを目に宿らせて奏多が突っぱねると、秘書は慌てて立ち去った。自分にも不利益があるとわかったら、やたらにエリカを通しはしないだろう。父は奏多と違って冷徹に合理性を選ぶタイプではない。エリカが泣いて日本を恋しがっているという演技を真に受けて「可哀そうじゃないか」と、呑気なことを言っている。エリカの本心がどこにあるかは、今いち分かっていない様子だった。奏多が好きな人がいると言っても、笑って流された。それどころか「エリカくんは、元は園村グループ総裁と遠縁だ。仲良くして損はない」などと勧めてくる。「……チッ」奏多はパソコンを叩きながら舌打ちする。そういう政略的な結婚が嫌で、独力で会社を大きくしたのだ。父の頃は中流以下だった会社が、海外で売れるほどの規模にしたのは奏多だ。そして、塔矢フレグラスが奏多の勢いについて大きくなったのは、沙織の調香レシピのお陰だ。父はその辺の沙織の凄さが、分かっていない。その時、奏多のプライベート番号が鳴った。この番号を知るものは限られている。「社長、鮎川さんの元結婚相手の母親がエントランスで騒いでいます」「……わかった、よく知らせてくれた」電話を切ると、奏多はスーツのジャケットを着る暇もなく飛び出した。***「いいから、隼人の言う通り金を払いなさい! こっちが名誉棄損で訴えてやるよ! あんな石女《うまずめ》のくせに、なんて図々しいんだろうね。四年待っても産めない女を、仕方なく受け入れてやったこっちの優しさ
奏多がホテル最上階のレストランに駆けつけたとき、その顔は氷のように冷たかった。エリカは窓際の席に座り、ゆったりとステーキを切っているところで、奏多の姿を見ると笑顔で手を挙げた。「奏多、座って。ここのトリュフパスタは絶品よ」「断る。人事から、君の件は報告されていない。なんだって沙織にそんなでたらめを吹き込んだんだ!?」奏多は、エリカからの着信もメッセージも無視していた。ブロックしたいところだが、さすがに会社の人間をブロックするわけにはいかない。沙織に、少し遅れるとメッセージを打つときに、誤ってエリカのメッセージを開いてしまった奏多は目を疑った。”沙織さんに会ったけど、思ったより美人よね””奏多が社長になりたての頃に、飾ってた写真の女の子ってあの人?””奏多に近づかないでね、って言ったら、はいって言ってたわよ”意味が分からなかった。奏多は一度でもエリカに、優しく接したことはない。こんな意味不明な言いがかりに、沙織が巻き込まれたかと思うと胸が痛んだ。それと同時に、変な誤解を与えたのではないかと不安になる。エリカが沙織に、何の嘘をついたのか聞き出すまでは、家に帰れない。「私のフランス支部から東京への移動は、先代社長の意向よ。確認してみれば~?」ディナーを楽しむエリカの横で、ただ立っている奏多はかなり目を引いている。そんなことは、今の沙織の気持ちを考えれば、何も気にならなかった。「父が!? 顧問とは名ばかりで、引退しているのに……!」奏多は父のスマホを鳴らしたが、留守電に切り替わるだけだ。父の秘書にも電話をかけたが、「入浴中です」と言われてしまった。「ねえ、座ったらー? すごい目立ってるよ~?」「……沙織に、なんて言ったんだ。なにを言ったんだ、君は」エリカがこれで仕事をできなければ、とっくに首にしている。帰国子女のエリカは、最初のイギリス支部で結果を出し、フランス支部でも結果をだしていた。社長である奏多のプライベートを乱したというだけでは、首の理由にならない。「べつに~? ヒラ社員が同じマンションとか、夕
「あなた、鮎川沙織さん?」声をかけてきた女性は、シルエットのきれいなオフィススーツに身を包み、メイクは洗練され、爪は控えめなワインレッドに彩られていて、全身から海外のビジネスシーンで鍛えた強さが漂っていた。沙織は記憶を探ったが、この顔に見覚えはなかった。「園村エリカと申します。社長の部下で、ずっとフランス支社で営業を担当しておりました。帰国したばかりで、ぜひ“ゴールデンノーズ”の噂の方にお会いしたくて」口調は笑っているが、その目は値踏みするような視線を向けている。「そうですか。ご丁寧に……」沙織は、不思議に思いながら挨拶を返した。今日は奏多は重役会議で遅くなる。それで、仕事あがりに沙織はスーパーで買い出しに出ていた。マンションから近い店だが、沙織は塔矢フレグランスの制服を着ているわけでもない。何故、奏多の知り合いが沙織の顔を知っているのだろう。「沙織さん、有名人なんですよぉ~。ゴールデンノーズって呼ばれてるの知ってますぅ?」「買いかぶりです。運が良かっただけです」「ほんとですよねー、調香しか取り柄がないのに」エリカに言われて、沙織は言葉に詰まった。事実だけれど、今の言い方はとげがある――どこかで嫌われることをしただろうか。脳裏には、沙織の調香レシピで失敗をして左遷させられた話だ。園村エリカという目の前の人物にも、なにか迷惑をかけたのだろうか。「なんで、社長に気に入られてるの~? 見た目はそこそこいいみたいだけど、それだけでしょぉ~?」「別に……気に入られてません」「え、うっそ自覚ないの? 奏多と同じ高層マンションに住んでて、一緒に食事してるんでしょ?」その言葉は細い針のように、沙織の心に小さく刺さった。 物置き代わりだと言われたが、沙織はお金を払っていない。給料日がきても、まだ沙織の給料ではあの高層マンションの部屋代は払えないのだ。どうしてエリカが知っているのかはわからないが――もし、奏多がエリカに愚痴を言っていたら?沙織の顔色が青ざめる。もしかすると、エリカは奏多と付き合っているのか
休日の沙織は、ふらっと都内の香水店舗を探索していた。鼻を休めながら、ミライの本店を覗く。どこの香水の店でもそうだが、一見でふらっと入っても丁寧に接客してくれる。ニッチフレグランスは、それなりの値段をする。一目ぼれ――ならぬ一嗅惚れをしても、買うのをためらう客は多い。沙織も、今は給料前で、奏多から受け取った財産以外にお金はなかった。目星をつけて、嗅ぐだけ嗅いだら帰ろう。「いらっしゃいませ~」店内に入ると、軽やかな声で接客の挨拶をされた。人気商品は、きちんとテイスティングの準備がされている。ムエットに出さなくても、沙織にはそれぞれの容器から匂いをかぎ分けた。――こっちは紅茶香水で、ベルガモットとシダーウッド、ムスク、アンバー、ブラックティー。――こっちはフローラルムスクで、サクロサントール、サンダルウッド、アンバーグリス、ホワイトムスクか……。「おや~? 熱心なお客さんですね。よろしければ、私から一本気に入ったものをプレゼントして差し上げたいですねえ」ふいに耳元で声がして、沙織は飛び上がった。「だ、誰っ……!?」「もうお忘れですか、寂しいなぁ」匂いを当てることに集中していたせいで、背後の気配に気が付かなかった。振り返ると、至近距離からミライの調香チーフである瀬名大地がニヤッと笑ってたたずんでいた。「瀬名さん……!」「名前を憶えていただいて幸いです。どうです、どれも俺の調香レシピですよ」「そうですか、繊細でいて大胆な調香ですね」何故ここにいるのか。調香レシピの制作のメインを握る大地が、自ら店頭にいるとは。「不思議そうなお顔ですねぇ。俺は現場の声を聞くのも好きなんですよ。ただでさえ香水は、肌に乗せると個人によって香りが変化するでしょう? ウッディスキンの人はウッディになりやすいし、スイートスキンの人は甘くなりがちですから」「確かに、そうですけど……」「ちなみに沙織さんは?」あまりにもすんなり下の名前で呼ばれて、沙織は否定するタイミングを失った。「ニュートラルスキンです」「肌
「鮎川さん、こっちを頼むよ」今日も沙織は忙しく、あちこちから呼び止められていた。彼女は、もうコア検査チームに抜擢されている。沙織に言いがかりをつけられたと騒いだ試香室の主任は降格となった。試香室でもコア検査チームでも、誰ともなく沙織の許可を得てから作業が進むようになってきた。「”アデリア”の原材料をすり替えてミライに売っていたスパイ、きちんと特定されたみたいだね。解決できたのは、鮎川さんのおかげだよ」「いえ、解決して良かったです」にこりと沙織は、コア検査部の部長に笑う。まるで結婚する前に戻ったようだ。義母に怯え、隼人の言いなりで、家の中に居場所がなかった生活からはさよならした。自然と、自分のかける時間も増えて、今の沙織は肌も艶が出て顔色もいい。朝は、ファンデーションを乗せて今までとはワントーン肌が白くなっていることに気が付いた。ふとトイレで鏡を見ても、以前より若返って見える。ゆるやかに戻ってきた調香の自信が、彼女の雰囲気も変えた。「鮎川さんて綺麗だよね、年上に見えないー」「社長と仲がいいのよね? お似合いだわ~」離れたところで、女子社員たちが囁きあう。その声は、仕事に集中する沙織には聞こえていなかった。昼休みになると、沙織は待ち合わせのカフェに行った。朝霧司と、元夫の隼人の対策について話し合うためだ。司は先に来ていて、パソコンに熱心に向かっていた。「ああ、鮎川先輩」眼鏡を拭いた司が、穏やかにほほ笑む。通りすがる女性たちがちらりと司に視線をやる。それも無理はない、と沙織は苦笑した。弁護士なのはバッジで分かるし、仕事の出来る男のオーラが漂っている司は、本人の意思なく目立っている。「接近禁止令なんですが……今のところ難しいんです」沙織が隣に座ると、司が切り出しにくそうに告げた。 「今の時点で情報をまとめると……元夫が妻の実家まで押しかけた。「金をよこせ」などと怒鳴った。店の営業に支障が出た、家族が恐怖を感じた。今後も来る可能性が高い。これらは、単なる口論ではなく
「なんだか、大騒ぎになっちゃったね……」「沙織が気にする必要はない」塔矢奏多と沙織は、奏多が運転するメルセデスベンツの中に居た。隼人の暴走を警告してくれた知加子へ、お礼のメッセージを打っているとスマホが鳴った。「お母さんだ……」「どうせなら、顔をだしたらどうだ? 少し寄り道するだけの話だ」奏多が微かに笑む。沙織の実家”あゆかわ食堂”は、奏多も小さいころに父とよく通っていた。よく見ると、母と父とそれぞれから着信履歴がたくさんある。「いいの? それなりに遠出だけど……」「構わん。せっかくだ、ご両親に顔を見せて安心させてこい」「きっと、満腹になるまで食べさせられるね」沙織が、安心しきった笑顔を見せた。今日の騒ぎに、予想外に疲弊しているのだ。それに両親には、最低限の話しかしていない。きっと、そうとう心配をかけているはずだ。これから行くとメッセージを入れたが、あゆかわ食堂はまだ混雑している時間だ。昼はランチだが、夜は半ば居酒屋のようになる。OL向けのヘルシーメニューなどは、沙織も手伝っていた。 「あぁ、沙織! 良かった、心配したのよ」「沙織……おまえ、大丈夫なのか?」あゆかわ食堂の、のれんをくぐると、エプロン姿の母と父が仕事の手を止めて沙織を出迎えた。その引き攣った顔に、沙織は嫌な予感がした。「もしかして、ここに高山がきた……?」「仕込みの時間に、若い女とここにきてね。沙織の財産がどうのって怒鳴り込んできたのよ」「ああ……ごめんなさい」もっと早く、知らせておけばよかった。隼人のやりそうなことだ。塔矢フレグラスを警備に追い出されて、そのうっぷんばらしに沙織の実家に突撃したのだろう。「本当にごめんなさい……!」「いいんだよ。隼人さんがあんなひとだとは思わなかった。あんたが時々寂しそうに電話をかけてきていたときに、こっちがもっと突っ込んできけばよかったねぇ……つらかったろうに」食堂の客に聞こえないように、囁きあって沙織は親不孝を恥じた。抑えていた涙が、頬を伝う。







