ANMELDEN休日の沙織は、ふらっと都内の香水店舗を探索していた。
鼻を休めながら、ミライの本店を覗く。どこの香水の店でもそうだが、一見でふらっと入っても丁寧に接客してくれる。ニッチフレグランスは、それなりの値段をする。一目ぼれ――ならぬ一嗅惚れをしても、買うのをためらう客は多い。沙織も、今は給料前で、奏多から受け取った財産以外にお金はなかった。目星をつけて、嗅ぐだけ嗅いだら帰ろう。「いらっしゃいませ~」店内に入ると、軽やかな声で接客の挨拶をされた。人気商品は、きちんとテイスティングの準備がされている。ムエットに出さなくても、沙織にはそれぞれの容器から匂いをかぎ分けた。――こっちは紅茶香水で、ベルガモットとシダーウッド、ムスク、アンバー、ブラックティー。――こっちはフローラルムスクで、サクロサントール、サンダルウッド、アンバーグリス、ホワイトムスクか……。「おや~? 熱心なお客さんですね。よろしければ、私から一本気に入ったものをプレゼントして差し上げたいです「――なんだこれ」瀬名大地が呟いた。香水を売り買いする業界の、専門掲示板が荒れている。午前中、どっぷり調香して鼻を休める間だけパソコンを開いたのだが、中は中傷の荒らしだった。匿名の誰かが、沙織の名を伏せてはいるが、ゴールデンノーズという沙織の称号でほぼ名指し状態だ。ゴールデンノーズの調香リストは盗作だとか、誰それの猿真似だとか、あちこちに書きなぐっている。それに対して、何人かが――おそらく塔矢フレグラスの内部の者――が、そんなはずはない。と主張しているが、荒らしの主はそんなことでは止まらないようだった。「悪質だな……沙織さんの目に入るかもしれない」大地は、釣りをすることにした。わざと、匿名主に同意して見せて、そういえばそうかもしれない……などと書き込むと、しばらくして匿名主から仲間認定されたような発言が来た。大地は個人情報は明かしていないが、アイコンは会社のミライのマークを使っている。やや待っていると、匿名主からフレンドコードが届いた。ミライになら、沙織の調香レシピを横流ししていい、と言う。「はっはぁ、私怨かな?」塔矢フレグラス全体に恨みがあるなら、他の言い方をするだろう。なにがなんでも、沙織の責任にしたいようだ。大地としては、他に流出する前にここでせき止めたい。”それは是非、教えて欲しいです……”できれば、この匿名主の本名を知りたい。激情型なので、うまくおだてれば喋るだろう。大地は、しばらくは試香室に戻らずに、パソコンを叩き続けた。うまいこと情報を握ったら、全部沙織に話して塔矢フレグラスの中で解決をさせたい。大地は、やりとりをさかのぼってスクショを始めた。*** 園村エリカは、ご機嫌で塔矢フレグラスの社内を歩いていた。エリカが東京にいることを反対する奏多が先代に敗れ、エリカは一年だけ東京本社にいることを許可された。エリカの計算によれば、一年あれば奏多にくっついている忌々しい鮎川沙織を引きはがせる。そして、エリカは見事社長夫人の座を射止めて、結ばれる。過去にエリカが
「ろくでなし! あんたのことが子育て失敗したから、うちの息子が迷惑してんのよ!」高山みさきの怒鳴り声が、止まった。あゆかわ食堂に乗り込もうとしたみさきの前に、朝霧司が立ちふさがる。「あんたは――」「弁護士の朝霧司です。これほどお目にかかるなら、名刺をお渡ししましょうか」嫌味をさらっと口にして、司はみさきを見下ろした。沙織は、家庭の愚痴をSNSなどに一切あげなかった。それでも、愛人をつれて元妻の元に怒鳴り込む隼人や、似たことをしてだすその母を見ているだけで、離婚前の沙織がどれだけ辛かったのか推し量れる。――もっと早く気が付いていれば。「こちらとしては警察に相談を入れています。お話した通り、あなたがたの一挙手一投足でいつでも裁判が開けるのですよ」厚顔無恥のみさきでも”警察”という言葉は、恐怖を感じたようだ。つばでもとばしそうな顔をしながら、みさきはあゆかわ食堂から遠ざかっていく。司は、その姿が見えなくなるまでずっと立ち尽くしていた。裁判をするのは、たやすいことだ。司も、沙織に頼まれればいつでもやる準備は出来ている。ただ、実際法廷に立てば、沙織は過去にされてきた辛い話もしなければならない。せっかく笑顔の戻りかけた沙織に、できることなら傷口をえぐるような真似は避けたかった。司ができることは、法的な力で沙織に被害が及ばないことだけだ。大学時代、司は沙織に助けられた。だからこそ、恩返しがしたいし、好意も抱いた。あの日の沙織を、司は忘れられない。 *** 大学生の司は、奨学金で法学部に入った。実家からは、家業の医者の道に進めと言われて、かすかな送金は家賃で消えた。買わなくてはいけない参考書などがかさみ、必然的に司は食費を減らし続けた。サークルに入ったのは、集中して勉強ができるスペースが欲しかっただけだが、そこで沙織と出会った。見るからに飢えて痩せている司に、沙織は自作の弁当を譲ってくれた。それも何度も。「いつか、恩返しします」そう言った司に、沙織はよく微笑んで
「……やらかしたか? まあいいか」 塔矢奏多は、業務の合間に独り言を呟いた。 先代の塔矢フレグラスの社長である父と、電話で散々もめたあとだ。 ストレスのあまり、ブランド通販サイトで沙織に着せたい服を買いあさってしまった。 靴、アクセサリー、時計から部屋着まで買ってしまったのは、やりすぎた感がある。 「社長、園村エリカが面会のアポをと……」 「仕事に関係するか、内容を確認してから慎重に取り次げ。万が一関係ない内容なら、取り次いだおまえの給料を下げる」 怒りを目に宿らせて奏多が突っぱねると、秘書は慌てて立ち去った。 自分にも不利益があるとわかったら、やたらにエリカを通しはしないだろう。 父は奏多と違って冷徹に合理性を選ぶタイプではない。 エリカが泣いて日本を恋しがっているという演技を真に受けて「可哀そうじゃないか」と、呑気なことを言っている。 エリカの本心がどこにあるかは、今いち分かっていない様子だった。 奏多が好きな人がいると言っても、笑って流された。 それどころか「エリカくんは、元は園村グループ総裁と遠縁だ。仲良くして損はない」などと勧めてくる。 「……チッ」 奏多はパソコンを叩きながら舌打ちする。 そういう政略的な結婚が嫌で、独力で会社を大きくしたのだ。 父の頃は中流以下だった会社が、海外で売れるほどの規模にしたのは奏多だ。 そして、塔矢フレグラスが奏多の勢いについて大きくなったのは、沙織の調香レシピのお陰だ。 父はその辺の沙織の凄さが、分かっていない。 その時、奏多のプライベート番号が鳴った。 この番号を知るものは限られている。 「社長、鮎川さんの元結婚相手の母親がエントランスで騒いでいます」 「……わかった、よく知らせてくれた」 電話を切ると、奏多はスーツのジャケットを着る暇もなく飛び出した。 *** 「いいから、隼人の言う通り金を払いなさい! こっちが名誉棄損で訴えてやるよ! あんな石女《うまずめ》のくせに、なんて図々しいんだろうね。四年待っても産めない女を、仕方なく受け入れてやったこっちの優しさに付け込んで」 沙織は、落ち着こうとして深呼吸した。 唾をとばし、つまみ出そうとする守衛には「セクハラだ」と騒ぎ立てる義母は、醜く見えた。 おそらく、
奏多がホテル最上階のレストランに駆けつけたとき、その顔は氷のように冷たかった。エリカは窓際の席に座り、ゆったりとステーキを切っているところで、奏多の姿を見ると笑顔で手を挙げた。「奏多、座って。ここのトリュフパスタは絶品よ」「断る。人事から、君の件は報告されていない。なんだって沙織にそんなでたらめを吹き込んだんだ!?」奏多は、エリカからの着信もメッセージも無視していた。ブロックしたいところだが、さすがに会社の人間をブロックするわけにはいかない。沙織に、少し遅れるとメッセージを打つときに、誤ってエリカのメッセージを開いてしまった奏多は目を疑った。”沙織さんに会ったけど、思ったより美人よね””奏多が社長になりたての頃に、飾ってた写真の女の子ってあの人?””奏多に近づかないでね、って言ったら、はいって言ってたわよ”意味が分からなかった。奏多は一度でもエリカに、優しく接したことはない。こんな意味不明な言いがかりに、沙織が巻き込まれたかと思うと胸が痛んだ。それと同時に、変な誤解を与えたのではないかと不安になる。エリカが沙織に、何の嘘をついたのか聞き出すまでは、家に帰れない。「私のフランス支部から東京への移動は、先代社長の意向よ。確認してみれば~?」ディナーを楽しむエリカの横で、ただ立っている奏多はかなり目を引いている。そんなことは、今の沙織の気持ちを考えれば、何も気にならなかった。「父が!? 顧問とは名ばかりで、引退しているのに……!」奏多は父のスマホを鳴らしたが、留守電に切り替わるだけだ。父の秘書にも電話をかけたが、「入浴中です」と言われてしまった。「ねえ、座ったらー? すごい目立ってるよ~?」「……沙織に、なんて言ったんだ。なにを言ったんだ、君は」エリカがこれで仕事をできなければ、とっくに首にしている。帰国子女のエリカは、最初のイギリス支部で結果を出し、フランス支部でも結果をだしていた。社長である奏多のプライベートを乱したというだけでは、首の理由にならない。「べつに~? ヒラ社員が同じマンションとか、夕
「あなた、鮎川沙織さん?」声をかけてきた女性は、シルエットのきれいなオフィススーツに身を包み、メイクは洗練され、爪は控えめなワインレッドに彩られていて、全身から海外のビジネスシーンで鍛えた強さが漂っていた。沙織は記憶を探ったが、この顔に見覚えはなかった。「園村エリカと申します。社長の部下で、ずっとフランス支社で営業を担当しておりました。帰国したばかりで、ぜひ“ゴールデンノーズ”の噂の方にお会いしたくて」口調は笑っているが、その目は値踏みするような視線を向けている。「そうですか。ご丁寧に……」沙織は、不思議に思いながら挨拶を返した。今日は奏多は重役会議で遅くなる。それで、仕事あがりに沙織はスーパーで買い出しに出ていた。マンションから近い店だが、沙織は塔矢フレグランスの制服を着ているわけでもない。何故、奏多の知り合いが沙織の顔を知っているのだろう。「沙織さん、有名人なんですよぉ~。ゴールデンノーズって呼ばれてるの知ってますぅ?」「買いかぶりです。運が良かっただけです」「ほんとですよねー、調香しか取り柄がないのに」エリカに言われて、沙織は言葉に詰まった。事実だけれど、今の言い方はとげがある――どこかで嫌われることをしただろうか。脳裏には、沙織の調香レシピで失敗をして左遷させられた話だ。園村エリカという目の前の人物にも、なにか迷惑をかけたのだろうか。「なんで、社長に気に入られてるの~? 見た目はそこそこいいみたいだけど、それだけでしょぉ~?」「別に……気に入られてません」「え、うっそ自覚ないの? 奏多と同じ高層マンションに住んでて、一緒に食事してるんでしょ?」その言葉は細い針のように、沙織の心に小さく刺さった。 物置き代わりだと言われたが、沙織はお金を払っていない。給料日がきても、まだ沙織の給料ではあの高層マンションの部屋代は払えないのだ。どうしてエリカが知っているのかはわからないが――もし、奏多がエリカに愚痴を言っていたら?沙織の顔色が青ざめる。もしかすると、エリカは奏多と付き合っているのか
休日の沙織は、ふらっと都内の香水店舗を探索していた。鼻を休めながら、ミライの本店を覗く。どこの香水の店でもそうだが、一見でふらっと入っても丁寧に接客してくれる。ニッチフレグランスは、それなりの値段をする。一目ぼれ――ならぬ一嗅惚れをしても、買うのをためらう客は多い。沙織も、今は給料前で、奏多から受け取った財産以外にお金はなかった。目星をつけて、嗅ぐだけ嗅いだら帰ろう。「いらっしゃいませ~」店内に入ると、軽やかな声で接客の挨拶をされた。人気商品は、きちんとテイスティングの準備がされている。ムエットに出さなくても、沙織にはそれぞれの容器から匂いをかぎ分けた。――こっちは紅茶香水で、ベルガモットとシダーウッド、ムスク、アンバー、ブラックティー。――こっちはフローラルムスクで、サクロサントール、サンダルウッド、アンバーグリス、ホワイトムスクか……。「おや~? 熱心なお客さんですね。よろしければ、私から一本気に入ったものをプレゼントして差し上げたいですねえ」ふいに耳元で声がして、沙織は飛び上がった。「だ、誰っ……!?」「もうお忘れですか、寂しいなぁ」匂いを当てることに集中していたせいで、背後の気配に気が付かなかった。振り返ると、至近距離からミライの調香チーフである瀬名大地がニヤッと笑ってたたずんでいた。「瀬名さん……!」「名前を憶えていただいて幸いです。どうです、どれも俺の調香レシピですよ」「そうですか、繊細でいて大胆な調香ですね」何故ここにいるのか。調香レシピの制作のメインを握る大地が、自ら店頭にいるとは。「不思議そうなお顔ですねぇ。俺は現場の声を聞くのも好きなんですよ。ただでさえ香水は、肌に乗せると個人によって香りが変化するでしょう? ウッディスキンの人はウッディになりやすいし、スイートスキンの人は甘くなりがちですから」「確かに、そうですけど……」「ちなみに沙織さんは?」あまりにもすんなり下の名前で呼ばれて、沙織は否定するタイミングを失った。「ニュートラルスキンです」「肌







